【24】


 セントビナーでは久しぶりに屋根の下でゆっくりと眠り、翌朝人数分の馬を揃えて出発した。
 誰一人怪我をすることもなく、グミや各種ボトル類も手付かずで残っているため、ドゥシャンやアニス、イオン、ティアが多少の着替えを買い足したほかは特に買い足さねばならないものもない。必要と思われるものは、タルタロスから持ち出したもの、ガイらがバチカルから持って来たもので十分賄えそうだった。
 荷物を均等に割って馬に積み、散々酔いに苦しめられた荷馬車を売り払ったときには、快哉を叫ぶほどではなかったにしろ、どこかほっとしたような空気が流れ、それぞれ顔を見合わせては微妙な顔で笑い合ったのだった。

 どこまで橋に祟られているのか、ローテルロー橋に続いてフーブラス川に架かる橋までが使えなくなっていたため、一行は馬を引いての渡河を余儀なくされたが、幸いにも数日間は快晴が続き、川の水はそれほど多くはなかった。とはいえ全く濡れずにすむはずもない。
 真っ白に輝く小石で覆われた河原が、蒼天の下眩しいほどだった。春先までまだ間がある季節とはいえ、この辺りはケセドニアとそう変わらない緯度で暖かい。石の上に広げれば濡れた服もすぐに乾くだろう。
 川縁には葉や根だけでなく花さえ食べられるハーブが自生している。水は澄み切って、探せば川魚の姿を見つけることも出来るだろう。石だらけの河原は竃を作るのにも適していて、落ち着いて休憩を取るには最適の場所だ。
 平素は皆橋を渡るため、河原は人に荒らされず、穏やかで美しい。せせらぎの音を聞いているだけで癒されそうだ。
「ここで休憩を取ったら、気持ち良さそうですね」イオンが心地良さげに目を細めたのを見て、ドゥシャンが頷いた。

《アリエッタはあなたたちを絶対に許さないから! 地の果てまで追いかけて、殺します!》

「う……」
「……ルーク? どうした?」
「──っあ! ああ……いや」
 気遣うようにガイが顔を覗き込んで来て、ルークは頬を両手でぴしゃりと叩いた。
 アリエッタは来ない。ルークは仇ではないし、もしかしたら敵対関係ですらないのかも知れない。だが、障気は? 『以前』では結構大変な思いをしたが……この胸にもやもやと広がる不安感。この落ち着かなさを信じるべきなのか? 『以前』の記憶があるがゆえのそれでないと言えるのか?

「なんだよルーク、本当にどうした?! ひどい顔色だぞ!」
「顔色……?」

《おい、この蒸気みたいなのはなんだ?!》
《これは障気だわ……!》
《いけません! この障気は猛毒です!!》

「猛、毒……」

「おいルーク!! ほんとに大丈夫か?!」
 尋常でないルークの様子に、ガイが肩をつかんで激しく揺さぶってくる。がくがくと頭が前後に揺れたが、それで正気付いた。
「くそ! 何事もなければないでいい! すぐにここを離れるぞ!! ドゥシャン、発ってくれ!!」

