【29】
カイツールに到着したのは日付が変わるまであと二時間ばかりというところだったが、こいつは落ちないと確信したらしいグリフィンは往路に比べると遥かに気持ち良くかっ飛ばしていたし、なんだかんだと休憩を入れても復路より数時間は早く戻ることが出来たようだ。
街の入り口で、アッシュが二頭のグリフィンに大きな肉の塊を与えた。近くの森で翼を休め、明け方暗いうちにアリエッタを追って飛び立つという。
ぐるぐると喉を鳴らして猛禽の顔を押し付ける彼らをルークが思い切り撫で回すと、二頭は名残惜しげにのしのしと歩いて森へ消えた。
「また随分と気に入られたものだ」アッシュが感心半分呆れ半分で首を振り、フードを深くかぶり直す。
「初め怖かったけど、可愛いよな。それよりアッシュ……夜だし、それ前見えんのか? 足下危なくなんねえの?」
「困りはせん。感覚を養うため──? 勘を落とさないようにというか……まあ、鍛錬のようなものだと思ってくれ」
「ふうん」
「行こうか」
アッシュはルークを促して宿に向かって歩き出した。その足取りは、確かに全く危なげがない。
「宿に着いたあとはどうすんだ? バチカルまで一緒に帰るなら、さすがにガイたちには隠し通せねーぞ」
「そうだな……。とりあえずアンヌに挨拶してから決めても遅くはないだろ。──本当は、ここで一旦別れるのが良いんだろうが」
アッシュはため息混じりに呟いてから、小さな笑い声を洩らした。「長いこと会えずにいたのに、贅沢になるものだな」
「……大爆発の兆候は、まだなかったんだよな?」
「今のところは。だが、心が引き合えば、音素も引き合うかも知れん」
「こころ」
「違うか?」
──何でなんだよ。
過去の記憶とは関係ないはずなのに。アッシュを好きなルークの記憶はローレライを解放したところまで、それからこの世界ですでに七年も経って、ルークの気持ちも変わっていたっておかしくない。なのに今現在も、ルークの気持ちが自分にあるとアッシュは知っているのだ。
悔しいのか恥ずかしいのかよく分からない気持ちできゅっと唇を噛んだ。「被験者とレプリカのひと番い」というのが本当のことなのかどうか、ルークにはその真偽はわからない。アッシュへの気持ちが、思い入れがそうなのだと言われたら、否定することも出来ない。或いはそれが、元の姿に戻るための単なる仕組みなのだとしても、拒否する術はないのかも知れない。
でもそれでも良いのだと、そんな理の上にある気持ちでも構わないとアッシュが腹を括っているのなら、もちろんルークもそうする。結果は違うものになるかも知れないが……。
それは、どこかでこのアッシュが『あの』アッシュと同一人物であるということが信じきれていないというだけではなく……アッシュのその覚悟をルークが諾々と受け入れるのは、ファブレ家のためにならないのではないかと思うからだ。ただでさえ一人息子のアッシュが家を出て、スペアのルークが跡取りとしての教育を受けている歪な状況だ。『前回』はどうしたのか、また今回はどのようにまとめるつもりなのか、きちんと話を聞いて、答えを出す必要があるだろう。場合によってはルークなどの気持ちを優先させるわけにはいかなくなることもあるかもしれない。
「……違わない、けど。『前回』と違うそこのところが、今回の大爆発のトリガーになるかも知れねえって言うなら……」
別に行動を、を促そうとしたルークを遮るように、アッシュが首を振った。「何も違わん」
「……」
「以前と違うのは、お前のフォンスロットを無理にこじ開けなかった、それだけだ」
「……っ」
「まあ、これほど早くからではなかったか」
笑みを含んだ、からかうような追撃。『前回の俺』の気持ちを疑わないで欲しい──そう示唆されると、ルークはもう言い返すことが出来ない。なんだろう、なぜそんなことを恥ずかしげも無く口に出来るんだろう。そんなところが、一番『以前』のアッシュらしくないというのに……。
今が夜で本当に良かった。耳まで逆上せたようにずきずきと疼いている今、きっと人に見せられないほど顔中真っ赤になっているに違いなかった。
「……色々聞きたいこと、知りたいことがある」
「俺も、お前に話したいことが山ほどある」
「聞いて……いろんなこと決めたい。ガイや師匠に話すことも含めて……」
