【17】
夢の中でこれは夢だとすぐに気付くのもおかしな話だが、ルークはすぐにそれが夢だとわかった。つい先日、ルークは現実でそこに立って、夜とは思えぬほど明るく輝く海を見つめたのだ。
タタル渓谷。広く満開に咲く、白いセレニアの絨毯。左右に切り立った崖の狭間から、半壊したレプリカホド──エルドラントが見える。
その花の上で、男が一人、剣を振っていた。
足はすり足でほとんどその場を動くことなく、まるで羽虫とたわむれているかのように見えたが、見つめているうちに、風に舞い散る白い花びらを両断しているのがわかった。柔らかく、羽のようにふわふわ舞う小さな花びらは、普通なら風圧で逃げていくばかりのはずなのに。まるで剣に向かって花びらが吸い寄せられているようだ。
(あの時のお爺さんだ……!)
ふとした動きの変化でルークにも顔が見え、初めてここに飛ばされたときに見た夢の老人であることがわかった。とっさに両手を確認し、自分があの時のような子どもでないことに少しだけほっとする。
二振りの剣の動きには直線的なところが全くなく、極めて柔らかな曲線を描いている。少し、アルバート流に似ているかもしれない。いや、二刀流ならば、どちらかといえば両手に剣と鞘を持つシグムント派寄りだろうか。だが、より隙がない。剣自体、固い金属でできているのが信じられないくらい、柔らかく撓って見えた。まるで刃の付いた布でも振っているように。
それはルークの目にはすでに剣術ではなく舞踊──一つの芸術のようにすら思えた。
半壊したエルドラントの上で、真円のルナが青白く輝く。光はそこから強くまっすぐに差し込んで、セレニアの絨毯と老人の白い髪を輝かせる。両断された花びらも淡く光を帯びて身体にまとい付き、まるで老人自体が仄かに発光しているようにすら見える。
美しかった。
神々しい、と言うべきなのだろうか、戦神が一時戦いを忘れ、セレニアの精と戯れて遊んでいるような光景だった。
ルークは、老人の呼吸を妨げることのないよう、息を潜めてその光景に魅入った。
《出ておいで》
どのくらい経ったのか、老人の剣にすっかり魅入られ、なかば空気に溶け込んだように気配を断っていたルークに、老人が寂びた声をかけた。
夢から覚めたような気分でルークは目を瞬かせ、自分が実体を伴う存在であったことを意識しながら、おずおずと足を踏み出した。そのときにはすでに老人は二振りとも剣を鞘に収めてしまい、両手をぶらりと垂らした自然体で立っていた。もちろん、ルークになんの害意もないことなどお見通しなのだ。
《こ、こんにち、は》憧れと尊敬の念が強すぎて、挨拶の言葉を吃らせる。《またお会い出来るとは、思っていませんでした》
すると老人が不思議そうに首を傾げた。顔はまっすぐにルークのほうを向いている。その目が両眼ともに白く濁っているのを見て、ルークはやっと老人が盲目であることを思い出した。いや、ルークが忘れていたのではなく、老人の剣がそれを思い出させなかったのだ。
老人が視力に頼ることなく、四方八方に舞い上がった花びらの気配をすべて読み取ったうえ、最少の動きでそれを両断していたことに改めて気付き、ルークは素直にあなたの剣は凄い、と感嘆の声をこぼした。
《ありがとう》老人は正面からルークを見下ろしたまま軽く会釈し、本当に申し訳なさそうに問うた。《──すまない。君とはどこで会ったのだったかな?》
ルークはそれを聞いて、ひどく落胆した。ついこの間のことなのだが、もう忘れてしまっているということは、老人にはさほど印象的な出来事ではなかったのか。歳をとると物憶えが悪くなる、とたしかにクルトも言っていたが、クルトやクララと接していて、それを感じたことなどルークは一度もなかったのだ。
