【23】


「腑に落ちませんな」
「……ペール?」
 常とは異なる、低く固い声に、ガイが困惑の問いかけをする。
「……いえ。そのおっしゃいよう、結局その御仁は偽物から何も奪い返せなかったと言うことですかな?」
 どうなんだろうと、ルークは首を傾げた。「本物は奪い返してやったって思ってたかもな。婚約者に申し訳なくて、結構必死で抵抗したし。けど、偽物は……本当は奪われたかったんだ。偽物の抵抗に怯んで本物が途中で手を引いてたら……多分後悔したんじゃねえかな。偽物の婚約者は、入れ替わりの真実を知って本物への気持ちを再確認した。本物も、一度は奪われた婚約者の気持ちを取り戻したこと、きっとわかっていた。何年空白があっても、真実の愛ってもんはきっと歪まねえんだなあ……。そこに、偽物の気持ちなんて、割り込む隙もなかったから。その夜、その一晩だけ。その人の──本物の心と身体が与えられたような気がして……偽物は死ぬまで、その夜の思い出を宝物のように思ってたんだ」
 話の意味がわかったのか、ガイが微かに目を見開いた。
「その……偽物ってやつが想うのは、婚約者じゃなくて本物の方なのか?」
「気持ち悪い話だよなあ……」ルークは抱え込んでいた脚を片方投げ出して、河原の小石を手慰みにぽいと川面に放った。水面を何回切れるか、ガイと競争したこともあったなあ……むろん、この世界でだ。ガイには敵わないまでも十数回の記録を出した。だが今は、とぷんと間抜けな音を立ててすぐに沈んでしまった。「……ほんと、吐き気がするぜ」
「わしはそうは思いませぬが……その御仁、本当にご自分の偽物とやらを憎んでおられたのですかな」
「……どういう意味だ?」
 つまらない慰めだと思ったが、横目で窺い見たペールの何かを思案している顔が思いのほか厳しいものだったので、逆に興味を引かれた。
「婚約者どのと深く想い合っておられたというなら、偽物をいたぶって己が優位性を見せつけるのにそんな手段を取るとはちょっと考えられませぬな……。むろんルークさまもおわかりじゃと思うが、男の身体というものは単純じゃが存外繊細に出来とる。うん、怒り憎しみをわからせたいのであれば、単純に痛めつける方法を取るんじゃないかとわしは思います。それが本当に偽物の矜持を折るため、あるいは懲罰や……復讐のようなつもりでなされたのでしたら、その御仁、もう狂うておられる」
「まさか。……狂ってなんかなかった」
「なればこそ腑に落ちませんでの」ペールは稽古のときの俊敏さが嘘のように腰をさすりながらよたよたと腰を下ろすのに手頃な場所を探し、ずっと立っていると腰が痛くなりますなあと先程はと逆のことをぼやきつつ胡座を組み、どことなくホドの意匠に似た上衣の懐から煙管を出し、銜えた。「最も強い憎しみは愛から生じ、最も激しい愛は憎しみから生まれる、という言葉もありますでな。憎しみは欠乏から生じるとも言いますが……欠乏が満たされれば愛が生じるのもまた道理。その御仁がご自身の偽物を憎んでいたとおっしゃるなら、同じくらい……」

──愛しておられたのやもしれませんなあ。

「ははっ、ははははっ」

「ルーク?!」
「あはは、うん、ごめん。大丈夫だ、ガイ。ペール師匠、ありがとう。へえ、そんな風に言うんだな。おれは本物が偽物を愛することなんかないと思うけど、そんな結末だったら少しは救いのある話だったのかもな」
「どのような結末になったので?」
「偽物はそれから大して日を置かずに死んじまったからな……。そのあとのことは知らねえんだ」

