【25】
カイツールは街の真ん中を国境が縦断する街だ。
ケセドニアと同じような作りだが、一つ大きく違うのは、「カイツール」とは国境を挟んでキムラスカ側の街の呼び名だということだ。また別の名で呼ばれているマルクト側の街との境には五十メートル程度の緩衝地帯があり、国境ゲートはその真ん中にあった。
一度国境を通るとおいそれとマルクトには戻れない。ルークたちは消費した食料をマルクト最後のその街で買い足し、国境を越えた。
「ジョゼット・セシル少将であります。この度はルーク様の保護をしていただき、ありがとうございました」
軍服こそ着ていたが、ジョゼットはぶらりと旅を楽しんでいる貴族のご隠居、といった風体のアットリーに、軍人とは思えない柔らかな笑みを浮かべてきびきびと礼を述べた。名を口にはしなかったが、もちろん老人の正体は承知の上だ。さぞお疲れでしょうと労るようにアットリーに微笑みかけ、宿に案内しながら、ジョゼットは小声で囁いた。
「海路のおとりにもタルタロスにも卿が乗船されていないことは、すでに敵に知られています。カイツール軍港までは目立たぬよう参りますので、このようにひっそりとお迎え致しますこと、どうかお許し下さい」
「うんうん」
もちろんアットリーは全く気にした様子もない。国の威信というものは大切だと承知していながら、もともと大げさなことは苦手な人物だ。
カイツールは両国の国交において要衝とはなり得ない小さな街なので、貴人が宿泊出来るような施設も、領事館もない。せいぜい出入国の折りの手続きを行う小さな窓口があるばかりなので、事故によってマルクトに飛ばされたルークのためにキムラスカが用意したのは、街に数軒しかない小さな宿の一つだった。観光地でもないので本当に小さな宿だが、要人の子息一行が宿泊するということで貸し切られており、アットリーなどは久々に被り物無しで息が吸えると嬉しげだった。ここから軍港までは国境警備隊から警護がつき、表向きはルークが最重要人物となる。
「ルーク様。本当にご無事で良かった……」
「驚いたよ、どうしてジョゼットがここに? ほいほいとこんな所まで来られる立場じゃないだろ?」
「大丈夫です。閣下には比較的簡単にお許しをいただけました。軍港でおとなしく待っていることなど、わたしに出来るはずがありません」
「『比較的』ね」 互いに嬉しそうに抱き合っているルークと軍服姿の美女に一行が目を白黒させている側で、ガイが苦笑した。「閣下も男、奥方を筆頭に、美女の頼みにはてんでお弱くていらっしゃるからなあ。やれやれ、セシル家はファブレ家に借りがかさむばかりだ」
「すっご〜く綺麗な方……。確かお姉様がいらっしゃいましたよね? あの方ですか?」
はわ〜っとアニスがため息混じりに感嘆の感嘆の声を上げる。
確かに似ている、と見比べている一行にいやいやとガイは首を振った。「確かに俺たち二人にとってはもう一人の姉上みたいなもんだけどな。従姉妹なんだ。セシル家は俺の母親の実家でさ」
「すごく……美しい人だ……」
ぽうっと立ちすくんで呟くドゥシャンの肩を、ガイが同情を込めて叩いた。
「ジョゼット姉上は難攻不落だぞ。なんせ憧れの人がかのクリムゾン・ヘアツォーク・フォン・ファブレ卿だからな。悔しいが、彼を越えるのは並の男子にゃ難しい」
「ファ、ファブレ元帥か……」
「閣下が男の基準じゃ、そんじょそこらの男は皆案山子に見えると思わないか? 全く、そのせいでもう二十四になるっていうのに嫁き遅れだ」
「誰が嫁き遅れだ」
ガイの語尾に低められた女の声が重なり、ガイが一瞬びくんと飛び上がった。「わたしはつまらない男の妻になどなりたくないだけだ。例えばお前のような。……お前の暴言、マリィ姉上にも報告させてもらうからな」
ジョゼットの隣で、ルークが股間を蹴り上げられたような顔をした。マリィベルはジョゼットより六つも年上だが、未だに嫁ごうとしない。クリムゾンを通して話だけは多く来ているのだが……。
一瞬でガイの顔色が真っ白になった。
宿の食事はまずくはないが特別美味くもない平凡な味だったが、量と種類はたっぷりあり、全員の胃袋を十分宥めることができた。
だが最もありがたいのは湯を使えることだ。季節柄、水を浴びるのも厳しく、もっぱら身体を拭くくらいしか出来なかったのだ。それほど汗もかかない乾燥した地域だし、ルークは戦場に行けばこういうこともあると思っていたが、女性陣はやはり不快なのをかなり堪えていたのだろう、部屋にシャワーがあると聞いて手を叩き合って喜んだ。
