【28】
右に左にと赤い顔を必死で背けるシンクの周囲を、アリエッタが熱でもあるのかと心配して、くるくる回りながら一生懸命覗き込もうとしている。そんなじゃれ合いを、アッシュは目を細めて見つめていた。そしてルークはその光景の全体を、心がざわめくような、満たされるような、不思議な心地で眺めていた。
「ルーク」ディストが椅子ごとくるりとこちらを向いて手招きする。「アッシュからは貴方が完全同位体のため起こりうる大爆発を出来るだけ遅らせたいと言われています。そのためにも、今日は貴方の体のデータを取らせてもらいますね。……ああ、アッシュのデータはすでに取っていますし、それ程時間はとらせませんよ」
「ボクらは席を外すよ。積もる話もあるだろうし……ね。行こう、アリエッタ。ディストも出来るだけ早く終わらせてあげなよね」
「言われなくても分かってますよ」
「アンタ、好奇心が暴走すると余計なことまで始めるから言ってんだよ」
アリエッタを従えて出てゆくシンクは口を尖らせてディストに言うと、ルークにまた後でね、と手を振った。その葦のようにようにすんなりした身体の影から、小さなアリエッタがはにかんだような笑みを見せ、ひらひらと手を振った。
服装の奇抜さはあまり変わらないものの、穏やかな笑みを浮かべるディストは、『狂医者』という二つ名に全くそぐわず、どことなく神経質な気配のあるものの顔立ちの整ったごく普通の青年に見える。彼に促され、『以前』も入れられた大きな譜業の前に立ち、ルークはおっかなびっくり大きなガラスの棺のような部分を覗き込んだ。
「ルーク、コートを脱ぎなさい。皺になる」
慌ててルークがボタンを外すと、背後に回ったアッシュがクローク係のようにコートを脱がせてくれた。左腕にかけてから、その肌触りを確かめる。「質がいいな。色も意匠もお前によく似合っている。──見立てはアンヌか?」
「あ……うん。屋敷に持ち込まれたデザインを、アンヌが少しアレンジしたのを仕立ててもらって──って、忘れてた。アンヌからお菓子の詰め合わせ手土産に預かってきたぞ。ニーナのレシピだって言ってたから美味いと思う。グリフィンにくくりっぱなしにしてたけど、アリエッタ持ってったかな」
アッシュが嬉しげに破顔した。「それは嬉しい。ニーナの味に慣れていると、他所のものはなかなか口に合わなくてな」
「あんた、甘党だっけ?」
食の好みを全て把握出来るほど、アッシュと行動を共にしたことはないが、一緒に食事をした数少ない機会に、それと気付くようなことはなかったはずだ。
アッシュは少しばかり首を傾げたあと曖昧に首を振った。
「……特別甘党というわけではないが……。結構連れ回されたせいかな? 思い出したように食いたくなることがある」
「……? ふうん。わかるような気がする。特にニーナのは美味いしな」
「ファブレ家の面子の好みに合うよう調整してあるのかも知れない」
なるほど、とルークは感心して頷いた。ルークたちと使用人たちの食事の内容はむろん違うが、使用人たちが食べているものも作るのはニーナだ。同じ作り手の食事を毎日朝晩摂っているのだから、ファブレ家の面々は味の好みが似て来ているのだろう。材料の質の違いか、そこらで売っている菓子類と比べ、屋敷で出されるものは確かに絶品だ。甘いものをあまり好まないペールでも、ここの菓子はうまいというくらいなのだ。一度あれを食べてしまったら、大抵の市販品では満足出来ないだろう。もちろん、各家庭で作るお菓子としては、ニーナに匹敵するものを作る者もいるかもしれないが、材料の善し悪しだけでなく、やはりニーナはキムラスカ随一の公爵家の料理長として究極のところまでレシピを磨いており、作るものすべてが繊細で、洗練されているとルークは思う。
「ファブレ公爵家料理長謹製のチョコレートなら、私も先ほどいただきましたよ! 実に美味でした! ダアトに帰ってからみんなで食べようと最初はアリエッタも言ってたんですけどね。シンクが「役得じゃん」とか言うもので、三人でこっそりつまみ食いしちゃいました。いや、二個目に伸びる手を止めるのに苦労しましたよ」
「そう言ってもらえると俺も鼻が高いな。ニーナに伝えておきます。きっと喜ぶ」
大の大人が顔を輝かせるのに、思わずルークも破顔する。
「ぜひ店を開くことを検討して欲しいですね。私たちは甘いものが恋しくなるたびにファブレ邸に出かけるわけにはいきませんし」
