【16】
ルークの目には、アニスしか見えていなかった。叫び声に気付いて襲いかかってきた神託の盾兵を、ほとんど無意識の一閃で切り捨て、アニスの元に飛びつくように駆け寄る。
血にまみれた小さな身体は、負った傷によって全身が腫れ上がっていた。どこに触れても痛い思いをさせてしまいそうで、ルークは触れることさえ躊躇してしまう。「なんで……アニス。だれがこんな……っ」
だが、ほんの一瞬だけおろおろと両手を泳がせたあと、ルークはぴしゃりと己の頬をたたいて、ファーストエイドの詠唱を開始した。
「ラムダスさん、もう……」
かけられた声を無視して、ルークは詠唱を続ける。第七音素の素養はあれど、それなりに努力して習得しておいた術だ、無駄だなんて言わせるつもりはなかった。アニスがこんなところで死ぬはずがない。死んでいいはずもない。術を編み上げる声は鼻声だったが、ルークはつっかえないよう、譜術を完成させることだけに全神経を集中した。
「そうだな、諦めるには早いか」小さく呟いたドゥシャンが、側にかがみ込んでアニスの小さな口を開かせ、レモングミを押し込む。「むごい……。こんな小さな子に、なにもここまで……」
詠唱が終わり、清らかな光がアニスの身体を包んだ。だが、二人が息を飲んで見守る中、アニスの目はうっすらと虚ろに開かれたまま、わずかな温もりしか残さない身体はぴくりとも動かない。
「もう一度……」
「止めなさい」
二度目の詠唱を開始したとたん、制止の声とともに肩に手がかけられた。
ルークは愕然として、わずかに動かした横目でその手を確かめた。途中まで丁寧に編み上げた詠唱が、口の中で次第に意味をなさない呟きに変わり、ほどけていく。
よく日に焼けているが、ドゥシャンほど濃くはない。短すぎるのではと思うほど平たく切られた爪に、節の立った長い指。それがなんの気配もなく、ルークの肩を掴んでいた。まるで、背後に突然手だけが湧きだしたかのように。ドゥシャンを見れば、彼もまた唖然としたようにルークの背後を見つめている。接近されるまで人の気配に気付かなかったのは、彼も同じのようだった。
その手は、ルークが詠唱を中断したのを褒めるように、また、心配しなくてもいいというように、一度だけぐっと強くルークの肩を掴んだ。低めの、だがまだ若く張りのある声が、背後でレイズデッドの詠唱を開始する。ひどく簡略化された詠唱は瞬く間に完成し、白い光がアニスの全身を包む。
力なく口の中に収まっていたレモングミが、光がほどけると同時に力強く噛み締められた。虚ろに見開かれていた黒い瞳に、強い輝きが戻ってくる。
レイズデッドは死の淵に立つ魂を強制的に引き戻す譜術ではあるが、死者を黄泉から連れ戻すことは出来ない。──間に合ったのだ。
「間一髪だったな」ルークの脇を、安堵の呟きとともに黒鉛色の外套の裾がかすめていった。
ルークはそれを追うように立ち上がり、大きな目をいっぱいに見開いて、突然現れてアニスを救ってくれた男を見つめた。顔はその半分がフードで覆われて、鼻先と口元しか見えない。使い込まれて少々くたびれた黒鉛色の外套は、市井においてもっともありふれた色と品質のものだ。外套からのぞく袖口やブーツも華美なところはまったくなく、どこですれ違っても特別目を引くことのない典型的な旅装束だった。
「……すまないな、突然。だが、あなたはあまり第七音素を使われない方がいい。お父上からもそう言われておいでだろう」
なぜそれを知っているのか、と。そう問うべきだったのかも知れないが、ルークには言葉を発することも、ただ首を縦に振ることさえできなかった。
こ──この、声……。
「イオン様!!」
