闘犬アッシュ6
『エクリプステンペスト』まで書いていたら文字数がこわいので、以降に回しました。短いお話にするはずだったんですが……なんか伸びていってます。いつも思うけれど削ってまとめるという能力がないのかも知れません。
◆2014.02.19追記
かなり修正入れています。無名のファイター→エクリプステンペスト
携帯→PDA iphoneは元より、スマホ、或はスマートフォンと言うのもなんか違う気がして。記述するためのイメージとしては、ブラックベリー。(下にキーボタン付いてるやつ。多分書いてたころはロマンス小説にはまってたからだと)何年か経って読み返した時に「携帯」だと違和感を感じるかも知れないので、今のうちに書き換えました。
以下、軽い流血・暴力表現あります
軽い靴音を立ててアッシュが床に降り立ち、『チェインミラージュ』の前に向かい合った瞬間、しんとした闘技場の頭上で観客が息を飲む音がした。
身長百九十センチをわずかに越えたアッシュはその身体の厚みも含めて大柄なほうだったが、『チェインミラージュ』の前ではまるで子どものように小さく、頼りないくらい華奢に見えたのだ。
『チェインミラージュ』が肩をすくめて馬鹿にしたように鼻で笑った。「死にたくなければ、試合が成立するまえに帰んな、お嬢ちゃん」
アッシュはそれに表情を変えもしなければ、むろん帰ることもなかった。ひややかに目の前の大男を見据えたまま、窮屈なボウタイに指を入れ、緩める。首すじを伸ばして凝りをほぐすように軽く左右に振り、ドレスシャツの胸元を緩め、黒蝶貝のカフスを外してその辺に放り捨てた。
崩れた『貴公子』の姿に、観客の女性たちから黄色い声が上がった。
「自分の見せ方を心得てるわね。俳優向きかもしれないわ」
「まさか」手すりに片腕をかけて下を見下ろしつつ、ヴァンが苦笑する。「やれやれ。あれで無意識とはな」
「私、ワンちゃんに賭けておくわよ」
リグレットはどこかうきうきと言い、PDAを取り出した。会員のみがINすることのできる、ゲームを偽装したアプリを通して賭け金を支払うのだ。それが一定の金額を越えない場合は賭け自体が成立しないが、そういうことはまず滅多にない。
「ヴァンも。ほらほら」リグレットはヴァンにわざとらしく密着したあと胸板を撫でるように内ポケットからPDAを取り出し、何やら勝手に操作を始めた。「ワンちゃんが勝てば、大金持ちかも知れないわよ」
「わからんぞ。その辺のお嬢様、奥様がたはあいつに賭けるかもしれん」
「それはないわね。彼女達が見たいのは、美しい男が勝利するところじゃないの。美しい男が引き裂かれ、苦痛に顔を歪めて血まみれになっていく姿よ」
そう言って瞳を妖しくきらめかせ、下を見下ろしたリグレットが軽く唇を舐めるのを見て、ヴァンは肩を竦めた。連れがヴァンでなければ、おそらくリグレットも『チェインミラージュ』に賭け、アッシュが血にまみれていくのを楽しんだのだろう。
「──女は怖いな」
血への期待に興奮しているようすを隠そうともしないリグレットの細い腰を引き寄せながら、ヴァンはふと、遠い面影を思い出した。『彼女』ならなんと言うだろうと考え、アッシュを可愛がっていた『彼女』なら、そもそもこんな賭け試合に参加などさせまいと気付き、急に苦いものがこみ上げてきたような気になった。
そのとき、電光掲示板が賭けが成立したという、無情なアナウンスを流した。
先に仕掛けたのは『チェインミラージュ』だった。棘だらけのナックルが付いた、重く素早い一撃が繰り出される。
