【08】
「……つ、痛てて……」
「うごがないで下ざい、ずぐにがいぶぐじまず!」
直前まで見ていた夢の中では痛みが薄くなったはずなのに、しょせん夢は夢。慌ててファーストエイドをかけてくれる少女を、ルークは呆然としたまま見つめた。全身から痛みがすみやかに引いていく。
胸は相変わらず大きい。そこだけギャザーを寄せた別布で作ってあり、腹の部分を編み上げてあるせいで、それがさらに強調されているようだ。それでも均整が取れてみえるのは、短いワンピースの裾からのぞくほっそりした足が適度に鍛えられて締まっているからだろう。
なんと言ったか、腿の半ばまである長いピンクのソックスには履き口にレースがあしらわれ、細いリボンがひらひらと揺れている。底が分厚くてヒールも高い白い靴は、ショートブーツの態ではあるものの前面は紐だけの編み上げで、ソックスのピンクがちらちらと見えるようになっている。マロンペーストのような色の艶やかな巻き髪。サイドだけをそれぞれ左右で結い上げ、淡い金色のリボンで飾っている。涙でだいなしになってはいるが、化粧もしていたようだ。白と淡いピンクのレースのチョーカー、同デザインらしいレースだらけの膝上ワンピース。時々バチカルの下町でも見かけるスタイルだと思う。
(馬鹿げた服! って言いながら、着てる子をめちゃくちゃ羨ましそうに見てたよな……。なんて言ったっけ、ゴ、ゴ……ゴキブリ……じゃない、白、白……白なんとか)
比較的落ち着いていられるのは、こんな驚きが実は初めてではなかったかも知れない。屋敷の中ですら、『以前』と様子の違う者は大勢いる。両親の仲もそうだし、使用人や教師の顔ぶれや態度、ガイの境遇や立場だって『以前』と違う。だが、これはもう別人と言っていいのではないだろうか。性格すら違うような気がするのだから……。
「ううっ……」
少女──ティアは滂沱の涙をこぼしながら、鼻の穴から水っぽいものをきらりと覗かせた。と、思うとずずーっとそれをを啜ってしまう。汚ないな、美人なのにマジかよ、とうんざりしながら、ルークはポケットに入れてあったハンカチを差し出した。
反射的に受け取ってから、少女は困惑してそれをルークに差し戻す。
「いいにぼい……ごんなじょうどうなバンガヂ、がりられまぜん……」
「いいからとにかく鼻をかめ!! おれが気になるんだよ!」
「?! あ、あいっ」
アンヌが細心の配慮で香り付けをしたハンカチは上等とはいっても木綿のものだ。下町にお忍びで出かけようという主人に、絹のハンカチを用意するようなアンヌではない。
そのハンカチを鼻水でだいなしにしているティアを見てしまうと、これからどうするかなど考えるべきことが山ほどあるにも関わらず、そのすべてを放棄したくなる。ルークはげんなりした思いで天空に輝く美しい月を見上げ、大きくため息を付いた後、覚悟を決めてあまりにも珍妙なティアに視線を向けた。
「お前……ティアは体、大丈夫だったのか?」
「あ、は、はい。私は大丈夫です。……もう痛くないですか」
ルークは服を軽くはたきながら立ち上がって、手足を軽く動かしてみた。「ああ、楽になった。ありがとう」
ティアはいえ、と首を振ってから、不思議そうにルークを見上げた。「……あの。なんで私の名前、ご存知なんですか?」
ルークは探るような視線をティアに向けた後、脱力したようにため息をついた。「……いや、わかってた。やっぱ、わかんねえよな、おれのこと」
「あっ、い、いえ。もちろん存じてますっ! ルーク様、ですよね、ファブレ家の!」
「ああ。あんたの名は……グランツ謡将がそう呼んでいたしな。ティア・グランツ、謡将の妹だろ」
このティアにどういう態度を取るべきなのか決めあぐねたまま、ルークが特に不思議はないという態を取り繕うと、ティアが納得したように頷く。
立ち上がるのに手を貸すと、差し出されたティアは赤くなって、ルークの手のひらを凝視したまま無意識のようにワンピースで手を拭った。
「あっ、ありがとうございます……」掴まって立ち上がりながら礼を言う声は消え入りそうにか細く、不安そうで。内心はどうであれ、いつでも毅然とした態度できびきびと話していたティアと同一人物とはとても思えない。姉妹と言われた方がまだ納得がいくと思いながら、ルークは小さく息を吐いた。
