闘犬アッシュ39
きりのいいところで、と思ったら少々長めになりました。
普段テキストエディットというエディタで、ページサイズで表示して書いているんですが、丸々1ページ分文字数が多くなっています。表示速度が遅くなるかなあ……すみません。
腕と肩の銃創はまた少し開いてしまい、再び出血が起こって上半身を赤くまだらに染めていた。
アッシュはぬるめのシャワーでそれを流し、じわじわと血の滲む傷の手当にかかった。医者がアッシュの傷を診るようになったのは、四代目、つまりヴァンの代になってからのことだ。大きな傷を負っていればどうだったかはわからないが、多くの場合誰かの飲みかけのウォッカと、何年も仕舞われていたような埃臭い包帯を渡されるだけだったから、自分で始末をつけるのには慣れている。
老医師の言いつけ通り、消毒薬を脱脂綿に浸して傷を軽く拭ったあと、炎症を押さえる軟膏を塗って油紙を当て、新しい包帯を巻いて行く。化膿止めの錠剤を飲み、手当に使ったハサミやピンセットを元の場所に戻し、汚れたタオルをざっと濯いで洗濯機の中に放り込み、血と汗の染みた包帯をくずかごに放り込む。ジーンズと黒いジャージーのシャツを着てルークの部屋を覗くと、ルークはアッシュが寝かせたときのままぴくりとも動いた様子がなく、深い眠りの淵に沈み込んでいた。そっと伸ばした手を首筋に当てて脈動を確認し、ほっと息を吐く。
これまでルークを抱きしめることが出来るだけで気持ちがいっぱいになって、身のうちで燃え盛る欲望の半分も吐き出せば自然と鎮まっていた。だが、昨夜は何度放出しても鎮まってくれず、ルークが本気で限界を訴えていたのに引いてやれなかった。終いには気を失ったまま死体のように無反応になってしまった身体をなおも抱え込んで、限界まで開かせた脚の間に腰を打ち付けていた。あまりに長い時間酷い扱いをしてしまったせいで、後孔から少し出血してしまい、アッシュは罪悪感に苛まれながら風呂に入れ、内部を洗浄してアッシュの傷のために処方された軟膏を塗り、ベッドに寝かせたのだ。ルークはその間、一度も目を覚まさなかった。
今日が日曜日で良かった。ルークの学業の負担にならないようにいつも気をつけていたのに、箍が外れて酷い乱暴を働いた。
くしゃくしゃの髪、泣きはらし、疲れ果て、赤黒く腫れ上がった目元に、弾ける寸前のように真っ赤に熟れた唇。バスローブから覗く首や胸元、手首まで赤い情痕に覆われた姿は、恋人と愛し合ったあとというより狼藉者に犯されつくしたといった風情で、ひどく痛々しく見える。なのに可哀想にと思いながらも、後悔の気持ちが少しも湧いてこない。それどころかこんな無惨な姿を見て、再びぞくぞくと熱が集まって来てさえいる。
アッシュはルークにそれ以上触れることはせず、空気も動かさないよう静かに部屋を後にした。あと少しでも触れたら、あの熱くぬめったところにまた己を埋めたいという欲望を退けられそうにない。
インゴベルトは朝日が上ると同時に目を覚まし、洗顔をすませたあとベッドに戻ってぼんやりと読みかけの本のページを眺めていた。退院が明後日に迫っている今、体調はすでに万全だ。早朝の散歩に出ようか、それとも続きを読んでしまおうかと悩んでいると、控えめではあるが、しっかりと力強いノックの音が聞こえた。インゴベルトは驚き、ちらりと時計に目を走らせた。見舞いには少し早すぎる時間だ。先日ここを飛び出して行って以来、一度も姿を見せない甥の顔が浮かんだ。休日ではあるが、こんな時間に病室を訪ねてくるものといえば、甥しか思い当たらなかった。
「どうぞ」
ややあって静かにドアが開き、背の高い大きな青年が足音一つ立てず、滑るように入ってくる。インゴベルトと目が合うなり、青年のきつい目元が懐かしさと僅かな罪悪感のようなものを浮かべて、和らいだ。
