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【26】
ルークを乗せたグリフィンは、アリエッタに続いて緩く大きな螺旋を描きながらコーラル城の屋上に舞い降りた。
アッシュから目を離せないルークと同じように、アッシュの視線もルークを追っているのがわかる。アッシュはグリフィンが着地する前から性急に手を伸ばして、まるで姫君を馬車から抱き降ろす騎士のようにルークを引き寄せた。
「あ、ありが……」
女性にするような扱いだったというのに、反発心は起きなかった。それどころではなかったからだ。
ルークはなかば呆然と、目の前にある顔を『見上げた』。なぜなら、それはティアと同じように、知っているようで知らない、同じようで同じではない顔だったからだ。
その顔は、手と同じようによく日に焼けていた。湿って濃さを増した紅い睫毛が、湖のように穏やかに凪いだ、深いフォレストエメラルドの瞳を囲んでいる。底の知れぬ慈愛を秘めながら、同時に稚気も帯びた、不思議な魅力を持つ瞳だった。その瞳に、少しぽかんと口を開けたままの間抜けな顔が映りこんでいる。
目の前の顔は、それと同じでなくてはならないはずだ。なのにそうではなく。正面になくてはならないはずの目も、多分十センチ近く上にある。厚めの耳朶左右共に、自身の瞳よりもやや明るい、澄んだ翡翠のピアスが嵌まっているのが一際目を引いた。
「か……かみ、切ったの……?」
だが、それよりもなによりも。
頭のかたちがあらわなほど短く刈り込まれた髪に、ルークは息が止まるほどの衝撃を受けた。前髪が軽く立てられているのだけが『以前』と同じ部分と言えようが、その短さでは下ろしたところで眉を覆うことはないだろう。こめかみから耳の周囲などは特に念入りに刈ってある。顔や耳に髪がかかるのを、徹底的に厭いでもしたように。
「髪? ……ああ」アッシュはほんの少し申し訳なさそうな笑みを浮かべて頷いた。「お前が好んでいたようだから、一度は伸ばそうと試みたんだが、短いのに慣れているとすぐ気に障ってな。括れる長さになる前に挫けてしまった。すまんな、触りたかったろう」
「……は。え?」
アッシュは、起きていながら半分夢を見ているような茫洋とした顔で、ルークの顔のあたりに視線を彷徨わせていた。焦点が合っているようで合っていない。
アッシュはルークを抱き降ろしたときに腰に添えた両手もそのままに、ただ呆然とルークを見下ろしていた。
「さき行ってる……です」
そんなふたりの様子をみて、微かに頬を染めたアリエッタが言ったのも、聞こえていたかどうか。
「アッシュ……?」
怖々と呼びかけると、その声に促されたように、アッシュは目を閉じた。少しだけ震える両手がゆっくりと上がり、ルークの頬に触れる。指先がルークの眉を撫で、反射的に閉じた目蓋のくぼみを辿り、鼻の高さを、唇の弾力を確かめる。最後に手のひらを頬骨や輪郭に滑らせ、肌の感触と体温を感じるように両手で頬を包み込んだ。
ちゃんと呼吸をしているのかすらルークが危ぶみ始めたころ、アッシュの閉じた両目から、すーっと一条の涙が流れ落ちた。
「……本当にルークなんだな……」
何が起こっているのかわからなかった。伝い落ちた涙が顎の先を伝い、アッシュの着ているシナモン色のシャツの上にぽつぽつと染みを広げていく。呆然とアッシュを見上げると、アッシュは何かを振り切るように頭を横に振り、そっと目を開けた。アッシュの翠玉と、ルークの翡翠が、まっすぐに互いの色を見つめる。澄み切って凪いだ深い翠に、まるで瞳の中に吸い込まれてしまったかのようにルークの顔が映っていた。
「まだ夢を見ているようだ」アッシュはルークに微笑みかけ、もう一度ぎゅっと頬に触れてから手を離した。「やっとお前に触れることができた。そうか、お前はこんな顔だったんだな……」
