【21】
ティアがおそるおそる小さなリビングをのぞくと、おそらくは足音で気づいていたのだろう、暖炉の前に敷かれた薄い絨毯にうずくまって、薪を足している青年と目があった。
「あっ……あの、あの、ルークは……」
「ああ、まだ風呂だろうな。多分アンヌおばさんが納得するまで解放してもらえないと思う」
苦笑する青年に、ティアは得たりと頷いた。「アンヌさんが嘆くのも無理はないと思います……。だって、出会ったばかりのころに比べると毛先にまとまりがなくなってきてるんです。きっと枝毛や切れ毛が出来てるんじゃないかって私気が気じゃなくて。何度私に手入れさせてくださいってお願いしかけたか……。時々、顔に張り付くって言って固く縛るようになったけど、それってきっと髪が乾燥してきたからだと思うんです。服だって満足に洗濯できないから、襟足のところの皮膚がこすれて少し赤くなって、時々少し痒そうにしてました。日焼け止めを貸すから塗って欲しいって何度お願いしても面倒がって使ってくれないし、肌も少し厚くなって、ざらついて毛穴が」
「お、おいおい。それじゃまるでアンヌ二世じゃないか」
ティアは一体どこまでルークを観察しているのか。徐々に目と手と口調に力の籠るさまを見てガイがわざとらしく身を震わせ、ペールが苦笑する。はたと我に返り、頬を染めて立ち尽くすティアに、テーブルに座るように身振りで示し、ガイは身軽に立ち上がってお茶の支度を始めた。
「あ……わ、私が!」
「いいよ。レディは座ってて」
ルークが見れば、「うさん臭い」と眉をひそめたに違いないさわやかな笑みを浮かべて、ガイはますますティアを赤面させる。そのようすを無言で見ていたペールは密かにため息をついて、やれやれと言いたげに首を振った。
お茶を入れてジャムや蜂蜜を添えると、ガイは自分とペールのぶんもカップに注ぎ、おもむろに前の席に座った。思わず身を固くするティアに、ガイはルークが「たらし」と称する笑みを絶やさずに向けた。「そう固くならずに。少し話そうぜ」
「は、はい……」
「君はヴァンデスデルカの妹なんだよな。うち……ガルディオス家とフェンデ家の繋がりのことは知ってたかい?」
「は、はい。い、いえ、ルーク、様から聞いて……」
「あいつ、君には『ルーク』と呼ぶよう言ったろう? うん、ならそう呼んでやって。あいつはそんなふうに親しく呼んでもらえることを好む。さすがに屋敷内で働く使用人には頼まない分別はあるようだが」ガイはやんわりとティアを制し、少し照れくさげに頭を掻いた。「ところで俺は、お母上のお腹の中にいる君に会ったことがあるんだ。なあ、ペール」
「はい。旦那様が、女の子だったら息子の妻にとおっしゃり、そうなったら素敵だけれど、気が早すぎると奥様がお笑いになりましたな」
それはガイがマルクトとキムラスカの確執など知らず、ガルディオス家が最も幸福だった時代の話だ。
「あ、あ、そ……」
緊張と困惑やその他あれこれでティアの顔色はもう青と赤を行ったり来たりというありさまだった。だが、ガイとペールはお茶を勧めながら思わず笑みを誘う楽しい会話を繰り返し、ティアの緊張をほぐしていった。
「ところで、君はいつからファブレ家に雇われてたんだい? お屋敷では、レム・23の日まで一度も会ったことなかったけど」
「………………はい?」
さりげなく切り出したガイにティアが目を剥くさまは、誰が見ても演技には見えなかったが、これが演技であるならば、彼女はまさに世紀の天才女優と呼べただろう。
「あれ? 俺たちは閣下から、君の給料は後払いだから、バチカルに戻ったらまっすぐシュザンヌ様のところへ顔を出すように伝えてくれと言われてるんだが……」
「給料?!」
愕然として叫んだきり、瞬きすらできなくなっているティアに気づかれないよう、ガイとペールはすばやく目を見交わした。
「そ、そんなはずありません、私っ、雇われてなんかいないもの! 皆に迷惑かけないよう仕事も辞めて、本気で襲撃したんです! 捕まろうって、兄さんと一緒に捕まれば、私の話もちゃんと聞いてもらえるかも、真実かどうか調べてもらえるかもって……私っ……だってどこに訴え出たって、きっと狂人の妄想だって取り合ってもらえない。だから私……一生懸命考えて、」
