【22】
ルークを迎えるため、ファブレ邸より国境を越えてきた三人はそれぞれ馬を伴ってきていたが、この小さな村では馬車どころか人数分の馬も確保することができなかった。馬を三頭と屋根もない古い荷馬車を手に入れることは出来たので、アットリー、イオンが馬車に乗り、ハントが手綱を取る。とりあえずエドウズがアニスを、アンヌがティアを同乗させ、ドゥシャンが単騎で行く。馬に負担がかからぬよう、時折鞍上を入れ替えながらも、昨日より確実に早く先へ進むことが出来たが、やはり悪路において荷馬車の上は乗り心地が悪いようで、早々に二人が乗り物酔いして休憩を入れるはめになった。そこで馬車も入れ替え制にしたのだが、それは次々に青白い顔の人間を生産する、ほとんど呪われた荷車だったのだ。無口なエドウズですら、乗っている間中、目に見えぬ何者かを罵り続けていた。
ぐったりと横になったルークとアニスが荷馬車の上で半ば白目を剝きかけたころ、ようやく野営に適した場所に辿りついた。澄んだ小川をのぞき込むと、岩場の陰に川魚の姿もある。釣りをしましょうとペールが持参の釣り竿を取り出すと、イオンが子供のような歓声をあげた。
予定ではもう少し先に進みたかったのだが、場合が場合なので仕方がない。あらかじめ決めておいた食事当番のエドウズとガイが簡単な夕食の準備を始め、とうに元気を取り戻しているイオンは、導師守護役のアニスがどれほど料理上手かを自慢しながらペールと肩を並べて釣りを楽しんでいる。時折あがる無邪気な笑い声に、釣果への期待も高まろうというものだった。
その導師守護役は、キムラスカの公爵子息と共にしばらくはぐったりと地面に伸びていたものの、すぐに二人そろって元気よく食べられそうな野草や茸を探しに野営地を飛び出して行った。
ガイらが持参した干し肉、村で分けてもらった芋、アニスとルークが集めた茸は身体を芯から暖める汁物となった。種無しパン、イオンとペールが釣った、鱒に似た小さい魚を枝に刺して焼いたものなど、野趣あふれる夕食がすむと、女性陣、イオンとアットリーを除いた男たち全員で雑草を使ったくじ引きを行った。ドゥシャンとハントが最初の火の番に決まり、それ以外のものは倒れ込むようにおのおの寝場所と定めた場所で身を横たえる。ルークはエドウズと共に三番目のくじを引いた。
焚火の見える範囲の木に触れながら、よたよたと寝場所を探して歩き、桂皮のように清涼な香りの木を見つけ、木の根の間に収まりのよい場所を探すと、降り積もった枯れ葉の下に潜り込んで丸まる。
強弱のついた葉ずれの音は、まるで子守唄のように優しくルークをあやしてくれた。根は暖かく彼を包み、守られていると思わせてくれる。育ちのわりに図太いものだが、これもクリムゾンの血なのかも知れない。ルークは父の話してくれた戦場の様子に、怯えつつも強い憧れと尊敬の念を抱いている。
疲れのせいもあるが、バチカルの自分のベッドにいるように寛ぎ、安心して、ルークはすぐにとろとろと微睡みの淵に落ちて行った。
コツコツと遠慮がちに窓を叩く小さな音で、ぼんやりと目を覚ました。
眠い目を擦りながら起き上がる。寄せ木張りの床は氷のように冷えきっており、裸足で一歩を踏み出すたびに鋭い冷気がルークの背を登っていった。