「……? ……おんなじ顔だろ……?」
アッシュの頬を濡らしているのは本当に涙なのかと、様子のおかしさに乗じて触れてみる。『以前』なら顔に届く前に弾かれていただろう指先が、暖かい水滴で確かに濡れた。
「……いや。驚かせてすまん。年々涙もろくなって適わんな」とアッシュはいい、いかにも適当に袖口で涙を拭った。「……人の顔は、環境が作るという。お前の顔には、己が行うべきことを一つ一つ丁寧に行ってきた者の、自信と落ち着きがある。良い顔になった」
「え……?」
「来てくれて、ありがとう、ルーク」少しだけ鼻にかかった掠れ声が、湿った空気を払拭するように明るく落とされた。「少しだけ、来ないかも知れないと考えた」
「なんで? 約束しただろ」
ルークは驚いてアッシュを見上げた。迎えを拒絶する気などはなからなかった。今初めて、そんな選択肢があったことを知った。
視線を受けてアッシュもルークを見下ろし、くすり、と笑った。
「さあ、なぜそう思ったのかな。お前が約束を守らないやつだからかな」
「……おれは、約束を破ったことなんかないぞ」
「守ったうちに入らないことなど数に入れられん。──ルーク」
「え……?」
驚くルークの前で、アッシュはゆっくりと両膝を付いた。そしてルークの両手の指を、ほとんど厳かなほどの仕草で両手で掬った。
「何から話せば良いのか迷うほど、お前に話したいことがたくさんある。だが、何を置いても一番に言わねばならんことはこれだろう」
アッシュは掬い取ったルークの両の指先を、祈るように額に当てた。「ありがとう、ルーク」
なぜ礼を言われるのかわからず、なぜ膝を付かれるのかもわからず、ただ立って欲しいと思ったが、アッシュの指先を握って少し引っ張ったくらいでは彼を動かすことは出来なかった。
「アッシュ?」
「俺の命を繋いでくれたこと、預言の無い世界に送り出してくれたこと、本当に感謝している。俺が死んだあの時、ローレライはまだ解放されておらず、俺の運命は預言に囚われていた。ヴァンは預言には強制力があると言っていたが、それはそうだとも言えるし違うとも言える。マリィベルやライガクイーンなど、歴史の転換期にさして重要な役割のないものは、まるで興味が無いとばかりに見逃されるが──俺はむろん違った。ヴァンとお前の存在のおかげで一時生きながらえることが出来たが、あの年命を落とすと言う運命は変えられなかったんだ。
だが、俺は生き延びた。預言の無い世界で。俺の死の定めなど無い世界で。俺はお前に贈られた命で、お前が望んだ通り、俺の思うように生きた。仕事はやりがいがあってそれなりに出世もしたし、友や部下にも恵まれた。行きたいところにのんびり旅して、旨い酒を大いに飲み、美味い物を探してあちこち食べ歩いた。多くの趣味が出来た。少しでも興味が湧けばなんでもやってみた。お前がいなくなったあとの人生を、思い切り楽しんで生きた。なんの悔いもないとはっきり言えるほど満喫したぞ。ルーク、幸せな一生だった」
ルークは少し目をしばたかせ、言われたことが飲み込めると共にゆっくりと破顔した。
よく似た軍服の男たちとの飲み比べに負けて、悔しがっているアッシュ。
海まで見渡せる見晴らしの良い山の天辺で、楽しそうに何か叫んでいる汗まみれのアッシュ。
満月の夜、どこかの絶壁で一人晩酌をしているアッシュ。
そんな『以前』のアッシュとはかけ離れた意外な姿が、なぜか容易に想像出来る。
アッシュはきっと、余計な真似をと怒り狂うだろうと思っていた。侮蔑する劣化レプリカに命を与えられ、誇りが傷つけられたと屈辱感に震えるかもしれない、と。
だがそうではなかった。あのときの自分の選択は間違ってなかった。アッシュがそんなふうに生きてくれたことが、泣きたいほど嬉しい。まるで自分の手柄のようにすら感じられる。ルークの想い、ルークの托したものを、アッシュは真っすぐに受け止めてくれたのだ、きっと。