 ルークの叫びに、一同はきょとんとした顔を向けた。
「服が濡れて気持ち悪いかも知れないが、我慢してくれ! ここに長居しちゃだめだ!」
「ルークさん? 一体……」
 ドゥシャンが問いかけようとした瞬間、アンヌ、次いでイオンとアニスがほぼ同時に馬に飛び乗った。イオンは妙に座った目をぎらりと立ち竦む人々に向けた。「皆さん急いで!! すぐに発ちます!!」
 イオンの鋭い下知によって、ペールが弾かれたように広げかけていた敷物を丸め始める。その勢いに押されたように、残る面々も狐に摘まれたような顔をしながらも解きかけの荷を元のようにくくり付け馬に飛び乗った。
 荷物を積み込み、自らも飛び乗ってなおも戸惑っているアットリーたちを見て、ルークは次々に馬の尻っぺたを叩いていき、進行方向へと馬を追い立てた。ルークの愛馬アルスウィズもただならぬ気配を感じ取ったのか一度だけ竿立ち、急かすようにカツカツと前脚を鳴らしている。ガイが発ち、ルークが鞍上に飛び乗るや否や、アルスウィズも即座に後を追い始めた。ほぼ同時にドゥシャンとペールが続く。
「一体、何が……」
 困惑を隠せないままエドウズが馬上で河原を振り返る。その瞬間に、地面が大きく揺れた。全速力で駆ける馬上にあっても、はっきりと揺れを感じ取れるほどに。
「きゃっ!」
「うおっ……! 地震か?!」
 馬たちが嘶き、怯えたように立ち止まって竿立ちになる。バランスを崩したアットリーをハントとエドウズが支え、落馬しかけたイオンをドゥシャンが掬い取って自分の前に座らせた。手綱を取ってその場で円を描きながら、各自馬を宥め、不安そうな顔を見交わす。
「止まるな! 急げ! この場を離れるんだ!!」
 ルークは馬たちの間を縫うように駆けながら怒鳴った。
「お、おい。なんだあの黒い蒸気みたいなのは……」怯える馬を操りながらガイが前方に目を凝らす。
 前方だけではなく、周囲一帯あちこちで、地面は間欠泉のように濃い紫の蒸気を噴き上げていた。戸惑っている間に、その数はどんどん増えて行く。発って来たばかりの河原が、みるみるうちに立ちこめる蒸気で見えなくなる。
「地割れが!!」
「くっ……決断が遅かった! 気をつけろ、障気だ!」
「いけません、これは猛毒です!」
「長時間大量に吸わなきゃ大丈夫だ! とにかく一刻も早くここを……!」
「んもーっお願いだから動いてよぅ!」
 だが、軍馬としての訓練を受けていない馬の中には、怯えて動けないものもいる。馬は元来、とても臆病な生き物だ。

「あの時は……あ、そ、そうだ、ティア!」
「は、はい!」
「譜歌だ、譜歌を歌え!!」
「は、はい! ……え? あっ! は、はいっ!」
 急に心得顔になったティアが、ゆっくりと歌を歌い始めた。少女らしく、高く澄んだ歌声はこの異常事態に少しばかり震えていたが、歌の持つ圧倒的な力を感じさせながら周囲に広がると同時に、周囲を薄紫色に靄らせていた障気が取り込まれたように消えていった。
「き、消えた……」
「い、一時的な防護壁で、長くは保ちません。この隙に急いで……!」
 もうもたもたする者はいない。目に見える形の脅威に、全員が泡を食って逃げ出した。

 馬を急かして十数分駆け続けた後、十分に障気から離れたと判断して、先頭を走っていたハントが馬の脚を止めた。
「これだけ離れれば、大丈夫だと思います……」ティアも馬から滑り降り、背後を振り返って息を吐いた。
「今のは……」
「うちに代々伝わる譜歌で……。障気が持つ固定振動と同じ振動を与えたんです。本当に一時的な防護しか出来なかったけど、効いて良かった……」
 ティアの横に立ち、同じように来た方角を見ながらガイが呟くのに、ティアがほっとしたのか涙ぐんで答えた。
「ユリアの譜歌ですね。ありがとう、ティア。あなたがいなければ、どうなっていたことか」
 イオンが礼を言うのに、ティアが恐縮しきって頭を下げる。それぞれユリアの譜歌のことを知っていたようで、皆納得したように頷いたが、どこか腑に落ちない顔で首を傾げている。
 それもそのはず、ユリアの譜歌とは伝承の中にのみ存在するもので、誰もその歌を聴いたこともなければ、力を目の当たりにしたこともないはずだからだ。
「譜に込められた意味と象徴を正しく理解し、旋律に乗せる時に隠された英知の地図を作る。一子相伝の技術みたいなもんさ。ティアの生家、フェンデ家は、ユリアの直系の子孫だからな」
「ご存知だったのですね」主家であるガルディオス家の当主がそれを知っていることにティアは疑問を持たなかったようだ。少しばかり恥ずかしげに頷いた。「ユリアの子孫だと言われているのが本当のことなのかはわからないのですが、わたしの知る限り、他に歌えるのは兄だけです。でも、そ、そういえば……ルークはどうしてわたしがユリアの譜歌を歌えることを知っていたの? 最初からよね? なぜこの局面でそれが有効だと思ったの?」

