【19】


 部屋に入って来たイオンの顔を見てルークは目を見張り、ティアは立ち上がろうと中腰になったまま凍り付いていた。アットリーの目玉は今にも飛び出してしまいそうだ。アニスは一瞬悔しげに顔を歪めたものの、すぐに笑顔になって主を促した。
「ほらほらイオン様、皆さんも驚かれてますし、まずお顔を治さなくちゃ──ありがとうございました。あとはこちらで」
 後半は導師をここまで送って来た二人のマルクト兵に向けられたものだ。兵が敬礼して去っていくと、ティアが慌てて立ち上がった。
「わ、私、回復して差し上げていいですか?!」

 イオンの顔は、左頬が腫れて完全に変形していた。広範囲に渡って紫──青黒く変色したうえ、腫れた頬が目を半分ほどふさいでしまっている。アニスのように小さな女の子さえ容赦なく叩き潰した男は、己が仕えるべき導師にも加減のない暴力をふるったらしい。当たりどころが悪ければ、命さえあったかどうかと危ぶまれる、そんな怪我だった。右半分が可憐と言っても良いほど繊細な美しさを残しているため、それは実際の怪我の程度より無惨に見えた。

「あなた第七音譜術士?! やった、助かりますぅ〜、グミだと傷跡残っちゃうかもしれないし!」
 アニスは明るい口調とは裏腹に、心底ほっとしたようにイオンを軽く押し出した。
 澄んで通る心地よい歌声にイオンが深く息を吐き、目を閉じると、顔から速やかに腫れが引き、内出血で青黒く染まった部分も薄まっていった。完全に何事もなかった状態に戻すのは例え譜歌でも難しい。小さな異変を感じさせる程度にまで回復させることが出来るのは、途方もない力だった。
「ど……ど、どうでしょうか……?」
「──今のは譜歌ですね。ありがとう、治まりました、ティア」
「な、な──?」
「譜歌を歌えるものは、現在二人しかいないはずですから」
「あ──」
 退役済みの下っ端兵士にとっては雲上人であるのだろう導師から親しく話しかけられ、ティアは完全に挙動不審になっていた。うろうろと動かした視線がルークと合い、良くやったという思いを込めて頷いてやると、ようやく落ち着きを取り戻してわたわた振り回していた手を収める。
 アニスはイオンをにこにこと見つめ、室内を見回しアットリーらに会釈した後、ルークに目を留めた。
「朱い髪……ラムダスさんですね」
「アニ……導師守護役殿。もう大丈夫なんですか?」
「はい。代理から聞きました、迷惑かけちゃって、すみません。もう大丈夫でっす! なんかアレを倒して下さったとか! ありがとうございますっ!」
 声をかけると、若干怠そうではあったが、思ったより元気よくアニスが答えた。
「迷惑など。……大変でしたね」
「……えへへ。本当は反撃しちゃいけなかったんだけど、あたしすぐ切れちゃって。イオン様にも友だちにも良く叱られるんです……」
「それだけ導師が大切だからでしょう」
 だがそのせいで死にかけたことはわかっているのか、アニスはひどく鬱いでいるようだった。守るべき人を傷つけられても、なすすべもなかった自分のことを、責めてもいるだろう。それはアニスの職責の問題であり、ルークは下手な慰めも言えず、結局そんなことしか言えなかった。ぶっきらぼうに聞こえたかも知れない、とかすかな後悔が胸をよぎった瞬間、アニスが「はい」と言って顔をあげた。
 なるほど。反省はしているが、同じことがおきたらまた同じ行動をとるというのだろう。決意と信念に満ちた表情は「アニスらしい」という気がして、ルークは微笑みかけ、アニスもそれを見て、どこかほっとしたように目を細めた。
「じゃあイオン様、あたしなにか冷たいもの用意してきますね!」
「アニス……! 君も少し、」
 その後ろ姿を追おうとするイオンを、ルークが止めた。
「導師、少しお休み下さい。──あのお顔では導師守護役フォンマスターガーディアンが切れるのも無理はありません」
 イオンは記憶にあるよりも少し大人びた表情で、一瞬ひどく切なげにアニスの小さな背を見送った。ここから連れ出された時、彼は自分の顔の怪我どころではないアニスの有様を見ただろうか。真に休息が必要なのはもちろんアニスの方だったけれど、導師守護役としての彼女の矜持を慮り、ルークはイオンを引き止めた。
「──ええ。ラムダスさん。僕からもお礼を言わせて下さい。アニスを助けて下さって、ありがとうございます」
「え、いや、アニスを助けたのは、」
 アッシュ、と言って良いのか、そもそも『ここ』でなんと言う名を使っているのか。迷って言葉に詰まり、神託の盾の……と絞り出した所でイオンがルークの手を取った。
「レイズデッドがギリ間に合ったのは、あなたが先にファーストエイドを掛けて下さったからじゃないかとアッシュが言ってましたよ。それに、仇を討って下さったのはあなたですよね?」
「……アッシュ」
「──あなたが倒して下さっていなければ、ラルゴは僕が殺していた」
 一瞬だけ、鋭い目つきに剣呑な光が走り、ルークは思わず息を飲んでイオンの表情を見直した。イオンはすぐにニコリと無害で無邪気な笑顔に切り替えたが、一度目の当りにした『以前』との印象の違いは覆せない。
 正面から対峙してよくよく見ると、記憶にあるより若干体格が良いような気がする。『以前』は顔は元より全体的に線の細い印象があったが、今は立ち姿や視線の運びにあまり隙がない。ゆったりした衣装のせいで腕や脚の太さや身体の厚みはあまり良くわからないが、袖口からのぞく指先は少女めいた容貌に似つかわしくない、節くれ立って筋張ったものだった。