「そっか。そりゃあ良かった」
口に出したのは、そんなそっけない一言だったが、それには確かに万感の想いが──喜びや誇らしさがこもっていた。
そんなルークの顔を見て、アッシュも笑った。太陽そのものといった、明るいおおらかな笑み。『以前』では、一度もアッシュの顔に見出すことの出来なかった笑みだ。それはナタリアを前にしてさえ。
「長生きしたか?」
「これ以上は家人に迷惑ではと思うほどな。俺が往生したとき、お前が知る人の中でまだ生きていたのはアニスとノエルだけだった」
「ははっ、アニスは長生きしそうだもんな」
ルークはアッシュの手を軽く引っ張った。むろん跪いた男を立たせるほどの力を込めたわけではなかったが、アッシュはルークの意を酌んでそのまま立ち上がった。
「だからな、次はお前の番だ」
「……へ?」
「今度は、お前が思うように生きろ。行きたいところへ行き、やりたいことをやるんだ。ここは、お前のための、やり直しの時間軸だからな」
言われたことがよく飲み込めず、ルークは眉を寄せて考え込んだ。この世界は一体なんなのか。十の歳に意識を取り戻して以来ずっと考えてきたことの、その答えがようやく得られようとしているのに、頭が正常に働かないのは何故だ。
「ちょ……っと意味がよくわかんねえんだけど……」
「ああ、もちろん最初から説明する」アッシュは苦笑し、「皆を待たせている。歩きながら話そうか。そもそもここに呼び出したのは、お前の身体の現状を調べるためだ。俺とお前が完全同位体である以上、大爆発の問題は避けて通れないからな」
「仕掛けはすべて解除してある。──おいで」
ルークがアッシュの差し出す手に己の手を預けると、アッシュはその手を握ったまま屋上を出て、長い長い階段を降り続けた。吹き抜けの空間に、靴音が耳障りなほど響いて聞こえる。
いくつかの部屋を通り抜け、階段を上がり、また下がり。アッシュはまるで迷路のような城の中を勝手知ったる様子で歩き続けた。
「お前が死の寸前ローレライに会ったように、俺の臨終にもローレライは現われたんだ。俺の身体の回収と、俺の願いを叶えるためだと。そう言われても、俺にとってはものすごい今更感のある申し出だったんでな、当たり障りの無い頼み事をして追っ払おうとしたんだが」
「おっぱら……」
「時間を遡る──遡れるようになった切っ掛けは、俺が作ったのだそうだ。ローレライはそう言ったが、なぜそういうことになったのかはわからん。ローレライもそれは同じのようで、しきりと感心していたのを憶えている。あれは星の記憶そのものを持つと言うが……過去から未来までの記憶を自在に詠むことができると言うことは、時間そのものにも何か影響を及ぼしているのかも知れないし、細かな条件が積み重なった結果、天文学的確率でお前が誕生したように……色々な条件が上手く重なり、良いように作用した結果なのかもしれん。まあ、結果が大事なのであって、その原理はさほど重要なことではあるまい」
「う……ん。そ、かな?」首を傾げつつ、ルークは頷いた。
「時間、というのは、本来真っすぐな一本の線だ。過去から未来まで、途切れること無く、また途中で分たれることもない。だが今回は例外中の例外だ。俺の意識が過去で蘇り、星の記憶にあるものとは別の選択をする、その時点から時間は二つに分かれ、別の未来に向かって枝を伸ばしていくんだ。前の時間軸では、今まさに俺がここで、お前のいない未来へ向かうための愚かな選択をしているだろう」
アッシュは自嘲するでもなく、極めて淡々とそう言った。
やがて、城の中とは思えない地下水路のような場所へ出た。
この先にあるのは、ルークに取ってとても忌まわしいものだ。思わず怯み、一瞬脚が止まる。
「大丈夫」
