【05】
「う……痛っ……」
このところ回数が増えて来た酷い頭痛を、奥歯を噛み締めてやりすごす。
『以前』もこのように接触を図って来ていたし、原因はローレライで間違いないだろう。この世界は『以前』とはあらゆるところが違うけれど、変わらないところもある。ローレライの接触はその一つだった。
状況が『以前』と同じならと、なんとかコンタクトを取ろうと呼びかけてもみたが、残念ながらこの時点でのコンタクトは『以前』同様出来ていない。
ただ、『以前』とは違って痛みの理由がわかっているせいか、少しだけ楽に耐えられる気もする。『以前』はいくら調べても理由がわからず、誘拐の後遺症だの脳の損傷だのと空恐ろしい推測が使用人の間を巡っていて、それが耳に入るたびおれは壊れつつあるのかと怯えた。それは、苦痛をより増したように思う。
「やっぱこの世界のローレライも、おれに望んでることは同じなのか……? にしても、もうちょっと加減してくれないかな……容赦ないよな……」
収まりつつある頭痛に言っても無駄な愚痴をこぼし、ルークは手の甲でびっしりと浮いた脂汗を拭った。痛みの残り火に震える手で、計算問題を解いていたノートを押しやる。
やがて完全に頭痛が消えてから、傍らに用意しておいた濡れタオルで──左利きのルークが文字を書くとどうしても手が汚れてしまうので──顔と首筋を丁寧に拭い、窓を開け放つ。苦痛の残滓が爽やかな風に攫われていくにつれ、痛みに強張っていた身体がすうっと楽になっていく。
しばらくひんやりとした風を堪能して、大きく伸びをして凝った体をほぐし、また机に向かう。特に定められた自習時間と言うのはないのだが、この時間は勉強時間と決めているのだ。かつてやり過ぎをクリムゾンにきつく叱られたため、勉強時間をずいぶん減らした。集中しないと時間がもったいない。
ルークの勉強は、救出から一年ほどが経って──行方不明中に萎えた筋力が回復し、剣術や乗馬の稽古で体力もついてきたと判断されてから再開された。こことよく似た『以前』の世界では、最初にテストのようなものが行われたと聞いていたが、この世界ではどの教師も当時のルークの学力をそのように量ることなく、ごく当たり前のように初級のものから開始した。
『以前』、ルークは失望と侮蔑の視線に慣れ、倦んで努力することを止めた。だが無知で愚かだった時代を経て、仲間たちに日々教わりながらルークも怠惰だった時間を取り返している。憶えていることのおさらいばかりの授業はさすがに退屈極まりなく、時に椅子に座っていることが苦痛だった。
だが老獪な教師たちはルークが言えずともそのくらいのことはすぐ態度で悟ったのだろう。生徒が理解していると見るや、欠片ほどの遠慮もしなかった。ルークに合わせて授業はおそるべき早さで高度になっていき、舐めてかかっていたルークはたちまち青息吐息になった。曖昧なままで放置し、わかったつもりになっていただけのことがずいぶんあったのである。
教わったことをその日のうちに消化するのが精一杯で、次の授業のために予習しておく余裕などあっという間になくなってしまったが、一つ何かを理解すると、雲が晴れたようにぱあっとさまざまなことがわかる。知識が深まるのは、世界が広がるのと同意だった。
初めは知識が増えて行くのがただ嬉しくて楽しくて、限界も見極めず発熱して倒れるまで本を読み続け、大魔神のごとく怒り狂ったクリムゾンによって一回目の図書室封鎖が行われたりもしたが、知識が増えるにつれ学習に対する要領もよくなった。そのおかげで、予定よりずいぶん早い十三歳のころには、基礎教育をすべて終えていた。
多岐に渡る基本の教育を修めてしまうと、あとは細かく専門のわかれた高等教育になる。この世界の公爵夫妻は、一人息子の教育に全く手を抜く気はないようだった。各分野で一流と言われる自薦他薦の人材をあれこれと吟味して探し出し、最終的には夫妻が自ら面談に出かけて息子を任せるに相応しい教師を選ぶという念の入れようだった。
家庭教師たちは、一流と呼ばれるだけに研究者に近い変わった老人が多く、貪欲に知識を吸収するルークに喜んで、熱心に教育してくれもしたが、孫のように遠慮なく可愛がり、また叱り飛ばしてもくれる。最初は身構えていたが、問題が出来なかったり忘れてしまっていたり、あるいはうっかりしたミスをしてしまっても、鞭で手の甲を打たれたことは一度もない。
