【10】


 兄妹という設定を無理ないものにするために、あれやこれやと意見を出し合いながら山道を下っていくうち、見慣れないティアとも少しずつ打ち解けてきた。とは言ってもティアはルークを前にどこかうわずった調子が抜けずにいたのだが、屋敷内を自由に歩き回るルークの目に時折触れる、皿洗いや洗濯専門の下級のメイドたちもみなそのような反応であったから、ルークもさして不審には思わなかった。

「今、何時ごろなのかしら……」
 危険なことは時折ルークがなにかにつまずくことくらいで、のんびりと気の抜けた会話を交わしながら山道を下り続けて二時間ほどが経っただろうか、ティアがふと色の変わらない空を見上げて呟いた。
「夜明けまで一時間とちょっとってとこかな。ここはマルクト帝国のタタル渓谷……もう少ししたら、あっちの空から白んで来る」
 ちらりと空を見上げてさっくりと答えたルークに、ティアはしょんぼりとマルクト、と呟いた。ホドが見えるという位置から予想はしていたのだろうが、改めて突きつけられるとことさらにがっくりと来るらしい。
「夜明け時間とか、良くおわかり……なんだわね」
「気象のことはな」またつまずきかけたルークは足下に意識を置いたまま生返事をした。「急に雨に降られる、なんてことにだけはならないから。その点は安心してくれ」
「えっ?! 預言もなさ、──るんだ?!」
「いや、空を見るだけ」言葉遣いのあやういティアにルークは苦笑をこぼし、「空の色、雲の形、太陽レムや月の光でできる影……。空だけじゃない。空気のにおい、木々の色、水の味、いろんなものがいろんなことを教えてくれる。ガイは何度言っても『預言』呼ばわりするんだけどさ」
「なんとなく降りそうだな、とか、暑くなりそうだなと感じるのと同じ延長なので……かしら」
「そうだな。いろいろ観察して判断するけど、最終的には勘だと思う。外したことはないけどな」
 感心したような吐息をもらして、ティアが空を見上げる。それに付き合って足を止め、少しずつまばらになってきた木立の間からルークも上を見上げ、すぐに前方に視線を戻した。「……?」
「……どうかなさ、した?」
「人が来る。──用心しろ」
 ルークの警告に、ティアがロッドを握り直す。そのまま気配を消して構えていた二人の前に、かなり不用心な様子で男が一人現れた。
「うわっ!」男は驚きのあまり尻餅をつき、持っていた桶を放り投げた。「こ、こ、殺さないでくれ!」
「……人聞きが悪いな。おれたちは道に迷ったただの旅人だ。こんな時間にこんなところを歩いているお前こそ何者だ」
 二度目とはいえ、顔を見るなりの無礼な言い草に少々憮然としてしまう。とはいえ、エンゲーブまでずっと歩くことも覚悟していたから、『以前』同様にここで辻馬車を拾えるのは幸運だった。
「ああ、びっくりした! てっきり盗賊でもでたのかと……。おれは辻馬車の馭者をやってるボーってもんだ。すぐそこで車輪がイカレて水瓶を割っちまってね、汲みにきたとこなんだ」
「辻馬車な。終点は……グランコクマ、かな」
「ああ、そうだよ」
「だよな。じゃ途中まで乗せてってくれ。おれたちはエンゲーブに行きたいんだ」
「兄さん、商人かい」
「跡取りでね。このボタン一つで二人。どうだ? 純金製だぞ」
 袖の飾りボタンを無造作に引きちぎったルークに、ティアが顔色を変えた。それを視線で制し、目の色を変えて詰め寄るボーにボタンを見せる。ボーは受け取って執拗に点検したうえ、端を軽く噛んだ。「……確かに。そうだな、一人一つで乗せていってやるよ」
 残る片袖のボタンにも色気を出すボーから、ルークはすっと腕を引いた。『以前』ならばきっと騙された。ティアが差し出した形見のネックレスだって、後で気付けばぼったくりだったのだ。最もばらすわけにはいかないのだから、あの時気付いていたって丸ごと渡すしかなかったのだが。
「おいおい、一つでも釣りが来るだろ。半分には出来ないから一つやるって言ってんだ。元々エンゲーブまで歩くつもりだったんだし、おれたちはどうしても馬車に乗りたいわけじゃない。一つ手に入れるか、一つも手に入らないかだ」
「商人の跡取りか。……しっかりしてんな、兄さん」ボーは少しの間ルークを睨みつけ、ふいに苦笑して顎をしゃくった。「馬車はあっちに停めてある。俺は水を汲んで来るから、乗って待ってな」
「交渉成立だな!」笑みを含んだ声と、金のボタンが宙を飛んだ。

「ルーク様、おおざっぱな地図しか頭になくて申し訳ないのですが……。ここがタタル渓谷なら、まっすぐにケセドニアに向かうのが一番早く帰国できる道ではなかったですか? なぜ寄り道を? 一触即発というほどではないにせよ、今キムラスカとこの国は……」
「わかってる。けどエンゲーブは世界有数の穀倉地帯だし、前から行ってみたいと思ってたんだ。気になることもあるし、悪いがちょっとだけ付き合ってもらうぞ」

