闘犬アッシュ9
トーストは薄めが好きなので、食パンを買うときは八枚切ですし、その他のパンもそのくらいの厚さに切りますが、バゲットやバタールはごっそり厚めが好きです。ガーリックトーストなんかも四枚切くらいに分厚く切ったのを縦半分に切って、摺り下ろしたにんにくとクレイジーソルトを混ぜたオリーブオイルをたっぷりしみ込ませて焼きます。そう、ガーリックトーストは食パン系、フレンチトーストはフランスパン系というこだわりが。主人は私の大好きなドイツパン系、フランスパン系は嫌いなので、この手のパンは私専用です。
全然話変わるんですが、「プロメテウス」やっと観ました。観たかったんだけど、映画館で観るほどのものじゃないような気がして。「あ、これがエイリアン1に繋がるのね」と思ったらそうじゃなかったりして、正直「??」という感じですけど、続編が出来ると言うので評価はENDマークが付いてからにします。値段によっては買おうか、と(エイリアンは持っています。好きなので)密林を見て、ついでに評価も見て、こんな評価低いほど酷い出来でもなかったのに……と思いいくつか読んでみてへえ〜と思いました。主役のショウ博士の吹き替えが酷いらしい。私たいがい映画は字幕で観てるので気付かなかったのです。あまりに酷い評価なので、逆に興味を持って吹き替えでも観てみました……(笑)あーはっはっはwwって感じでした。怒りよりも笑いがこみ上げる……。吹き替え派のファンは逃がしたなー。
休みに早く起きることが滅多にないため、なかなか買う機会のないパンを少し並んで手に入れたころには、ルークの気分はだいぶ上向きになっていた。足りない食材を買うために寄った店で、「セレブみたい」と店主のローズを初めとして常連の女性客にアッシュが取り巻かれる一幕があり、少しだけ面白くない思いもしたが、アッシュが一緒にいてくれることでどこか浮ついた気分になっているのは、その程度のことでは収まらなかった。
うちに帰るころには朝食というには少し遅い時間になっていたので、昼食も兼ねてしっかり食べることにする。買ってきたパンは厚めに切って、香辛料とハーブの効いたソーセージを焼き、キャベツとタマネギを粒マスタードとビネガーでマリネしておいたものをたくさん添えた。とろとろのオムレツと、更に昨夜食べ残したフライドポテトを「いつもジャンクフードで済ませてるわけじゃないから」と言い訳しながらリメイクして付け合わせる。
缶詰のクリームスープを温めて添えると、二人分にしては多すぎる量になったが、見えなくてもわかってしまうほど酷いアッシュの食事マナーにルークが笑い出し、カトラリーの使い方を教えたりしながら時間をかけて食べているうちにすべてきれいに無くなってしまった。それどころかもうお腹いっぱいと言いつつも、互いの選んだフレーバーを気にして交換しながらアイスまで一カップづつ食べてしまったのだ。これ以上は何も入らないと腹の膨らみを見せるルークに、アッシュが笑い声を立てる。元々腹部が薄いため、たくさん食べると膨らみが顕著に見えるらしく、インゴベルトも餌を丸呑みした蛇の腹のようだと良く笑ったものだ。
アッシュはまったくルークに気を使わせない客だった。まるでインゴベルトと二人でいるときのように、ルークは集中して課題曲や自由曲の練習をしたが、アッシュがいるというのにその間一度も彼のことを思い出さなかった。集中力が長くは続かず、思うように表現出来ないとすぐに苛ついて投げ出すのがルークの最大の欠点で、小さなころからよく叱られてもいたのだが、そんな癇癪を起こすこともなく、ミスをしても辛抱強く練習を続けて、長く引っかかっていたところをようやく思うように弾けるようになったのだった。
最後の一音が室内に穏やかにほどけていき、ふっと息をついたとき、声がかけられて手にマグカップを握らされた。香ばしいコーヒーの香りが鼻孔をくすぐって、初めてこの家には自分だけでなくアッシュがいたことを思い出す。
「あ! ありがと。ごめん、おれ、つい夢中になって……退屈だったろ?」
「いや、少しも」
「少しもって……そんなはずねえよ、ずっと同じ曲ばっか繰り返してんのに」
「ルークを見ているだけで、俺は楽しい」
「は? ……ごめん、言ってる意味がわかんねえ」自分が淡々とピアノを弾いている姿を、ただ見ていることのどこが面白いのかとルークは首を傾げたが、
「表情がころころ変わって、退屈しない」
生真面目に返された返答にルークは頬を染めて俯き、ごまかすようにコーヒーを啜った。コーヒーの淹れ方を知らないアッシュにそれを教えたのは前回初めてここに来たときだというのに、コーヒーは自分で淹れたのよりおいしい。野菜の切り方も肉や魚の扱い方もアッシュは知らなかったが、一度教えるだけで器用になんでもこなすのだ。
「……あんたって、変わってる」
「良く言われる」
会話はすぐに終わってしまった。アッシュはあまり切り返しが上手くなく、すぐに会話を終了させる傾向にある。それでもあまり気まずい思いをしなくてすむのは、アッシュから緊張を感じないせいなのだろうか。彼がルークの側でとてもリラックスしているのがわかるから、ルークもつられてしまうのかもしれない。
