【04】
「そろそろ帰ろうか。空模様がおかしいが……天気の預言はどうだったかな」
「今日は夕方から曇りで、雨は降らないはずだったかと」
「今日は降らないけど、明日の昼前から三日半は雨が続くぞ」 ガイとペールが荷物をまとめながら話しているのがふと耳に入り、ルークは我に返って慌てて手伝うために手を伸ばした。「明後日にはガイとペールはベルケンドに発ってしまうし……その前に一緒に遠乗りに出られて嬉しかった。しばらく来れないもんな」
「半月後には帰ってくるんだ、今度はホド風の弁当を持って来ようぜ!」
「ホド風か。おれ、海老マヨ握り大好物なんだよな」
「おいおい公爵子息」ガイは小さく吹き出したが、すぐに表情を改めて空を見上げた。「それにしても出発日は雨か……。ルークの預言は確実だからな、備えておこうぜ、ペール」
「そうですな」
「預言じゃないって」ルークは苦笑して愛馬のたてがみを撫でてやり、体重を感じさせない動きで静かに飛び乗った。足先にいくにしたがって漆黒の毛並みに変わる、スチールグレーの連銭葦毛がため息がでるほど美しく、賢い馬だった。主人を乗せた彼の喜びと昂揚が鞍上にまで伝わってくる。
「確かに譜石が生成されるのを見たことはないけどさ。預言の先まで百発百中って、預言士よりすごいだろう」
ルークはこと気象に関しては預言を必要としなかった。預言士のように第七音素を取り込む必要などない。天候の動きくらいなら、空を見上げ、大気と土の匂いを嗅ぎ、鳥や動物、虫たちの声に耳を傾けるだけで簡単にわかる。
「別にすごくない。みんな預言があるからって、自分で空を見上げないだけだ」
「見てもわからないから言うんだって」
弱いとはいえ魔物も出没する地域だが、馬たちは三頭とも主人の力を信頼しきっていて怯えた様子を見せることもない。三人は来たときと同じようにゆったりと馬を走らせ、日没ぎりぎりに屋敷に到着した。それぞれ馬を労い念入りに手入れをしてやって、厩舎前で別れた。
「おれ、もうちょっとこいつと話していくな」
「わかった。じゃ、夕食で会おう」
「俺たちだって馬とは話すけど、あいつの場合は本当に会話をしているとしか思えないときがあるよな」
ルークが残る厩舎から十分に離れ、馬場を迂回して屋敷に戻る道を歩きながら、ガイは厩舎を振り仰いで苦笑した。これまでに一度も使ったことのない乗馬鞭を、ガイが無意識の仕草でペチペチと左の手のひらに当てているのをペールは咎めるような目でみやり、ふっと視線を外して息を吐く。
「……『ルーク様』は不思議なところのある方ですからなあ」
「んー……確かにあいつは昔っからちょっと不思議なやつだったよな。その不思議な部分が誘拐後に多少変わってたって、俺はたいして気にはしなかったけど……あんなふうに悩んでるなんて、俺は全然気付かなかった。親友失格だよ」
「──誘拐前のルーク様は、天気の預言をしたりはなさいませんでした」
「ペール」
咎めるように声を上げるガイの前で、ペールは少し苦笑いをしてみせた。「先ほどはああ言いましたが、当時は確かに違和感を感じておりました。特に我々は、誰よりもお側にいる時間が長かったですからな。わしは、あの方がご自分は『取り替えっ子』ではないかとおっしゃりたくなるお気持ちがわからんでもありません」
「……っあー」ガイは参ったというように額を押さえて軽く仰向いた。「そういうことをぐだぐだ考えているから、あのおおらかな無邪気さを失ったのかと言いたいところだが……あいつは誘拐される前から、時々は妙に老成したとこもあったよな。あのころは俺もガキだし、そんな難しく考えてたわけじゃなくて、今なら「お前は俺の兄ちゃんか!」って突っ込んでるだろうなってくらいの軽い気持ちだったけどな。……時々は父親のようにすら感じることがあったんだ。気付いたらいつもうまいことあしらわれて宥められていた。けど……今のあいつは、どちらかといえば手のかかる可愛い弟、そんなふうにしか思えないんだ」
ペールは難しい顔で頷きながらガイの話を聞いていたが、やがて「それは笑えませんな」と呟いて迷いを断ち切るように大きなバスケットを持ち直し、囁くように言った。
「ガイラルディア様は右利きですが……突然利き手が左に変わってしまったら、どうなさる」
「……左手を使うんじゃないか?」
「これまで普通に使っていた右手はどうします?」
「そりゃ……っ?!」
ペールが言わんとしたことを悟って、ガイが顔色を変えた。ペールがいかにも憂鬱そうに頷く。「突然利き手が逆になり、今朝まで使っていた利き手が全く使えなくなる。結構長く生きておりますが、そんな話わしはこれまで聞いたことがない」
「ペール……」
「矯正が出来るのですから、訓練で利き手を変えることは可能です。ですが、訓練もなしに突然利き手と逆の手が使えるようになるということが本当にあったとして──そうするとこれまでの利き手が全く使えなくなるというのは、わしは変じゃと思います。右手に怪我をされたのか? 神経が切れてしまわれたか? そんなもの、ファブレ家ならばなんとでも治せましょう。身体的な問題ならば、周囲のものにそれを隠す理由はなんでしょうか。わしは断言します、ルーク様の右手にはなんの障害もない」
ガイは今日になるまでルークの利き手はずっと左であると思ってきた。クリムゾンに連れられて初めてファブレ邸に来たときには、すでにルークは文字を書くのも食事中ナイフを持つのも左で行っていたのだから、当然だ。当然剣だって左で持っている。利き手ではない方で互いの似顔絵や文字を書いてふざけたこともあるが、ガイ自身は元より、ルークだって自己申告通りひどく不器用なありさまだった。だから幼い頃は右手を使っていたということがなんとなくピンとこず、右に左にと乗馬鞭を持ち替えて、唸った。「……利き手が変わったのではなく、両利きになったと言われれば……」
「そう、まだ納得がいきます。そこなんじゃがガイラルディア様、実はわしは、」
ペールがふいに口を噤んだ。共に押し黙ったまま並木の植わった緩やかなカーブを曲がると、若いメイドの一人が馬場への道をスカートをからげて全力疾走してくるのが見えた。
「ガイラルディア様! 良かった、見つかって! 厩舎にいらっしゃるって聞いて、それで、あたし」
「あとでな、ペール」ガイは声を低めて言ってから、人好きする笑顔を作ってその少女に向けた。「どうしたんだ? 慌てないでいいからゆっくり話して」
「厨房の音機関が一つ壊れてしまったらしくて、ニーナさんが困ってるんです! 今日の晩餐のために魚を乾燥させたものを粉末にしたいそうなんですが」
「ああ、わかった、見てみるよ」少女に頷いて、ガイはペールを振り返ってウインクをしてみせた。「ついてる。今日はホド料理かもしれないぞ」
話が話なだけに人の目のあるところで話すことは出来なかった。結局二人がこのことを突き詰めてとことん話し合うことが出来たのは、もう少し先、すでに事態が動き出したあとのことになる。