帰って来たヒトラー
……の感想の前に、「Mark Like Mine IF」の1〜4話まで、若干の手直しの上でサイト内に上げておきました。アナウンスを忘れていましたが、昨日闘犬も30話まで再アップ済です。
MLMIFは私自身かなり悪のりしてたので、大幅に修正が必要かと思ってましたが、時間を置いて読み返すと「……まあいいか」ってなりました。
さて、「帰って来たヒトラー」上下巻ともにかなり考えさせられながら読了しました。
あらすじは、
2011年8月、アドルフ・ヒトラーが突然ベルリンで目覚める。人々は彼を「そっくりさん」の芸人だと思い込み、彼の芸風(本人は真面目に政治活動をしている)に熱狂していく……
というものです。風刺小説です。
この小説の中で蘇ったヒトラーは、新しいタイプの芸人ともてはやされながら粛々と政治活動を行っています。本を読み、ネットに通じ、メールアドレスを取得してHPを開設し、お悩み相談に答えながら現代の政治の(ドイツの)ありようを問う。その舌鋒は鋭く無駄や欠点を突き、子どもの通学路に対する批判など細かいところも見ており、もしかして彼に民族差別の根がなければ意外に良い政治家になったのではないかと思わせるのですが、ユダヤ人始めロマ(ジプシー)や有色人種などを排斥して純粋なアーリア人の血統を守ると言う政策こそがウケたとも言えるので(我々極東の島国人にはよく理解出来ませんが、古典でしばしば悪役になっているように、大昔から欧州の人々はユダヤ人を非常に嫌ってましたので)、その思想がないヒトラーだとしたらいくら演説の才能に恵まれていたといっても政権を握れるほど台頭できたのかどうかはちょっとわかりません。
彼は現代でもよく学んでいますが、結局敗戦後の国のありようから、自身の政策の反省をしたり、思想が変革することはありません。なので、彼に魅かれる人々との会話もかみ合っていません。
例えば「ユダヤ人のことは冗談の種にならない」
この発言に対して私たちは「(あの惨く悲惨な出来事を)冗談で語ってはならない」と受け取りますが、彼の発言の意味は違うんです。互いにそれに気付かないところが笑いのツボなのですが、彼が気に入っているパートタイム秘書嬢のおばあさんの話があってなお、彼は自分の意見というか哲学を曲げないのだなと、少ししんとする思いでした。
それまではどこにでもいる、子どもや動物を愛するちょっと偏屈なおじさん、というふうに見えてましたし、彼だって人を愛することを知っているとわかりますし、その弁論にも一理あると思うことすらあったのですが。高校生の時読んだきりなのでかなりうろ覚えなのですが、結局、「我が闘争」まんまのヒトラー、ほんとうにそのままが現代に復活したと言う感じなのです。
その点、著者にも訳者にも脱帽です。今から読む方は上下揃えた上で下巻の後書きを先にお読みになるといいのではないでしょうか。読み始める前の心構えが変わってくると思います。
二十歳くらいのころだったかな、ヒトラーの演説の本物の映像見ました。言葉はわからずとも衝撃的で、ところどころ憶えてしまって一緒に観た友人たちとしばらく身振り手振り含めて物まねとかしてたんですが、本を読んでても抑揚と勢いが思い出されるくらいでした。その口の上手さ、ヨブ・トリューニヒトなんか足下にも及びません(笑)私のように人の影響を受けやすいタイプは、当時ドイツ国民であったらうかうかと党員になっていたかもしれないと思ったりもします。残念なことですが、私にだって差別意識がありますしね。ただそれを口に出さない良識と、恥ずかしく思う意識があるだけで。
「もし、あなたが誰かに責任を問いたいなら、可能性は二つ。一つはナチスの指揮権をたどること。それによれば、事態に責任を負うべき人間は、総統の座でともかく責任を引き受けている人物──つまり総統本人だ。もう一つの可能性。それは、総統を選んだ人々や罷免しなかった人々にこそ、責任があると考えることだ。非凡な人物を総統に選び、彼を信じて祖国の運命を任せると言う選択をしたのは、どこにでもいる市井の人々だったのだ。クレマイヤー嬢、それとも君は、選挙そのものを否定するのか?(29章より)」
自分に賛同して選出した人々に対する責任があるからこそ、最初に掲げた政策はおいそれと変えられない、という信念もあったでしょうか。結局ヒトラーを世に放ったのは、多くの普通の、一般国民なわけです。それがあるからこそ、ドイツでは「我が闘争」を発禁にし、ヒトラー礼賛を法律で禁じなければならないのでしょうか。
来年一杯で「我が闘争」の版権が切れるそうですが、ドイツでは引き続き発禁のようです。それが人々の健やかな思想の成長に対して良いことなのか悪いことなのか……?