「俺はもう背信の立場を明らかにしている。俺のことは気にせず、話すべき人と時はお前が決めればいい」
「……アッシュの周りはちゃんと信じてくれてるようだよな。人生二度目のやり直しだなんて、すげえ荒唐無稽な話なのにさ。どんなふうに話したんだ?」
「俺が話したのは被験者のイオンだけだ。誰かに話す気などなかったんだが、彼は立場上キムラスカの王族のことにも詳しかった。お前は誰だ、キムラスカにいるのは何者だ、どうして入れ替わってると食い付いて煩わしくてな。どうせ信じやせんだろうと面白おかしく真実を話してみたら、なぜか彼は丸ごと信じてしまったんだ。──預言でもあったかな?」アッシュはおかしそうに笑って首を振った。「元々奇矯な人物ではあったが……気がついてみればあちこちに首を突っ込み、色んな奴らを随分巻き込んでから逝ったようだ。俺が自分で変えようと思ったのはアンヌやライガクイーン、二、三の小さいことだけで、実は大して動いちゃおらん」
「アンヌ……?」
「『前』は苦手だったろう?」
ルークが問うような視線を向けると、アッシュはカイツールで全権大使一行が借り上げていた宿の前で立ち止まり、フードを軽く持ち上げ、ルークを見つめて口を開いた。
「アンヌという女は、一見進歩的なようでいて実は頭が固い。実家が常に流行を追わねばならない家業のせいもあって、軽薄な流行にも鷹揚だが、実はそれだけだ。『以前』のアンヌは公爵夫妻がお前を実の息子同様に思っているということを本当には理解出来ず、敬愛する奥様が偽物に騙されていたという思いから解放されることがなかった。露骨に態度に出すようなことはなかったようだが、そういうものはなんとなく『伝わっていた』な?」
驚いて半ば口を開けたままのルークに、アッシュは悪戯が成功した悪ガキのように片目を瞑ってみせた。「だから今回は最初から巻き込んでみたのさ。俺の誘拐や入れ替えはむろんヴァンが仕組んだものだが、それを利用して俺をダアトへ送り込み、レプリカと入れ替わる。俺の記憶のことも、その『計画』のことも、アンヌは最初から知らされていた。自分は公爵夫妻に信用されていると、アンヌは張り切ったろうな。お前の爪や髪の手入れ一つ、自分以外のものに任せたりしなかったはずだ。本体から切り離された末端の第七音素は乖離するからな。……あれは根が善人なうえ責任感が強く、自分の感情に良くも悪くも正直な女だから、こうなると逆に付き合いやすくさえあるんだ」
「そう、だったんだ……」
アッシュがこれまでルークのためにしてくれたことは、どれもルークへの優しい気遣いに溢れていた。ルークがのびのびと暮らすために。幸せになるために。それを追うことのできる環境と余裕を、アッシュは用意してくれた。
「アンヌは昔からおれのことになるとなんでも一生懸命だったんだよな。口うるさいし、時には叱られたりもするけど、どれもおれを思ってのことなんだ。おれ、確かに『以前』はなんかどっか怖いって思ってたけどさ、今はアンヌが好きなんだ。ほら、アンヌはさ……市井の家庭のお袋さんみたいじゃん……」
『以前』ほどではないにしろ、やはり父母──そう呼んでも良いのだとして──に対して全く遠慮の気持ちがないとは言えない。だが、初めから血縁でもなんでもないアンヌのことは、こっそり「もう一人の母さん」と慕っても心が軋まないのだ。
「それなら良かった。お前がそういうなら、俺も気味悪がられたかいがある」
「えっ?」
「残念だが、アンヌが俺に対して母親代わりだったことは一度もない。まあ、さもありなんというものだが『気持ち悪いので、私の前では赤ん坊のフリをしないで下さい』とはっきり言われたよ。あれは傷ついたな」
夜も更けた宿の前だから、ルークは爆笑することはなかった。
声を出さずに笑いを収めようとしたせいで半ば悶絶する。息も絶え絶えになっているのをアッシュがどこか途方に暮れたように見下ろすので、余計に笑いを止めることができない。
「ア、アンヌ、いくらなんでもそれは無礼すぎるだろう……っ」
「アンヌにとって俺は、主の息子というより珍獣、或いは物の怪の類いに近かったのだろうな。俺としては、何事もないときは出来るだけ年相応に振る舞う方が良いと思ったんだが……」
「……おっ、お前、マジで赤ん坊のフリ……お、おむつとか、黙ってされてたのかよ……っ」
