愛を読む人
かつて話題になりましたが、原作未読、映画も初めて観ました。
「朗読者」が話題になったとき、読んだ友人が「森川ちゃんは好きじゃないかも……」と言ったので、「そうなんだ」で流してそのままでしたが、観たくて気が狂いそうな「楊家女将伝」(北方先生、男どもがあれこれ戦線離脱したあとの話を書いてよ〜)が何度レンタルショップに行ってもレンタル中で、手ぶらで帰るのがしゃくだったのでなんとなく。
……なにが「合わない」と思われたのか、なかなか良い映画でした。
なんといってもケイト・ウィンスレットの「女優の美しい裸体」ではなく、乳首真っ黒で二の腕など少したるんだ「絵に描いたような中年女のヌード」がおそろしくエロティックで良いですね!(いや、中年でもあそこまで濃い人ってあんまいないと思う)気分的にはドン引いてるんですが、なぜか目が離せない。36歳で21歳年下の15歳少年とことに至り(多分女性には『恋愛感情』はない)その少年が初老男性になってもなおその心をわし掴んでいる、というのがすごいと思う。これに比べれば、うちなんか全然たいしたことない年齢差の気がしてきました。
やがて彼女は姿を消してしまい、それは一夏の思い出で終わるはずだったのですが、少年が大学(法学部?)で裁判の傍聴にでかけたことで、再び人生が交差します。彼女は、とある裁判で被告として法廷に立っていました。
その傍聴を続けるうち、もと少年の青年は、彼女の罪を劇的に軽くすることが出来るある秘密を自分が知っていることに気付きます。(視聴者はその秘密、「一夏」の間に気付きます)彼女はそれを告白すれば、自分の罪をもっと軽くすることが出来るにも関わらず、その秘密を胸に秘めたまま、重い刑罰を受けることを選択します。
青年はそのことについて葛藤しますが、結局そこまでして秘密を守り通したい彼女の意思を優先します。ここ、もう少しのたうち回るように苦悩させ、結論を出すところまで描くべきだったと思います。現代日本では彼女の苦しみを本当に理解するのは難しく、あれじゃ青年の選択が彼女への愛と理解故と、正しく受け取られない可能性のほうが高い気がします。そうなると、その後の青年の行動なんてほんとうに意味不明になるかと。単なる罪滅ぼし(証言しなかったことへの)ではないのに、そんなふうに受け取る人のほうが多かったりしたら悲しい。彼女の過去への幻滅と捉えられたりするのも嫌だな。
私は彼女と同じ「秘密」を持つ人にこれまで会ったことはないです。が、主人は高校生のころやっていたガソリンスタンドのバイトで出会ったことがあり、その話をついこの間主人と飲みに行ったとき(具合悪いのに夜中に出て体調崩したと日記にも書いた)ほんとに偶然聞いていました。応対した主人は当時その方(男性、老人)の葛藤を目の当たりにしていて、その苦しみや悲しみ、羞恥、劣等感を理解しようとしたのだと思います。聞いていて、涙が出ました。
ケイト・ウィンスレットが、それを告白するか、やってもいない罪をかぶるか、そのことで葛藤するシーンは短かったですが、圧巻でした。観ている私も「言っちゃえよ」と言いたくても言えない気持ちと、彼女に全部の罪をかぶせてニヤついている他の被告への憤りとでカッカしてしまうし、あんまりだと思ってだらだら涙は出るのですから、青年はよほどだったと思うんですけど。なので、ここをもう少し長く、ねちこく描くべきだったのにと残念。
その後の「朗読」話も良い話ですけれも、このストーリーのキモはこの裁判のシーンであると私は思います。一夏のエロは前座にすぎません。(エロくないですけど。高校生くらいまでのお子さんが親と観てたらちょっと気まずいかもしれない、ってくらい)
もし今でもあなたを忘れられない、愛しているのだと青年(もう初老になってますが)が告げていたとしたら、ラストが変わっていたのかどうか、少し彼女の心理面に興味がありますが、これはしばらく原作未読のままにしておこうと思います。別に「合わないかも」って言われたからじゃなく……。前述の通り多少の不満はありますが、良い映画でした。