 鬱屈したものをすべて吐き出したわけではないだろうが、顔色は良くないものの案外穏やかな顔で見張りの交代に向かったルークを見送ってから、ガイは小川を見つめながら煙管を燻らせているペールを勢い良く振り返った。
「ペール。さっきのあれは、ルーク本人の話だな」
「落ち着きなされガイラルディア様。第一つじつまが合っておりませぬぞ」
 ペールは気色ばむ主人を嗜めたが、生まれてから二十年以上を連れ添った己の騎士の声音と表情、物の考え方などすでに知り尽くしているガイだ。ガイはため息をついて首を振った。「そういうのいいよペール。お前の考えが俺と同じなのはわかってる」
「……つじつまが合わんのは本当ですじゃ」
「ああ」
 二人は横に並び川面をぼんやり眺めつつ無言で立っていたが、ややあってガイが深い溜め息をついて頭をガリガリとかいた。「ルークは、黙り込んだりごまかしたりすることはあるが、嘘は付かない奴だ。そんなあいつがあんな顔色で話したこと、俺は丸ごと信じようと思う」
「怠惰で、傲慢、小心者……他にありましたかな。その『偽物』とやらとルーク様をどうやら同一の存在と考えてよさそうですな」
「無知を恥じないルーク、か。……いつだったか、古代イスパニア語を知らなかったせいで大失敗したと言ってたな」
「ふむ……。一度時系列を整理してみましょう」
「そうだな。──今のルークをルークα、死んだと言うルークをルークβとしよう」
「『偽物』だというルークβに対して『本物』は……そうだなβ'でいいか。β'は神童、あいつまるで完璧超人みたいに言ってたが──くそ、絶対惚れた欲目が入ってるぞ──入れ替わりは例の誘拐事件でいいんだよな」
「おそらくは。αに対しては……両利きのルークα'というところですかな」
「両利き?」
「……ただ一度、わしはとっさにあの方が右手を左の腰に泳がせたのを見たことがあります。確か……七歳になったばかりのころでいらしたか、左手に本を持っておられたので、わしもその時は特に気にせず流したんじゃが、奥様がお小さいころは右利きだったとおっしゃったのを聞いたとき、ふとそれが思い出されましてな。利き手が塞がっていてもとっさに逆の手が剣を掴もうとするなど、よくよく考えればあまりないことですじゃ。わしなら本を捨てて利き手で剣を抜く」
「『取り替えっ子チェンジリング』、ね」ガイもペールが見つめる川面に目をやり、ふ、と息を吐いた。「ルークは、右手は不器用だ。とっさに剣に手をかけるような局面で、そんなこと考えられないな。そいつはα'で決まりだ」
「じゃが、音素振動数ってもんもありますでな。そもそもお身内の誰にも気付かれずαとα'、βとβ'を入れ替えることが出来るのかと考えますと……」
 音素振動数を調べる術のなかった大昔ならともかく、この現代で入れ替わりなど出来るはずがない。少なくともファブレ家においては親であるファブレ夫妻は誘拐されて戻って来た一人息子の医療データを確認しているはずだ。
「そうだな。ファブレ公爵夫妻は当然、ルークの音素振動数が誘拐前と違うことを知っているということになる」
「まず間違いありますまい。α'に至っては後にルーク様に入れ替わることを見越してルーク様に寄せていっておられますな。右手を封じなさったのもその一環でありましょう」

