【20】
更に一時間ほど進んだころ、ルークは鼻先に仄かな水の香りを感じた。少しだけ立ち止まって周囲を見渡し、空気の匂いを嗅ぎ取る。
「あっ」
さあっと冷たく乾いた風が渡り、イオンの帽子が空へ舞い上がった。驚いて空を見上げ、帽子のゆくえを呆然と見つめている一同とともにルークはそれを見つめた。
「追いましょう。少し道を逸れますが、あっちに川がある。そこなら休めるでしょう」
「フリングス将軍にいただいた、お茶道具の出番ね」高いヒールのブーツなのに相変わらず疲れた様子のないティアが頷き、アットリー老人に安心させるような笑顔を向けた。「ルークは水とか食べられるものを見つけるのが、すごくうまいんです!」
「そんな才能もお持ちなのですか」
「鼻が利くだけです。水の匂いがするんですよ」
感心しきりのアットリーに、ルークは恥ずかしげに首を振り、イオンを揺すり上げて背負い直した。人の足と轍に踏み固められた道を外れて、ゆるい下り坂を降りていくと、左手に林が広がっていく。十分も歩くと、灌木がところどころ密集していて傍から目につきにくい場所に、細い小川が流れているのが確かに見えた。
「本当だ。水があります」
驚いたようにそれを見下ろすエドウズの前に、イオンの帽子がゆっくりと落ちてきた。
アニスが灌木の影にイオンを寝かせ、上着を丸めて頭の後ろに押し込み、ティアが小川で冷やしたタオルを額に乗せた。
「そのご様子は尋常のお疲れではないようですが……」
アットリーが心配そうに声をかけるのに、ルークも頷き、問いかける。「導師、譜術を使われましたか? ……ダアト式譜術といいましたか」
「……ええ。彼らは僕に力を使わせるために連れ出したんです」イオンは目を閉じたままうっすらと笑んだ。「ダアト式譜術は、代々の導師にのみ伝承される、極めて強力な譜術です。残念ながら、僕はその力を自由に行使する体力に恵まれていませんので、使うとどうしてもこうなってしまうんです。だいぶ鍛えてもらってるので、これでもかなりマシになったんですけど。ああ、少し休むとすぐ元に戻りますし、ルークのおかげでだいぶ楽させてもらいましたから、じきに回復すると思います。心配かけて、すみません」
全員に理解が行き届くようイオンが説明すると、アニスも大きく頷いた。「それはほんとうですよぅ。総長側もわかっているから、それほどの無茶はさせていないみたい。これがイオン様自身の意思でとなるとかなり無茶もなさるので、何日も寝込まれる羽目になるんですけどね〜」
「まだ言うの、アニス。あれはっ……もうさんざん謝ったじゃありませんかー」
「あれ? どれのことですかぁ?」
過去何があったのか、げんなりしたようすで額のタオルを目元まで下ろすイオンを見て、皆がくすりと笑みをこぼす。
「導師。……いや、導師守護役どの。あなたは『代理』と呼ばれている男と……どのようなご関係で?」
ずっと気になっていたのだろう。ドゥシャンは気まずそうに、だが決然とアニスに問いかけた。ドゥシャンはタルタロスの乗員、壊された艦が気にならぬはずがない。ずっと敬礼していた後ろ姿を思い出す。
「あの男は俺とルークさん、そしてフリングス少将を昏倒させ、足止めのためにかタルタロスの動力部も破壊していきました。和平のための大使が乗艦しておられる艦に対してのこの所業は、我々に対する敵対行為としか思えないのですが、実際は連れ出された導師を艦に連れ戻したりしています。あなたとも親しそうだった」
「それに関しては僕からもお詫びをしなければなりません」返答しようと口を開けたアニスの機先を制すように、イオンが姿勢を正してドゥシャンに向き直った。「彼はアッシュ。位階は詠師で、神託の盾騎士団主席総長代理──ヴァン、グランツ謡将が不在時にその業務の代理を務めている事務官です」
「──事務官? アレがですか?」
無礼にも少しだけ呆れを含んだようなドゥシャンの反問は、まるでルーク自身が発したかのように聞こえた。