明かりを付けることなど思いつきもしなかった。小刻みに震えながらねっとりと濃い闇をかき分けて窓辺に近づき、気泡の入った質の悪いガラス窓に、雨に濡れそぼった自分自身の顔を見出す。ゆっくりと左手を上げてガラスに映った自分の頬に手を伸ばすと、一泊遅れて鏡のように鏡像も手を上げた。闇に浮いた白い指と、黒いグローブの指がガラス越しに触れ合った。濡れて張り付いた長い前髪の下から、強い燐光を放つフォレストエメラルドがまっすぐに射抜いて来る。それは、罪を弾劾する神の目のようにも、腐肉を食い荒らす魔物の目のようにも見えた。
《……アッシュ?》
そこではっきりと目が覚めた。割れんばかりに激しく打つ胸の鼓動が、衣擦れの音どころか篠突く雨の音さえ耳からかき消してしまう。それは窓ガラスに写ったルークの姿などではなかった。
冬の雨に濡れそぼつ被験者が、己がレプリカに助けを求めているのだと今更に気付き、ルークは慌てて窓の捻締錠を解錠した。くるくるとしつこい螺旋に苛つきながら鍵を引き抜き、苦労しながらがたつく引き戸を力任せに開ける。夜が人の形に凝ったものが、冷たい風と、雨と、そして畏れと一緒に部屋の中にすべり込んできて、ルークが苦労して開けた引き戸をぴしゃりと閉めた。
彼は明かりの消えた部屋に黒く沈んだ髪の先、顎の先から冷たい雫を滴らせ、闇と冷気とを纏って音もなくルークの前に立った。
部屋は冷えきっているが、外よりはだいぶマシだ。ほっとすると笑みが零れた。すると被験者の苛烈そのものの瞳が、ほんの少し凪いだように見えた。
《びしょ濡れじゃんか、アッシュ、服着替えてな。今、火ぃ熾す》
寝る前に落としてしまった暖炉に火を入れようと一歩を踏み出したところで、二の腕が掴まれた。
《……? 早くしねえと風邪を……》
まっすぐにルークを射抜くフォレストエメラルド。言葉は全てが音になる前に、闇に溶けていく。
滴り落ちる水滴が床を叩く微かな音が、激しくなっていく鼓動の合間に、妙に大きく聞こえる。
ほとんどおずおずと、冷えきった黒い指先がルークの頬に触れた。水を吸った革の氷のような冷ややかさに、背筋を冷たい戸惑いと後悔が走り抜け、思わず身体が震えた。その微かな動きに、被験者は己の手が冷えきっていることに初めて気付いたように手を引いた。鼻先に、ふっと暖かい呼気がかかる。被験者は、笑ったようだった。
混乱のままに立ちすくむルークの前で、被験者が長いグローブを脱ぎ捨てる。暗い部屋の中でぼうっと白く浮き上がった両の手のひらが、温もりを確かめるようにルークの頬を包み込んだ。
身体が震えるのは、どうしようもなく震えるのは、その手があまりに冷たいからだ。そのはずだ。
頬からうなじへ指はすべり、無抵抗のまま強く引き寄せられる。全く体温のない、色を失った被験者の唇が、ルークのそれに触れた。
《……?》
何が起こったのか、良くわからなかった。
触れられた途端に、心臓が一際強く跳ね上がった。深い官能が身体の中心を貫いて、足から力が抜けて行く。被験者の力強い腕がルークを支え、抱き寄せた。
冷たい唇は、弾力と温度と、そして肌触りとを楽しむように、軽く触れたり少し強く押し付けたりするだけの口づけを繰り返した。舌先で唇のかたちを辿り、ついばみ、やがて小さく忙しない呼吸の漏れる唇を割って、ぬめぬめとした熱い舌が口腔に入り込んでくる。呆然として全く反応出来ずにいる間に、それに絡めとられたルークの舌が被験者の口の中に吸い込まれた。きつく吸われ、舌裏の筋が軋むように痛む。暖まり始めた被験者の唇はざらりと荒れた感触がして、食まれるたびに薄い粘膜をこすり、微かな痛みをもたらした。口中に唾液があふれ、飲み込みきれずに這い落ちていく。