力なく横たわっていたアニスが、突然バネ仕掛けの人形のように上体を跳ね上げた。「はうぅ……」とたんに目眩を起こして上体で円を描いているのを、男が片膝をついて支えてやる。
「突然動くからだ。……馬鹿が、形だけの抵抗をしたら黙って連れて行かせろと言っておいたろう。何のための打ち合わせだ」
アニスはゆるゆると視線を動かし、自分を支える男をぼんやりと見つめた。鼻先と口元しか見えないため、人物を特定するのにいささかの時間を必要としたようだ。男に焦点が合うや否や、両目から涙が流れ落ち始めた。
「だ……っ、代理……ごめ、ごめんなさい。あたし……だってあいつ……ラルゴのやつ、イ、イオン様、殴った……っ。殴ったの、イオン様を……! レ……だからって、あ、あ、侮りやがってぇ、」
「……それで切れて突っかかったのか。あいつの性根は知ってたろう」
「ごめ……」
ため息をついて力なく首を振り、男はアニスに黙るよう合図した。「──いや。すまん、悪いのは俺だな。お前の性格を考えれば、ラルゴを前にこうなることは予想がついて当然だった……。道理でお前の親友がやたらと心配していたわけだ」
「……う」
「もちろん、来ている。あとでものすごく叱られるぞ。──まあ、俺もだが。覚悟しておくんだな」
男は笑い含みにそう言い、まるで体温を確かめるかのようにアニスの頬に手のひらを当てた。アニスが安心しきった笑みを浮かべ、力つきたように目を閉じると、ねぎらうような優しい仕草で血で乾いた髪を撫でてやり、ぼろぼろの服を軽く整えてそうっと抱き上げた。
「騒がせた」男はアニスを抱いたまま一礼し、二人に背を向けて歩き出した。
「あんた、何者だ? それに導師守護役どのをどこへ──」
ドゥシャンが声をかけると同時に、上空から二頭のグリフィンが急降下してきた。こちらに振り向きかけていた男はそれを仰ぎ見、ドゥシャンは剣を抜いて一歩を退く。
「代理──アニス?! そのありさまはなに?!」
「シンク」
同じような旅装束の小柄な少年が少し離れたところに降り立ち、二頭のグリフィンとともに駆け寄って来る。外套のフードは後ろにはねていたが、顔は『以前』と同じ金の仮面で覆われており、これも顔を確認することは出来なかった。だが、かつて敵であった被験者イオンのレプリカの一人シンクで間違いない。
「ラルゴだ。導師を殴られて、頭に血が上ったらしい」
「イオンを殴ったあ?! あのやろ……! だから早く始末したほうが良いってボクは何度も言ったのに! ……いい機会だ、この際どさくさに紛れて殺っちゃおうよ!」
「怪我しない範囲で好きにしろ。だが今はアニスが先だ」男は抱えていたアニスを大切そうにシンクに託した。
シンクはあまり体格の変わらないアニスを抱えてもふらつくことなくグリフィンの上に押し上げ、ぼろぼろじゃないかと悔しげに呟きながら後ろから抱えるように騎乗する。男のものか、空のグリフィンが犬のようにおとなしく座って、心配そうに喉を鳴らしながらどうしたの、起きて、といったようにだらりと下がったアニスの手に頭をすりつけているのが妙に印象的だった。
「その仮面──あんたは、神託の盾第五師団の師団長でもあり、参謀総長でもある六神将『烈風のシンク』だな? 黒獅子、『黒獅子ラルゴ』のことなら、ラムダスさんが倒したぜ」ドゥシャンは少年の正体を断じ、知らぬままアニスの仇をすでに取ったことを告げ、剣先をまっすぐに男に向けた。「質問に答えてもらおう、あんたは何者だ? 代理と呼ばれる人物に心当たりがないが、神託の盾の関係者には違いないようだな?」
