【07】


 体中がきしむように痛み、小さなルークはしゃくり上げた。まるで身体が一度分解されでもしたようなひどい痛みだった。それは急速に治まってきてはいるけれど、恐怖と混乱から立ち直れないままのルークは、嗚咽しながらその場にうずくまって、涙の幕のかかった瞳で怖々と周囲を見回した。
 美しく精巧な屋敷の建ち並ぶそこは、命あるものの気配のない、清潔すぎるほど真っ白で無機質な街だった。廃墟だってもう少し人の営みの気配が残っているだろう。圧力を感じるほど重苦しい静けさに、苦痛と淋しさと、そして不安に苛まれ、立ち上がる意思も挫けていた。
 空は陽気な青ではなく単調な灰色を塗り込めており、風はルークを浚ってあやしてはくれず、石で覆われた大地は添い伏してはくれない。いつも朗らかに歌を歌ってくれていた鳥たちの姿もなく、ルークはただ一人、痛みの止まない不自由な肉の檻に閉じ込められたままでいた。

《懐かしい気配がすると思えば。──第七音素……レプリカ、か》

 ふと寂のある声が落ちて、目の前に影が差した。ルークは驚いて顔を上げた。なんの気配も感じなかったのに、いつの間にか、大きな男がルークの正面に立っている。

 急に、止んでいたはずの風が吹き抜け、陽が差したような気がした。

 堂々たる体躯、身なりの老人だった。
 見たことのない意匠の、脛のなかばまでの長い上着は純白。足首まで届く同色のタバードがゆったりとひるがえる。どこかの軍服かなにかなのか、金糸も交えた様々な色糸で複雑な縫い取りが成されている。揃いの意匠のブーツは質が良いうえ、丁寧な心配りでよく手入れをされていた。
 細工の細かいベルトと、使い込まれた風合いの剣帯には左右に湾曲した短い剣身の剣が二振り。あれは確か半月刀シャムシール、とかいう剣──刀ではなかっただろうか。鞘は華美ではないものの非常に凝った作りで、目の肥えたルークにはそれがかなり身分ある人の持ち物だとわかった。

 物語に登場する戦神の挿絵のようだと思い、ルークはぽかんと目と口を見ひらいて、老人を見上げた。
 血管と色素斑の浮いた老人の手が探るように宙を泳ぎ、指先がルークの髪を軽くかすめた。とたん、身体の中を涼やかな風が吹き抜けたように、痛みが軽くなる。その人は片膝をついてしゃがみ込み、ルークと顔の高さを近くしてくれた。
 教会で焚かれる清々しい香と、微かだが老人特有の体臭が混じった匂いが鼻腔をくすぐる。そのどこか慕わしい、ほっとさせる匂いに、ルークはすぐに警戒心を解いた。

《……目が見えなくてな。私はちゃんと君のほうを向いているか?》
《う、うん》
 だが確認などとらずとも、老人にはルークの正面がわかっているようだった。
《なぜ泣いている》

 ルークはほとんど正面から老人を見つめた。
 短く刈り込まれ、整髪剤で無造作に逆立てられた髪と眉は真っ白だった。歳はクルトと同じくらいか、少し上くらいだろうか。ルークには彼らほどの歳になるとあまり判別がつかないので、あるいは下であるかも知れない。顔には深い皺が刻まれ、色素斑が浮き、肌も唇も潤いを失って乾いている。肉はこそいだように落ちて、頬骨がくっきりと見える輪郭になっていた。
 だがゆったりした衣装の上からも、老人の今なお鍛え上げられた厚みのある身体が透けて見えるようだった。いでたちからするとかなり高い地位の武人なのだろうが、威圧感など少しも感じない。むしろ人を癒し、丸ごと包み込むような、優しい穏やかな気配だ。
 それでも、ルークにはわかった。
 おそらく、強い。ペールよりも、グランツ謡将よりも。ルークがこれまでに出会ったどこの誰よりも。ひよっこのルークに、その限界が見極められると到底思えないほど。だが、きっとこの老人は、その気にならなければ、まるで無力な老人のようにも見えるだろう。
 武人が心・技・体を極めると、こうなる。
 その例の一つが、この老人なのかもしれなかった。深く刻まれた皺の奥にくぼんだ目はどこか面白がるような笑みを湛えているが、両目ともに白く濁り、光を失ってしまっているのが、ルークはとても残念だと思った。

《な、泣いてない》
 ルークは強がり、首を振った。クルトよりも強そうな老人の前でみっともなく泣いているなどルークの、ファブレ家の男としての矜持が許さない。痛みをこらえ、目をパチパチさせると、びっくりして止まってしまった最後の涙の雫が転がり落ち、ルークは慌てて袖で目を拭った。
《……おれがレプリカってわかるの?》
 ごまかしついでに聞いてみると、老人は少し不思議そうに首を傾げた。
《まあなあ……第七音素は呼び合うものだろう? とはいえ、皆召されて久しい。そんな感覚も忘れていたな》
《……? 皆死んじゃったの?》
 ルークのその質問に、老人は少しだけルークを見つめ、穏やかな、本当に穏やかな笑みを見せた。
《私が最後の一人のはずだ》
 ルークはその笑みに胸を突かれたようにたじろいだ。なぜなら、その笑みはあきらめ、受け入れた者の儚さと靭さを同時に感じさせたからだ。
《……さみしくない?》
《そうだな。友も大勢いて、妻──はいないがそのような者もいて、慕ってくれる部下にも恵まれているからな》
 それを聞いてルークは俯いた。それは寂しくないという答えとは少し違うように思えた。ルークにもガイとマリィベルが──離れて暮らしているけれども──いて、両親や従姉弟のナタリア、ペール、大好きな先生たち──大切に思う人が大勢いる。毎日が充実して、この世界に来られたことをとても幸運だと……幸せだと思っている。にも関わらずルークはいつでもなぜか寂しい。何か、本当に必要とするものを、『以前』に置いて来てしまったかのように──。