ルークはすぐにどの教師のことも大好きになった。
ルークには祖父母がいない。だからというわけではないだろうが、ルークが特に懐いたのが古代イスパニア語の女性教師クララ・ボルヒャルトと、戦略、戦術、戦史などを教えてくれるクルト・バルベ教師だった。両教師にとって、ルークは孫、曾孫のような年齢にあたる。
クララは時折、わざと変な訛りをつけた古代イスパニア語でオペラを歌い、ルークを爆笑させる。その単語は頭に残り、忘れてしまうことがなかった。ルークの知らない古代の神話を面白おかしく話してもくれたが、興味を持ったルークが図書室で本を探すと、ほとんどがクララによってトンデモ改竄された物語であったことがわかり、本物は思ったほど面白くもなくてがっかりしたこともある。
クルトは、ファブレ公爵家に次期公爵の座学の教師として招かれていながら常時帯剣を許可されている唯一の教師だ。八十が近いと言うのに、大柄な身体をまっすぐに伸ばして大股で歩く、その堂々たる姿は今もなお鍛え上げられた現役の武人と言えた。
四年前に一度だけ、お茶の時間にクリムゾンを狙った賊が侵入してきたことがあるのだが、居合わせたクルトの、ペールやクリムゾンに劣らぬその剣の腕を目の当たりにして、ルークはすっかり心酔してしまった。記憶も言葉も非常に明瞭で、脱線が多くて授業がしばしば長引いてしまうのだが、その脱線話が面白くてついつい長居をうながしてしまう。
クリムゾンをして「このように年を取りたいものだ」と心酔せしめる人物なのだが、もうとうに引退した身ということで、クルトを招聘するのは大変だったらしい。おそらく、ファブレ家がキムラスカ屈指の武門の家であり、ルークがその総領息子としての力量を期待されているからこそのごり押しだったのだろう。ルークは当然クリムゾンのあとを継いで武官になるはずで、政治向きのことは通り一遍の教育だったとしても、のちに一軍を指揮する身になるルークへの、指揮官としての教育は決しておざなりにされてはならないと考えられていた。
「ルーク、少し色が白くなったのではありませんか? ガイがいないからといって、お部屋に閉じこもって本ばかりではなりませんよ」
クリムゾンが領地に戻っていない限りは、夕食後のわずかな時間、完全に三人だけの家族の時間を持つのがファブレ家の決まりだった。父が息子にその日の勉強の成果や一日にあったさまざまな出来事、反省点をこと細かく報告させている横で、このときばかりはシュザンヌが手ずからお茶を淹れ、軽いお茶菓子を取り分ける。
「……ペールギュント師匠がいなくとも、剣術の稽古は続けています。それに一昨日朝食の席でもお会いしたではありませんか。一日やそこらで色が褪せたりはしませんよ、いくら焼けにくい体質といっても」
「今日お前が昼寝をしているころ、ルークは中庭で白光騎士らと剣術の稽古をしていたぞ。体術……というほどでもないが、組み合って遊んだりもしていた。私とも少し試合ったが、ますます腕を上げたようだったな」
ルークを庇うクリムゾンに、シュザンヌはがっかりしたように眉を下げた。「そういうことをなさるなら起こして下さらなければ。旦那様とルークの試合ならば、わたくしも見とうございますのに」
「いつも見ているのだから、わざわざ起きずともよいではないか。お前はただでさえ昼寝をさぼって動き回ってばかりいるのだから、休むときはきちんと休みなさい」
この世界のシュザンヌも体が弱く、薬を常飲しないと倒れてしまうこともあるのは『以前』と同じなのだが、なぜか驚くほど精力的で行動力があり、クリムゾンと一緒にパーティーに出席したり、兄王と話をするために登城したり、お茶会を主催したりと少しもじっとしていないのだった。そのため、ルークとクリムゾンは始終ハラハラさせられているのだ。
「もう私では一本も取ることができなくなった。前から思っていたが、お前は筋が非常に良いな。この調子で励めば、ペールギュント卿はもとより、ヴァン……グランツ謡将などよりも強くなろう」
十七の息子に遅れをとったと言うのにどこか誇らしげにクリムゾンは言った。
「グランツ謡将は当代一の剣聖と誉れ高い方ですが……」
「お前の方が若い分、伸びしろが大きかろう。十七歳にしてその腕ならば、あやつから剣聖の称号を取り上げる日も近いぞ」苦笑する息子に、クリムゾンはふんと鼻を鳴らしてみせた。
あやつ?