舌の肥えた者が多い一行だが、アンヌは自分を部外者と弁え、厨房に闖入して食事の支度を無理矢理手伝うようなこともなく客に徹していたが、食事を終えると女将に許可を貰って何やら作り始めた様子だ。甘い香りは菓子を作っているのだろう。マルクト側の街の商店であれこれ物色していたのはこのためだったのかと気になって厨房を覗くと、マルクト産の製菓材料について女将と話し込んでいるようだったので、手伝いは諦めてルークも部屋に戻ることにした。
あまり一人になるのが好きではないルークだが、このところずっと人目のあるところで生活していたため、用意された個室に入ると全身の緊張が解けるような気がした。アンヌも厨房に籠りきりのため一人でゆっくりと湯を浴びて、つらつらと思うことを日記に書いて行く。
しばらく無心で書き物を続け、目の疲れを覚えてからペンを置いた。目頭を強く揉み、軽く首を回してから立ち上がり、静かに窓を開けてバルコニーへ出た。大都市バチカルより夜の灯りは格段に少なく、それ故に星空はこの上なく美しい。
ガイとペールが使う右隣の部屋からもまだ灯りが漏れていた。ペールはガイの騎士なので簡単に側を離れたりはしないが、旅先では同じ部屋で寝起きするというこの距離感は、すでに家族であるというガイの意識によるものだろう。
バルコニーから声をかけてみようかと思った時、ふと、下で影が動いた気がした。
「? 今何か……」
よくよく目を凝らしてみると、それは小さな人型をしている。影は音も立てずにするすると近づいて来て、こちらを見上げた。
(アリエッタ──)
神託の盾騎士団六神将の一人であるアリエッタが、自分を見下ろすルークに気付いて目を丸くした。よほど驚いたのか、両手をわたわたと振り回したかと思うと、ぴょこんとお辞儀をする。
『少し待っててくれ』
ルークは声を出さずにそう言い、手振り身振りでその場にいるように示してから部屋に戻り、そっと音素灯を消して廊下に滑り出た。
人の気配のない廊下を足音を忍ばせて通り抜け、こっそりと外へ抜け出る。建物に添って植え込みとの隙間を回り、バルコニーの下へ出ると、固まったように動かないアリエッタを手招きし、無言のまま宿を離れた。
小さな前庭を抜け、生け垣を回って万が一にも話を聞かれない距離を取ると、ルークはようやく小さな息を吐き、振り返って緊張しきりのアリエッタに笑いかけた。
「君が来るのは軍港だと思ってたから、下にいるのを見て驚いたよ」
「あ、あの……。軍港、夜も哨戒してるから、あの子たち、飛べない、です」
アリエッタが大きな目を見張り、不思議そうに言った。
「なるほど」
納得したように頷くルークに、アリエッタは林檎色の頬を緊張に強ばらせる。「あの……。軍港からより時間、かかりますが、困りますか……?」
「コーラル城までってことか?」
「は、はい」
「構わないが、往復すると数日かかるよな。置き手紙を置いていかないと……。どう説明すべきか──」
表向き最重要人物であるルークが失踪するわけである。誰もを納得させる上手い言い訳はあるかと首を捻った時、その耳が軽い足音を拾った。幼く可愛らしい少女といえど六神将、やや遅れてアリエッタも気付いたようで、二人の緊張を孕んだ視線が交錯する。
「おお寒い。カイツールと言えども、夜は冷え込みますね」
ルークは生け垣から姿を現した人物に唖然とした。
「ア、アンヌ……!?」
あの、これは、と夜中に外に出て見知らぬ少女と逢引していることの言い訳をへどもどしているルークを一瞥し、アンヌはルークの身体を回り込むようにして後ろで同じく固まっているアリエッタを覗き込んだ。
「あなたはアリエッタさん?」
「え! あ、はいっ」びょくっとアリエッタが垂直に飛び上がる。
アンヌは慎重に周囲を見回し、少しばかりほっとしたように表情を緩めた。
「魔物はいないのですね」
「あ、外で待って……」
「そう。ごめんなさいね、やはりわたしは魔物が恐ろしいものですから」
「は、はい……」
そのような反応には慣れているのか、特に失望した様子も見せずにアリエッタが頷くと、アンヌは持っていた大きな包みをアリエッタに差し出した。
「焼き上がったばかりの焼き菓子が三種類。どれも当家の料理長ニーナのレシピ通りに作ったものです。ニーナの作ったチョコレートもたくさん詰めてありますからね。どうぞ、皆さんで召し上がって」
