【03】
「ルーク様、ご所望の本はこちらでよろしいですか?」
「……うん、これでいい。ありがとうアンヌ、重かったろ」
分厚い数冊の本を受け取り、古代イスパニア語の題名を確かめてから、ルークはルーク付きの侍女に労いの声をかけた。
「とんでもございません。ですがルーク様ほどほどになさいませんと、また旦那様に図書室を封鎖されてしまいますよ? 奥様にも……ルーク様がお勉強の時間外で御本を読んでいらしたら、取り上げるように、と言われてるんですが」
そうは言っても、アンヌが黙認してくれる気でいるのはわかっている。でなければ、ラムダスの目をかすめてルークの代わりに本を探しになど行ってはくれまい。だが、ちくりと釘を刺すのを忘れないのは、元公爵夫人付きの面目躍如といったところか。
「クララ先生の宿題が終わったら、ガイと外で遊ぶよ。遠乗りに行く約束なんだ」
母にご注進に及ばれては敵わないので、ルークは守るように本を抱え込んだまま慌てて訴えた。アンヌがしたり顔でうなずく。
「遠乗りですか。ま、音機関だかなんだか知りませんが、ガラクタ漁りに出かけられるよりは健康的ですわね。軽食を用意させておきましょう」
「助かるよ」
「では、失礼致します」
ガイと護衛のペール、三人だけでバチカルを出て、気の向くままにのんびりと馬を走らせ、心地よい木陰を見つけて休憩をとる。乗馬は武官であるクリムゾンが、跡取り息子のルークに奨励するものの一つだった。『以前』はほとんど移動手段でしかなかったそれ──屋敷内に軟禁状態であった頃は乗馬すらさせてはもらえなかった──今では剣に並ぶくらい愛するものの一つになった。
「お前はさらっと流すだけでいいものに集中しすぎだよ。古代イスパニア語なんか最たるもので、普通に暮らす分には必要ないんだし、教養の範囲内で憶えればいいだけなのに」
ペールが馬に括り付けてきたバスケットからは、サンドイッチや、肉汁がたっぷり詰まってハーブと香辛料の効いたソーセージ、ジャム入りの揚げパン、アップルパイ、次々に食べるものが出てきた。お茶のポットだけではなく、ワインまで付いている。軽食とはいってもそこは男三人──ペールはさすがにそんなには食べないが──の胃袋を満たすだけの量があった。
あれこれとつまみながらアンヌに「音機関漁りはくだらないが、遠乗りは健康的」などとと言われたことを話していると、ガイは「おばさんには音機関のカッコ良さがわからないのかね! 特に今は失われた技術で造られた古代のものなんか浪漫の固まりだってのに!」とぶうぶう言ったものの、ルークは少し本から離れる必要があるというのは同じ意見のようだった。
「でも、古代イスパニア語を知らなかったせいで大失敗したことがあるんだよ。そういうの、おれもう無しにしたいんだよな。将来必要な知識とそうでない知識って、実際そのときになってみないとわからないものだし、そう思うととりあえず目の前にあるものは片端から吸収していかないと安心できないんだ。──怖いんだよ」
『以前』では不要だったものが、今回は必要になるかもしれない。その時、『以前』のように無知なままでいては、『以前』以上に状況を悪化させる可能性もあった。
「大失敗? いつのことだ?」
「え? いつって……。む、昔だよ、昔」ルークはガイに突っ込まれて冷や汗をかいた。「改めて聞かれたらはっきり憶えてないんだけど……。きっと失くなった記憶の中だよ。けどまともに勉強してなかったせいで、みんなに迷惑かけたんだ」
敷物の端に座って、食べ物を口にしながら周囲を鋭く警戒していたペールが、一瞬ちらりとルークに視線を流した。
「な、なんだよペール師匠?」
ガイは気付かなかったようだが、ルークはそのわずかな動きに気付いて声をかける。
「……いえ。昔の記憶を思い出そうとしておられたら、止めるようにと言われておりますのでな」
「ああ……そうだったな。いや、大丈夫だよ」
ルークは頭を掻いてやれやれと嘆息した。
行方不明ののち戻ってきたときのルークの姿は、屋敷にいた大勢の人々──特にシュザンヌに、よほどの衝撃を与えたらしい。興奮状態で支離滅裂なことを喋ってしまったし、栄養状態は決して悪くないのに手足の筋力が異常に萎えており、自立歩行出来るようになるまで一月以上のリハビリが必要だったのだから、無理もない。
ルークにとって幸いなことに、誘拐前の記憶を取り戻すことで事件そのものの記憶まで揺り起こされてしまうのではないかと、それは精神の均衡を保つためにルークの無意識が忘れた方が良いと判断したほど恐ろしいものではないかと、それを恐れたシュザンヌによって、その命令は徹底されていた。
むろん、記憶がないわけではない。いや、この世界における『ルーク』の、十歳までの記憶がないのは確かだが、今のルークはその理由を知っている。
──いや、知っていると言って良いのだろうか? 本当に?