そういって近づいて来るディストの手には注射針がある。アッシュはそれを見て、ルークが台の上に横になるのに手を貸し、邪魔にならないよう足下の方に身体をずらしてルークの手を軽く握った。
「すまないが、少し眠ってもらう。すぐに効いてきて、二、三十分くらいで目覚めるだろう」
「わかった」
「では失礼しますよ」
ちくりとした一瞬の痛みのあと、言われた通り数回呼吸を繰り返しただけで、ふわりと酩酊したような眠気が襲って来た。
「……アッシュ。手を握ったままだと、正確なデータが取れませんが」
眼鏡を押し上げながら、未だしっかりと握ったままの二人の手をディストが呆れたように示すと、それに気付かなかったらしいアッシュが「すまん」と唸って手を外そうとした。
離れようとする手をルークの手が反射的に追い、袖口を掴む。自分の行動に驚いてアッシュを見遣れば、同じ視線がルークを見つめた。まるで泣いてでもいるようなアッシュの表情が、帳のかかった視線の先で、歪んで行く。
おれは何やってんだと、微かな怯えと疑問が頭を過る。
「……側にいる」
だが、拒絶されることはなかった。アッシュの声は穏やかで、何故だろう、笑みと甘さを含んでいるようにすら感じられた。「ずっと……?」
「……ずっとだ」
ぼんやりと霞む目を凝らしてじっとアッシュを見つめ、アッシュの影が頷くのを確認すると、ルークはようやく安心した気分で目を閉じた。髪を梳くように、アッシュの手が何度かルークの頭を撫で、離れた。
「……実を突きつけられた気分で……ここまで完璧な……カ……なのにあなたがた……全く……」
「ルークが生……髪の色以……璧に同じ……育つ環境が違……考え……思……顔つきも変わ……然だろう……」
「……の力を……も、全……同じ……間を造る……出来な……らこそ……人は……一……人の命が尊……ね……」
「ああ……そう……な……」
「それでは……は失礼し……データを早く解……いですからね。何かわかったらすぐに連絡します」
「悪いが、頼む。すまないな」
「今度は私が貴方の力になりたいんですよ」
「……ありがとう、ディスト」
「そんなことより、ほら。愛しい人が目を覚ますようですよ」
「大丈夫か」
ルークが起きようという意思を示しただけで、横合いからすかさず伸びた手がそれを手助けしてくれた。
「……今、ディストの声……?」
「ああ、ここにいたが、もう行った。……ゲルダ・ネビリムのレプリカ討伐を手伝ってから、ありがたいことに何かと俺の手助けをしてくれてな」
「ゲルダ……?」
「ディストの気持ちを思えば少々不謹慎なんだが、久々に思い切り剣が振れて、楽しかった。『以前』はお前がやったことだから、獲物を横取りしてしまったことになるんだが」
「全然構わねえよ」
ルークは苦笑して頷いた。アッシュが一瞬見せた笑みは、似つかわしくないと思ってしまうほど子どもっぽいものだったのだ。
「笑うと年相応の顔になるんだな。あんたってすごく落ち着いてて、同じ十七でも『アッシュ』とは別人みたいだ。顔が変わってるのは、おれだけじゃねえじゃん」
「ああ、まあ──。良く老けているとは言われるな。中身がアレだ、当然かもしれんが」
「そこは老成しているくらいに思っといていいんじゃねえの」ルークはくすくすと笑った。「言うほど老けて見えねえし。今、『以前』よりもちょっと子供っぽいと思ったぜ」
「年寄りは皆、頑固で意固地で大雑把で柔軟性があって老成していて子供っぽく、しつこくて飽きっぽいものだ」
「なんだそれ。矛盾しまくりじゃん」
「アニスは我慢しないのが長生きのコツだと言っていたな」アッシュは頷いて、検査台の上からルークを抱き上げた。「ノエルは俺の死ぬ数年前に転んで脚を骨折してから、寝たきりになってたんだ。最後の数ヶ月は俺も似たようなありさまだったが、それまではアニスと二人でよく会いに行った。まあ、ガタついた年寄りが三人で顔を突き合わせると最後は必ずこの糞じじい糞ばばあと喧嘩になるわけだが」
「どんだけ我の強い年寄りなんだよ。いねーよ、普通そんな年寄り。つか、アニスはともかく、それノエルの話?」
麻酔の名残りか力が入らず、がくりと仰け反るルークの頭を、アッシュはうまく抱え直して歩き出す。「あいつの祖父さんを知っているくせに何を言っている。同じ遺伝子だぞ。それに年寄りは若い者の前でそうそう本性を見せやせん。……ここは冷たいし、居心地も悪いからな。食堂に移動するぞ。着くまでにはふらつきも収まるはずだ、腹減ったろう」