 イオンがアットリーに促されるままソファに座ると、アニスが冷たい飲み物で満たしたグラスを運んで来た。

「つまり、今回の事態とは」
「はい。大詠師モースによる僕の捕縛の意と、僕を手中に収めたいヴァンの意が一致した末に起こった事態のようです。うちの兵は皆──六神将の一部は除外して──全権大使が乗艦されておられることは知りませんでした。おとりに用意した海路のほうが本命と言う判断でしょう。なので僕がマルクト側へ奪還されたと気付かれ、何か手を打たれる前に、カイツールに到着しなくてはなりません」
「それなのですが」導師の発言にアスランが応じた。「タルタロスの動力部は『代理』と呼ばれる男と『烈風』によって破壊されました。修理はしましたが、しょせん応急処置にすぎませんのでいつまた動かなくなるか……残念ですが、これまでと同じ速度での走行は不可能です」
 聞いてイオンがひどく申し訳なさそうな顔をした。 「どの程度出せますか?」
「二十キロがせいぜいです」
「それではキムラスカ側との約束の期日に間に合わない」とハントが唸れば、「まさか全権大使を徒歩でお連れせよ、と」エドウズが引きつった声を上げる。
「今回の詳細は、すでにキムラスカへも飛んでいます。カイツールでは護衛のための軍がすでに組織されているはず。表向きの理由は『事故で疑似超振動を起こし、マルクトに飛ばされたルーク・フォン・ファブレ第三王位継承者保護』のため。キムラスカは、すでにあなたの居場所を把握していたようですね」
 ルークはアスランの口から突然出た自分の名に瞬きし、次いでかすかな驚きと深い納得をじわりと表情に昇らせた。目覚めてから、アスランがルークをルークと呼ぶのはそのためだったのか。
 この瞬間に、ラムダス・シュミットの名も身分も必要のないものとなった。