ここは、かつてルークが馴染んだ世界とは、何もかもが違う。そもそも軟禁されていないということだけでなく、まわりを取り巻く人々の立場やその態度、時には顔ぶれまで。
ルークは当初、自分は何かを失敗し、ローレライにやり直しを要求されているのかと考えた。だが変化は、ルークが能動的に動くことで起こしているわけではない。むしろ変化に富んだ物事にその場その場で対応していくだけで精一杯で、前回の経験を踏まえて何かを良い方に変えよう……という余裕などまるでないのが現状だった。
本当にここは己の知る世界──『過去』なのか、それゆえにルークは懐疑的になっていた。数本の髪を引き抜けば、十分も経たずに乖離していく。そのことからも、自分がレプリカであることは間違いない。部屋に落ちていたガイの金髪は、いつまで眺めていても乖離はしなかったから、全員がレプリカの世界というわけでもない。ルークがレプリカならば、確実にオリジナルが存在するのだ。
だが、そのオリジナルがアッシュであるという確信が、どうしても持てなかった。いっそよくよく似ている別世界と言われた方が納得がいくほどだ。
「でもさ、やっぱちょっとは気になるよな。誘拐前のおれって、どんなやつだったんだろうって」
なんとなく母の耳に入ってしまうのが怖くて、屋敷の中ではなかなか聞けないでいることだった。以前の世界では知りたくもないのに勝手にルークの耳に入って来た情報が、今回はまるでない。メイドたちが私語をしている場面に全く出くわさないわけではないが、今のルークは屋敷に閉じこもりなわけではなく、そんな機会はそもそも激減していたし、メイドたちの噂話の内容も以前とはまるで違っていた。
「どんなって……」ガイがちょっと戸惑ったようにペールと顔を見合わせた。「そりゃ、ちょっと変わったかなって思うことはあるけど、お前はお前だろ」
「え、ど、どんなとこが変わった?」
「え、うーん……。以前はもう少し稚気があったっていうか無邪気だったっていうか。帰って来てからお前、色々気を遣いすぎてると思うぞ。実の親なのに、閣下にもシュザンヌ様にもどっか遠慮がちっていうか……。けど、誘拐なんて重たい体験して、全く変わらないでいられるやつもあまりいないだろうしなあ」
ペールも穏やかに笑んで頷いた。「あれから七年も経っておりますので、成長されるに及んで色々変わられたと思うことはむろんありますな」
「一体どうしたんだよ、ルーク。何をそんなに気にしているんだ」
「いや、な。時々思うんだよ。もしかしたら、おれは『取り替えっ子』なんじゃないかって」
「はあ?」
ガイが眉尻を落として呆れた声をあげた。どちらかといえば表情に乏しいペールまでが少々目を見張っているのがばつが悪く、ルークは首を振った。「馬鹿なこと言ってるって、思うかも知れないけど……」
「ルーク……。大なり小なり子どもにはそんなふうに考えちまうところがあるよ。お前は誘拐のせいで、それを本当のことみたいに思っちまうんだよ」ガイはそう言って突拍子もないことを言い出したルークをなだめたが、その思いつめた様子になにか思うことがあったのか、表情を改めてルークに向き直った。「ルーク、この際だ。言えよ、本当に悩んでることを」
「おれは……。誘拐前の『ルーク』とおれが別人だっていう証拠が欲しい。誘拐前の『ルーク』の正体を知りたい──今、どこにいるのかも……」
あっけにとられたように目を見開くガイに、ルークは本当に知りたいことを告げた。誘拐前の『ルーク』と自分が別人であることをルーク自身は知っている。例え確信に至る証拠がなかったとしても、細かい違和感の積み重ねが、『ルーク』はルークに非ずと告げている。
だが、『ルーク』はアッシュなのか? 『以前』で散々聞かされた『前のルーク様』と、今回の『ルーク』に、面影が重なる所がまるでない。
一体、アッシュはどこへ消えてしまったのだろう。
──そもそもこの世界に、存在しているのだろうか?
