闘犬アッシュ24
昨日はこの順番でいいと思ったんですけど、一夜明けると昨日と今日のエントリーは逆の方が良かったような気も。うーん……。まあ、話は23→24話でも、24話→23話でも通用するからいいんですけど、どっちがスマートかっていう。
入れ替えました(2014.10.22)
えっと、「森川、もしかしてやらかすんじゃ」って疑う方もいらっしゃるかも知れませんので、こちらでも申し上げておきますねー。
左右は固定です!
挿入についてはね
少年に関する報告書を投げ出し、あまり感情を表に出すことのないヴァンが苦渋に顔を歪めて額を押さえるのを見て、バダック・オークランドが無言で顔を伏せた。
「遺体の見つからない長男……。アッシュの正確な歳はわからんが──年頃は、合う、な」
先代──ヴァンの父は、他人を信用できない男だった。おそらく、一人息子のヴァンでさえ。
先代が信用したのは、『犬』だけだ。ヴァンより年上のものを含めるとかつては何人もいたが、みな死んでしまった。先代は幼いころから躾ければ従順で忠実な『犬』になると自慢していたが、まだ幼い少年に戦いの才能があるかどうかは育ってみなければわからないものだ。中には多少使えるのもいたように思うが、ヴァンのみたところ二流の格闘家のレベルを超えることはなかった。
その点、アッシュはある程度の年齢までいっており、我流であったものの喧嘩では負けなしの才能を買われて引き取られた『犬』だ。師についてなおあまり洗練された戦いはできず、いっそ野蛮なほど荒々しくはあったが、その能力はヴァンを遥かに凌ぐ。師匠をして、『天賦の才』と呼ばわしむるほどに。だが歳が行き過ぎていたため、アッシュはこれまでの『犬』と同じようには躾けられなかった。事故の影響か幼いころの記憶がごっそり欠けているため自我が弱く、それでもまだ形になったほうだろう。電気ショックを用いての暗示を繰り返し、餓えさせ、またあるときは飴を与えてすっかり従順な『犬』になったように思えたが、先代は頑丈な地下牢からアッシュを出して、自由に振る舞わせることは決してなかったのだ。他の『犬』は寝室にまで入れて、その身を守らせていたのに関わらず。
先代が死んだあと、マリィベルがアッシュに感情の揺らぎがあることを見抜くまで、ヴァンもこれまでの『犬』と何も変わらないと思っていた。身体を洗ってやり、食事をさせ、丁寧に傷の手当をし、返事が返らないことに腐らず話しかけ続けるマリィベルを、ヴァンは初め何をしても無駄だと笑い飛ばしたものだ。根気よく接するマリィベルにアッシュが次第に心を許し、懐いたのは、結局のところ先代の躾が骨の髄まで彼を変質させてはいなかったからだろう。そのマリィベルでさえ、殺戮の獣に堕ちるのではないかと怯えるアッシュから首輪を取り上げることは出来なかったのだが……。
「歳のわりには幼い持ち物だと思っていたが……」
彼が大切にしているぬいぐるみと絵本を思い出す。大きなぬいぐるみも、絵本も、十代半ばの──老婆に拾われたときはもう少し幼かったとしても──少年には不釣り合いだ。まず間違いなく弟のものだったのだろう。なぜアッシュがそれを持っていたのかまではわからないが、彼が持ち主をとても大切に愛していたのには違いなかった。
「それがなぜこんなことになる……」
ただ一度会っただけの少年に、アッシュがなぜあれほど惹かれたのか。そうしてみると、血の絆のなせるわざとしか思えない。
「それは本当にアッシュのものかはわかりません」バダックはヴァンの呟きに顔を上げた。「老婆のほうも少し調べたんです。名前はユリア・ジュエ。非常に優秀な占い師で、五十年ほど前までは力のある政治家も幾人か顧客に持っていたようです」
「占い師?」そういったものをまったく信じないヴァンが嘲笑を閃かせる。