 乗り込んだ馬車が走り出し、二人きりになると、ティアはとたんに前のめりになって先ほどから聞きたくてそわそわしていた質問をぶつけて来た。むろん『以前』も訪れた街の人々や様子がどのように変わっているのか気になったのが一番の理由ではあるけれども、ティアをどうするのか少し考えたかったというのも寄り道の理由の一つだった。
 屋敷を離れてその危険な国に飛ばされたのはむろんティアの責任が大きいが、ルークはティアを屋敷まで連れ帰って良いものかいまだに答えが出せていない。性格も外見も『以前』とは似ても似つかないが、心根はどうやら同じようだし、ルークはもうこのティアにも完全に気を許してしまっていた。──というより、好きになっていた。もしもどこかの町で解放してやるのなら、むろんエンゲーブなどよりもケセドニアの方が何かと勝手が良いだろうし、ルークの都合に付き合わせて長く拘束するのも悪いと思う。
 だが、このティアが何を考えて捕まろうとしているのか……今現在では荒唐無稽な話でしかないここが本当の大地のはるか上空に浮かんだ外殻大地であることや、ヴァンの計画などを真面目に審議してもらうための捨て身の計画であるなら、どの道ここで別れても二人の行く道は交差するのかも知れない。そうなればここで別れてしまうことには何の意味も無い。
 しかし、あえてここで別れれば、『以前』とは違う未来へ向かえるのかも知れない……。

 ルークはひっそりと首を振った。『以前』のことを意識するのは止め、この世界ではこの世界での判断で動く、そう決めたはずなのに、『知っている』ということはかくも厄介なことなのか。これでは預言に頼り切りの人々を笑えない。

「……知識ってのは、あってもなくても面倒なもんだな」
「え?」
「ああ、いや。こっちの話」
 このティアはとても面白い。なんだかんだ言ってもルークはこのティアと『以前』のように旅してみたいと思っているのだから、余計なことに惑わされずそうすれば良いのではないか。
 ──心のままに動けば良いのではないか。
「そうですか……? あの、この馬車の代金、」
「いいよ、ここから先はおれが付き合わせるんだし」
「そんな! だってそもそもお好きでここに来られたわけでは……!」
 ティアは旅費のことが気になって仕方ないようだが、形見のネックレスをぼったくられるのは論外だし、バチカルならともかく、盗賊も出没するような場所で金のボタンなどいつまでも晒して歩けるものでもない。どの道どこかで違うものに交換しなければならないだろう。そして、ファブレ家はこのようなボタンを普段着に気軽に付けてしまえる家なのだ。むろん、無駄に使う気はないにせよ、無事に帰宅するために惜しむつもりはなかった。
「来たいとは思ってたんだよ。遠回りして無駄な旅費使うんだし、気にすんな。少し、様子を見るだけだ。そうしたらもう寄り道はせずにまっすぐ帰るよ。──多分」
「多分、て、ルーク様!」
「ティア、『兄さん』『兄さん』」
「──っあ!」

 ドォォォオォンン……!

 ティアの叫びと、爆発音が重なり、一瞬衝撃で馬車が浮いた。ルークが窓から顔を突き出したとたん、目と鼻の先を黒い馬車が後方へ駆け抜けていった。前方を振り返ると、砂煙を上げて軍馬の群れが殺到して来る。爆発に備えて一度散開した騎馬は、先頭の騎馬の合図で再び結集しようとしていた。
「騎馬隊が馬車を追ってる!」
「ありゃ、漆黒の翼だ! 軍がヤツらを追って────」
 凄まじい馬蹄音がすれ違いに轟き、ボーの声をかき消した。
「す、すごい迫力……!」
 ティアが両耳を押さえて目をまんまるにしているのを見て、ルークははしゃいだ笑い声を立てた。「すげえ! よく訓練されてる! めちゃくちゃカッコいいな!」
『以前』漆黒の翼を追っていたのはタルタロスだったが、こうしてみれば馬車を追うのには騎馬隊の方が小回りがきくだろう。
 馬車からほとんど身を乗り出すように後方を見つめるルークのの耳に、再び大きな爆発音が聞こえた。一度ではなく、連続して聞こえる轟音の合間に、遠く馬の嘶きも聞こえる。ルークは大きく身を乗り出したまま目を閉じて耳を澄ませ、やがて馬車の中におとなしく座り直して大きく息を吐いた。
(良かった、みんな無事みたいだ……)
 足を骨折でもしたら、ほとんどの場合薬殺処分だ。それは馬を長く苦しませないための処置だが、愛馬に薬を盛らねばならない主人にとってもひどい苦しみをもたらすに違いなかった。軍馬の主ならみなその覚悟があるだろうが、無事なら無事に越したことはない。

