【幕間 Asch:1】
過去の話ですが、アッシュの恋人が出て来ます。オリキャラなので嫌いな方も多いと思います。一応、今月9日の日記をご確認下さい。 少しだけ目を潤ませ、彼女──ミュリエルはほっそりした指で琅玕を撫でた。
「すごく綺麗……。以前この石が好きだって言ったの、憶えてくれてたんだ」
ミュリエルの誕生石なら真珠になる。らしい。求婚には誕生石かダイヤが定番だとアニスは言ったが、アッシュはどうせなら彼女の好きな石を身に付けて欲しかった。
「これね、あなたの瞳の色と同じなのよね」
ふふふ、と照れくさそうに微笑まれ、初めて気付いた。納得と同時に、照れくささとほろ苦さが同時に込み上げてくる。
オールドラントに帰って来てから知り合った彼女が知るはずなどなかったが、アッシュの瞳の色は、もう少し濃く深い緑だった。宝飾店に時間をかけて探させた最高級の琅玕翡翠──無意識にルークの色を探していたのに気付いた。『みどりいろ』と言われてアッシュが思い浮かべるのは、いつだって透き通るような明るい翠だった。
運ばれてきたままだったコーヒーに上の空で口を付け、その熱さに思わず眉を顰めて一瞬舌先を覗かせてしまったのが、ミュリエルの笑みを誘った。
「嬉しい。いつ言ってくれるかなって思ってた」
その言葉に、アッシュは少し驚いた。結婚願望があると、思っていなかったからだ。
「結婚に興味がねえのかと……。いや、俺がずっと甘えてたんだな、すまない」
「うーん……。結婚に慎重なのはあなたの方だったよね」ミュリエルは指輪を撫でながら、笑った。「私と結婚してしまって、いいの? 後悔しない?」
「しねえよ」
少しばかり苦笑が漏れた。今もって結婚にたたらを踏んでいるように見えるのか。アッシュも子供が欲しいと思うような歳になったし、子供好きな彼女だって同じだろう。ミュリエルも三十をとうに越した。男の間を蝶のように飛び回りひとところに落ち着かない独身主義のアニスなどと付き合っていると感覚が麻痺してくるが、世間ではとっくに行き遅れである。
「私と結婚して子供が生まれて……それからルーク様が帰還なさったら、あなたどうする?」
「……は」
一瞬何を言われたのかわからなかった──一瞬だけ。
想像してみる。
どこかの丘の中腹で、アッシュと子供──想像の中に過ぎないので、子供の性別は分からない──がおもちゃのような木剣で稽古とは言えない遊びのような剣を交わしている。やがて子供が木剣を放り投げてアッシュに飛びかかって来ると、アッシュは軽い体裁きでそれを躱し、同時に子供の頭をぽんとはたく。父と子が、同時に笑い声を立てる。
やがて二人を呼ぶミュリエルの声が聞こえ、アッシュは子供の肩を抱いて母のところへと促す。踵を返す直前に、視界の隅に人影がかすめ、振り仰ぐと、そこに少しだけ寂しげにも見える笑みを浮かべたルークが、あの日別れた時のままの姿で立っている。
かつては何度も、何度も想像した。ルークが帰ってくるという想像を。その顔が、いつもどこか寂しげに見えるのは、アッシュの心を投影しているからなのだろうか。
思わずそちらへと引き寄せられるアッシュの腕を、子供とミュリエルが掴む。二人はアッシュの大切な家族だった。どうすれば良いのか迷い、ルークを振り返る。振り向いて、家族を見つめる。
ルーク……
もう一度振り向いた視線の先で、ルークが静かに、顔を横に振る。
そんなことわかってる。でも、ルーク!
俺はどうしたい。
どうすればいい。
どうすれば!