《君はここがどこだか知っているか》
《わかんない。なんとなく見覚えがあるような気はするんだけど……おじいさんは?》
《私? そうだな、なんとなく予想が付かんでもないが……断言は避けようか。なにせ夢の中でまで目が見えないことなど初めてのことでな》
《ゆめ? おれ、いま夢を見てるのかな?》
 ルークが問うと、老人がいかにもおかしげな笑い声を立てた。
《夢の中の住人が、自分は夢を見ているのかと問うのか?》
 なぜ笑われたのかわからず、ルークは不思議そうに首をかしげた。
《……おじいさんは、ローレライなの?》
 ルークがここに入り込む直前に聞いた声を思い出して聞いてみると、老人は絶句したように微かに口を開け、すぐに苦笑を刷いた。
《やれ、随分懐かしい名だ。小さいのに、失われた音素の集合体セブンスフォニムの名など良く知っているな》
《小さくない!》ルークはむっとして良い募った。
 なぜかここでの身体は十歳にも満たないほどなのだが、本当は十七なのだ──いや。七足す七で、《そ、そう、十四歳だ……?!》
《そうか、声が幼いので子供なのかと思ったが……。確かに十四ならばもう一端の男だな》老人は少しばかり苦笑した。
《なんか、身体がちっさくなってんだ》
《夢の中での不思議は良くある話よ。名はあるのか? なんという?》
《ルーク》
 老人は白く濁った目をはっと見はり、かすかに笑んで、固く目を閉じた。《……今日は懐かしい名ばかり聞く。……名付けは父上か?》
《え、う、うん。──多分》
《そうか。父上は君を騎士や──武官にしたいと思っておられるのかな》
《う、うん。そうだよ。おれは父上の後を継いで国を守るんだ。おれ、父上を負かせるようになったんだぞ》
《父上が自ら稽古をつけてくださるのか。それは良いな》老人は目を細めてひとつうなずき、くしゃりとルークの頭を撫でた。
《それでは偶然ではないかも知れん。古い言葉で『聖なる焔の光』、それはかつてオールドラントを滅亡から救った英雄の名だ。勇名にあやかろうというのか、当時の騎士や兵士はこぞってその名を男児に付けたものだ。──大事にするといい》
《……うん》
 ルークがうなずいたとき、老人がふと、何かに気付いたように立ち上がり、後ろを振り返った。《ああ。どうやら目覚めが近いようだ。ルーク……か。会えて楽しかった》

『ルー……ま……かり……下ざ……ークざま……』

 老人の姿が音素の固まりのように光りながら透けて拡散して行く。そのとたん恐ろしい恐怖に駆られ、ルークは悲鳴を上げて手を伸ばした。
 ルークの悲鳴に驚いたのか、老人が驚いたようにこちらを向いた。目の前で、その顔が光に変わり、弾けたように散った。

「あっ、ああああああぁあああああああ!!!!」
「る、ルーグざま! じっがりじてぐだざい、ルーグざま!」
 おおい被さっていた人物をはね飛ばすような勢いでルークは身を小さく丸め、胸を押さえてころがり回った。痛い、痛い! まるで心臓が握りつぶされているようだ。老人が音素に変わり、飛び散った瞬間のことが甦るといくら叫んでも、どれだけ暴れても足りないほど心も身体も恐怖に軋んだ。

「あああああっ、うあ、あああぁあぁあ!!」
(あれは夢だろ、ただの夢だ、夢だ、夢だ!)
「ごべんなざいごべんなざいルーグざま! であで、ざぜでぐだざい、じっどじでぐだざい~!」
「ああああ、あぁ、あ、ぐ、は、はあっ、はあっ、は……」

 身体の中にあった恐怖を残らず吐き出してしまうと、ようやく耳にか細い女の声が入ってきた。はっ、はっ、と荒い息を吐きながら全身の痛みをこらえ、肘と手で支えながらやっとの思いで上体を起こし、汗でべったりと顔にはりつく乱れた髪の隙間から声の主をうかがった。
 目に入ったのは、汗を滴らせ、幾筋もの涙を歪めた頬に伝わせている少女。

(ティ)

 ルークは言葉を失って、ただぽかんと目の前の少女を見つめた。
「よ、よ、よがっだ、よがっだあっ、おぎでぐれだあ……!」
(だ、だれ……?)
「ルーグざま、ごべんなざい、わだじ、じらなぐで……ルーグざまも、ゼブンズヴォニマーで、い、いらじたなんでぜんぜん、じらなぐで……。わだじ、も、ゼブンズヴォニマーで……ぎ、ぎじっ、ちょおしんどおをっ、ずび、ずびばぜぇん……」

 ルークは少女に支えられながら上体を起こし、辺りを見回した。ルナの明かりに薙いで輝く海が見える。淡く発光したセレニアの花が咲き乱れていてレムデーカンだというのに暖かい風に花びらが舞い上がる、夢のように美しい風景。

(また、ここに……。ここから……)


2019.03.16改稿 (2012.10.27初出)