「かなりの美貌の持ち主だったらしく、妻や愛人になるよう迫られることも多かったようですね」
「そっちを狙っていたわけか?」
「いえ……。どれも断り続けたあげく、思いあまった男に暴行を受けることになり、自分の顔を傷つけて行方をくらましたようです」
「……? 玉の輿狙いだったのではないのか?」
「ユリア本人は、自分の占いに自信を持っていました。まだ存命のホームレスの幾人かが、彼女のことを憶えています。彼女の言う通りにすれば、教会の炊き出しを貰いはぐれることもなく、雨や雪に打たれるまえに安全な場所へ移動できたと。中には仕事を見つけて抜け出すことが出来たものもいます」
「……」
「海辺に倒れているアッシュを見つけたとき、ユリアは周囲に流れ着いている様々な物品の中からぬいぐるみと絵本だけを拾い上げたといいます。ですから、それが本当にアッシュのものかは」
遠い昔にそれを読み聞かせた誰かの声を辿るような。あるいは誰かにそれを読み聞かせてでもいるような。指先で文字をたどりながら、一人辿々しく絵本を読み上げるアッシュの声を思い出して、ヴァンは眉を寄せ、頭を振った。
「……当時、飛行機事故のことは大きなニュースにもなりましたし、ユリアも知っていました。子どもの保護のことを伝えようと実際に警察にも出かけたようですが、結局のところ申し出ずに隠し通したのは……」
「なんだ」
「は。悩んでいたのを聞いたものがいます。『戻せば、富と名声を恣にし、美しい妻と子、平穏な人生を得るが、満たされぬ。戻らざれば偕老同穴の半身、隠された才能の目覚め、心穏やかな人生を得るが、そこへ至る道には死臭がつきまとう。どちらがこの子のためになるのだろうか』と」
「それで後者と選択したと? ……望まぬ愛に苦しめられた女が、拾い子にはそれを得るチャンスを与えたというわけか? ──浅はかな選択だな」
「アッシュの親が同じ事故で死亡していることが、選択に影響を与えたようですな。まだ小さい弟が病院に残されていたことは、報道されていません」
キムラスカの貴族の末裔であるファブレ家。父母はそれぞれ名の知れた音楽家。まともに保護されていれば、きっと今頃は歳の離れた弟の面倒を見ながら良家の娘を妻にもらい、子を可愛がる父親にでもなっていたかもしれない。こんなことにでもならなければ、弟への愛情が肉欲と執着を伴うそれに変わることなどおそらくなかっただろう。
ユリア・ジュエという女は、もしかしたら『本物』だったのだろうか。
暴行され、己自身で顔に傷を作り、ゴミを拾って老いて行く運命を、彼女は知っていただろうか。子どもを海で拾うことも、その後の選択、子どもの運命も──その『半身』が子どもにとってどういう繋がりのある人物なのかも。
アッシュがこちらに引き取られた数年後には死んでしまったようだが、生きていたなら聞いてみたいような気がした。最愛の女を手放したあの選択が、ヴァンの人生にとってどのようなものだったのかを──。
「それなりに役立ってくれたがな……」
「では、アッシュを手放されるので?」
「仕方あるまい。あれほど酷似していては、血縁を指摘する者には事欠くまい。他の組織に繋がりがバレてガキが質に取られてもやっかいだが、堅気の者には出来るだけ関わらないのがうちの信条だ。引き離せるものならそうするが……」
彼等は真実血の繋がった兄弟だった。別に家族を引き離すことにはなんの痛痒も感じないが、かといってそうしなければならないほどの理由もなかった。
ヴァンはきちんとセットされた髪をぐしゃぐしゃに乱して呻いた。あの少年が盲目でなかったら。多分こんなことにはならなかった。酷似した容貌と年齢から、直ちに遺体の見つからなかった兄とアッシュとを結びつけただろう。
ヴァンは全く臆することなく自分に対峙し、アッシュのためにマルクト最大のマフィアのボスに食って掛かった少年を思い浮かべた。