インゴベルトの手から本が滑り落ち、薄い上がけを更に滑って床にぱさりとページを広げた。「ク、クリムゾン……?!」
「朝早くから、ごめんなさい」
青年はちらりと病室を見回し、折り畳まれた椅子を見つけ、インゴベルトの枕元まで下げて来た。大きく目を見開いたまま言葉もないインゴベルトの視線を絡ませたまま、青年は本を拾い、軽く払って傍のテーブルに置く。椅子を広げて浅く腰掛けると、インゴベルトの震える片手を取り、両手で握った。
その仕草は、ここにきたルークがいつもするのと寸分違わず、インゴベルトははっと息を飲んだ。「あ……君は……」
「アッシュ」
「ア、アッシュ……?」
「今はそう呼ばれてる」
頭が真っ白になったまま名を反芻し、インゴベルトはそれがルークから何度も聞かされた名であることを思い出し、目を見開いた。
インゴベルト兄妹やクリムゾンを含む、ファブレと言う家系にのみ現れる真紅の髪。故郷キムラスカの森を思わせる深い翠の瞳。ファブレの男は平均より大きいものが多いが、目の前の青年は中でも飛び抜けて長身で、良く発達した筋肉で鎧っている。だがその顔立ちは、若いころのクリムゾン瓜二つだった。もちろん弟であるルークにも、そして伯父であるインゴベルトにも似ている。この三名の血の繋がりを信じないものなどいるはずがなかった。もしもルークの目が見えていたら、彼が兄であることを疑うべくもなかっただろう。
「きっと生きていてくれると信じていた……! 君は……君は、クリムゾンそっくりだ。間違いなく、私の甥だ……。君の本当の名前は、」
アッシュがふいにインゴベルトの手を強く握り、首を振った。「僕の名はアッシュだ、伯父さん。アッシュ・グランツ。その名で生きて来た。これからも」
伯父と甥は無言のまま見つめ合った。インゴベルトはその吸い込まれるように澄み切った瞳を見て、ルークがアッシュのことを嘘がつけないまっすぐな人だと評したことを思いだした。
あの悲惨な事故から、一体何年が経ったのだろう。インゴベルトにはついこの間の出来事のように思えるのに。だが気付けば、まだ一歳の誕生日も迎えていなかったルークが十七になっているのだった。十をいくつか越えただけのひょろひょろだった甥を、これだけがっしりとした青年に変貌させた、それだけの時間を彼はすでに別の名で生きて来て、これからも変える気はないというのか。
「なぜ、今まで帰ってこなかった……。もっと早く……なぜ……」
「ごめんなさい伯父さん。事故のことも、パパやママのこともずっと思い出せなくて」アッシュは申し訳なさそうに顔を伏せた。「思い出したのは、昨日なんだ」
「昨日……?」
「あー……頭を、多分打って」
バツの悪そうな甥の片耳が厚いガーゼで覆われているのを、インゴベルトはじっと見つめた。「一体なにが……いや、これまで一体どうしていた……どうやって暮らしてた……? ルークは、ほとんど何も……」
「ルークは、きっと伯父さんに心配かけたくなかったんだ」
アッシュは少し困ったように笑い、姿勢を正して事故にあったあとの一番古い記憶からゆっくりと話し始めた。
ごみ拾いを生業にしている老婆に育てられたこと。少しでも金を得るため、同じ生業のものたちの縄張りを荒らし、私刑を受けるたびにやり返すことを憶えたこと、それがグランツ・ファミリーの誰かの目に留まったこと。
三代目に引き取られ、彼を守り、人を殺すための技を叩き込まれたこと。「犬」と呼ばれ、首輪を付けられたこと。
三代目が死んで、ヴァンと恋人のマリィベルがなんとかアッシュを「人」にしようとしてくれたが駄目だったこと。
ルークと出会ってからのことも含めて、少しはましに生きてきたと見せかける気もなく、インゴベルトの心情を慮ってくれるでもなく、アッシュは事実を事実として淡々と話した。
インゴベルトはあまりの衝撃に言葉を失っていた。
