闘犬アッシュ35
海外ロマンス小説を読んでると、ヒーローの体臭の表現として良く出てくる、うっとりするような『スパイシーな香り』
これがどういうにおいなのかと考えると、欧米の人はほとんどだという腋臭のにおいとしか考えられないのです。クミンのにおいですよね。クミン=スパイシーってことで。このにおいがヲトコのフェロモン臭と思い込んで育つのと、「腋臭クッセー」と思い込んで育つのとでそのにおいに関する感性が違うのではないかと思います。
だけどロマンス小説大国であるアメリカは、ものすごいデオドラント大国でもあり、日本では販売していないような強烈な消臭効果のあるものを当たり前のように日常使いしていたり、学校からもそういうものをエチケットとして使いましょうなんていうプリントが配られたりするらしいとも聞きました。病的なほど体臭や口臭を気にするって有名だと思ってたけど、なのになぜ『スパイシーな香り』が存在するのでしょう?
もう一つ。ポルノからの影響と言う噂もありますが、アメリカ人(ヨーロッパとかは知らない)女性は下の毛剃るのが当たり前というかエチケットで、日本人女性が剃らないのは(整えはするけど、パイパンは少数派ではないかな)不思議不思議とあちこちで言ってるのに、ロマンス小説では下着に手を突っ込んだヒーローの手が下の毛触ってるし、「髪の色より少し濃いブロンド」とかって色までまじまじ観察してるヒーローがいたりもします。
ほんとのとこどうなの? 『スパイシーな香り』は腋臭の臭い? ヒーローはデオドラントしない?
フツーの欧米人女性はパイパンが当たり前? 生やしっぱなしのヒロインは少数派?
ロマンス小説を大喜びで読む大勢のアメリカ人女性は、そこんとこどう思ってるんでしょう?
気になって仕方ありません。
人ごみの中でも、ルークの鮮やかな髪の色はよく目立つ。改札の向こうに見つけたルークは、少しばかり元気がないように見えたが、特に目立った異変は感じられない。アッシュは我知らず強ばっていた全身から力を抜いた。白杖の先で行き先を探りながらゆっくりと歩いてくるルークが改札にさしかかるや、腕を掴んで引きずるように胸の中に収める。ルークはほんの一瞬だけ抵抗するそぶりを見せたが、すぐにアッシュに気付いて力を抜いた。
「アッシュ! ニュース聞いておれ……!」
「無事で良かった」
「おれの台詞だっての! ……怪我、とか……っ」
「うん、ちょっとしてしまった。ごめん」アッシュは正直に──といっても控えめに申告してから、周囲を鋭く一瞥し、杖を受け取らず肩を抱いて歩くよう促した。
「ヴァンの怪我は……」
「普段より元気そうだ。リグレットと喧嘩ばかりしている。心配いらない」
「そんな……」ルークは唇を少しだけ笑いの形に痙攣させてから、どんな表情をしていいのかわからないという顔をした。「ほんとに?」
「うん。仕事に行こうと着替えているところにリグレットがやって来て、トップがいないと機能しなくなる組織なんかゴミだと言われたんだ。よほど無能なトップなんだな、そんな組織で働かなきゃならないなんてあなたも可哀想にと笑われた。ヴァンは自分がいなくても何も支障ないと鼻で笑った。……とりあえず、それからはベッドを出ようとしない。リグレットはゲームをしたがって、いろいろ持って来てたけど、ヴァンは無視して本を読んでいる」
ルークも今度は我慢せずに、声を立てて笑った。
「ルーク」
「ん?」
「うちに帰ったら、大事なものだけまとめてリグレットの家に行ってほしい。俺も一緒に行くから」驚いたように立ち止まるルークを、アッシュはますます引き寄せた。瞳は外では固く閉ざされていて、少し感情がわかりづらい。
「ウパラは俺の顔を憶えていた。リグレットが、ルークの制服から学校がわかるかも知れないというんだ」
「うちの制服、ベストの色以外はそれほど特徴ないらしいんだけど……わかっちまうもの?」ルークが軽く両手を広げて、問いかけるが、
「すまない、俺にはわからない」
グランコクマの私立校には制服の学校が多いが、アッシュが初めてルークを見たとき、それをスーツだと思ったように、『制服』というものは基本の形をそれほど大きく逸脱しない。だが細部には差別化を図るため様々な意匠がほどこされており、特徴さえ憶えていればどのようにでも割り出せるとリグレットは言う。