 ガイは木々の狭間から見えるルークの姿を仰ぎ見た。手振りを交えてエドウズと何かを話している。「α'がルークを憎む理由がわからないな……」
「ルーク様とβのルーク様では、そこに違いが生じますな。α'はファブレ家全体で入れ替わりを図っておるがβ'は入れ替わりに気付かれなかった」
「それもルークを信じるとすると、入れ替わりに気付いているαルート、気付かれなかったβルートが存在する。ってことになるな」
「……αのルートでは、誘拐までのα'を我々も知っているはずですなあ……」
 うん、と二人は顔を見合わせた。誘拐までのルークα'のことはむろん良く憶えている。αと別人だと考えて改めて思い返せば、それなりの違いが無いわけでもない。だが、全くの別人だとするならば、その振る舞いのすべてが不自然なほどα──ルークに似すぎていた。何も知らぬまま自然に振る舞うルークにここまで寄せられるということは、とりもなおさずα'がα──ルークのことをかなり正確に理解していたということを示していた。
「αとβが同一人物だと仮定すると、ダッシュ同士もむろん同一人物ってことになるが……その人となりが全く重ならないな。まあ、βとルークにも同じことが言えるんだが」
「βの失敗を繰り返さないようにとおっしゃっておられたのですから、努力で変わられたのではありますまいか。してみるとβ'も──」
「βが死んじまった後で──もしかしたらβの死を切っ掛けにして、何か心境の変化が起きた、ってことなのかもな。β'が俺たちも知ってる誘拐前のあいつになったんだとすると、すでにルークα、β、二人に対して怒りや憎しみを抱いていないってことか? 感情豊かではあったけど、誰かを深く恨んだり憎んだりしながら生きてるようなやつじゃなかったよな?」
「ルーク様がおっしゃるようβ'がβを憎んでいたとしても……対象者が亡くなってなお強く怒り憎しみを持続出来るほど精神の強い者は、そうおりますまい」
「そうだな。──あくまで想像の範囲に過ぎないが、少しずつ何か見えて来たな。まだβとβ'の入れ替わりの謎、αルートとβルートの時間軸の謎なんか残ってるが……」
「宿に着いたら書面にまとめましょう。αだβだダッシュだと、年寄りの頭はこんがらがってきますわい」
 稽古では未だに容易に勝たせてくれない師を胡乱げに見やり、ガイは一瞬目を閉じて何か思い出すような仕草を見せたあと頷いた。「ダッシュにも名前を付けりゃいいさ」
「良い考えじゃと思いますが……なんと?」

「──『アッシュ』、だ」

「さて、ルーク様、ガイラルディア様、ペールギュント様。頼みましたよ」
「了解。さて、この辺りでは何が獲れるんだったかな……。ルーク、ほい、弓」
「うっし、じゃ行きますか!」

 大きな森の傍に野営地が決まると同時に弓を引っ張り出すルークとガイ、おもむろに眼鏡を老眼鏡に変えるペールに、一同は愕然としたまま声をかけられないでいた。

 食料はアンヌがしっかり抱え込んできたうえ、合流した村でも分けてもらっていたが、保存食をメインにした代わり映えのしない食事は数日すると飽きてしまうものだ。むろん誰一人それに文句を言う者はいなかったが、食事のたびに精彩を欠いていくのが誰の目にも明らかだった。
 そんな中、追っ手がかかるかも知れない旅で贅沢なことは言えないが、狩りくらいなら気晴らしにもなるでしょうとアンヌが言ったとたん、ルークとガイが色めき立ったのである。
 アンヌは獲物によって作れる料理をいくつか提示し、主にガイとルークに狩りを、植物に詳しいペールに食べられる葉ものやキノコ類を任せた。
 公爵の子息に獲物を獲ってこいとつけつけ命じるアンヌにバチカル勢以外はドン引きしていたが、男というものには多かれ少なかれ狩人の習性がある。

 ルークは実のところ狩りに慣れていた。クリムゾンと遠乗りに出かけると、高い確率で何泊かを野営することになる。クリムゾンは息子と過ごせる希少な時間をほとんどこのような野営や剣術の稽古に当てた。将来ルークが軍に入った時、貴族のお坊ちゃんだと侮られないよう鍛えておくという最もな理由があったにせよ、それだけではなく、父と息子だけの、使用人や母の介入のない自由な活動を余暇の楽しみとしていた節もある。
 晴れて澄み切った夜空の下、狩りの獲物で満腹になった父と息子は熱いコーヒーを啜りながら満天の星空を見上げる。交わす言葉はそれほど多くはなかったが、ルークにとってはこの上なく大切で、幸せな時間だったのだ。
 それを自分から壊してしまうようなことを言ってしまったのに、ガイもペールも普段通りに接して来て、その上話を蒸し返そうともしない。
 ルークの話を夢の話だと信じてくれたのか、何か他に思惑があって黙っているのか……。
 だがルーク本人が夢の話と断言した手前、ルークの方から話を振るような真似は出来なかった。だから重苦しい疑惑を飲み込んだまま、ルークは普段通りに振る舞った。──普段通りというのがどのようなものだったか、よくわからなくなっていたとしても。