「ああ、落ち着いて、ティア。被害者のルークは君に気を許しているようだし、そのことの真偽を俺たちは追求する立場にない。ただ……俺たちも何か話がおかしいと感じてはいてね。ちょっと確かめたかっただけなんだ」
「事件をあまり大事にしないようにという心遣いなのやも知れませんな。ま、あまり興奮されないように。眠れなくなりますぞ」
ペールがおっとりと話をうやむやにして打ち切り、まだ納得がいかず、聞かれもせぬのに自分がいかにして公爵家を──ルークを襲撃したか必死で説明しているティアを促して用意した寝室へ連れて行った。こちらにはガイ、ペール、ルーク、ティア、そしてアンヌが宿泊することになっている。
ややあってペールが少し疲れたような顔をして戻ってきた。
「お疲れさん」
「いえ。ああ、ガイラルディア様、ルーク様もティア嬢に「実は雇われていたのではないのか」と問われたそうですよ。むろん、ご冗談のようでしたが」
「ルークが? 旅のあいだになにか気づいたのかな」
「そうではなく、飛ばされるべくして飛ばされたとしか言えぬことが多いとお感じになったようですな」
ふうん、とガイは少し考え込み、どう思う、とペールに問いかけた。黙って頷くペールが自分と同じ考えなのだと知って、ため息をつく。「やはり譜歌の耐性訓練なんて、でまかせか。事前に知ってちゃ訓練にならないったって限度がある。公爵夫妻はともかく、アンヌおばさんが事前に聞かされてたって? 寝こけてた俺はともかく、警備の責任者であるお前と騎士団長くらいは事前に知らされてなきゃおかしいぜ。──あの娘は事前に計画を察知され、利用されたのかもしれない。でも、なんのために? しかもとっくに逃げてると思えば、ルークの護衛なんかやってる。給料? なぜお二人は子息の誘拐犯が逃げずにバチカルへ戻ってくるって、確信を持っているんだ。そもそもお前の話では、二人の間で疑似超振動が起こったのは偶然の事故でしかないはず。なのにアンヌが長旅の準備をすでに整えてたなんて! ──くそっ、どうにもすっきりしないな。ルークが取り替えっ子なんて思っちまうのもよくわかるぜ。『右利きのルーク』といい、ファブレ家には──謎が多すぎる」
「ゆっくり話せたか?」
ルークがアンヌがいないか窺いながらこっそり家に忍び込むと、ルークが戻ってくるのを待っていたのか、古いソファに座ったガイが読んでいた本から目を上げた。複雑な音機関の設計図らしき木版画が見え、ルークは目を逸らしながら頷く。ほんの少しでも興味があると思われたら最後、怒濤の講義が待った無しだ。「うん。──ありがとう、ガイ。ここまで結構強行軍だったんだってな」
まさか馬に聞いたわけでもあるまいに、とガイは首を傾げたが、すぐに頷いた。「だがあれこれタイミングのいいことも──良すぎることも、ま、多かったしな。大して疲れてもいない」
「それにしてもここまで早いよ。エンゲーブから鳩便送ったけど、あんまり意味なかったかな。見てないだろ?」
「俺たちはお前が飛んでった日のうちに屋敷を出てるからなあ。だが意味ないってことはないさ。閣下も奥様も安心なさったろう。お前の行き先が意外に早く割り出せたそうでさ。なんとお前が飛ばされて三時間後には、俺たち乗り込んだ船で荷物を降ろしてたんだぜ」
「そんなにすぐわかるもんなのか」ルークは少しだけ目を見張り、ガイの横に座って大きく息を吐き、肩に頭を乗せ、目を閉じた。「ガイにも師匠にも会いたかった。村の入り口でお前を見たとき、一瞬幻でも見てるのかと思った……。会えて嬉しい。すごく嬉しい……けど……旅には危険が付き物だ。なにもお前が来なくたって」
「なに言ってんだよ。俺とペールの国籍はマルクトなんだぜ? 里帰りみたいなもんだ。どう考えたって、俺たちが一番適任だろうさ。閣下も同じ考えだ。俺たちがお前を迎えに行くと申し出たら、すぐに「頼む」って頭を下げられたからな。──ま、アンヌについては俺たちに責任はないぞ? 旅支度を整えるのは俺たちより早かったくらいだし、なんといっても奥様の命だからな」