「ラムダス……?」男は己に鋭く向けられた剣先にちらりと顔を向けた。ルークから見える口元が、柔らかく綻んで笑みの形を作る。「あれを倒してくれたとは、ありがたい。当方でも少し持て余していたのでね。確かに我々は神託の盾の一員だが、この姿の通り命令違反中の後ろ暗い身の上だ。正式な名乗りはご寛恕願いたい」
ドゥシャンの問いに答えることなく、男は静かにドゥシャンに向かい合った。「すまないが──」
「ラムダスさん!!」
艦橋へと続く扉が蹴破られ、同時に飛んできた譜術の氷を、男が瞬時に叩き落とす。
「フリ──」ルークが双方に制止の声をかける前に、男が最も近い所にいたルークを引き寄せた。首筋に、ひんやりした刃先がぴたりと押し当てられる。
「面倒な。獅子の二つ名を得るものはどいつもこいつもいらぬ鼻が利く」言葉とは裏腹に楽しげに一人ごちると、男は小さく、ルークにのみ聞こえる声で囁いた。「暴れないでくれ。傷つけるつもりはない」
な、んで……? だって、この声……
「シンク、先に行け」
「了解、っと」
男を一人残すことなどなんとも思わない様子で、シンクを乗せたグリフィンがふわりと浮き上がる。同時に空のグリフィンが男にすり寄った。見た目より柔らかな首周りの羽毛が腕に触れる。剣を構えたアスランが身じろぎしたが、脅しをかけるようさらに男がルーク引き寄せ抱え込むと、舌打ちして剣を放り投げた。
「彼は事情があって乗艦しているだけの民間人──キムラスカ人だ。何か要求があるなら私が聞く。彼を放してくれ」
「さて、困ったな。見とがめられなければそれで良かったんだが……」
「人質が必要なら私がなろう。民間人を巻き込むのはお前も本意ではあるまい」
「閣下?!」アスランの交渉にドゥシャンが目を剥く。
少しばかり困ったように、男は小さな息を吐いた。本当にここで乗員に遭遇するはずではなかったのだろう。傷つけるつもりはないというのも嘘ではないようで、アスランが剣を棄て両手を上げている今、短刀の刃先は完全に首筋から外れていた。
「……アッシュ?」
己の被験者だという確信はあったが、ルークの知るアッシュかどうかはまるで自信がなかった。これまで、『以前』のルークを知っているものなど誰一人いやしなかったのだ。被験者だってその可能性の方が高かった。だが他に呼びかけるべき被験者の名を、ルークは知らない。だが、その自信なさげな小さな呼びかけに、男は撃たれたように身体を強張らせた。「『ルーク』、か?」
低く、緊張を含んだ男の声が、ルークの名を呼んだ。その瞬間、身の内に走った衝撃をなんと呼べばいいのだろう。『以前』アッシュがルークを、自分の元の名で呼んだことなどあっただろうか……。
「……『俺』が誰だかわかるのか?」
「う、うん……アッシュも、『おれ』がわかるのか……?」
アッシュとおぼしき男は、微かに仰向いて大きく安堵の息を吐いた。「ああ……ありがたい。あまりに変わりすぎて──もしかして『ここ』で生まれてくるのはお前ではないかも知れないと……」
「……?」
「さぞ混乱しただろう、すまない。色々話したいことがあるんだが、今はこの通り時間がない。カイツールの側の森に、アリエッタを迎えに寄越す。コーラル城で待っているから……来て、欲しい」少しだけ顎を引く動きで了承を理解した男──「アッシュ」は、ルークを引き寄せるためその身体に回した腕に、一瞬抱きしめるように力を込めた。「先に謝っておくぞ、ルーク。悪いな」
ささやきと同時に、とん、とうなじを叩かれた。
「さて、マルクト軍第三師団師団長閣下。大変尊い申し出だが、当方も人質を抱えて行動する余裕はないんでね。艦橋の奪還でさぞお疲れのことだろうし、ここらで少し休んでおかれたら如何か」
気を失う前に、そんな台詞とアスランの呻き声が聞こえた、気がした……。