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闘犬アッシュ7

金曜の夜は家飲みで酔っぱらい、土曜はほとんど主人と二人してベッドの住人でしたが、そのまま忘年会part2に出かけたため、日付またいでの更新になってしまいました。明日も早朝からバイトなのに、一日寝てたせいで眠くないのです><

闘犬7はお約束というか、すっごいベタな選曲です。やっぱりタイトルがね!smile
私自身は『Je te veux』は嫌いではないけど特に好きでもない曲です。これなら『Gnossiennes』の方がまだ好きです。『Gymnopédies』とか。

ちなみにタイトルの意味をルークは当然知っているけど、アッシュは知りません。

 今にも雑草に飲み込まれてしまいそうなテラコッタの小径を抜け、アッシュは密林と化した庭から鳥籠のようなテラスをのぞき込んだ。月の光が白く辺りを照らすなか、長く黒々と伸びた己の影の先に、ピアノはまだあった。
 アッシュはほっとして、錆び付いて軋むガラス扉を押し開け、ゆっくりとピアノに近づいた。
 丁寧にかけられた白い布をそっと剥いで、黒い鍵盤蓋を開いてみる。何度か来ると言っていたルークが拭いたのか、塵の積もっていた鍵盤が青白く光を返す。その一つを押してみると、あのときとは比べものにならない、澄んだ音がゆったりとラウンジ全体に広がった。
 音が完全に消えると、アッシュはまた元のように蓋をして埃よけの布をかぶせ、深い吐息を付いて同じように布をかぶったソファに頽れた。
 あの日も、ここに座って、ルークが怖々と入って来るのを見ていた。
 白い杖は左右に振れるたび、割れたガラスや破れた紙袋、菓子の空き箱などを引っかける。まともに床も見えないゴミだらけのホールを、ルークは時折引っ掛けたものを杖の先でつついて確認しながらゆっくりと歩いて来た。アッシュは彼が転びはしないかとはらはらしながら見ていたが、実際の所、ルークは困惑したように表情を曇らせてはいたものの、足取りはそれほど不確かではなかった。
 本当は、ルークに助けなど必要なかったのだろう。結局は緊張に耐えかねたアッシュのおせっかいにすぎなかった。

 普段のアッシュなら、見知らぬ人間に声をかけようとは決して思わなかっただろう。だが彼の目が見えぬらしいということと、真っ先に目を引いた髪が、焰のように暖かく彼の人柄を表しているように見えたことが、アッシュに勇気を与えてくれたのだ。

 突然、テラスのガラス扉が軋んだ。はっと視線を向けると、夜目にも鮮やかな炎の色の髪を持つ少年──ルークが、弾むような足取りで入って来る。
 アッシュの見つめる先で、ルークは床を覆うゴミや危険物をものともせずまっすぐピアノに向かい、椅子に座って鍵盤の蓋を上げた。

(アッシュ、何が聴きたい? アッシュの好きな曲、なんでも弾いてやるよ?)
 ──なんでも? なら、あれが……
(『Je te veux』? ほんとに気に入ったんだな。おれも好きだからいいけどさ)
 ──ルークが一番楽しそうだった
(そう?)

 あの日なんども繰り返し弾いてもらった曲が、ゆったりと、だが陽気に廃墟に溶け込んでゆく。

 ──ああ、やっぱり。一番きらきらしている
 横顔を見せたまま、ルークの唇が弧を描き。
(アッシュもこっち来いよ。一緒に弾こうぜ!)
 アッシュに視線を移して手を差し伸べた。ルークの目は開かれて、まっすぐにアッシュを見ている。
 逆光で黒っぽく見える瞳の本当の色が知りたくて、アッシュはその手を掴もうと手を伸ばし──。

 一瞬、呼吸の仕方を忘れたかのように息が詰まった。
 息継ぎのような呼吸をして、アッシュは無意識に伸ばしていた腕を引き寄せる。深くため息をつき、ソファにもたれて目を閉じると、騒々しい虫の音の狭間に、どこかとぼけたピアノ曲がかすかに聞こえて来るような気がする。
 たった一度、ほんの少しの時間だけの触れ合いだったはずなのに、どうしてこんなにルークのことが気になるのか、逢いたいと思うのか、アッシュにはわからなかった。
 アッシュはここからルークのうちまでの道のりも知っている。ヴァンは財布を寄越してくれたし、切符の買い方も憶えた。多分、一人で地下鉄に乗ることが出来るはずだ。逢いに行こうと思えば、そうできなくもない。

 けれども、ルークはたった一度会っただけのアッシュのことを憶えてくれているだろうか。あれからもう二週間は経ってしまったのだ。憶えていてくれたとしても、なんといって訪ねればいいのか。