「えーっと……とりあえず、おれを襲った理由、聞いていいか?」
『以前』、ティアが襲ったのは兄のヴァンだ。たまたま傍にいたルークがとっさにヴァンを庇う形になったため起こった疑似超振動だったが、今回、ティアははっきりとルークを名指ししたのだ。
「──本当に申し訳ありません、ルーク様……! けどっ、けど、害するつもりはなかったのです……。本当です! お強いって聞いてたし、私なんかにどうにか出来る方じゃないって、最初からわかってたし……! その証に、必ず無事に、お屋敷までお送り致しますから!」
「え……のこのこ屋敷に顔出したりなんかしたら、問答無用で捕まると思うけど……」
「は……はい……」
「おれを狙ったのは、……グランツ謡将の差し金か?」
ヴァンは誘拐前、この世界でもルークの剣の師だったという。
だが『以前』も今回も、誘拐後のルークは剣を持つどころか歩くのも困難なほど筋力が落ちていて──実際は造られたばかりの身体だったから元々筋力などないのだが──時々様子を見に来ていたヴァンに再び剣を指南してもらうことなど、すぐには無理だった。
やがてシュザンヌやアンヌ、ガイやペールといった身近なものでリハビリが行われ、その一環としての流れでペールがガイと一緒にルークに剣を教えるようになったため、ヴァンはなし崩しに師ではなくなったのだが、今でもかつての縁ということで時折顔を見せるし、稽古の相手になってくれることもある。むろん、レプリカのルークの様子を窺うためだろう。ルークにもし『以前』の記憶が無かったら、造られたばかりのルークにとってはたまにやってきて構ってくれる『異国の偉い人』に過ぎないところだ。接触の機会が激減してレプリカルークをうまく手なずけることが困難になったため、なりふり構わない手段で接触を図ってくる可能性もあった。
「──っ、違います! それは……違います」
哀しげに顔を曇らせたルークに、ティアはぎゅっと膝丈ワンピースの裾を握りしめてぶんぶんと顔を横に振った。
「……だよな。グランツ謡将も驚いておられたようだったし……。だが、お前を信じていいのかどうか……」
「で……です、よね。……申し訳ありません……。何からお話していいのか……。今すぐ出せる証拠もないし、話せば話すほど嘘くさく聞こえる話で……」
ティアはそれでもルークに事情を話すべきかと悩むそぶりをみせたが、ややあってそれを振り切るように目を閉じて首を振った。
「あの……お屋敷に戻るまで、お待ちいただけませんか? 公爵様に直接お話を……。あの、でも本当に私はルーク様のお命を狙ったものではありません! あ、兄が時々ルーク様の剣を見ているって聞いて、色々調べて、あの日もそうだって……。で、でもっ、ルーク様が第七音譜術師だと知っていたら、あの場に公爵様がおいでだと知っていたら、私そっちへ行ったんです!」
「ちょ、ちょっと待てよ」父を狙ったのにと言われて、ルークは顔色を変えた。「父上を狙う賊を屋敷へ案内しろっていうのか? 冗談じゃない!」
「いえ、そうじゃなくて……! 私、ほんとに、ほんとに誰をも傷つける気なんか……!」
その必死な目は嘘を言っているようには見えなかったが、これは『以前』とは性根も違っているかも知れない初対面のティアだ。本当に信用していいのかどうかとじっと見据えた瞬間、再びティアの目が潤み、鼻水が垂れてきたのを見て、ルークは怯み、げんなりとため息をついた。
見慣れた顔の崩壊っぷりを目の当たりにするのが辛い。『以前』のティアとは違うとわかっていても幻滅してしまうのだが、同時にその哀れっぽさは、どこかルークのほうが苛めているような罪悪感をかき立てる。
「──わかったよ。今回に限っては見逃してやる。どこへなり逃げるといい。準王族である我がファブレ家への襲撃、王位継承権を持つものの誘拐、キムラスカの処罰は軽くない」
「承知してます」とティアは生真面目に頷いた。「元々お屋敷で捕まる計画だったんですから……。ルーク様にはご迷惑かけてしまいますが、それで予定通りになります」