「……まあ、死ぬ前も似たような状況だったからな。慣れている、というか、ナリが赤ん坊だから罪悪感は少なかった」
アッシュは肩を竦めてさらりと言った。あまりにさらりと言われたので、ルークはその状況を、後々まで深く考えることがなかった。
「意識的に襁褓の中で排泄をするのには、少々慣れが必要だったが……。乳母はまだ二十半ばの若い娘だったし、そんな赤ん坊が爺のように話しては怯えさせるではないか。それに変態の誹りを浴びることなく人妻の胸にむしゃぶりつけるせっかくの機会なのだ、生かさずにどうする」
「────────っ、ちょ、おまえ、ごほっ、もう黙れ」笑いを通り越して咳まで出て来た。「『アッシュ』のイメージがくず、崩れる!」
「……お前が持っている俺のイメージは、少しおかしいと常々思っていた。今生では訂正しておけ、あれではほとんど聖人君子ではないか。この世にそんな男がいるものか」
はふはふと息を整えながら、笑いすぎて滲む程度で済まなかった涙を拭う。どこか憮然としたようすのアッシュを見て、ルークはまたも吹き出しながら必死で首を振った。
「そ、そんなふうに思ってたつもりはねえんだけど……まあ、あんたが違うっていうのは、なんとなくわかった」
「……ま、いいさ」アッシュは複雑な表情で小さな苦笑を閃かせ、肩を竦めた。「歳を食って多少分別がついたぶんを除いても、お前が知っているころの俺とは違うだろうってことは自覚している。だがおいおいで良いから、俺が俺だと言うことを信じて欲しい」
「わ、かった、よ」
ルークは自信なく了承したが、急かしてなんとかなるものではないと分かっているのだろうアッシュは、穏やかな笑みを湛えた目元を更に細めてそれでいいというように頷いた。
「さて、アンヌの部屋はどこだ?」
「二階だよ。おれの部屋の隣。なあ、こんな時間にアンヌに会うの? 明日にしねえ?」
「俺だけならそうしたが、お前は後回しにしないほうがいい。アンヌに遠慮はしないが吉だ」
アッシュは悪びれもせずに宿の中にするりと入っていく。「挨拶をすませたら、湯でも浴びてさっさと寝よう。こんな時間まで起きているものじゃない、互いにな」
『記憶』にあるよりずっと広く見える背中を、ルークはじっと見つめ、小さく頷いて後に続いた。
「ルーク様! ……と、アッシュ様? まあまあまあ、お帰りなさいませ。ご無事でようございました」
夜半のため遠慮がちにノックしたルークだったが、アンヌは即座に応じた。服装も隙無く整えられていて、寝支度を整えていた気配はない。
「まだ起きていたのか?」
女性の部屋だが、廊下で立ち話も迷惑かと、招き入れられるまま入室しながら問うと、アンヌはどうということも無げにほほほと笑った。
「大体いつも日付が変わるころまであれこれしておりますのでね」
二人揃って無事な姿を見せたのがよほど嬉しいのだろうか。アンヌが声を出して笑うなど滅多にあることではなかった。
「それにしてもアッシュ様、奥様旦那様が心配しておられましたが、お元気そうで……。大きくおなりなのですねえ」
アンヌはアッシュとルークを見比べ、不思議そうに少しだけ首を傾げた。
「そうだな。前はルークとの身長差などなかったから、俺も少々驚いている。とはいえルーク、お前もまだ伸びるだろう。今いくつだ?」
「百七四センチおありです」
ルークが答える前に、アンヌが答えてしまい、ルークは密かに肩を落とした。アンヌの前ではルークなど丸裸に等しく、見栄を張ることさえ出来ずアッシュの前でなにもかもが筒抜けになるのか。
「で、でも前より三センチ伸びてんだぞ」
「ずいぶん後のことになるが、そのころの研究によると食事量や幼少期のストレスによって最終的な身長が決まるというようなことが言われているんだ。今回俺にはほとんどストレスなどなかったし、食う量も増えたから前より伸びたのかもしれんな」
「ならなんで今の時点で差がついてんだ? 五センチ以上違うよな?」
「食事が関係するのでしたら、間違いなく偏食のせいですわね」噛み付くルークをひと言で切って捨て、ルークをぎゃふんと言わせてから、アンヌは機嫌良くいそいそと茶席を整え始めた。「こんな時間ですから、ハーブティーをお淹れいたしましょうか」