 ゆっくりと目を開けて、布に覆われたピアノを見つめた。
 あの日。
 ルークの白く、節のない長い指が布を押しやり、そっと鍵盤の蓋を上げ、愛おしそうに鍵盤に指を落として音を確かめる。ハンマーを手にすっと伸び上がり、チューニングピンを締めていると、平たい腹がますます華奢にほっそりとして見えた。

(アッシュ?)
 ──あの日出会ったと思ったのは、幻だったのかも知れない
(なに馬鹿なこと言ってんの)
 ──訪ねた場所に、ルークなんて人はいないのかも
(少し眠れよ。アッシュは疲れてるんだ)
 ──俺は疲れてなんかない
(良く眠れる曲、弾いてやるな)
 ──眠くなんか……

 いつ、どこで聞いたのか、かすかに記憶の底を揺さぶる静かなメロディが流れた。一体どこで聞いたのかと思い出すよりも、ピアノを弾いているルークの姿を見ていたくて、アッシュは重くなってゆく目蓋に抗い続けた。

(ほら、目、閉じろ。ずっと弾いててやるからさ……)

 閉じた目蓋のうえに、しらじらとした日差しを感じて目を開ける瞬間、ずっと優しくアッシュをあやしていたピアノの最後の音が不思議な余韻を残して消えていった。
 いまだぼんやりと焦点の合わない視線の先に、白い布をかぶったままのピアノがある。昨夜アッシュが元に戻したまま、それにはいかなるものの触れた気配もなかった。
 アッシュは目をこすりながら起き上がり、再びため息をついてソファに座り直した。欠かしたことのなかった日課のトレーニングもせずに眠ってしまったのは初めてだった。
 ここに入り込んでからそう幾許も経っていないような気がするのに、全面ガラスのテラスから差し込む日差しは早朝というほど固い光ではなく、ほのかに温みがある。薄暗い地下牢──部屋での目覚めより心地よく感じるのは、日の光のせいなのか、昨夜のピアノのせいなのか……。
 これからどうするか。地下へ戻って、昨夜やらなかったかわりに身体を鍛えてうずくまっているか、それともルークのうちを訪ねてみるか──本当にルークがアッシュの見た夢の住人ではないのなら、そこに存在の痕跡くらいあるかもしれない──決めかねたままヴァンのコートを小脇に抱え、またきしむガラスの扉を開けた。テラコッタタイルの小径にかつんと革靴の音が鳴ったそのとき、左手の奥から庭に回り込んできた人物が足を止めたのが見えた。

「──? 誰かいます……?」
「ルーク」
 アッシュは信じられない思いで呟いた。一体なぜルークがここに? これはまだ、昨夜の夢の続きなのだろうか?
「アッシュ? ほんとに?」ルークは信じられないというような困惑の笑みを口元に刷き、首を振った。「朝起きて──なんだかここに来たら会えるような気がしてさ──でも、どうして──」
 近づいたら、手を伸ばしたら消えるのではないかとアッシュは恐る恐るルークに近寄り、おずおずと手を伸ばしてその頬に触れた。朝の空気にひんやりとした弾力のある頬が触れ、アッシュはびくりと手を引っ込めたあと、もう一度今度は確かめるように触れた。
「……今日、学校は……」
「日曜は休みだよ。アッシュこそ、どうしてここに? あれからおれ、二度ここに来たけど一度も会わなかったし、もう会えないかって思ってた」
「ルークに逢いたかった」アッシュはいまだ信じがたい思いのまま、魅かれてやまない温かな炎の色に指を差し入れた。こめかみのあたりを何度か梳いて、うなじをそっと抱き寄せる。頭を支えているのが不思議なほど細く見える首は、少し無造作に扱うだけで折れてしまうような気がした。完全に顎の下にはまり込む髪に鼻を埋めると、女たちのむせ返るような甘い香りではなく、胸がすっとするような、清々しく清潔な香りがした。「俺も、もう逢えないと思ってた。でも、ここを通りかかったら、寄らずにはいられなかったんだ」
 抱き寄せた胸の中で、ルークがかすかに身じろぎし、すぐに力を抜いてアッシュにもたれかかる。
「……調律も終わって、おれにできることは全部やったし、明日、ここのピアノ、運び出されることになってんだ。そうしたら、もう縁が切れちまうなって……」
「今、逢いに行ってもいいかどうか考えてたんだ」
「え、マジで?!」ルークが心底驚いたような声を上げ、次いで笑い出した。「二人で同じこと考えてるなんて、気が合うな!」

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料理、読んだ本、見た映画、日々のあれこれにお礼の言葉。時々パラレルSSを投下したりも。

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