「ニーナさんのお菓子!」アリエッタの不安そうな顔がぱあっと明るくなる。「いつだったかお土産に貰ったことあります! とってもとっても美味しかった!」
「ふふ、ニーナが喜ぶわ」立場に似合わないどこか内気そうな少女がはしゃいだ声を上げるのを、アンヌは目を細めて見やった。
「一体どういう……知り合いなのか?」
驚愕から立ち直ってなんとか問うたルークに、アンヌが首を振る。「初対面ですよ」
「でも、」
混乱したままなおも言い募ろうとしたルークに、アンヌは白いコートを差し出した。
「そのお姿のままでは、さすがにお風邪を召されます」
有無を言わせない口調に、「ああ、うん」と頷いておとなしく着込むと、毛皮のファーの付いたフードの形を整えてくれる。
「やはり白がよくお似合いですわ。あの方もお気に召されるでしょう」ルークが質問を再開する前に、アンヌはルークにも大きめの包みを押し付けた。「こちらはルーク様のお好きなおにぎりと、着替えが少し入れてありますからね」
顔色が変わるのが、自分でわかった。「アンヌ、お前。やっぱり──」
アンヌは自分の用は済んだと言わんばかりに一歩を下がり、ルークが何を問おうとし、何を言いよどんだのか、おそらく知っていて、先を促そうとせず、また答えようともしなかった。
「皆様のことはこのアンヌにお任せ下さい」そして少し躊躇ったあと、アリエッタに深く頭を下げた。「この方をよろしくお願い致します。アッシュ様のことも……どうぞ」
ルークは息を飲んでアンヌを見つめた。
思った通り元のルークとはアッシュのことなのか、とか。おれがレプリカだと、偽物だと知っていたのか、とか。聞きたいことは色々あったが、どれも言葉にはならなかった。ルーク様、と促す声に無意識に従いながら、下げたままのアンヌの後頭部に、ただ行ってくると声をかけた。
街の外に出て少し歩いたところにある小さな林の中に、タルタロスでも見たグリフィンが二頭踞っていた。足音を認め、敏捷に立ち上がり、それがこちらに駆けて来た時には、思わず腰の剣に手が伸びた。騎乗していた兵士とのバランスからおおよその体格は知ったつもりだったが、これが思ったよりも遥かに大きいのだ。平均的な軍馬より二周りほど小さいくらいか。
「この子たち、大丈夫、です。勝手に人を襲ったりしないから」
「あ、ああ」
その二頭は、アリエッタにひとしきり白い猛禽類の頭を擦り付け、鋭い嘴であちこち甘噛みしたあとで「こいつ、誰」と言わんばかりにルークの周囲を回り、あちこちの匂いを嗅ぎ回っていた。
しばらくはルークも凍り付いたように立ちすくんでいたが、やがてその仕草が犬となんら変わらないような気がして恐る恐るその背を撫でると、もっと撫でろと頭を擦り付けてきた。それで、最後に燻っていた恐怖が飛んだ。もともとルークは動物が好きだし、散歩中の犬を構わせてもらうのが好きだった。そんな気持ちの変化は魔物にも伝わるのか、二頭は嬉しげに獅子のような尻尾を左右に振っている。
ひとしきり撫で回して魔物と人とが互いに慣れた頃、二頭のグリフィンがひっそりとカイツールの上空へ舞い上がった。
乗り心地は悪くない。しっかりと掴んだ白い羽の下で、翼に繋がる骨と筋肉が動く。身体に感じる騎獣の動きはそれくらいで、地面の状態に左右されないぶん揺れは少なく、速度は馬以上ではあったがそれほどの熟練度がなくとも落馬──落グリフィンの危険性は低そうである。
アリエッタはしばらく心配そうに様子を窺っていたが、ルークがすぐにコツを掴んで上手く乗りこなしているのを見、強ばっていた表情をようやく緩めた。
アリエッタは人にも騎獣にも一切の無理はさせず、数時間飛んでは少しばかり身体を伸ばしたり小腹を満たす時間を入れた。
おにぎりは海老マヨにぎりと鶏肉と牛蒡の炊き込みご飯を握ったものの二種類で、漬け物と出汁巻き卵が付け合わせに入っていた。アリエッタと、興味津々のグリフィン二頭と分け合って食べ、丸一昼夜が過ぎた頃、朝の光に輝く濃い霧の中に目的の城が見えて来た。喜びの声か、あるいは帰参を知らせるためか、アリエッタの騎獣が大鷹にも似た高く鋭い鳴声を上げた。それに伴い、二頭の速度がぐんと上がる。
「…………ぁ」
屋上に、眩しげに目の前に手を翳し、こちらを見上げている人の姿がある。
下は風が出ているのか、上衣が大きくはためき、短い頭髪を乱していた。
それは鮮血の色だ。命あるものの、力強い脈動のいろ。
その鮮烈な赤は、いつもまっすぐにルークを射抜く。