「なにか……シュがいるって証拠が……なんかないか、なんか──あ、そ、そうだ! 利き手が違うとか、」
同一人物なんだから証拠もなにもないだろうと怯むガイの語尾に被さるように、ペールの穏やかな声が重なった。「利き手とは? どこからそれが出てきました?」
「どこからって……。ただ、なんとなく。でもさ、ほら、『ルーク』は右利きじゃなかったか? いや、おれは全然右手は使えないんだけど」
「なんだそりゃ。意味が分からないぞ。お前は元から左利きじゃないか」
一瞬詰めた息を吐いてつまらなげに言うガイの傍で、ペールが口元を綻ばせた。「なるほど。誘拐前のルーク様と、今のルーク様が同一人物である証拠なら見つかりましたぞ」
えっと二人の若者が注視するなか、ペールはどこかほっとしたように話を続けた。
「ルーク様は、うんとお小さいころは右も使われていたそうですから」驚く若者たちのまえでペールはお茶を一口飲んでのどを湿し、何かを思い出すように少し遠い目をしたあとおもむろに話しだした。
「三、四年前になりますかな、ルーク様は憶えておられるか、サティと申すメイドが出産のために一時宿下がりして、復職してきたころのことです」
「サティ、うん、知ってる。白光騎士のエックハルトと結婚した母上付きのメイドだよな」
「……奥様は中庭でお茶を上がられていて、サティに子育てのことをいろいろ聞いておられましてな。わしは警備の指揮をとっておりまして、お話の一部始終が耳に入って参りました。なんでも子育てには刻一刻と変化があったり流行があったりするそうで、赤子を寝かせる姿勢や離乳の時期、やり方なんかも、昔と今ではずいぶん推奨されていることが違うらしいですな。そんな話をされているときに、ちらっとルーク様の利き手の話にもなったのです。昔は左利きの子どもは右利きに矯正するのが躾のうちでしたが、なんでも今は自然のままにしておくのが普通なんだそうですな。すると奥様が、ルーク様は三歳の半ばころまで右手が利き手のようだったのに、気がついたら左利きになっていたのだとおっしゃっておられました。不思議には思ったが、また元に戻るかも知れないと様子を見ているうち左利きに定まってしまい、矯正の機会を逃したが、自然のままで良いというのなら良かったと。わしも含めて、皆そんなことがあるのかと驚いておりました。ルーク様は逆にそのころの記憶が少し残っておられるのやも知れませんなあ」
ルークは唖然としてペールの顔を見つめた。それが本当なら、『ルーク』はアッシュとは違う。アッシュはルークの知る限り、完璧に利き手を矯正されていた。
いや、本当はすでに気付いていたことだ。認めたくなくて、色々と足掻いてみただけ。ここは、ルークが一度辿った、『以前』の世界じゃない。ルークのオリジナルはあのアッシュじゃない。良く似ているけれど、全く別の世界なのだ。
「う、うそ……だろ……。じゃ、じゃあ……」
この世界に、アッシュは存在しない。
「そうですな、昔からいる使用人──アンヌなどは当時は奥様付きだったはずですし、なにか憶えているかも知れません。ご不審なことがあるようでしたら、叱られるのを覚悟で聞いてみるのも良いでしょう」
アンヌおばさんにか、勇者だなルーク──などとからかって来るガイの声をぼんやり遠くに聞きながら、ルークは重い暗雲が垂れ込めてきている空を見つめていた。