 分かれ道で馬車を降り、再び二人は歩き出した。かなりの距離を馬車で進めたが、飛ばされてからずっとまともな寝床で眠っていないせいで、蓄積された疲労はかなりのものだ。ともすれば時折意識が朦朧となる。
 屋敷の中庭から飛ばされたのが三日前の昼前で、気付いたのは深夜をかなりまわった時間だった。それからは睡眠はもちろん、食事も満足な量は取れていない。ルークの金銭感覚が侮れないと悟ったボーが貰い過ぎのぶんを水や携帯食と引き換えてくれたが、元来食事は旅人が自分で用意するもの、彼も満足な量を積み込んでいたわけではない。気を張っているせいか空腹はあまり感じないが、疲労はどんどん積もり、一歩歩くごとに身体も、足取りも重くなってくる。

「少し休もうか、ティア。こっちだ」
 ふっと道を逸れて木立に分け入るルークを、ティアが慌てて追ってくる。可愛さ重視の重い靴はやはり長時間歩くには向いておらず、ルークよりも疲労度が激しそうだ。
 それから五分ほど歩いた森の中で小さな泉を見つけた。「飲めそうだ。少し休もうぜ」
「す、すごい……どうして」
「おれ、なんでか水の匂いを嗅ぎ付けるのが得意なんだよな」この世界に来てからだが、天気を正確に当てられるのと同様理由はわからない。「あって困る能力じゃないし特に気にかけてなかったんだけど、こうなるとすげえ重宝するな」
 はーっと感心しているティアを尻目に喉を潤し、ティアが同じように水を掬っている横で周囲を見回す。「お前、食べられる草やきのこわかる?」
「え、ええ、多少は……」
「おれも少しわかる。手分けしてなんか食えるもの探そうぜ。エンゲーブまではこのペースだと数日かかりそうだしな」
「この辺りに詳しいの?」
「まあ、な」目を丸くするティアに、ルークは頭を掻いて苦笑した。これまでに見たところ、この世界と『以前』は人以外のものはすべて共通している。地形、地名、風土はルークが憶えているものと変わらないのだ。
「まあ、多少の土地勘はある」
「それで飛ばされた場所がタタル渓谷だとすぐにわかったのね」ティアの顔が安堵に綻んだ。右も左もわからない所に飛ばされ、責任を感じて気を張っていたのだろう。少しだけ気を緩めたせいか、その顔にこれまで全くルークに見せなかった僅かな疲れが浮いた。
「エンゲーブに着いたら、ティアは靴、替えた方が良いな。それ、絶対疲れやすいだろ。──まあ、どんな靴履いてたって疲れはするんだけど……」
 足先を守るために鉛の入ったルークのブーツも軽くはない。旅に向いているかと言われたら絶対に向いてはいないのだが、アルバート流は戦闘中に蹴りも入れるのでなまじっかなブーツではすぐに破損する羽目になる。切なそうに足を見下ろすルークに、ティアも素直に頷いた。「そうしたいのはやまやまなんだけど……。これ、さすがに行軍には不向きなんだもの」
 小銭程度のお金しか持っていないとティアはしょんぼりと言った。ファブレ家で捕まる気満々でいたのだから、ルークにとってそれは当然予想のうちだった。
「おれも現金を持ってない。この際こいつを取り払って換金しよう。何をするにしても軍資金がないとな」
 ルークは胸のボタンを指で軽く弾いた。公爵子息であるルークの服のボタンがすべて金や宝石を細工したものかというと決してそんなことはなく、普段着るものはガラス製か一枚の貝殻や鼈甲を細かく削りだしたものであることも多い。どれも高価なものだが、純金のボタンには及ばない。このコートをオリジナルのままではなく、贅沢に仕上げてくれた母に感謝だ。

 二度ほど、水辺で鴨を捕らえられることが出来、一度はザリガニを捕まえた。怖々と覗き込むティアの前でそれを捌き、塩があればと嘆きながら焼いて食べたのがこの数日のごちそうで、あとはきのこや木の実を食べながらほとんど無言で歩き続け、その日昼をいくらかまわったころ、ようやくエンゲーブの町門が見えてきた。
「まずは宿を取ろう。多分、そこで換金も出来るはずだ」
 宿には大概よろず雑貨を扱う店が入っている。ルークはナイフを使ってボタンをすべて切り離し、全部ではなく数個残して換金すると、ボタンをいくつかと針と糸をティアに選んでもらって部屋に上がった。
「手紙を書いたら、ちょっと鳩を借りて来るから」
 付いていくと言い張るティアに、ルークは無言でボタンが一つもない無惨な上着を押し付けた。ルークも付けられるが、あまり上手くはない。ここはティアの『女子力』とやらに期待したいところだ。

 短い手紙と長い手紙を二通書き終えるころには、ティアは疲れて眠り込んでしまっていた。そばにどこにでもあるような木製のボタンに付け替えられ、きちんと畳まれた上着が置いてある。
 公爵家の一人息子を誘拐するというティアにとっても想定外の事態に衝撃を受けた上、怪我一つさせずにお屋敷に送り届けねばと気を張り続けているのだから、無理はないのかも知れない。泣き言を一言も言わないからつい気づかうのを忘れてしまったが、男の足にずっと遅れず付いてくるのはかなりきつかったはずだ。
 起きているときに比べてずっと幼く見える寝顔に苦笑して、そっと毛布を掛けてやり、起こさないように気配を断って部屋を出た。


2019.03.31改稿(初出2012.11.02)