 ルークは呼吸を整えるため大きく息を吐いて首を振った。「お前はグランツ謡将の妹だし。……譜歌が効くかどうかは賭けだった」
「そ、そう……?」
 ルークがこの世界でユリアの譜歌を聞いたのは、ティアの襲撃時が初めてだ。ティアとヴァンがユリアの譜歌を歌えると言うことも、ヴァンやガイから聞いたことはない。
 だがそもそもここは、ヴァンの旧名がバレている世界、突飛すぎる言い訳ではなかった。
 ティアは納得したようなそうでないような実に曖昧な表情で頷いた。

「しかし障気の発生なんて、よくわかったな、ルーク。天気と同じようなものか?」
「……ニオイかな」
「? そんなにしたかね」
「したね」においを嗅ぐように鼻をうごめかしているガイに、ルークはやっとの思いで笑顔を作ってみせた。「ばぁか、勘、ってことだ」
 そっちか、と笑うガイの顔を見つめ、ルークはようやく強張っていた肩から力を抜いた。

 ひどい醜態を見せたあの夜のルークの告白を、ガイとペールは悪夢に錯乱したゆえのことだと流してくれているのだろう。真偽について改めて突っ込んでこないのは、きっとそういうことにしてくれたからだ。
 素直にありがたい、と思う。問いつめられたら、ルークは今度こそ気が触れたと思われるようなことをぺらぺらと喋ってしまうに違いないからだ。

 危険がなければここで腹に何か入れたいというドゥシャンに、ルークは危険はないと頷いた。だが全員まだ何かに追われている気分が抜けないようでどこか落ち着きなく、警戒心も露に周辺を窺っている。
 結局、火を使わずに食べられる保存食で腹を満たすと、休憩もほどほどに街道に向けて発った。

「導師、障気は吸っていませんか?」
 ぼんやりと馬上で揺られていると、いつの間にかイオンが隣にいた。
 セントビナーで彼のために買った古着は、イオン自身で選んだ男性用のシャツやコート、長ズボンだった。正直、若干のちぐはぐ感が否めないコーディネートではあったのだが、ようやくアニスのお下がりから解放され男物を身につけたイオンがひどく嬉しそうで、自分で服が選べたことが得意そうでもあったので、誰もおかしいとか似合っていないと言いはしなかった。指摘するほどひどいコーディネートというわけでもなく、案外少年らしく見えて導師の変装としてはアニスのものを借りるより出来が良かったからだ。
「大丈夫ですよ。あなたのお陰で早く逃げ出せましたし」イオンは思ったより元気そうに答えた。顔色も悪くはないようだ。
「……」
 ルークはじっとイオンの顔を見つめ、さっと周囲に視線を走らせた。アニスとは目が合ったが、後は若干距離があるのや、今後のルートを話しているのとでこちらに注目はしていなそうだ。ガイは少しこちらを気にしているようだが、イオンとの会話に聞き耳を立てるような真似はしないだろう。

 あの時、イオンとアニスは何の疑問も挟まず、アンヌと同時に──もしかしたらアンヌより早かったかも知れない──動いたのだ。アンヌはルーク付きの侍女で、昔から命令という形で下されるルークの指示には即座に従うが、この二人は違う。