『チェインミラージュ』は命のかかったこの闘技場で、一月命をつないできた猛者である。それなりに心得てもおり、おそらく嬲り殺しにするための第一撃だったはずだ。
アッシュはその一撃を軽い足さばきで躱した。同時に跳ね上がった足の甲が『チェインミラージュ』のうなじに鈍い音を立てて食い込む。
『チェインミラージュ』が突っ込んで来た勢いのまま、前のめりに倒れ、そのままぴくりとも動かなくなった。
人々は興奮の頂点に達した顔のまま、時間をとめたように凍り付いている。軽く見えた無造作な蹴りが頸骨をへし折ったとは、だれも思わなかったのだ。
しん、とした会場内に、ヴァンの低い笑い声だけが響いた。
「獅子は兎を狩るのも全力か。──アッシュ、一撃ではつまらんぞ。次はもう少し見せ場を作れ」
それが再び時を進める合図になったように、会場中を悲鳴とブーイングが渦巻いた。
「……つまらないわ。瞬殺じゃないの」
「命のやりとりなら、アッシュに分があるに決まっている。なにせ親父の代からずっとだからな」
時に銃を持った相手すら、アッシュはかいくぐって屍に変えてきたのだ。
「……ほう。次の奴は少々やるようだな」
遺体が運び出されて行ったあと、大歓声に手を上げて悠々と現われた大男を見下ろし、ヴァンが面白そうに言った。
「彼がキング『エクリプステンペスト』よ。ここ数年、彼を倒した挑戦者はいないわ」リグレットは半ば陶然と囁くと、軽く身体を動かしてウォームアップしている男にうっとりとした視線を向けて、血のように赤いワインのグラスに唇を寄せた。「見てあの筋肉。それにあの黒い髪と瞳。神秘的で、すごくそそられる」
「寝たのか?」
「どうかしら?」
「もしまだベッドに引きずり込んでいないなら、残念だが、その機会は永久にないようだ」ヴァンはにやりと唇を歪め、内ポケットからつかみ出したPDAをリグレットに放った。「もう一度うちの犬に賭けておけ」
「あら。自信満々ね?」
「この程度なら警戒する必要などなかった。一財産築けたかも知れんものを、惜しいことをした」
今更新たな財産など築く必要も無いヴァンの余裕の態度に、リグレットは不審そうな顔を向けたが、言われた通り素早く端末を操作してヴァンのPDAを内ポケットに滑り落とした。「いいの? 『エクリプステンペスト』なのよ? あの子を気に入っているんだと思っていたのに」
「まあ、見ているがいい」
リグレットは首輪を外されたアッシュの強さを知らない。ヴァンはワインで喉を湿らせながら奈落の底を見下ろした。『エクリプステンペスト』は確かにかなりやるだろう。身のこなしを見る限り、軍人崩れだ。ストリートからのし上がった喧嘩殺法とはわけが違う。大男だが、アッシュとの体格差は先の男ほどではなく、その分敏捷そうに見えた。
だがそれはアッシュも同様だ。戦闘の天才と見いだされた少年が、人体破壊に特化した武道を徹底的に仕込まれ、十年以上の年月、恐るべき実戦回数でそれを磨き、今なお淡々と牙を研ぎ続けているのだ。
『エクリプステンペスト』は『チェインミラージュ』と違い、体格に劣るアッシュを侮ってかかったりしなかった。不必要な挑発もしない。好敵手に当たったことに気付いたか、若干昂揚しているようではあるが、半分潰れたような目蓋の奥の瞳はギラギラとした強い殺気を放っている。