……やはりキムラスカは預言を知っているのか。『以前』と同じく。本気で和平を進める気など、実はないのだろうか……。

「あのとき屋敷にはグランツ謡将もいらしたのだし、確かにおれをダシにするのが一番いらぬ疑いを招かずに済む。こうなるとこの時期に事故が起こったことに、必然性があったような気になってくる。な、ティア」
 背後に横顔を見せてティアにそういうと、ティアはぱちぱちと瞬いてきょとんとルークを見つめ返した。
「実はキムラスカに雇われて、導師と全権大使の元へおれを送った?」
「そんなはずないでしょう。あれは事故よ!」ティアは一応きっぱりと否定はしたが、そのあと少し自信なげに言いたした。「けど、今考えれば簡単に侵入できすぎたような気もするの。もしかして私の計画なんかとっくの昔にバレていて、うまく利用されたのではないかと言われれば否定しきれないかも……」
「命を失う可能性のほうがずっと強いのですよ。そんな計画のために超振動を利用するなどあり得ません」
「あーすみません大使。不謹慎な冗談でした」
 若者たちの馬鹿な会話は、呆れたように嗜めるアットリーの前に苦笑で消えた。
「この艦は、一度エンゲーブに戻り修理を行った後任地カイツールへ向かいます。私はこのたびのことを報告するため、一時この艦を離れてグランコクマに向かいます。そこでカイツールまでの全権大使と導師イオンの警護なのですが……」アスランが戸惑うようにルークを向いた。「『黒獅子』を倒されたそうですね。キムラスカの第三王位継承者のあなたを、あてにさせていただいて良いでしょうか?」
「もちろんおれも喜んで全権大使の護衛をさせていただく」
「ならばお願いします。ハントさん、エドウズさん、ラ……ルークさん、アニスさん、ティアさん、そしてワッツ大尉。警護は以上六名になります。……どうぞカイツールまで全権大使と導師イオンをお守り下さい」

「ラム、いえ、ルークさん。ご身分もある方なのに……ありがとうございます」
「どうぞルークとお呼び下さい、導師。命の危険を省みず和平に尽力下さる導師と全権大使をお守り出来るとは、光栄の極みと存じます」
「ルークさん、イオン様は同性の友人を欲しがっておいでですから、固いことはなしでお友達になってあげてくださいよぅ」
「今、僕が言おうと……」
「はいはい。服直せましたから、着替えましょう」
 どこか遠慮がちに言葉を交わしていた二人の間に、アニスがすぱっと割り込んだ。口を尖らせるイオンを見ていると、主従といえども気の置けない関係であること、それをどうやらイオンが好ましく思っているようだということがわかる。イオンはアニスの前では、ごく普通の少年のように振る舞うことが出来るらしい。苦笑してティアと目を見交わしているまえで、イオンは「だって、アニスの服でしょう? 手直ししてくれたって女性の服は女性の服じゃないですか」と反抗していたが、「イオン様は普通の服持ってないんだから仕方ないでしょ」と軽くいなされながら隣の部屋へ引きずられていった。

 しばらく経ってから照れくさそうに現れたイオンは、髪飾りもすべて外され、キャスケット帽を被っていた。そのうえ膝丈のパンツと短いブーツときては、下町を駆け回る少年たちとまったく変わらない。いささか品が良すぎるかもしれないが、ローレライ教団の導師とわかるものはよほど本人と親しい人物だけだろう。
「女の子に見えやしませんか?」
「大丈夫です!」
 顔だけみれば「多分少年」という感じだろうが、ここのイオンは市井の少年のような服を着たらすんなりと真っすぐに伸びた手足に薄らと乗った筋肉もあって、到底女の子には見えなかった。
 ルークが頷くと、イオンはほっとしたように笑った。
「では、全権大使に声をかけてきます。あちらはもう準備を済まされてますから」
 ティアが少ない自分の荷物を持って先に部屋を出ると、ルークたちもそれぞれ荷物を持って部屋を出た。