ルークは驚いて、ティアを見つめた。「それ、どういうことだよ?」
ティアは奇妙に穏やかな、悲しげな顔を伏せ、そうすると長い前髪がそれ以上の表情を決して読ませぬとばかりに隠してしまった。
「……王侯貴族の誘拐なんて、被害者の身分によっては即、絞首刑だぞ? 知らなければ言っとくけど、おれには王位継承権もあるからな。ヴァン謡将もただじゃ済まない」
「……」
唇を真一文字に引き結び、今にも泣き出しそうなのを必死に堪えている様子を見て、ルークは何度目かのため息をつき、逃避のように海を眺めた。大きな月が海面にゆらゆら映って夜だというのに眩しいほどに輝いている。
「……とりあえずここを離れて海岸線を目指すか。人のいるとこまで行かないと、帰る道も探せない。今後どうするかはともかく……仕方ないな、ティアもそこまでは供を頼む」
「あ、は、はい!」
大丈夫かな、とルークは横目でティアの様子を窺った。戦い慣れていた『以前』のティアにこんな心配はおこがましいことだが、さてこのティアはどうなのだろう。少なくともヒールの高い厚底靴が戦闘に適しているとは到底思えない。
「お前さ、魔物と戦えるのか? こっから先は襲ってくるかも知れないぞ」
「あ、はい。元、ですけど、神託の盾騎士団に所属して魔物退治はしていましたので……」
「あ、ああ……そっか。それは頼もしいな。でも、元って……」
「少し前に退役したんです。……キムラスカ貴族のお屋敷を襲って捕まったら、友達とか……教官達とか、色々迷惑かけるかも知れないな、って」
僅かな寂しさの滲んだ声に、思わず横顔を窺う。『以前』のティアは六神将の一人『魔弾のリグレット』にユリアシティで個人的に訓練を受けていたはずで、友達もアニスやナタリアが初めてだと言っていた。いつも三人で顔を突き合わせて、何やらひそひそ話しては楽しそうに笑っている姿をよく憶えている。
ティアから二人で旅を始めたころのぴりぴりした感じが少しずつ失せて行き、女の子が集うとなんだか華やかだなあ……などと少し気後れしながら眺めたものだった。そんな時はなんとなく声も掛け辛くて、大した用でなければいつでも撤収した。この世界のティアは、最初からそんな感じのティアなのだろう。
「……謡将には迷惑がかかるだろ。例え今回のことがお前と無関係だったとしても、兄妹である以上それを証明するのは難しい」
ルークの言葉を非難と捉えたか、ティアの視線に少し不満そうな色が混じった。「……いいんです。兄さんなんか、捕まっちゃえばいいんだわ」
「おいおいおい」
その頑な様子に、今は追求しても無駄かとルークは深くため息をついた。『以前』と同じ理由かなとは思うものの、この七年があまりにあれこれ違いすぎていたせいで確信が持てない。屋敷に帰ったら話すと言うなら、それまで待つしかないのだろう。ヴァンがルークを造った理由すら、『以前』と同じとは限らないのだから。
この世界のヴァンとは『以前』以上に縁が薄く、個人的な話などする機会もない。ヴァンがルークを手なずけられていないのと同じくらい、ルークもヴァンのことがわからない。おそらく自分、レプリカルークを造ったのはここでもヴァンだと思われるが、その目的もさることながら暗示がすでに掛けられているのかどうかもわからない。
(愚かなレプリカ・ルーク)
あの残酷な暗示の言葉を思い出すと、今でも胸が痛む。だが、ルークはすでに幼いヴァンの苦しみと絶望を知っていた。非道な実験で生まれ故郷を消滅させられた彼を恨むことは、同じ思いを強制されてなおルークには出来やしないのだ──
(ホド)
「──ホドだ!」
ルークは勢い良く振り返り、花びらを蹴散らしながら崖へ駆け寄って海を臨んだ。岩山の隙間から強い潮風が吹き込み、毛先へいくに従って金に色を変えてゆく鮮やかなスカーレットの髪を散らす。
そこにホドはない。
そんなことはわかっている。ガイは治めるべき領地を失ってファブレ家へ来たのだ。そして、今はまだ、そこにはレプリカの大地も存在しないのだった。
《君は、ここがどこだか知っているか?》
「──ホドだ、あれは……レプリカ、の」