何故か自分でも驚くほど強い寂しさと悲しみを感じ、ルークの頭からは敬語も弾けとんだ。
《一週間くらい前に、レプリカホドで会ったんだよ……もう憶えてない? あなたはおれに、レプリカが懐かしいって、自分が最後のレプリカだって教えてくれた》
《レプリカホド……》
忘れられていたことを責める色はほんのわずかで、悲しみの気配が強く漂うその言葉を聞いたとたん、老人が見えない目を軽く見張った。
《あのときはおれ、わかんなかったし、あなたも断言はしなかったけど、あとで思い出したんだ。それでおれ──》
《ああ──いや。すまない。よく憶えている。ルーク。君の名はルークだったね?》
《あ、ああ!》名前を憶えていてくれたと知って、波が満つように喜びが胸を満たし、現金にもあっというまに忘れられていた悲しみを払拭する。
《本当にすまない。私にとっては、あれは二年も前に見た夢だったのでな》
《二年?!》
驚くルークに、老人は軽く首を振って苦笑した。《現実と夢の世界では、時の流れが違っていてもおかしくはなかろうよ。だが、不思議なこともあるものだな。私は長く生きてきたが、夢の続きを見るようなことがあるとは思わなかった。……もっとも、見えていないのだから、『夢を見た』とは言わんのかもしれないが》
《いつもは見えてんの? ──見えてるんですか、夢の中だと》
《うん。ああ、そのままでお話し。敬語はいらんよ》老人は頷いた。《眼病を患って完全に失明してから、かれこれ二十年は経つが、それまでは普通に見えていた。だから夢の中では目が見えるのが当たり前だと思っていたんだが……》
後半は、ルークに話すと言うよりなかば呟きに近かった。だがその呟きにルークの心臓が大きく跳ねた。夢。この老人は、夢の中の住人ではないのだろうか。だとしたら、一体どこでこの夢を見ているのだろう。
《君は、ここがどこかわかるか?》
老人は、意識してかそうでないのか、前回と同じ質問をした。前と違って、今度はルークも頷いた。
《タタル渓谷です……だよ。かなり上のほう。セレニアの原っぱがあって、正面に海と半壊したエルドラントが見える》
《やはりな。……何度も足を運んだ場所だ、なんとなくそうじゃないかと思ってはいたよ》
老人はため息をついて海の方向に向き直り、その場にすうっと音もなく胡座を組んで座り込んだ。背中を丸めた、どこか寂しげな風情にルークは切なくなって、少しだけ寄り添うように隣に座って足を抱えた。
《……さっき、あなたが花びらを切っているのを見て、おれはあなたの目が見えないってこと、一瞬忘れたよ。それほど自然で、楽しそうで……すごいと思った。あなたは、目が見えなくなったとき、剣を捨てようとは思わなかったんだな》
《そう言われると面映い。いつまでも目を覚ませないので、少々花に八つ当たってしまっただけなのでな。──そうだな……もともと、三十を越したころから筋力や、握力、体力の衰えを感じるようになって、そのたびにあれこれ工夫していたんだよ。剣が重いと感じるようになったから、軽く、短い剣に持ち替えた。すると力不足だと感じたから、もう一本剣を持ってみた。それならこれまで使っていた型も技も、双剣に合わせて変えねばならん。新しい型に合うよう、剣も古今東西あらゆるものを試したな。体力が落ちて、戦いが長引くと不利になる歳になってくると、出来るだけ動かず効率よく敵を倒せるよう、さらに剣の型を変えていった──。そうやって自分の力を維持するのを、私はずっと楽しんで来た。たしかに、視力の衰えにはこれまでにないほど苦労させられたが、今思えば、それもやはり楽しんでいたような気がする》