ルークはコンクールの本選を控え、今が大事なときだ。自分に関わったがために、ずっと頑張って来たものを台無しにさせるのは何より避けたかったのに。
「リグレットのうちにもピアノがある。……らしい。練習は、だから、」
「うん、行くよ」どのようにルークを説得すればいいのかアッシュは考えあぐねて言葉が詰まりがちだったのだが、ルークはすぐに頷いた。「そのほうが、みんなが──アッシュもヴァンもリグレットさんもさ、安心するんだろ」
「うん。する。でも……」
「テープと……一応楽譜も持って行くか……下着、服……」
ルークはすぐに荷物のピックアップを始めた。ルークは暗譜の時だけ点字楽譜を用いるが、もっぱらお手本は録音したテープやCDなのだ。
物わかりの良すぎる恋人にしんみりと喜びと申し訳なさを感じて、アッシュは少しだけルークを引き寄せて、頭の天辺にキスを落とした。ルークが不思議そうに顔を上げる。
肩を抱いたまま地下鉄の駅を出てすぐに、アッシュは時折背を撫でて行く気配を感じて立ち止まった。
ルークと連れ立っていると、人の視線をなぜか集めやすいということにアッシュは早くから気付いていたが、それは盲目のルークに対する同情や好奇心を含めど多くは好意的なものであった。だが、人の多い地下鉄を出ると、その視線の中にそうではない異質なものが含まれていることがはっきりとわかる。
不安そうに名を呼ぶルークの肩を安心させるように撫で、傍にある靴のショーウインドウを覗いているふりをしながら背後に注意を凝らす。
「見られてる」
「え、誰に? ヴァンの家を襲った人たち……?」
「まだわからない」
ルークにはそう言ったが、肌がひり付くような悪意は、内心でルークの質問を肯定させた。リグレットが危惧した通り、制服で学校を割り出し、ルークを見つけたのだとしたら、彼らはずっとルークを付けてきたのだ。おそらくは、アッシュを捕らえるために。ルークを見つけ出すのに、顔を憶えている必要はない。ただ、暖炉の炎を思わせるこの印象的な髪の色を憶えてさえいれば。
──追跡者の中に、ウパラがいる。
無意識に足が大通りに向かおうと動いた。
人が大勢いる通りの方が安全だ。だが、ウパラがそれで攻撃を思いとどまるような人間かわからない。ウパラは今や追いつめられていた。保安局の捜査官や警察だけではなく、大小様々な組織も身柄を確保するために動き出したとヴァンは言っていた。我が身の保身のため──早々にウパラを捕らえ、引き渡すことで、保安局が他の組織にまで介入する隙を与えないためにだ。だがウパラは捕まらないよう立ち回るよりも、復讐を優先させるかもしれない。
アッシュの本能は、『肉の壁』が多い場所に行けと告げたが、無関係の人々を大勢巻き込むことになったら、ルークは怒るだろうか? 標的を拡散させるためにアッシュがそうしたとルークが知ったら、優しいルークはアッシュに幻滅してしまうかもしれない。もう、好きでいてはくれないかもしれない。
アッシュにとって何より大切なものはルークだった。例えルークに嫌われたとしても、彼の命には代えられない。
だが、店をひやかす短い時間にアッシュは逆の結論を出し、大通りへ一歩踏み出していた足を戻して、ぶらぶら歩きながら通りから通りへ、次第に人通りの少ない方向に歩いていった。もう少し先へ行けば商業施設が少なくなり、市民のための大きな自然公園があって、その先はアパートメントのある高級住宅地だが、アッシュの目的地はその商業施設がまとまった最後のブロックの奥まった場所にあった。
ルークは家路への道を外れたことに気付いたはずだが、何も聞こうとせず、口も開かずに、ただ黙って歩調を早める。その絶対的な信頼に、アッシュは胸が熱くなった。何があっても、ルークだけは守らなければならない。
目的のビルは一階の店舗、二階の一部に小さな会社が入っている五階建てのビルだ。立て替えが決まっており、何度のぞいても何の店だかわからないがらくたの積まれた店舗には、閉店セールの黄色い張り紙がベタベタと貼付けられているし、上の階はすでにほとんどが空になっている。アッシュはルークが学校に行っている間、アパートメントや駅の近辺、ルークの生活区域から外れたところまで広い範囲を探索していた。こういう事態に備えていたわけではなく、ほとんどを地下牢で過ごしたアッシュには、見知らぬ通りを歩いて思わぬものを見つけたりするのが単に楽しかったからだが、いざこうなってみると、それは安全確保のための本能でもあったかもしれない。