ファブレ家は、キムラスカでは貴族の家柄なのだ。領地はほとんど手放してしまったし、昔ほどの権勢はすでにないが、今だって十分に資産を残している。なのにその家の、今や跡取りとも言えるものがゴミを拾い、首輪を填められ、犬と呼ばれて生きてきた、など。人殺しを生業としてきた、などと……。
ルークが、何一つ話そうとしないわけだった。
「でも、ルークが首輪を外してくれた。時々元に戻りそうな気がすることがあるけど、ルークがいてくれれば、きっと大丈夫だと思う」
「……ルーク」そうだ、ルークは今どうしているのだろう。こういうときにルークがアッシュに同行してこないなんて。「私はルークに嫌われてしまったんだろうか……? だからルークは君と一緒に来なかったのかい?」
死んだと思っていた甥が現れたことに舞い上がり、なぜルークが自分に会いたがらなくなったのか吹き飛んでしまっていたインゴベルトは、仲違いの原因を思い出しておそるおそる問いかけた。
「嫌ってないし、怒ってもいない。そういう子じゃないのは、伯父さんの方が知ってるはずだ」アッシュはしょんぼりと肩を落としたインゴベルトに苦笑し、宥めるように握った手を撫でた。「黙って出て来たんだ。ルークは眠ってるだけ。多分午前中には起きてこない。抱き潰してしまって……」
「お、お、お前たちは……っ!」
「うん」
父も母も同じ実の兄弟なのに、と絞り出すように言ったインゴベルトの前で、アッシュがその視線を避けるように静かに目を閉じた。
「僕に、『ルーク』と言う名の小さな弟がいたことは思い出した。それがルークだってこともわかるよ。──本当に、どこでどうなってこんなことになったのか……」
ゆっくりとアッシュが目を開けた。その、まっすぐな視線。決意を秘め、真摯でありながら、どこか幼い子どものように純粋な。
「だけど僕はルークを見ても、僕が兄だったころの気持ちがもうわからない。思い出せない。義兄のお陰で、弟の気持ちは、このごろちょっとわかって来たんだけど」
「……だが……っ」
アッシュは労るような笑みを浮かべて、握っているインゴベルトの手を何度か小さく叩いた。
「伯父さん。僕はもう、死んでもいいんだと……思うよ」
「伯父さん……?」
深いテノールが紡ぐ囁くようなメロディーを、ルークはぼんやりと聞いていた。亡き母が作ったというその曲は、兄が生まれたときに即興で作られ、子守唄代わりによく歌ったり演奏していたという。兄が赤ん坊のころは、病弱だったルークと違い、非常に元気な声で良く泣く自己主張の激しい子どもで、父母を睡眠不足にしたというけれど、母がこれを弾くと、兄はおとなしくなって良く眠ったものだと伯父は笑っていた。ルークにはそれを母に弾いてもらった記憶はない。歌ってもらった記憶も。だが伯父が、亡き母の愛情をルークにも感じて欲しいと、小さなころから何度も歌ってくれた。だがこの声は、聞き覚えのあるものより一段低い。
(だれ……?)
最後の一節が空気に溶けていき、密やかな衣擦れの音がしたと思ったら、温かな手がルークの頬に触れ、髪を撫でた。
「……もう少し眠って、ルーク」
「……お兄ちゃん……?」伯父よりも若い声に、ルークは夢現のまま問いかけた。「お帰りなさい……遅かったね。伯父さん、すげー心配してたんだよ……?」
「ごめんね、迷子になっちゃってたんだ」
囁きと同時に、軽い音を立てて額にキスされた。
「そうなんだ。もうずっとうちにいる……?」
「ああ、ずっといるよ」
「もう少し歌ってくれる?」
「眠るまで。──もうお休み、可愛いルーク」
「んー……」
兄ともっと話したかったし、触れたかったけれど、くたくたに疲れた身体はもうぴくりとも動かすことができなかった。子守唄だけでなく、ゆっくりと頭を撫で続ける行為にも誘眠効果があるのか、抗おうという気持ちとは裏腹に、ゆっくりと意識が遠のいていった。