質問の意味が飲み込めるのにつれ、全身から力が抜けていくような気がして、ソーサーに戻したカップが耳障りな音を立てた。「だって、ルークは、もう……」
頭が真っ白になって、口を開くことも、指先を少し動かすことも出来なかった。元々は自分のものではなかった身体からアッシュ自身の魂がずれてしまったかのように。
淹れたてのコーヒーが冷めてしまうほどの空白時間を持って、ようやく喉から所有権を主張する唸り声が漏れた。両手で顔を覆い、八本の指先できつく目蓋を押さえる。そうしなければ、熱くなった目頭から何かが流れていきそうだった。
「意地悪なこと言って、ごめんね。……あなたのこと、大好きだよ」
ひどく……泣きたくなるほどひどく優しい声がして、目の前にそっと、蓋の閉められた小さな箱が滑らされる。それは言葉よりも雄弁に拒絶を示していた。
身体の強張りをため息で排出し、アッシュは首を振った。「……良ければ使ってくれ。返されても困る。見るのも嫌なら、売るなり誰かにやるなり……」
「……でも」
「そうしてくれ。──頼む。俺に処分させないでくれ」
幸い、というべきか、それは意味ありげな誕生石ではなかったし、刻印もしていない。付ける指を変えてしまえば、その指輪に、端から何らかの意味を見出す者はいないだろう。
──その時、彼女が何を言ったか、どのような反応だったのか、やはり少なからず傷付いて衝撃を受けていたアッシュはあまり良く憶えていない。だから、善かれと思ったそれがアッシュの冒した間違いの一つだった、と気付いたのは後になってからだった。いずれ別れるかもという前提でものを考えてはいけなかったのだ。緑色の石が好きと言われてもそれは真珠でなくてはならなかったし、『だれそれからだれそれへ愛を込めて』などという最も月並みで無個性なものであっても刻印はすべきだった。それが永遠の愛を誓うと言う約束であり誠意だったのだ。
屋敷に戻ると、家令見習いのダリミルがどこかそわそわした面持ちでアッシュから上衣を受け取った。求婚の結果を気にしているようすをどうにも隠せていない、まだ二十に達していない青年に、アッシュは小さくため息をついた。「ミュリエルに振られた」
「そうでしたか!」青年は笑みを深くしてこくこくと頷いたのち、ややあって首を傾げた。「──いや、あの、今なんと?」
「振られたって言ったんだ。っち、傷口広げんな!」
ええーっと周囲からメイドたちの大合唱が聞こえ──といってもアッシュ一人の小さな屋敷、それほどの人数がいるわけでもないのだが──思わず苦虫を噛み潰す。使用人たちの視線が、「どうせ悪いのはお前だろう」と決めつけるかのようにどこか責める風なのも腹立たしい。
一体何がと食い下がってくる鬱陶しい家令見習いを無視して、足音も荒く自室に飛び込み、ブーツも取らずにベッドに身を投げ出すと、本日何度目かの大きなため息を吐いた。「ため息をつくたび幸せが逃げるのよ」とアッシュを度々諌めた本人がため息の原因になるなど、どういうことだ一体。
そもそもあいつは、今更ルークが戻ってくるかも知れないなどと、微塵も思っていないはずだ。つまりあれか、結婚など持ち出したから振られたのか? いや、あいつは嬉しいと言った。待っていたと。あいつはそういう嘘は付かない。なら……やっぱり問いに答えを返せなかったのが悪かったのだ。
だが、なぜ答えを躊躇ってしまったのか、アッシュは自分でも分からない。ルークが戻って来ないことなど、アッシュはとうに分かっていたのに。
あれから十五年以上が経ち、ミュリエルだけでなく、ルークの仲間たちでさえ思い出の片隅に彼を残したまましっかりと前を向いて歩いている。誰も、ルークが帰還することなど信じてはいない。
それも無理からぬ話だった。何故なら、ルークの身体そのものはすでにオールドラントに帰還しているからだ。ルークの仲間たちは、アッシュがルークの器を纏って蘇ってきたときにはそれを悟り、以後はアッシュの心情を慮ってか少なくともアッシュの前でルークを惜しむ発言をしたり、アッシュを責めたりしたことはない。
ルークは永遠に失われた。
ルークの器を身に纏い、その記憶を懐に深く抱いているアッシュが、そんなこと一番良くわかっている。この身体は──ルークの知らぬ女に愛を囁き、その身体に指を這わせ、深く貫いて悦びを与えて来た身体は、かつてただ一度、『アッシュ』がまだ幼く未熟な想いのすべてを込めてたからもののように抱き締めたものだ。爪先から髪の一筋に至るまで、触れていないところなどないほどに、大事に、大切に愛した。例え記憶と言う欠片が残っていたとしても、それが虚ろな亡骸であることをアッシュ以上に知っている者はいない。
なのに一体何故、ミュリエルの問いに詰まってしまったのだろう。
『被験者とレプリカのひと番い』
そんな研究成果が発表される、少しだけ前の頃だった。
力強い羽ばたきと同時にグリフィンの巨体がふわりと浮き上がると、コーラル城はみるみるうちに遠ざかっていった。
シンクとアリエッタが完全に見えなくなるまで手を振り続けてから、ルークは数馬身先行するアッシュを追いかけてきた。