「いや! 代理は剣も譜術も凄いんですよぅ、対等に勝負出来るの、総長くらいだし! けど、だからって事務官になっちゃダメってことはないですよね?! 実際すごい仕事出来る人だから! 総長の手綱取るなんてことが出来るの、ほんと代理しかいないから!」
「……アニスは本当に保護者贔屓ですよね……。まあ実際にアニスの後見人でもありますけど」ドゥシャンを引かせるほど前のめりな勢いでアニスが主張しているのを、イオンが少々面白くなさそうに肯定した。「僕たちにとっても保護者……? っていうより兄貴分? のようなものです。実際僕や、彼の従卒は、彼に剣を見てもらってますしね。僕らにとっては師匠? って言っていいのかな……。外部で華々しく活躍することがないから目立ちませんが、彼だって六神将なんですよ。けれど適材適所というと、やっぱりあの位置が一番相応しい人なのです」
「六神将……」
「ヴァンの信頼の一番厚い人ですから。彼の意見だけはヴァンも黙って聞き入れることが多いと聞いています」とイオンは頷き、でも、と少しばかり眉を寄せた。「それでも何もかもをアッシュの意のままに、とはいかないはずです。僕も騎士団の方にはほとんど関われないので、ヴァンが六神将の誰にどのような命令をしているかなど、わからないことが多いです。……まあ、ラルゴは大詠師がヴァンの監視に送り込んで来たような奴だから、六神将と言えどヴァンと大詠師の意見が一致しない限りはヴァンの命に諾々と従うことなんかなかったと思いますけど。襲撃は大詠師モースの命、その阻止と僕の連れ出しはヴァンの命、ということなのかな?」
「そのアッシュと言う男は命令違反中と言っておりましたが」
「命令違反? ……そうですか」
果たして神託の盾騎士団主席総長が腹心の部下に下した本来の命とはどのようなものだったのかと、全員が考えを巡らせたのだろう。ほんの少しの間静寂が落ちた。
『前回』は脱出を果たしたルークたち以外の兵は全滅の憂き目を見た。その中に、もしかしたらドゥシャンもいたのだろうか。親しく言葉を交わし、共闘までしたドゥシャンは、すでにルークにとって単なる「マルクト兵の一人」ではない。鏖殺が動力部の破壊程度に変わったのなら──マルクト側にとっては『程度』ではすまない問題だろうが──むしろありがたい変化だ。
最初に静寂を破ったのはイオンで、六神将といえど一枚岩ではないことを強調した上で、それでも己の所属する所の者が艦を襲撃したことを詫び、アッシュたちが動力部を破壊して機動力を奪ったことの推察など述べた。
明らかに導師に対して害意を抱く六神将を目の当たりにしているドゥシャンは、その表情を少しだけ和らげ頷いた。納得したのかどうかはわからないが、導師と言えどもまだ年若い少年が巨大な組織の何もかもを把握しているはずもなく、その責任を全て負えるはずもないことはわかっているのだろう。
少しだけ固くなってしまった空気の責任を感じてか、ドゥシャンは持ち前のおおらかな笑みを浮かべ、湯を沸かすための枯れ枝集めにルークを誘った。むろんルークに否やはなく、気軽に応じて立ち上がる。ポットやカップはアスランから渡された軍用のそっけないブリキ製だが、休憩にはやはり温かいお茶が欲しい。
ルークは林に踏み込んだ。林といっても樹木はまばらで、日差しを完全に遮ることもなく、イオンたちが休んでいる場所も別方向で枯れ枝を探しているドゥシャンの姿も木々の隙間から透けて見えるほどのものだ。
柴を拾いつつうろうろしていると、ほんのりと林檎の香りが漂っている場所に気付いた。香りを辿り、ルークは野生の林檎の木を見つけた。人の手の入らないそれは、甘みもないことはないかな? 程度の甘みしかなく、何より固いのでそのまま食べるには向かない。だが薪は燃やすととてもよい香りがするのだ。きっと皆の疲れや緊張を解すだろうと、落ちている枯れ枝を集めていく。
ほんのりと良い香りの立つ薪は、それだけで人の心を柔らかくほぐす。湯を沸かし、金気臭いブリキのカップで砂糖たっぷりの熱いお茶を啜るころには、イオンの顔色も普通に戻っていた。気休めかもと言いながらティアが二度譜歌を繰り返したのも効いていたかもしれない。