アッシュは攻撃のほとんどをうまく躱していた。躱し損ねて受け止め、力勝負になっても、互いに相手を押し返せないことに気付き、同時に左右に飛び退る。突き出された拳をアッシュが弾き、反対の拳を突き出すと男は上体を反らしてそれを避け、そのまま後方に宙返りしながら蹴りを放つ。両腕を閉じてそれを受け止め、微かに後退させられたアッシュが、瞬時に身体を沈めて回転しながら男の足を掬い、バランスを崩した所に飛び込んで肘を叩き込む。まるで交替に防御と攻撃を繰り返しているようで勝敗はなかなか付かず、間断なく肉を撃つ音が響き、宙に双方の血飛沫が散った。その度に悲鳴と歓声が沸き上がる。アッシュのシャツは次第に血に染まり、上半身を晒した男の身体は汗で濡れ光った。試合会場は最高潮に盛り上がり、食事どころではなくなった人々が今や観客席のまわりで拳を突き上げていた。
興奮して身を乗り出しすぎたリグレットが万一にも落ちたりしないよう腰を抱き寄せたまま、ヴァンはひたすら感心してアッシュの姿を追っていた。
思った通り、アッシュは余程のヘマをしない限り負けはしないだろう。それよりも、ヴァンの言う通りたまに攻撃を喰らってみせたりしてそれなりに『見せ場』を作っていることに驚いたのだ。もちろん本当に喰らっているものもあるが、アッシュが完全に切れているときの凄まじさを目の当たりにしてきたヴァンには、本来受けるはずの無い傷を負っているのが一目瞭然だった。
「ワンちゃん、かなり劣勢に見えるわ」
「なに、受ける攻撃を上手に選んで試合をコントロールしている。顔に喰らいたがるのはダメージの割に派手に出血するからだろうな。犬め、ご婦人がたの黄色い悲鳴の望むところを本能で嗅ぎ分けたか。──いや、まさか、あいつにこんな芸ができたとは」
実力が伯仲しすぎず、かといって離れすぎてもいず、適度な差であったためか、アッシュは特に無理をせずともうまく試合を長引かせ、ひやりとするシーンを作って観客をはらはらさせ、黄色い悲鳴を山ほど上げさせた。
ヴァンがそろそろこの結果の知れた試合に飽いて来たころ、アッシュももう十分命令通りの見せ場を作ったと感じたのか、『エクリプステンペスト』の放った蹴りを躱した勢いで壁を蹴り、駆け上がって宙に舞った。空中で腰を捻って角度を変え、その体重の乗った強靭な肘で頭蓋を割り、血と脳漿を派手にまき散らせて『エクリプステンペスト』と共に床に倒れ込む。両膝が深く『エクリプステンペスト』の腹に沈み、大男はがはっと息とともに鮮血と胃液を吐き、びくびくと身体を痙攣させた。
流れ出した血がゆっくりと床に広がって行く。アッシュは男の腹に膝を食い込ませたまま、その血の広がりを見つめていたが、ややあっておもむろに両手を伸ばし、『エクリプステンペスト』の頭部を掴むと無造作に捻った。自分の声さえ聞こえないほどの歓声の中、ヴァンには頸骨の折れる音が聞こえたような気がした。
「意外に用心深いのね」
「基本に忠実なやつでね」
ややあって、アッシュは熱狂した人々が投げ込む紙幣の雨を浴びながら、ゆっくりと立ち上がった。
清掃が入るため試合は一時中止になり、アッシュがボーイに先導されて戻って来る。興奮した人々がカマーバンドに高額紙幣を突っ込んでいき、宝石がまぶされたネックレスを首にかけ、腕輪や時計を腕に填めてやる。こういう闇の賭け試合に出場するものの多くは金が目当てなのだから、これはご祝儀のようなものだった。中には大胆にも首に抱きつき、頬にくっきり口紅のあとを残す女性もいる。
「さらに男前になったな」頬の口紅を差してヴァンが揶揄した。「この会場で、お前ほどモテた選手はおるまいよ。みな図体のでかい、強面ばかりだからな」
ヴァンが元のように首輪を填めると、アッシュの瞳からすみやかに光が消えた。
「どうするの? 『エクリプステンペスト』の快進撃を止めたんだし、これからワンちゃんにはオファーが殺到してくるわよ?」