コーヒーで一休みしたあとはアッシュのリクエストで何曲か弾いて、最後に少し連弾して遊んだ。ピアノは弾くよりも聴いているほうが──というより、見ているほうが好きだと言うアッシュだったが、ルークに乞われて素直にセコンドを担当すると、教えられた通りこれも器用になんなくこなす。ルークはまだアッシュのことを深くは知らないけれども、彼がなにをやらせてもすぐに上手くやれるタイプの人間なのだろうということはわかる。
ピアノに関してもそうなのかも知れないが、ルークはそうではなく、アッシュはピアノを弾くのが初めてじゃないのではないかという気がした。
「ああ、俺もこの間ピアノを弾いたことがあると思った」
問うとそんな返答が返ってくる。「子供のころ? どこで?」
「わからない。どこだろう? 婆の家にピアノはなかったし……」
「ババ? ばあちゃんと暮らしてんのか? ……両親は……」
「両親は知らない。ずっと婆と住んでたが、もう死んだ。小さいころのことは、憶えてない」
「そっか……おれと一緒だな。おれも両親、知らねえし」ルークは強い仲間意識を抱いて大きく頷いた。「じゃあ物心つくまえに両親と弾いてたのかもな」
「婆のところにピアノがあれば、もっとルークといろいろ弾けたかも知れない」
「それは今からだってできるよ」ルークはその後も様子を見ながら少しずつ難度を上げて、様々な曲を二人で演奏した。
夕方になってから、昼食と同じくキッチンに並んで夕食を作り、食後はアッシュが興味を持ったレコードを何枚も聴いた。オーケストラをピアノで聴きたいと言われ、即興で弾いてみたりもした。冷や汗もかいたが、アッシュは喜んでいたし、ルークも伯父が入院して以来、久々に心から楽しい思いをしたような気がした。
「ゲストルームに出番が来たのって久しぶりだ」ルークはアッシュを日頃は誰も使ってないという部屋に案内して、嬉しそうに言った。「わかってれば空気も入れ替えといたんだけど。ちょっと埃臭くねえ?」
「大丈夫」
ルークが大きな窓を開け放つと、澄んだ夜の香気がさあっと入ってルークの髪を揺らした。遠い街灯の明かりに、仄かに照らされた暖かな色の髪に目を奪われ、アッシュは息を飲んでルークの後ろ姿を見つめた。良い空気が入る、と笑いながら振り返ったルークの顔は逆光になって、うっすらとしか表情が見えなかったが、どこかやんちゃな雰囲気を残した昼間の顔とは少し違って見える。
「ルーク」明け方見た夢を思い出しながら、アッシュは怖々と声をかけた。
「ん?」
「ルークの目が見たい。目を開けてみてくれないか」
「は?」唐突な願いに、ルークはぽかんとし、ついで見る見る表情を曇らせた。「なんで、そんな。突然……」
「突然じゃない。初めて会ったときから、俺はルークの目の色が何色なのか、知りたいと思っていた」
「え、あー……ごめん」ルークは顔を反らし、俯いて首を振った。「小さいころ、どこを見てるのかわかんなくて苛々するって言われて……。人に見せたくないんだ、ごめん……」
ほんとうに小さい時分のことだから、言葉はもっと直接的で、残酷に心を抉った。そのことをルークは今でも忘れない。そうでなくともその子は普段からなにかとルークを苛めていたガキ大将で、その子の一言に周囲の少年たちが追従し始めたのも辛かったし、それに憤り、庇ってくれる少女たちの「可哀相じゃん」という言葉も哀しかった。
「ルークの目は角膜や眼球が傷ついているのではなく、熱で神経の一部が繋がらなくなっただけだから澄んでいてとても美しい」と伯父は泣いて帰って来たルークをずっと抱きしめて言い聞かせてくれたが、ルークはそれ以来伯父以外の人の前で目を開けたことがない。
「俺は正面にいるから、ルークは前だけ向いていればいい。……ダメか?」
アッシュが言葉通り正面に立つ気配がした。閉じた目蓋に触れる手は優しくて温かい。
大好きな友人たちの前ですら、ルークは目を開いたことはなかったのに。朴訥とした言葉の一つ一つが、嘘も偽りも虚飾もなく紡がれているせいなのか、それともルークが実の兄のような親しみを抱いてしまっているせいなのか。頑なに閉じてきた目を──心を、急に開ける気になったのは、一体何がどのように作用したせいなのだろう。
ルークは、まるで魔法にかけられたようにそっと目を開いた。他人の前で目を開けるのはおよそ十二年ぶりだった。
「緑色だ」至近距離でのぞき込んだのだろう、息を飲んだアッシュの気配を感じた。「子鹿の目より大きくて可愛い。それに、涙みたいに澄んで、きらきらしている。考えていたのより、もっともっと綺麗だ……」
感嘆のため息が混じった、少し掠れた声が思ったよりも近くで聞こえ、ルークはうろたえて思わず目を泳がせた。視線がアッシュから外れたことに気付いてますますうろたえ、ぎゅっと目を閉じた瞬間強く抱き寄せられて、頬が厚い胸にぶつかった。「……アッシュ?」
「ルークが俺を見てないと思うと、少し哀しい。目がうろうろすると、不安そうに見えてぎゅっとしたくなる。苛々などしない。ルークを傷つけた子どもは、ちょっとおかしい」
「初めから見えてないんだってば……」ルークは目に滲んだ涙を拭うようにアッシュの胸に顔をこすりつけ、くぐもった笑い声を立てた。だが、言わんとするところはよくわかった。アッシュの言葉はこんなときまで本音でしかなく、「どこを見ていても気にしない」などという慰めが出る余地もない。要するに「まっすぐ俺を見てくれてなきゃ嫌だ」という駄々っ子のようなことを、声を荒げるわけでもなく実にさりげなく言ってくれたわけだが、この分だと多分気付いてないのだろうなとおかしかったのだ。