互いの体調をもう一度確認し、火の始末をつけたあと、一行は再び埃っぽい道に戻って村へ向けて出発した。
実はイオンよりも体力が心配されていたアットリー全権大使は、何故か一同の中で最も元気溌剌、陽気にしゃべってばかりで、珍しい植物を見つけてはすぐに道を外れようとする。二人の護衛は慣れっこなのか、周囲を警戒しながらも時折苦笑を漏らしていた。
イオンの方も自己申告が嘘ではないらしく、自分の足で歩き、アットリーと同じように好奇心いっぱいに周囲を見回す余裕ができたようだった。
ゆっくりと休憩を入れたせいで、予定よりもずいぶん遅れてしまったが、ようやく目指す村の明かりが見えてきたときには、全員から歓声が上がるほど十分に元気が残っていた。
村は思っていた以上に小さかった。ここでの支度がセントビナーまでの行程を楽にするかどうかを決めるのにと表情を曇らせるドゥシャンに、とりあえず宿があるかどうか確かめましょうとアットリーが言ったとき、夜陰に紛れてわかりにくくなっていたが、村の入り口に立つ二本の柱の影にもたれていた人影がゆらりと身を起こし、こちらに注意を向けるのが見えた。アットリーの二人の護衛、ドゥシャンが警戒する横で、ルークはそのシルエットにどきりとして立ち止まり、次の瞬間大声を上げてまっしぐらに駆け出した。
「ガイっ! ガイーっ!!」
「お! ル、ちょ、」
両手両脚でがっちりと飛びついたルークを、ガイは派手によろめきながらもなんとか受け止めてくれた。「なんだよ、なんでガイがこんなとこにいるんだよ?!」
「お前を待ってたんだ。お! 大人数になってんなー。この村の宿、今は橋が落ちたとかで足止め食ってるやつが多くて空きがなくてな、空き家を借りて宿代わりにしてるんだ。二軒借り上げといて良かったぜ。割り振りはあとで決めてもらうとして──取りあえず食事にしていただこうかな。皆さん、どうぞこちらへ。ご遠慮なく」
「えっ? どういうことなんだ、ガイ? どうして──」
「話すと長い。後でな、ルーク。それよりほらほら! 先に紹介して」
「えっ、あっ」
突然現れた見知らぬ男に、ハント、エドウズ、ドゥシャン三人の男は剣に手をかけているし、アニスはイオンを庇っている。ティアは自分から不審人物に飛びついたルークの元にいくべきかどうするか悩むように、中途半端な位置でうろうろと手と視線を泳がせている。
「この人はガイラルディア・ガラン・ガルディオス伯爵、おれの幼なじみで、マルクト人だ。怪しい人物じゃないことは、ファブレの名に懸けて保証する」
ティアが目を見開いてまじまじとガイを見つめ、ドゥシャンが息を吐いて剣から手を離した。
「ガルディオス家というと、ホドの……!」アットリーが護衛二人をかき分けるようにまろび出て、飛び出さんばかりに目を見開いて呻いた。「おお……間違いなく。あのガイ坊やが、なんと大きく立派になられたことか……。お父上が、お父上がご覧になったら、なんと……」
「私もホドの屋敷であなたにお会いしたことを憶えています、アットリー卿。ご無事でなにより」
二人のやりとりにより、ようやく一同にほっと弛緩した空気が流れる。ガイはその人好きする笑顔で一軒の家を指し示した。「お疲れでしょう、一昨日から煮込んだシチューが食べごろです。私たちで食べ尽くすまえにお着きになって良かった」
それを聞いて、全員が空腹の限界であることを思い出した。案内されるままに、いそいそとガイのあとに従う。
「うわぁ良い匂い! ね、ね、イオン様!」
「ほんとうだ。思えばタルタロスの昼食も食べはぐれてますよね、僕たち」
「これはたまりませんねえ!」
「腹が、腹が鳴りっぱなしで辛い……」
「なあ、ガイ、『私たち』って──」
「もちろんペールとアルスヴィズは来てるさ。アルスヴィズはお前の馬だし、ペールは俺の護衛騎士だから俺に付いてくるのが当然だ。だがなんと! ──驚けルーク! 我らが愛すべきソクラテス夫人、アンヌおばさんまで来てるんだぜ!」