こうして隣に座っていても、老人からは、父や、クルト、ペール、ヴァンを前にしたときに感じる圧迫感、威圧感をまるで感じない。なにものも侵さず、なにものも脅かさず、万物と自然に調和している。ただ、泰然と。このセレニアの花畑の小さな一輪のように、道ばたに転がる小石一つのように──この清冽な、夜の空気のように。
この老人こそが、本物の剣聖だ。
こともなげに笑う老人を見て、ルークは深い畏敬の念に打たれて身体を震わせた。
現代の剣聖と呼ばれるヴァンですら、この老人の前では幼児に等しいだろう。父はヴァンを越えて、ルークこそがそうなれると言ってくれたが、あと五十年努力したところで、この老人の境地に達することができるとは到底思えなかった。
《……そうやって、剣っていうのは進化していくんだな。双剣のせいかな? シグムント派の剣にちょっとだけ似てるって思う瞬間もあったけど、それよりぜんぜん隙がない……元々あなたが修めたのは、なんて言う流派なんだ?》
老人は驚いたように顔を上げ、ルークの方に顔を向けた。見えないルークを探すように、白く濁った目がうろうろと彷徨う。《シグムント? 君はもしかして、カレンデュラの知り合いか?》
《……カレンデュラ? ううん、知らない名前だ》
ルークが否定すると、老人は少し苦笑いして首を振った。《ああ……気にしないでくれ。私も愚かなことを言ったとはわかっているんだ。夢と現実を混同するなど》
《そういうこと、おれにもよくあるよ。どっちが現実かわかんなくなる時が》特に、『以前』の夢を見たあとは……。
《しかし、君は不思議な子だな。シグムントの剣はこれと見込んだ一人にしか伝えられないものだ。継承者の身近にいなければ、目にする機会などそうはないと思うが》
《うん、でもおれの親友がその見込まれた一人なんだよ》
《ほう》老人は子どものように好奇心を浮かべて、ルークに向き直った。《とんだところにカレンデュラのライバルがいたものだ。名はなんという?》
《あなたの知ってる継承者はカレンデュラっていうのか? おれの知ってるのはガイラルディア・ガラン・ガルディオス、ホドの伯爵だ。今はおれんちの食客だけど》
この老人が、どれほど虚を突かれたところで、これほど無防備に驚きを現すことがあるとは思わなかった。老人は驚愕に歪んだ顔をそのままに、ルークに向かってふらふらと手を差し伸べた。
《すまない。……君の名を、もう一度聞かせてくれないか……》
《え。ルークだよ。……ルーク・フォン・ファブレ》
瞬間、老人は大きく喘いで、固く目を閉じた。
《そう……そう、か。ここは死者の住まう世界なのか……だから、二年前も、今も……》
《だ、大丈夫……?》
《ルーク、君の顔が知りたい。……触れてもいいか……?》
《う、うん》
目の見えない人がしばしば触覚でものを捉えるということを聞いたことがあったため、ルークはいざって老人の前に座った。だが、まるで神懸かったように周囲のものを把握していた老人が、彷徨う手の先にルークの顔を見つけられずにいる。その油分を失って乾いた、筋張った手が、小さく軽い花びら一枚を正確に両断したのが不思議なほど小刻みに震えているのを見て、ルークはおずおずと老人の両手首を掴み、その手のひらで両頬を包んだ。
冷たい指先が、震えながら膚を這っていく。眉や目蓋のくぼみ、鼻すじ。頬のまるみも、唇も。睫毛の一本一本も確認しているのかと思うほど、老人の手は同じところをなんどもなんどもなぞった。
顔に触れて、老人はなんと言うのだろうか──。
ふいに、老人の両手が離れた。照れくさくて思わず閉じてしまった両目を、うっすら開いて様子をうかがったルークは、次の瞬間、目を見開いた。
老人の、白く濁って光のない両目から、滂沱の涙があふれ出していたからだ。
《お、じいさ、ん……?》