 タラップにずらりと並んだマルクト兵に見送られ、一行は慣れない徒歩の旅に踏み出した。数分歩いたところでタルタロスが反対方向に移動していくのが見え、一行は立ち止まってそれを見送る。ドゥシャンは木々の影にその巨体が完全に消えるまで敬礼を崩さなかった。
「まずはセントビナーを目指します。徒歩だといつ到着するかも知れませんが、幸いにも数時間程度歩いたところに小さな村があります。今夜はそこで休み、馬車を調達します。その先は宿もない小さな集落がところどころにあるだけで、野宿になります。必要な物を揃えられるのは、ここが最後です」
 地図とコンパスを確認してドゥシャンが言うと、全権大使初め全員が頷いた。

 平素人の通らぬ道はなかなかの悪路だったが、誰一人文句を言うものもなく黙って歩き続けた。大きな街道を外れた道には、魔物が普通に現れてもよさそうなものだったが、人数が多いからなのか、あるいはパーティーの実力が底上げされているからなのか、二、三度群れからはぐれた魔物がふらりと襲ってきたのをドゥシャン、ハント、エドウズ三人が切り捨てたあとは、極めて安全な逃避行といえた。
「すみません、どこかで休憩取れませんかぁ」
 特徴のある少し間延びした口調とは裏腹に、アニスが切迫したように言うのに振り向くと、少し顔色の良くないイオンが驚いたような顔を一同に向けていた。
「え? いや、アニス。僕なら大丈夫ですよ」
「大丈夫じゃありませんよぅ」アニスはぐっと乗り出してイオンの顔を覗き込み、間違いない、というように力強く頷いた。「このイオン様研究家、アニス・タトリンの目はごまかせません」
 イオンは慌てたように首を振ったが、血の気を失ってやや白くなった顔は、全員の目にもかなりの不調と映る。

──やっぱダアト式譜術を使ってるよな……。

「少し休憩したいところですが……ここでは」
 道と草原で見晴らしが良すぎる周囲を見回して、エドウズが唇を噛む。
「いいよ、休めそうなところまで、おれがおぶってく」
「とんでもありません!」
 気軽にイオンの側に寄ったルークに、イオンは手を振って一歩下がる。
「ルーク様、俺が」
「ドゥシャン。……いいんだ、ドゥシャンは道案内に専念してくれ」ルークの体格では負担も大きいと判断して言ってくれたのだろうが、ルークは首を振った。
「おれはほんとは……おれにおぶされよ、イオンって……言いたかったんだ」

 ……その台詞は小さく、聞き取れたのは当のイオン、ただ一人だった。
 イオンは驚いて目の前の少年を見上げ、その泣くのを堪えて無理に笑んでいるような顔を覗き込んだ。
 自分を見て、彼は『イオン』を思い出しているのだろう。『イオン』とルークにはどのような感情の交流があったのかはわからないが、ルークが『イオン』を大切に想っていたのだろうことは感じられ、イオンは頷いて「ありがとうございます。でも僕、見た目より重いですよ」と了承の意を示した。

 ルークは滲んだ涙を袖でぐいっと拭ってから、今度は明るい笑顔を見せた。背中にそっとおぶさって来たイオンを大切に抱え直し、心配そうなアニスを安心させるよう笑顔を向ける。
「軽いですよ」
「そんなはずは」
「ほら!」
 ルークがイオンをおぶったままでその場で回転したり少し走ってみせたりすると、アニスが「ルークさん止めて下さいよぅ」といざイオンが落ちて来たら受け止めるぞと言わんばかりに両手をのばしておろおろとその周囲を回り、イオンが笑い声の混じった悲鳴を上げてルークの頭にしがみつく。

「ルーク様もイオン様もしっかりしておいでですが、ああしていらっしゃると孫たちと変わらないように見えます。まだまだ子供っぽいところもおありなのだと思うと、なんだかほっとしますねえ」
 じゃれている子供たちを見て、アットリーが目を細めた。


2019.05.23改稿 (初出は2012.12の後半。継ぎ接ぎのため)