自分のではない、違う男の味。
寒さを和らげるために飲んだのか、少しだけラムの香りが混じる。
きっと、それに酔ってしまったのに違いなかった。だから抵抗どころか身動き一つ出来なかったのだ、きっと。呼吸すら上手く出来ず、息苦しさと快美な波に呑まれ、涙が溢れ出した。
被験者は次第に箍が外れたようにルークの口の中を激しく、獰猛に犯し、乱暴に涙を啜った。貪るように唇と舌を奪い──そして顔中を食んで、荒い呼吸と白く凍った呼気とを絡み合わせる。薄い夜着は、埃のにおいのする雨を吸ってじっとりと湿り、体温は奪い取られていく。なのに身体は燃えるように熱くて、その冷たさを全く感じさせなかった。
やがて、冷たい指が薄い夜着をたくし上げ、中に入り込んできた。被験者はルークの肌に手を這わせながら軽く押すように移動すると、夜着の中の手で支えるように、ゆっくりとつい先ほどまでルークが横になっていたベッドの上に倒した。まだ体温が残っているはずのそこは、体の火照りに対して嘘みたいにひんやりと感じる。被験者は半ばルークに伸しかかり、口内を乱暴に嬲りながら冷たい指でルークの横腹を辿り、胸の飾りを見つけ出した。
《は……っ、く……?!》
さざ波のように鋭い衝動が広がり、喉の奥から甘いうめきが漏れる。ルークは慌てて被験者を押しやり、壁際へ逃れた。
《な……なに……?》
《なにって。わからねえはずねえよな? ──抱くぞ》
《は? だ? ……な、なに? なに言ってんの……》
抱くって? それは性交するってこと? それは……それは愛し合う者同士でやることなんじゃ……。
ここに至るまで被験者の意図が悟れなかったとは、あまりに迂闊すぎた。ルークの性感を煽るような、そんな官能的なキスだったのに……。
経験のなさ故に簡単に流されてしまったのだと、両手で口を塞ぎ、イヤイヤするように首を振ると、被験者は不満そうにむっと眉を寄せ、なんとかその手をどかせようとした。何故だ? 被験者には大切に想い合う婚約者がいる。何故ルークなどにこんな──こんな嫌がらせをするのだ。
被験者の婚約者は、ルークにとっても大切な従姉妹だ。これがルークへの復讐だとしても、罰なのだとしても、婚約者にとっては被験者の裏切りにすぎない。彼女の気持ちを知っているルークの裏切りにすぎない。信頼する二人による二重の裏切り。なんと思うだろう。どれだけ……傷付くだろう。こんなこと絶対に許されない……!
頑に拒み、涙が零れるままに首を振ると、被験者はじっとルークを見下ろし、ふ、と諦めたように口元に自嘲を刻んで、顔をルークの胸元に寄せていった。
口を押さえていても、喘ぎは喉から鼻に抜けていった。隣室に気付かれないよう小さな声でやめろと叫び、ルークは横向きに身体をひねり、触れる手を、その視線を避けるように身体を丸めて逃れた。その動きに、被験者がぴたりと動きを止める。
なのにルークはろくな抵抗も出来ないまま、気がつけばとろとろに溶かされた後孔に灼熱の昂りを押し込まれ、なすすべもなく揺すぶられているのだった。注意の全ては、隣室の仲間に気付かれぬよう快楽の声を噛み殺すことのみに注がれていた。
ナタリア。
ナタリア……っ!
あ、あっ、ご、めん……!