「母上が……。今度のことで、母上のお体にご負担はなかったか?」
「大丈夫、閣下もシュザンヌ様も落ち着いておられたよ。そりゃ……。少しは青ざめてらしたけど。俺たちの旅支度も、てきぱき指示しておられたし。なにせ服をまとめてる間に旅費や弁当や馬の支度も整ってて、港にはチケットを取るのに下男が走ってたからな。それで正門前にすっかり旅支度のアンヌおばさんが馬を引いて立ってたってわけ。──うーん、確かに再会した時と比べると髪のツヤが違うな」
「思い出させるなよ」
感嘆して髪に触れるガイの手を振り払って、ルークはうんざりと首を振った。ティアもそうだがなぜ女性たちは他人の髪にこれほど熱くなるのだろう。女ではないのだ、しょせん男の髪に身分と権威以上のものなどあるはずもない。アッシュほどまっすぐで艶やかで、深い真紅であるならばともかく。
ずっと、あの髪に触ってみたかった。ふわふわした自分の髪と比べ、とてもさらさらした髪に指を入れ、そのまま梳いて……。毛先まで、一度も指先に掛かることなくすうっと抜けて行く……。
「……ルーク? どうした?」
なにか考え込んでしまったらしいルークの頭を乱暴に抱いて、ガイが気遣うように問うてくる。
「あのさ、ガイ。おれ、タルタロスで」
誘拐前のルークかも知れない男のことを話そうと口を開いたとき、扉が開く音と軽い足音を耳にして慌てて口をつぐむ。
なぜかガイと二人して息を詰め、リビングの入り口を凝視していると、予想に違わずすっかり寝支度のアンヌが顔をのぞかせ、ルークを認めてきりきりと眉を上げた。
「まだ起きていらしたのですか。早くお休み下さい。御髪もお肌もせっかくきっちりと手入れしたのですから、早く就寝されて保つよう努力していただかなくては。──よもや、お外に出て夜風に当たってなどおられないでしょうね?」
「う、うん。ず、ずっとここにいたよ、な。な、ガイ」
「あ、ああ」
「……そうですか? では馬の臭いがするような気がするのはわたくしの気のせいですわね」
気づかれている、ということに気づき、ルークは思わず身を震わせたが、一度ついた嘘はつき通すほかはない。首振り人形のようにこくこくと頷く二人を見下ろして、アンヌはわざとらしいため息をついた。
「ではお部屋にお戻りを。疲れの取れる香を焚いてあります」
「あ、ありがと……。明日でいいから、それみんなにも分けてくれないか。特に……導師はお疲れだし、大使はお年を召されてる」
「かしこまりました」
どうやらルークが部屋に戻るまでを見届けるつもりでいるらしいと悟り、ルークはガイとちらりと目を見交わし、小さな吐息をついて立ち上がった。アンヌの目があったとしても、話す機会はまだいくらでもある。
「ガイラルディア様も、早くお休みにならなければ……」
アンヌの小言を背中に聞きながら、ルークは小さくあくびを漏らして、自分にあてがわれた小さな寝室へ入った。
誰が荷物に入れたのか、《レムデーカン・ノーム・22の日》の日付だけで終わっている分厚い日記帳、使いかけのインク瓶とペンがナイトテーブルの上に置いてある。ルークはそれを持ち上げてぱらぱらとめくり、ベッドに座って壁にもたれ、ペンを取った。
『……おれがタルタロスで逢ったのは誰なんだ。アッシュなのか?』
ルークは書くべきことをいつものようにまとめぬままつらつらと書き連ね、ふいに舌打ちして《レムデーカン・ノーム・22の日》の日付ごとそのページを破った。丸めて床に放り投げ、『おれは一体何者なんだ?』と書き付け、また破る。インク瓶の蓋を締め、ペン先を拭いもせずナイトテーブルに転がすと、薄く揺らめくランプの明かりに絖光るインクの跡が黒々と残った。
きっとよく眠れないだろうと思っていたが、違わず、浅い眠りと覚醒を一晩中繰り返し、眠る前より疲れた気分でルークは目を覚ました。見た夢を反復すると更に疲れる気がする。アンヌの細心の手入れを受けても肌の調子が良くなったようには到底思えない。
まだ一番鶏が鳴く前に、ルークはあきらめて起き上がった。暖炉に火を熾し、人の目に触れる前に、破り捨てた日記のページを燃やしてしまわなければ。