「……いや。導師が素早く指示を出してくれたから、迅速に避難出来ました。おれだけだったら、理解してもらうのにもっと時間を取られただろうな」
「そんなことはありませんよ。アンヌさんもですが、ガイさんやペールさんもあなたの理解者ではありませんか」
「……導師は、おれのことを何か知っておられるようだ」
 イオンは大きな目を少しだけ見張り、ついでバツが悪そうにくしゃりと笑った。
「アッシュからあなたのことは聞いていましたので……」
「タルタロスが初対面でしたよね?」
「あー、ええ、初対面です。でもあなたはアッシュにとても似ていますから」
「ああ……」なるほどと頷いて、ルークは苦笑した。「偽名、バレバレだったんですね」
「ははは……」
 申し訳無さそうに笑うイオンにルークも同じような笑みを見せる。
 なにをどこまで知っているのか問うべきかどうか考えていると、イオンが静かに口を開いた。
「アッシュはあなたにずっと会いたがっていました。……あまりあからさまにお屋敷と連絡を取っては何かと障りがあるだろうと自粛していたようですが、あなたの人となりがとても気になるようでした。極稀にあなたの噂が耳に入ると、とても大切そうに聞き入っていましたよ」
「おれの噂? ですか?」
「ルークはナタリア王女と共に、さまざまな慈善活動をされておられますよね? そのときあなたに間近で接した者たちがあなたの話をあちこちでしてるんです」
 将来はクリムゾンの後を継ぎ、直接国政に関与する気のないルークだが、慈善活動となれば身分ある者の義務でもあるため、王女であり従姉妹でもあるナタリアをかなり意欲的に手伝っている。予算を預かった上で活動しているナタリアとはその重みが違うかもしれないが、立場上は自由に出歩くことの出来ないナタリアの代わりに気さくに下町を歩き回り、貧しい地区の問題点を貴族とは到底思えぬ視点で暴き出し、解決しようとする姿は、貧しい人々に「この方は本当に我々を救って下さる気なのだ」という希望を抱かせるようだった。
「ナタリア王女が乳飲み子を抱えた母子家庭の問題を提起されたというのも、元々はルークの発案だとか」
「えっ、おれはこうすればもっといいのにとか、ちらっと言っただけです。それ、だいぶ尾ひれ付いてますね。実際に議会に持ち込めるよう纏めたのはナタリアだし。そういうのは、あー、実際ナタリアの方が詳しいというか……」
 バチカルの隅っこからダアトへ噂が走る前にかなり美化されているとルークは思う。だがイオンは首を振った。
「僕はそうは思いません。セントビナーで一緒に買い物をしたときも思ったんです。あなたは例え襤褸を着ていても貴族に見えます。貧しい家の出には決して見えないでしょう。でも彼らの価値観を理解し、同じ視点でものを見ることが出来る」
「……確かに、育ちの割にはみみっちいって言われたけどな」
 ちらりとアニスを見やると、話が聞こえていたわけでもあるまいにアニスが慌てて視線を逸らした。
「うーん、それは僕も思いましたけど」イオンがさり気なくルークの視線からアニスを庇うように動き、くすくすと笑った。「値切ってるあなたの慣れた様子に驚いて、アニスが値切るのを忘れたくらいですからね」
「『値切らず買うな、買うなら値切れ』がモットーですから」
「アニスみたいだ」イオンがますます笑う。「それもお父上の教えなのですか?」
「そんなわけないでしょう!」ルークの貴族とも思えぬ意外な吝さは、絶対にそのアニスの影響だ。
 ふてくされているものの恥ずかしげに頬を染めているルークにイオンはますます笑って、その手を差し出した。「ルーク、僕のことはイオン、と。互いに敬語はやめにしよう。僕はルークと友達になりたい」
 ルークは差し出されたその剣胼胝だらけの手のひらを少しの驚きを持って見つめ、頷いて握り返した。
「イオン」
「近いうちにアッシュに逢う?」
 イオンは笑みの残る顔でルークに問いかけた。ルークが頷くと、
「アッシュが、きみに逢ってどんな顔をするのか見てみたい」
「……どんな顔って」
「とても。とても……逢いたがっていたからね」

 突然の邂逅に舞い上がってしまうのはいつだってルークの方で、アッシュは横目で迷惑そうにルークを確認すると、すぐにナタリアに向き直ってしまったものだ。
 魅かれ合うその自然な二人の姿を羨みながらも憧れ、微笑ましく思うこと半分。なんとかその視線をこちらに向けたいと思うこと半分。実際に絡みに行けた回数など数えるほどだった。
 アッシュから絡んでくるときは嫌みや罵倒も多く、ルークは落ち込むこともまた激昂して反発することもあったが、後になってそれがルーク自身の成長に一役買ってくれたと気付いた時、心の深い所から爆発するように喜びが弾けた。
 気性が荒く、激昂しやすい。傲慢で、意地っ張り。

 だが、その分情が深い──。


2019.08.09(初出2014.08.15頃)