被験者は忙しなく熱い息を吐きながら、ルークの耳を口に含んだ。背中に、厚い筋肉を通してさえなお強く、激しい鼓動がはっきりと感じられる。耳に舌先が入り、軟骨を辿り、舐るたびに粘った水音が脳に直接響く。被験者の余裕を失った、荒い呼吸が耳朶をくすぐるたび、快感がぞくぞくと体中を這い伝い、ルークを昂らせ、理性を刈り取っていく。肩口にぱらぱらと落ちてくる濡れて冷えきった髪から、清涼で、桂皮に似た木の香りが立ちのぼり、一瞬、ルークにくらりと眩暈をおこさせた。
《……ーク。ああ、お前、ほんとに……い、な》
《────っ!》 唐突にぽっかりと目が覚めた。
覚めると同時に跳ね起きて、何事かと腰を上げるガイとペールを尻目にまろびながら水辺に走る。辿り着くと同時に、胃が激しく痙攣した。半ば倒れ込むように砂利だらけの河原に膝を付き、嘔吐する。最初の吐瀉物の臭いが呼び水となって、胃が空になるまで何度も背を波打たせた。気がつけば、その背を強く撫で摩る手があった。
「……ガイ」
「大丈夫か?!」
忙しなく背を撫でる手に返事をすることは出来ず、滲む涙を拭いながらルークは後ろ手にガイを押しやった。優しいガイがこんな状態のルークを放って置けるわけがないと十分承知していたが、今は見られたくなかった。喘ぎながら震える両手で水を掬い、吐瀉物の臭いが残る口の中を何度も漱ぐ。
「……ごめん、ガイ」
せせらぎに消え入る呟くような声をガイはちゃんと拾ってくれていた。ずっと背を撫でている手でぽんぽんと頭を叩き、また背をなでる。何を言うわけでもなく、何を聞くわけでもなく、ただ黙って傍にいてくれる、ルークのただ一人の親友だった。
ふわっと林檎の香りが漂ったと思うと、目の前に湯気の立つ紅茶で満たされたブリキのカップが差し出された。
「ペール」ルークよりも早くガイが振り仰ぎ、その名を呼んだ。
「ずっと座っていると腰が痛くなりますなあ」
ペールらしい、のんびりとした声が聞こえ、ルークはひどく波立ちささくれた気持ちが徐々に落ち着いてきたのを感じた。
温かい紅茶に口を付け、その熱さにほっと息を吐く。ルークはその場に膝を抱えて座り込み、月光にキラキラ揺れる水面を見つめた。
「……皆を起こしちまったか」ペールが不寝番を放棄するはずがない。誰かが起きて、交代したのでなければ。
「なに、三人だけですじゃ。じき、不寝番も交代ですでの」
「そ、か。そんな時間か」ペールとガイには暖かい火の傍にいて欲しかったが、二人はルークが動かなければ決してここを離れまい。わかってはいたが、すぐに動く気になれなかった。
「……むかし」ほとんど自棄を起こして、ルークは口を開いた。「昔、何もかもを持った子供がいた。剣の才能、譜術の才能、運動能力、頭も神童と言われるほどで……ありとあらゆる能力に恵まれ、容姿も優れ、身分もあり……。大きな屋敷、力のある両親、将来の地位を約束してくれる婚約者、誰もが欲しがるあらゆるものに恵まれた子供だ。──ただ一つ、寿命以外は」
そう、彼に与えられなかったのは、それだけだった。
「彼はその預言……運命から逃れるため、多くのものを捨てなければならなかった。身分、両親、大切な婚約者。名前すら……。ただただ生きるため、涙を飲んで苦渋の思いで決断したのに、その場には偽物の身代わりが入り込んで、彼が手放さなければならなかった全てを奪い取った。そして、誰もその入れ替わりには気付かなかった」
「それ、誰の話だ……?」
「……夢の話だよ、ただの……」
──子供の居場所を奪った偽物が似ているのは見てくれだけ。怠惰で、傲慢で、無知を恥じず、臆病な小心者。長じてそのことを知った子供──本物は、自分の愛するものたちの中に当たり前のように居座っているその汚物に愕然として、激怒して──偽物を憎悪した。憎んで憎んで憎んで。ある夜とうとう偽物に、罰を、与えることに、した。
「大雨の真夜中に、本物は偽物のいた部屋の扉を叩いた。ものすごく寒い晩で、本物は濡れて凍えきってて──偽物は本物が他の誰でもなく自分を頼ってくれたんだって、嬉しかった。でも、そうじゃなかったんだよな……。真夜中に叩き起こしても罪悪感を覚えなくていい相手なんて、よく考えなくても偽物しかいないって。はは……。偽物は、その人にとって忌まわしい簒奪者だ。将来を語り、誓い合った婚約者を奪った……。だから、だから……、その夜手っ取り早く奪い返した。まずは体温……本物は冷えきってた、氷みたいに。偽物からなら、手っ取り早く暖が取れる。それから偽物が二度と自分に逆らうことがないように、男としての矜持と、尊厳を奪おうとした……んだよな。多分」いつも微笑んでいるようにさえ見えるペールの細い目が、鋭く見開かれた。