《わからない》老人は苦しげに眉を寄せ、固く目を閉じた。だが、涙は止まることもなくなおもあふれ、深い皺の刻まれた、乾いた頬を流れていく。老人はそれを拭おうともせず、呆然と呟いた。《もう、どんな顔だったのか、思い出せない……。決して忘れるはずがないと思っていたのに、俺は、とうの昔に彼の面影を失っていたんだな……》
ルークは泣き続ける老人の顔を息を飲んで見つめた。老いていても、目鼻立ちがすっきりと整っているのがわかる。若いころは、さぞかし女性の心を騒がせたことだろう。
ルークの顔に触れて、一体なにを思い出したのか。大人の男が、このように人前で恥ずかしげもなく涙を流すのを見るのは初めてだった。ずっとそれをみっともないことだと思っていたのに、今初めてそれを目の当たりにしても、幻滅などまるで感じない。カッコ悪いなどと、少しも思わなかった。
《──っ、泣かないでくれよ……》
つられて泣きそうになりながら、ルークは袖口で老人の涙を拭った。悲嘆に暮れる老人の姿は、これまでに見聞きしたなによりも、ルークの心を痛ませる。《泣かないで……》
ゆっくりと繰り返しながら、ルークは老人の肩に両手を付いて伸び上がり、唇で目元に溢れる涙を吸い取った。ぎょっとしたように老人が目を開き、身体を強張らせる。頬の涙を袖で押さえながら、ルークは構わず反対側の頬にも唇を落とす。涙は、悲しみと寂しさ、苦い後悔の味がした。
顔中を濡らす涙を、唇と袖口で丁寧に吸い取っているうち、いつしか老人も肩の力を抜いて、再び目を閉じた。ルークが老人の顔をのぞき込み、新たな涙がないことを確認していると、老人がふ……と吐息を付いた。
《……すまん。まったく、歳を取ると涙もろくて敵わんな》
《お年寄りはみんなそう言うよな。でも、ほんとに泣いてんのを見たのは初めてだ》ルークはくすりと笑って身を引き、老人の正面に座りなおして笑った。
《君は……優しい子だな》涙と一緒に苦痛も洗い流したのか、そういう老人こそが、優しい穏やかな顔をしている。《君の歳ならば、そういう言われ方は好まないかもしれないが……優しい子だ》
そんなことを言う相手がこの老人でなければ、ルークも非常にバツが悪い思いをしたかも知れないが、ルークはいつになく素直な気分で答えた。《ちょっと恥ずかしい。けど、嫌じゃねえよ》
すると老人が、少しだけからかうような笑みを浮かべて言った。《まさかこんな歳になって、君のように若い人に、これほど情熱的にキスされることがあるとは思わなかったな》
《じょ……?》ルークは絶句し、続いて自分の行いがどのようなものだったか、客観的に思い返して顔から火を噴いた。《ご、ご、ご、ごめん……! お、おれっ、おれ、そんなつもりじゃ、》
《なぜ君が謝る? 得をしたと言っているのに》
《だ、だって、若いったって、おれ、男だし。気持ち悪かったんじゃ!》
良く知りもしない男から顔中キスされたり、舐めまわされたりして気分のいい男はいないだろう。
《キスは誰にされても嬉しいものだよ》だが老人は、涙の気配が漂う目元に安堵を刷いて、どこか嬉しそうに笑った。《君は優しくて、とても素直な子だ。大勢の人に大切にされ、ご両親に愛されて育ったのがわかる。──君は今、幸せか?》
ルークはその問いに、あの日目覚めてからの日々をぐるりと思い起こした。
ルークを気にかけてくれる厳しくも優しい両親。学ぶ楽しさと知識の増える喜びを教えてくれた、教師たち。正体を隠さず真の友人として屋敷に滞在するガイとペール師匠。無事生き延びたマリィベルが医者を目指したのは、きっとシュザンヌのためだ。
なぜこんなことになったのかわからないという不安を除けば、ルークはこの上なく理想的な環境で思うように生きている。
「う……うん」
急にうずうずと照れくさくなって幼い子のように頷けば、微笑む老人の目に最後の涙が盛り上がり、頬をすうっと流れて、落ちた。