試合の中断を機に、ヴァンは引き上げることにした。飛び入り参加者が荒稼ぎするのもほどほどにしておかねば、いらぬ恨みを買うこともある。
「一番の稼ぎ頭を倒してしまったからな。オファーがあれば当分は貸し出してやるしかあるまい。──まあ、稼いだ分も寄付しておくさ。多少の目こぼしになるかもしれん」
リグレットがジャケットを着るのに邪魔になる「ご祝儀」を用意させたバッグ一つにまとめてやり、再度ヴァンが血で汚れたシャツの上からジャケットを着せかけた。
その男をまた連れて来るようにとあちこちからかかる声に手を振って、三人は闘技場を後にした。
「全部現金化して、お前の口座に突っ込んでおこうか」ヴァンがずっしりと重たい「ご祝儀袋」を叩いて呟く。「宝石や時計などお前には不要だろう」
「あら。自分の口座持ってるの?」
「言ってなかったか? コレは戸籍上では私の義弟なのだ。父が籍に入れてね。一応、アッシュ・グランツがコレの正式な名だ。IDもちゃんと持ってるぞ」最も口座を用意し、給料のような体裁の金を振り込み始めたのはヴァンの代になってからのことだったが。
「知らなかったわ。それで心優しいお義兄さまは義弟の将来のために貯金を増やしてやろうというわけ?」
「惚れ直したか」
「私はずっとあなたに惚れっぱなしよ?」
リグレットがヴァンにそう言ったとき、ふいに横合いから手が伸びて、ヴァンの手から「ご祝儀袋」をひったくり、リグレットの前にずいと突き出した。「ワンちゃん? どうしたの?」
「リグレットにやる」
「私に? どうして?」
「どうした? こいつに惚れでもしたか?」
面白そうに問いかけるヴァンに首を振り、アッシュは「そうじゃない。リグレットには、惚れてない」ときっぱりと言った。
「こう何度もだと傷つくわね。ま、いいわ、あなたには『ルーク』がいるんだものね」リグレットはわざと傷ついた顔を作り、胸に手をあててみせたが、袋の中から最初に触れた細いブレスレットをつまみ出して言った。「ありがとう。ワンちゃんからの初めての贈り物だもの、遠慮なく一つだけもらっておくわ」
「それ……」何か言いたげに口を開いたアッシュの視線がふいに横に流れ、弾かれたように後ろを振り返った。「ルーク」
「止めろ」
アッシュの呟きを耳に入れたヴァンが車を止めさせる。「深夜をまわっている時分に箱入りの子犬がうろついていると思えないが──ああ、そういうことか」
アッシュが見つめる方向を確かめたヴァンが、呆れたように鼻を鳴らした。問いかける表情のリグレットに気付いて、片眉を上げる。「廃ホテルだ。いわゆる出会いの場、というやつだな」
「まあ。純愛なのね」
「犬だからな。忠実なものだ」ヴァンはそう言って再び車を出させようとしたが、ふと思いついてアッシュに問いかけた。「ここから一人で帰って来られるか。道は憶えているんだろうな」
「憶えてる」
「なら、しばし思い出にひたってくるがいい。今夜の褒美だ」
アッシュはそれを聞いて、無言で車のドアを開いた。振り返ることもなく、まっすぐにホテルに向かう後ろ姿を、ヴァンが呼び止めた。「待て。お前一文無しだろう」
振り返るアッシュの胸に、分厚い財布と、ヴァンのコートがぶつかり、下に落ちる。「お前に買い物という芸ができるとは思えんが、誰かに聞くなりしてそれでなにか食え。できなくても一日二日で飢え死にはせんだろうが。明後日──もう明日か、明日の昼までには帰って来い」
「わかった。ありがとう、ヴァン」アッシュはその財布を無造作にコートのポケットに突っ込み、丸めて抱え、今もなお記憶の中に鮮やかに残る古いホテルに向かって歩き出した。