ルークははっとして、持っていたカップを皿に戻した。動揺のせいか、少しばかり大きな音が立ってしまった。
「……確か、誘拐前はグランツ謡将がおれの指南役を務めてくださっていたと聞きましたが……。ペール師匠に変更になったのは、どのような理由があったのでしょう」
ルークの問いに、クリムゾンは苦々しげに眉を寄せた。「……あの若造は、好かぬ」
「へ? ……っあ、そ、そうなのですか」
意外にきっぱりとした返答がなされ、一瞬言葉を失い……微かに首を傾げる。
『以前』では、確かにクリムゾンはマルクト人に隔意を持っていたと記憶している。いや、それは憎しみと言ってもよかったかも知れない。長年剣を交わし、戦場で親しい友や目をかけた部下を大勢亡くしたのだから、それはもう仕方ない。
が、この世界では、友好的とは言えぬまでも小康状態を保っているし、マルクト人のガイを保護して目をかけてもいる。ガイとのつながりで、ヴァンはマルクト出身者だとこの世界のクリムゾンは知ってしまっているが、それが原因とはちょっと考えられない。
「私とて、あの若造に任せたくなどなかったが……」
「若いうちからご自分以上に名を上げておられる謡将に、焼きもちを焼いてらっしゃるのでしょう?」
「──っなわけがあるか!」
ころころと笑いながらからかうシュザンヌに、クリムゾンが噛み付く。
「は、はあ……」
「なんだ、ペールギュント卿ではもの足らぬようになったのか? 元々、アルバート流はシグムントの剣を極める過程で修めたもので、到底真髄には及ばぬと申しておられたが」
「い、いえ、そんなことは。まだまだ師匠から一本取るのは難しく……。容赦なくアルバート流の隙を突いてくるシグムントの使い手との鍛錬は、アルバート流を更に昇華するためにも非常に有効です」
「ふむ。最初は私と同じ剣を修めさせようと思っていたのだが……お前の才を思えばそうせずに良かったと思う。ルーク。武門の名門と言われる我がファブレ家の本分は、陛下、そして殿下に忠節を尽くし、盾として国と民を守ることにある。しっかりと励めよ」
「はい」
重々しく語る父に神妙に頭を下げる息子を、シュザンヌは頼もしそうに見つめ、カップと菓子皿を勧めながら言った。
「男の子は成長が早くて、あっというまに手の中から飛び立ってしまいますね。寂しいこと。この子はもう少し手の中に置いておきたかったのに……」
シュザンヌ、とクリムゾンが苦笑し、これでいいのだというように首を振った。
「現在のところは小康を保っているが、今後マルクトとの関係もどう変化していくかわからぬ。陛下もさまざまに尽力なさっておいでだが……。もし、事あれば、おそらく武勇に名高い皇弟が自ら出陣してくる戦場がルークの初陣となろう。いつまでも子供気分ではおられぬぞ」
「……ピオニー皇弟殿下ですね。格闘の天才と言われる」
「そうだ。……正直、用兵はというと今ひとつのような気がしないでもないが、個人の武勇は抜きん出た方だ。以前戦ったときはまだお若かったが、武闘家としてそろそろ脂の乗ってくる頃、ますます強敵になってくるだろう。腹心には悪名高い『死霊使い』もいるし、努々侮るまいぞ。ルークも戦場に出れば、そのうち彼と対峙することになるやも知れん。鍛錬さえすれば必ず勝機を掴めるとは言わぬが、怠れば機会すら与えられぬ。戦とはそういうものだ」
「心得ております、父上」
ルークとて、ずっとクリムゾンの背中を見つめて育ってきたのだ。例えレプリカのルークにファブレ家の将来に関わる資格がなかったとしても、その姿は一人の男のあるべき姿として、ルークの目に確固たる目標となってそびえ立つ。
そんな息子を、クリムゾンは満足そうに見つめる。「お前は我が国にとって、私以上に頼もしい盾になるだろう」
シュザンヌはそれ以上はなにも言わず、父と息子の姿を嬉しそうに見つめていたが、その瞳の奥にほんの少し、不安と寂しさが揺らいでいたことに、ルークは最後まで気付かなかった。