「動けるようになったら自分で歩く。だって重いだろ」
「重いな」
アッシュは即座に肯定したが、実際のところそれほど苦にした様子もなく、重みを実感することがどこか嬉しそうでもあったので、ルークはそれ以上遠慮をせずに、その胸にもたれた。
なんだかなあ、と気付かれないようため息をこぼす。己の気持ちが何もかも筒抜けになっているというのに、頭で考えたほど心がダメージを負っていない。実感がないからか、アッシュがそのことをごく普通に扱っていて、貶したりからかったりしてこないからだろうか。
「なあ」
「ん?」
「おれ、お前が好きだ。『前』も。好きだった」
「……うん」
ルークを抱え上げたまま地下水路を戻るアッシュの腕に、少しだけ力が入った。どうせ知られていることだと半ば自棄になっての告白だったが、言動を一致させると思ったより気が楽になった。
「……今更だけどさ」
「……正面から言ってもらえる方が、嬉しい。知ってはいても」
「そういうもんなのかな」
「ああ」
その声は僅かに湿り気を帯び、一度だけ、小さく息を吐く音が聞こえた。ルークはアッシュの胸に頭をもたれかけたまま、その顔を振り仰いだりはしなかった。
ルークの重みが苦にならないのか、アッシュの呼吸に特別乱れは無いようだった。同位体のレプリカという割に体格には何故か差が生じているが、それも目を見張るほどではないことを考えればかなりの膂力である。相手は現役の軍人とはいえ、鍛え方がそんなに違うのだろうか。少なくともルークは、アッシュを抱えてそれほど長くは耐えられそうにない。
「あの、さ」
「うん?」
声をかけたのは返答の声色で彼の疲労度を量るためであり、特に用があったわけではなかったので一瞬会話の繋ぎに困ってしまう。
「あー……、あ、ニス」
「アニス?」
「と、ノエル。──に会いにって、二人と仲良くなったのか?」
「そうだな、ノエルは……ギンジを通じてだが、ギンジが逝ってからもそれなりの付き合いはあった。まあ、頻繁に会いに行ってたのは大体アニスに付き合ってなんだが」アッシュは頷いたあと、少しばかり言い難そうに口を開いた。「アニスは、俺の、一番の親友だった。色々と……頭が上がらなくてな。多分、最後の時にも立ち会ってくれていたように思う。何か話したような気もするんだが……その辺りの記憶はひどく曖昧だ。安心したような気はする。あいつは友でもあったが、ほとんど兄弟のような……家族のようなものだったからな。なのにあいつに一つ大切なことを打ち明けられないまま先にくたばることになっちまった。俺の死後は多分知っただろう、どう思ったろうと思うとどうにもしんどい。……だからかな、俺はここで、ついついアニスには甘くなってしまうんだ」
「アニスが……?」
タルタロスで、どれほど大切そうにアッシュがアニスを抱き上げたか。死にかけの自分を抱えたのがアッシュだと知ったとき、アニスが浮かべた安堵の表情を思い出す。絶対的な安心感と信頼が、そこにはあった。それはとりもなおさず、アッシュがそれを得る努力をしたこと、気持ちを注いだことを表していた。
大切なこととはなんだろう? 『以前』のアッシュはアニスにとってからかいの対象であり、むしろアッシュはアニスを敬遠していたように思うのだが。ルークの知る二人の関係を思い起こせば、親友、という──例えばルークにとってのガイのような──関係が想像し難い二人だった。
「全く想像つかないな。ギンジが親友、とか言われたら分かる気がするけど……」
「まあ、ギンジもそんなようなもんだ。意外か? アニスは口は悪いが付き合いやすい女だったろ」
付き合いやすい『女』と称することに、ルークが乖離した後の月日を感じてたじろぐ。未だルークにとってアニスの分類は『女の子』だ。
「あんたの──あんた自身の記憶は、『以前』で死んだ時から今まで繋がってる感じなのか? いつから?」
「繋がっているな。『以前』の歳の上に、一年一年と歳を重ねている感覚でいる。──ある朝起きたら、もう部屋の中が明るくなっていてな。こんな時間まで眠れたのは久しぶりだと思ったら、一歳を過ぎて間もない赤ん坊になっていた。自分が生きていることに気付いてから、すでに死んだことを思い出す形だな。記憶が戻ったと言うより、中身がまるごと入れ替わったような、そんな唐突さだった。昨日までは喃語に毛の生えたような赤ちゃん言葉だったものが、急に流暢に話し出したので驚いたと母上には何度も言われたよ」