二人はアリエッタの魔物を借りてカイツールへ戻るが、シンクとアリエッタは、地下の施設が万一にも悪用されることがないよう、ディストの撤収作業が済んだら破壊し、水没させてから発つことになっている。グリフィンは二頭とも非常にルークに懐いていて、猛禽の頭を飽かずに何度もルークの手に擦り付け撫でろ、撫でろと強請っていた。時に地面に押し倒されて大笑いしたりしているのをみると、丸きり大型犬と遊んでいるのと変わらない。
カイツールからコーラル城までの間にグリフィンを完璧に乗りこなせるようになったらしいルークは、騎乗しているグリフィンに付き合って曲乗りまで挑戦している様子だ。念のために二頭のうちおとなしめな方をあてがったのだが、ルークの運動神経の良さ、付き合いの良さを見抜いたグリフィンは意外なやんちゃぶりを発揮している。
いざとなったら助けねばと警戒していたが、この分だと事故にはなるまいと息を付いたアッシュの横を、楽しげな笑い声を立てながらルークが追い抜いていった。
「楽しそうだな」
「ああ、こいつすげえよ!」
なんの屈託もない素直な笑顔は、かつて──ルークがまだ、本当に幼子だったころには、一度も目にしたことがないものだ。ガイなら、旅立つ前に見たことがあっただろうか。
アッシュは長い付き合いの間、一度もガイの口からルークの思い出話を聞いたことがない。聞いてみたいと思ったこともなかった。他者の眼を通したルークの姿など、知ってなんになろう。アッシュの中には、ルーク自身の真実と、アッシュ自身の眼を通して見つめたルークの姿がある。その二つは時に重ならないところも見せたが、どちらのルークも、アッシュにとっては真実のルークだった。
アッシュのいない場では、おそらくみんなも思い出話に花を咲かせただろうが、遠慮のないアニスでさえ、ルークの命と躯と記憶を喰らって蘇ったアッシュには気を遣ったのだ。
ガイを除けば、彼らがルークと過ごしたのは一年にも満たない。だが、アッシュなどより長い時間彼に親しんで来た。きっと、帰って来たのがルークであればと思う瞬間もあっただろう。だが彼らは誰一人、一度もアッシュにそれを疑わせなかった。「もしもルークであれば」それをひとときも忘れることなく問い続けたのは、アッシュ自身だ。
むろん罪悪感ばかり感じていたわけではない。そのおおよそがルークに語った通り『ルークの願い通りに』アッシュ自身が幸せを得るためのものだった。
その問いかけはルークへの理解を少しずつ深め、その想いはすでに本人が亡いにも関わらず深まってゆくばかりで、心の奥底にアッシュ自身も気付かぬほど強固な根を張ることになった。いつの間にか大きく育った想いの木だったが、それでも長い年月とともに少しずつ枝葉を落とし、根を浅くしていった。それは仕方の無いこと、人が生きるとはそういうことなのだろう。だが、それでも結局枯れることなどなかったのだ……。
目頭がかっと熱くなり、あのころよりずっと大きく見えるルークの背中がゆらゆらと揺らいで見えた。歳を取るごとに涙腺が緩んでいる気がすると言った自分に、「そうそう、感激屋になっちゃうんだよねえ」と笑った親友を思い出す。
アッシュは固く眼を閉じて、顔に風を受けた。
「……生きていてくれてありがとう、ルーク……」
生きるというのは、素晴らしいことだ。それをことあるたびにアッシュに教えたのは、ただ一人を除いて誰にも触れさせず生涯大切に胸に抱え込んでいたルークの記憶だった。生きていればこそ、本来アッシュが見ることのなかったはずの光景を、見ることが出来るのだ。
「え!? 今なんか言ったーっ!?」
「いいや、なにも」アッシュは目頭に浮かんだ涙の雫を乱暴に拭って前を向いた。
……もしも今、あの求婚の時点に戻されるとしたら。
アッシュは今度こそ間違えず子供とお前を選ぶと言う。多分それが、アッシュの幸せだけを祈り続けたルークに報いることになるというだけでなく、アッシュ自身の心に沈殿した後悔と言う名の澱を払拭する術でもあった。
今はもう気付いている。石など真珠でも翡翠でも何でも良かった。刻印など入れても入れなくても良かった。
ただあの時、それでもお前と結婚したいと食い下がらなければならなかった。彼女は、きっとそれを待っていたのだと、求めてくれていたのだと今はわかる。ルークの命と引き換えに得た長い人生、それを共にと願ったただ一人の女に、亡きルークの面影を捨てず抱いたまま生きる許しを乞い、故人と言えど彼女と子供に向けるべき愛情の何割かをルークに割いてしまう、そのことに対するアッシュなりの誠意を見せるべきだったのだ。
傍にいてくれさえすれば。それだけでいい。ルークが自分のものにならなくても構わない。自分ではない誰かを愛しても構わない──目に見えるところで、ルークが楽しいと笑い、うまいと喜び、怒って怒鳴り、泣いたり、悲しんだり、誰かを愛し、愛される感動を、生きることを楽しんでいてくれさえすれば。その想像だけでアッシュは満たされる気がする。
ルークは不思議な魅力を持っている。生きて行くうちどうしても濁り、歪む、そんな人の性質を正す──正さねばならぬと自覚させてくれる。それは未だ幼さの残る素直な精神がもたらすもの、というだけではないのだろう。彼を知れば知るほど、彼に魅かれ、構いたがる人間も増えてくるはずだ。彼を深く愛し、一緒に生きたいと願う人間も。
だが、アッシュはすでに老い、孫どころか曾孫のような歳のルークを取り合ってそういう者たちに張り合おうと思うほどの若さを失っていた。