部屋に戻ってから、ルークは革張りの重たい日記帳を開いた。日記を書くのは昔からの習慣だ。呼吸をするように自然なことであり、面倒くさいと思うこともない。ルークは良く教師たちからレポートを褒められるが、その日に起こったこと、感じたことを頭の中で一度整頓し、文章に書き起こすこの習慣が良い訓練になっているのではないかと思っている。文字にしてみると、その日得たこと、反省点、新たに学ぶべきこと、さまざまな課題がよりはっきりと浮き彫りになった。一日の終わりに頭を冷静にして客観的にものごとを捉えるのは、翌日からの生活に確実に活きてくる。
ルークはいつものように書くべきことを頭の中でまとめ、愛用のペンを取り、ペン先を確かめてからインクをつけた。
《レムデーカン・ノーム・22の日》
日付を書いてから、ルークは首をかしげた。奇妙な胸騒ぎがして、暦を取り出して確かめるも、特になにか重要な予定や事柄はないようだ。
「課題の提出……誰かの誕生日……どれもないよな?」
しばらく日付を見つめて考え込み、ふと立ち上がって本棚から古い日記帳を取り出した。
誘拐前の『ルーク』が書いたものだ。アッシュに日記を書く習慣があったかどうかは知らないが、アッシュ──『以前』のルークオリジナルは、この時点で部屋に日記など残していなかった。残念ながら『ルーク』はルークほどにはマメではなく、必ずしも毎日綴られているわけではなかったが、なにか印象深いことが起きた日や、楽しいことがあった日は必ず日記を書き残している。一字一字を丁寧に書いた硬質な文字は、今と変わらない。
そう、『今』とだ。『以前』医師の勧めで日記を書き始めた当初は、読み書きを憶えたばかりであったため、真に幼児の書いた虫ののたくったような文字だったが、今のルークは『以前』で文字を書き続け、癖はあるもののこなれた筆跡で文章を綴ることができる。だからこの日記も、知らぬ人間が見れば同一人物が書いたものにしか見えないだろう。鑑定を生業にしている者は別として。
その上その内容は、いかにもルークが書きそうなものだった。その日『ルーク』の心に残った出来事はルークの心にも温かい想いや楽しさをもたらしたし、それに対しての意見や感想は何度読み返してもルークが考えそうなことだった。
『ルーク』とルークの境目がわからない。おれは誘拐事件を機に造られた『ルーク』のレプリカではないのかと、己の誕生の根幹まで揺らいでくる。
にも関わらずやはり自分が書いたものとは思えないのは、辞書にも載っていない奇妙な単語──前後の文脈からなんとなく意味はわかるのだが──や、聞き覚えのない言い回しを文章の随所に散見するからだ。それに日記を書きたくなるほど楽しい何かがあった日、心なしか筆跡も踊っているように感じられた──ルークの筆跡の癖を真似るのを、少しだけ忘れたように。
まあ、それも気のせいといえば気のせいで終わるレベルなのだが。
ぼんやりと文字を指先で何度もなぞり、インクがすれて文字が汚れてしまったころ、ルークはため息をついて日記を閉じた。
ここが『以前』と異なる世界ならば、『以前』の知識を持ち出してあれこれ考えても無意味だ。ルークに出来るのは、この世界を全力で生きることだけ。この事態がなんなのかという答えは、その果てにあるのかも知れない。
初めこそ混乱し、苦悩もした。だが今は、ルークはこの世界を全力で生きることを楽しんでいた。ルークの正体を誰も知らないからこそ、レプリカだというのに皆に受け入れられている。この世界に弾かれていないと感じる。
この居場所が、『以前』のように『ルーク』を弾き出して得たものでないと良いのだが……。
その日の日記を書き終えて、ルークはベッドに入った。目を閉じると、胸騒ぎはより大きくなる。だが、眠れないかもしれないと思ったにも関わらず、実際は横になってしばらくすると、いつものように眠りに落ちたようだ。
意識が飛ぶ瞬間、真っ青な空の下で風になびく紅い髪を、確かに見たような気がした。