繋がれた手の指が、そっと絡められた。こんな手の繋ぎ方、恋人同士や夫婦でもなければ絶対にしない。カッと顔に血が上り、心臓が跳ね上がり、そのまま激しく鼓動を刻む。いつでもルークが振り払えるように、アッシュの指にはまるで力が入っていなかった。
目の奥に、ふいに込み上げてきた熱いものを、ルークはぎゅっと目を閉じてやり過ごそうとした。そうしながら、初めて自分から絡んだ指に力を込めた。すると一瞬の間を空けて、アッシュの指もぎゅっと握り返して来た。アッシュの手は、まるで熱を持っているかのように熱い。ルークの手もだ。合わさったところから、じんじんと互いの血の流れを感じる。
ルークはその脈動に意識を集中した。
ルークはアッシュに導かれるままに、巨大な空間の二階部分から階下を覗き込んだ。階下にはガラスの円柱を中心とした巨大な譜業があり、その側では白衣の男がこちらに背を向けてコンソールを叩いている。
先に行くと言って姿を消したアリエッタも、ここにいたようだ。仮面を外したシンクと何か楽しそうに話していたが、階上の踊り場から見下ろすルークたちに気付いてこちらを振り向き、ぱっと破顔してぴこぴこ小さく手を振った。
二人は軽く手を振り返してから、しばらくの間無言で階下の様子を見つめた。
「ここでフォンスロットをこじ開けられたんだっけな」
「うん」アッシュがゆっくりとこちらを向いた。「でも今回はやらんぞ」
「どうして。すげえ頭痛かったけど、便利だろ」
「大爆発の進行を早めるからだ。──前は知らなかった」
アッシュはしばらく階下で楽しそうに話している三人に目をやって、なにかを思案している様子を見せたが、すぐに向き直ってルークを正面から見つめ、なるほどなあ、と呟いた。
「『被験者とレプリカのひと番い』という言葉がある」
「ひとつがい」
「そうだ。レプリカ情報を抜かれた被験者は、老人や子供、身体の弱い者を筆頭に命を落とす者も多く、レプリカと被験者のペアが揃って存命、という例は少ないとは言えないもののそれほど多くもなかった。だが、彼らを研究した結果、ほとんどのペアで同じ傾向が見られ、それゆえに『被験者とレプリカのひと番い』と言われるようになった」
どく、と心臓が跳ねた気がした。「傾向って?」
「まず被験者は、自分のレプリカの近くにいると、精神が安定する傾向にある。俺はお前を失っていたからわからなかったが……。今はなんとなくわかるような気がする。落ち着くのはむろん、多幸感もある。あの頃も──お前が生きていた頃は気付きもしなかったが、きっとそうだったんだろう」
「へえ……」
そう言われて思い起こすと、年の初めのころは命さえ奪おうと激していたアッシュが、年の終わりころには随分と丸くなっていたような気がする。ルークの頑張りを認めてくれた部分もあっただろうが──あったと思いたいが、レプリカの自分が精神安定剤のように作用した部分もあったということなのかもしれない。
「レプリカの方は、無条件で被験者に魅かれる、ということだ。親子のように、兄弟のように、上司や部下、或いは恋人同士、個人差はあるがとにかくさまざまな形で被験者の傍にいたがる。被験者と同じように心も安定するし、感情を得るのが早くなったり、学習の速度が上がったりと、被験者のいないレプリカより有利なことも多い。中にはそれが不幸な結果をもたらした例もあるが……。それが発表され、広く周知されるようになると、誰からともなくそんなふうに番いと言うようになったんだ。被験者の安定は己から抜かれたレプリカ情報が近くにあり、欠けた部分を補うため。レプリカは被験者から抜かれて己の核になった部分が、被験者の方に戻ろうとと引かれるため、ではないか。そのように言われていた。俺とお前も確かに同じ傾向があるが、それだけならなんの問題もない。ああやはり番いは一緒にいるのだなと思われるだけだ。ただ他と違うのは、俺たちは完全同位体だということだ。それは大爆発を早める条件にも、そのまま重なる」