「ガイ、風下へ。二時の方向に鹿の群れがいる」
「おう。出来れば雌を狙いたいね」
「んー……小さい群れだけど、雌は真ん中に固まってるみたいだ。ちょっと厄介かな。挟み撃ちにするか」
 ルークは時折馬を止め、空気を嗅いで獲物の場所を特定しながら、ガイと二人で追いつめていった。

「アンヌ、芋の皮むきはおれがやるから、パンと鍋を見てくれよ」
「ルーク様が? 狩りをしていらしたのですから、お休みになっていてよろしいのに」
 若い雌鹿を仕留め、皮を剥いだものをアンヌに手渡したあと、血の臭いを落とすためにガイと早めの水浴びをした。剥いだ皮はドゥシャンが鞣してくれるというので言われた通り休んでいても良かったのだが、なんとなくアニスとティアを助手に夕食を整えているアンヌに声をかけると、アンヌはそう言ったものの、隠しきれずにほんのちょっぴり嬉しそうな顔をした。
「お芋の皮剥けるんですかぁ?!」
「それが、わたしより全然上手いの。ルークに出来ないことって、あんまりないわよね」
 驚愕の声を上げたアニスに、ティアが苦笑して返すと、アンヌも「そうですわね」とそっけなく返答したが、どうやらそれも得意げなようすを見せまいとしたからのようで、どちらかといえば表情に乏しい顔が僅かに紅潮し、口元がうずうずと動いている。本当は息子のように世話をしている主が褒められるたび、嬉しくて仕方ないのだ。
「甘やかされた貴族の坊ちゃんと将来侮られることがないようにという旦那様の方針で、普通の殿方は教わらないようなことまで教え込まれておられますから……何でも一通りはお出来になりますね。お洋服の綻びなどもご自分で直されますよ」
「綻んだ服なんて、貴族の方はすぐ捨てちゃうって思ってた!」
 実際にルークが慣れた手つきでじゃがいもの皮を剥き始めると、アニスは感嘆の声を上げ、ティアはがっかりしたように己の手元を見下ろした。
「そういう貴族もいるのかも知れないけど、うちは違うよ。父上は堅実な方だし、何より武官だ。なんでも出来れば、それだけ生き残る確率が上がるだろ」加えてルークは食事の支度を手伝うのも見ているのも、元々嫌いではない。
 タタル渓谷へ飛ばされてのちしばらくは過酷な野宿生活を強いられていたティアが力強く頷く。
「もし戦争が起こったら、ルークさんも戦場へ行かれるんですか? だって王位継承権もある方なのに?」
「一貴族に過ぎないんだっつの。そりゃ一兵卒ってわけにはいかないけど、ペーペーにどんだけ兵が与えられると思ってんだ。本丸にでーんと座ってられるもんか」
「ふうん……そんなものなんですかー」
「そーそ。そんなもん」
 軽口を叩きながら軽快にじゃがいもの皮を剥いていく慣れた手つきに、二人の少女はもはや感嘆の声を上げることしか出来ない。『以前』ではルークの師匠でもあったアニスの腕前はこの世界でも健在で、ルークを褒めながらもそれ以上の早さで野菜を処理し、アンヌと相談しながらそれぞれの品を仕上げていった。

 人数の多い旅は、楽観視できない状況を考慮してもなかなか楽しいものだった。常にない状況を憂うより楽しみ、きっと大丈夫だと楽観的に考える人間がたまたま多かったのもあるだろう。しばらくは馬車に乗る番が来るたび小さな攻防戦もあったが、同じくセントビナーを目指す人々がちらほらと目に付き始めたころには、舗装されていない街道も通りやすく整備され、旅は格段にしやすくなった。駅馬車が行き交う街道には、ところどころに野営地が設けられているため、同じ場所で大勢が休むようになり、安全度も飛躍的に上がった。隊商から食料や衣類を買い取ることもできるし、他の旅人と協力して獲物を狩ったり、物々交換で必要なものを得ることもできる。
 ──と同時に知名度の高いアットリー老人は深くフードを被って目立たない場所にうずくまっていることになり、その憮然とした顔が皆の苦笑を買っていた。


2019.07.19改稿(初出2013.08.06頃。継ぎ接ぎのため)