「そ、それは驚いたとかですむ話じゃないよな?」さすがのルークも顔を顰めたし、アッシュも重々しく頷いた。
「母上は、少し変わった方だからな。だが発音はちゃんと赤ん坊のままだったからな?」
語尾がでちゅまちゅになっていれば不審さが減ると言いたいのだろうか。大物というべきなのか、それで済ませるあんたもどうなのかとルークは思う。天然、という言葉がふと落ちて来て、『以前』アニスが何度も言っていたのだと思い出した。そのたびアッシュが憮然としていたことも思い出し、あわやのところで口に出すことは避けた。
「そんなわけで、俺自身、自分が十七の子どもだという意識がない。この身体と中身が全く釣り合っていない状態だ。年寄りくさいと言われるのは、だからどうしようもないな」
「──って、一歳ちょいの赤ん坊が今と同じ喋り方を!?」
「う……む……。今思えばどうかと思うんだが、身体は思うように動かんし、さすがに少々慌ててしまってな。何はともあれ日付を確認すれば、ホドの崩落がもう目の前だ。残念ながら赤ん坊らしく取り繕う余裕など無かったんだよ。……さて、着いたぞ。扉を開けてくれると助かるんだが」
「え? ……あ」話に気を取られて、ルークはいつの間にかアッシュが立ち止まっていたことに気付かなかった。
「食堂だ。シンクもアリエッタも昼をお前と摂ると言って、待っている」
待っている時間が退屈だったのか、シンクとアリエッタは食堂のテーブルの上にトランプを広げて、二人でゲームをしていたようだった。ルークの姿を見て二人はほっとしたように笑った。
二人が用意してくれた昼食は、酸味の強いずっしりした黒パン、黒胡椒がぴりりと効いたキャベツとソーセージの熱いスープ、山盛りのスクランブルエッグという簡単なものだったが、塩気がちょうどよく、腹一杯詰め込んでも余るほど量もあって、カイツールでの夕食以来の真っ当な食事にルークは満足してカトラリーを置いた。
「これからどうすんの?」
「明日俺はお前と一緒に発つよ。お前と合流出来たし、そろそろ一度バチカルへ戻って情報交換したい」アリエッタが一つずつ配ったアンヌの焼き菓子を二つに割りながらアッシュが言うと、シンクがやったと拳を上げた。
「別行動は嬉しいな。その隙に少し魔物退治にでも行って来ようっと。代理と一緒だと、魔物が逃げ出すから困るんだよね」
「魔物が逃げ出す?」
アリエッタがこくんと頷いた。「代理、強いから。本気で戦ってるの、見たことない、です」
ルークは口にした焼き菓子の味に頷いているアッシュをちらりと見遣った。自分の話題が出ていても、自慢するでなし否定するでもなし。
六神将の二人が強いと言うのだから腕は立つのだろう。それも相当に。だが、腰には武器と言うより主に道具として使うつもりであろう短刀──ルークを人質にしたときには突きつけられたが──を無造作に帯びているだけだ。腕は立つようにも──立たないようにも思う。分からない、本当に。もしも敵対関係にあったなら、どのように倒すかかなり迷うところだ。
「おれたちも剣を使う人が多いパーティでさ。そもそも魔物もあまり近寄ってこないから、別にいい。導師も全権大使もいるし、いっそ近寄ってこられないほうが安心だ。道中は師匠が稽古つけてくれるし、ガイと剣舞で遊んだりも出来るし」
「じゃあ僕らは遠慮なく。大丈夫、あまり夢中になりすぎないようにするよ、早めに帰る。皆一斉にいなくなったんじゃ、総長も可哀想だし……ね」
心からそう思っているらしいシンクの言葉に一瞬口元が綻びかけたが、少しばかり思い悩んだようすのアッシュを見て、彼らは真剣にヴァンを心配しているようだと気付く。
「敵対する気などないのだとちゃんとわかってくれていればいいんだが……」
「無理じゃない? 代理が離反したって、ショックで激怒するだけだと思うけど」
「……」アッシュは目を閉じて唸り、嘆息した。「あれはもう少し肩の力を抜いて生きるべきなんだがなあ」
アッシュは慰めを得ようと言うように手を伸ばしてきて、ルークのこめかみあたりの髪をしゃらしゃらと撫でてルークに少し困った顔を見せた。
答えようがなくルークは肩を竦め、シンクに視線を向けた。
「お前らはタルタロスの件で謡将のお咎めを受けたりしねえの?」
「ま、ちょっとは何か言われるかもしれないけど。代理の頼みだからって言えば引き下がるだろ。なんだかんだ総長は代理に甘いって言うか、一目置いてるから」
ルークは曖昧に頷いた。