部屋のところどころに不法に住んでいる者がちらほらいる、前々世紀の終わりから建っている古いビル。古びてくすんでいるが崩れたところなどない。ローズはまだまだ使えるビルだが、建築に関する新しい法律にそのビルが合っていないのだと言っていた。アッシュ自身、親代わりの老婆と暮らしているころは、ここよりもっと酷い、見捨てられたアパートメントの一部を勝手に借りて暮らしていたから、なにか人の気配を感じたとき住人がどんな行動を取るか良くわかっている。自分の巣の隅で丸まり、嵐が収まるまで何時間でもじっと待つ。危機感に欠けた普通の人々のように、物見高く騒ぎの見物になど来ない。だからこそ、敵を迎え撃つのに今考えうる最も適した場所と言えた。
敵はアッシュが尾行に気付いたことに、まだ気付いてない。アッシュはまるで、そこが自分たちの住処であるようにのんびりとビルに入り、入るなりルークを小麦の詰まった麻袋のように肩に担ぎ上げて走り出した。一、二階にはまだ引っ越しを住ませていないテナントがあるからエレベーターは作動している。五階まで上がってエレベーターを降り、一階分を階段で降りた。部屋のドアを回して空いている部屋を見つけ、ルークを押し込む。
うっすらと埃のかぶった部屋をざっと見回す。まだ廃墟とはいえないからか、それほど荒れ果てた様子はない。大きな窓からは西日が差し込んで来ていて、ルークの背を赤く照らしている。その肩口からのぞく太陽の強烈な日差しに、アッシュは思わず目を細めた。古いテレビ、ソファやテーブル。最後の住人が見捨てていった家具は、少し色褪せてきている。コンクリートむき出しの壁にリノリウムの床。部屋の隅にあるくるぶし高の囲いは、壁にシャワーが付いているのを見る限りシャワースペースだろう。住人はカーテンを取り付けていただろうが、今や便器もむき出しで、隠れるところはない。
「ここは?」
「もうすぐ壊されるビル」
「廃墟に縁があるな」ルークは笑ったが、思わずといったようにアッシュの腕にかけた手は、微かに震えていた。
「ルークを探させたりはしない。けど、内側から鍵をかけて、ソファの後ろに隠れてて。俺が呼ぶまで絶対に出てきちゃ駄目だ」
「アッシュはどうするんだよ」
「……二度とこういうことが起こらないようにするから。心配しないで」
彼の大切な友をアッシュが殺したとウパラは言った。元々切れやすいという彼の怒りはいかほどだろう。自分の撒いた種であることなど、ウパラの頭にはないかもしれない。すでに敵はヴァンですらなく、自分に切り替わっている可能性も高い。二度と誰も──ルークをも傷つけさせないためには、もうここで倒しておかなければならなかった。
「ア、アッシュも一緒に──」
「そうしたら、しらみつぶしに探しにこられるだけだ」アッシュはすがりつくルークを宥めるように抱きしめて、なおもいい募ろうとする唇を塞いだ。アッシュを絡めとろうと深く探ってくる舌に捕らえられるまえに、二の腕を掴んで押しやる。
「大丈夫、俺は強い。ちゃんと隠れて待ってて。すぐに戻るから」
「アッシュ──」
無理矢理身体を引きはがし廊下に出ると、ルークは中で叫んだりドアを叩いたり、ましてや出てこようなどとはしなかった。その賢さがかえって不憫にも思えたが、アッシュはもたもたと部屋の前にいてここに危険を呼び寄せるわけにもいかなかった。足早に離れると同時に、微かにルークが部屋の奥へ向かう気配がする。鼻をすする音が、一度だけ小さく聞こえた。ジーンズの尻に突っ込んでいた銃を抜き出し、静かに安全装置を解除する。
エレベーターは五階に止まったまま動いていなかった。気配を殺したままそっと下を窺う。二階下に、気配を窺いながら壁に張り付くように上ってくる男の頭が三つ見える。
黒、黒、金。
最後に上ってくるのがウパラだ。
力量的には互角であろうウパラを含んだ三人の敵に勝てるだろうか。
だが、アッシュは生き残らなければならない。でなければ、自分を信頼して身を託してくれたルークはどうなってしまうだろう。