「悪い、俺はどうにもそれが苦手でな。酒があるならそれを貰いたいんだが」
「──と言いますと、お菓子用に用意したカルヴァドスしかございませんが……。よろしいんですの?」
「子どもの身体だということは弁えているよ。少しで良い、ストレートで頼む」
アッシュはアンヌに頷いて見せてから、旅慣れたように小さくまとめられた荷物を降ろし、勧められるまま小さなカフェテーブルについた。
アッシュが寝酒に呑んでいる酒の香りがあまりに良かったので、試しに強請って一口啜ったが、香りは良いものの美味しいとは到底思えない代物だった。かあっと胃の腑が燃えるように熱くなり、額に薄らと汗が浮き出して来る。
気付かれないようにすばやくそれを拭いながら、口直しのつもりで飲んでみたアンヌおすすめのハーブティーは、ほんのり甘くさっぱりと爽やかで、ルークの口には合っていた。
「甘い酒だと思ったのに、ちっとも甘くねえ」
「菓子の匂いだからか」アッシュは笑い、「常温のストレートが一番旨いんだが、今度お前の口に合いそうなカクテルを作ってやろう。それならきっと気に入る」
がっかりして不味そうに舌を出しているルークと慰めるアッシュを、アンヌはにこにこと見つめていた。本当に嬉しそうなようすに、アッシュの言うよう一番に知らせて良かったのだとほっとする。
「皆はどうしてる? 心配かけたかな?」
「導師イオンとアットリー様はお連れ様と共にキムラスカ軍に護衛されてすでに出立されましたが、ガイラルディア様とペールギュント様、ティアさんはルーク様をお待ちです。旦那様から真夜中に知らせが来て、すぐに別邸に出かけられたとお伝えしてあります」
「納得してくれたかな」
ルークの問いに、アンヌは曖昧に首を傾げた。「さあ……どうでしょう。ガイラルディア様は真夜中でもひと言くらい言って行けばいいのにとおっしゃっておられましたが」
「理由を知れば納得するさ。──話す気でいるんだろう?」
アッシュがグラスの底を愛おしむように手のひらで温め、香りを楽しんでいるのを見て、アンヌがそっとため息をついた。
「……十七歳の男の子の姿とは思えませんわ。ルーク様にはあまり強いお酒をお薦めしないで下さいね、お強くはないんですから」
「そのようだな」
グラスを薫らせながら、アッシュがルークを見て微笑んだ。アンヌの言うように、その姿にはどきっとするほどの色気があって、ルークはじわじわと熱が上って来る顔を隠すように俯き、慌てて言った。
「お、おれはもう寝ようかな」
「おお、そうだ、もう遅いんだものな」
ちらりと壁掛け時計を見て、アッシュがグラスの中のわずかな残りを呑み干す。琥珀色の液体がすうっと吸い込まれるように唇の中に消え、尖った喉仏がひくりと上下するのが、恐ろしく官能的に映った。
蜘蛛の糸に絡めとられたように動けず、ルークは横目でアッシュを窺いながら立ち上がることさえ出来ずにいた。
「……アッシュ様、どちらでお休みになります? ルーク様のお部屋にも余分なベッドがありますけれど」
ぎょっとして身を固くするルークに、アッシュは少し困ったように笑い、首を振った。「いや、空いた部屋があるならそこで休むよ。朝ガイらがなだれ込んで来たら面倒だ」
「貸し切りにしてありますから、部屋ならございます」アンヌは頷いてルークに問いかけた。「ルーク様はそれでよろしいんですの?」
「あ、ああ」
なんだかよくわからない感情に渦巻いている頭を、ルークはただ縦に振った。
──がっかりしているのだろうか?
それともほっとしたんだろうか?
アッシュは、あの一瞬でルークの緊張を見抜いて、当たり障りなく同室になるのを避けてくれた。誤解……しただろうか? それは気を許せないからではなく、彼が以前、ただ一度とはいえルークと身体を重ねた仲だったからだ。
『以前』のように、これが最後と甘えることすら出来ない。ルークに好意があることはくどいほど聞いた。だからこそ……ここでそのような仲になることは、様々な方面で波風を立てる大問題になる可能性がある。『以前』とは周囲の人々との関係も違う。捨て鉢には決してなれない。
だけど、一度はあったことだけに、ずっと好きでいる人と同じ部屋で過ごし、それを期待しないでいられる自信などないのだ。まだアッシュが『以前』のアッシュと同一人物であることすら信じきれないでいるくせに……。