【02】


 夢の覚めぎわに目の前で紙風船を割られたような、そんな覚醒だった。
 大きな目を見開いて瞬きを繰り返すと、こちらをのぞき込む、澄んだ空色の瞳が真っ先に目に入る。短いが柔らかそうな金色の髪の少年。泣き出す寸前のようにも、怒ったようにも見える複雑な顔をして、彼の手をぎゅっと握っていた。

(だ、れ……だ……?)

 彼はじっと少年を見つめた。知らないはずなのに、どこか見覚えがあるような……。いや、知っている。彼は、少年を知っているはずだ。なんと言ったか、そう──?
「ガ……イ」
 そう、ガイだ。うまく思い出せた。思わず笑みがこぼれる。
「ルーク?!」
「……ルー……? おれ? おれの、名は」
 ルーク。そんな名前だっただろうか? 
 そうであるような気もするし、そうではなかったような気もする。彼は曖昧に笑んだまま首をひねった。
 握られた手に力がこもり、不安げに揺れていた少年──ガイの瞳が喜色を浮かべる。するとまだわずかな幼さの残る顔がさらに幼くなり、彼はますます笑ってしまった。ガイは頬に削げきらない肉をまだぽちゃぽちゃと残していて幼げで、とても可愛らしい。それがなぜだか不思議で、奇妙な感じがしたからかも知れない。

「……ガイ?」
「ああ」ガイは泣き笑いの顔のまま熱心に頷いた。「俺だよ、ルーク」
「なんで……ガイがここに? おれ……おれは……!」
 自分のものとも思えない、澄んだ高い声が問いかけの言葉を発したことにぎょっとして、ルークはガイの腕を掴み、必死で起き上がろうとした。
「っルーク! まだ横になってなきゃダメだ、今先生呼んで来てもらうから!!」
 ガイはルークをベッドに押し戻し、ルークに手を離させようとしたのだが、ルークの手は離れるどころかますますガイの両腕に指を食い込ませていく。
「おれは……ローレライ、そうだローレライに会って。話、したよな……? だって、なんで……戻ってきたのか……? それに、この声……。声? おれ、おれは……なんだっけ?」
「──ルーク、あなたは体がかなり弱ってしまってるんだから……」
 新たな声にそちらを向くと、金髪の少女がルークの体をベッドに押し戻そうとしていて、ルークは驚いて目を見開いた。ガイと同様、見憶えのある顔。だが名前が出て来ない。
「なまえ」
「ルーク、さ、もう一度お眠りなさい……」
 知っているはずなのに、名前が思い出せない。記憶は思い出そうとする端から拡散してゆく感じで、脳が酷く混乱している。体も、記憶も、視覚も聴覚も、自分と言うものを形作る何もかもがちぐはぐでしっくり纏まっていない。

 部屋の外には誰か配置されていたのか、外が騒がしくなったと思うと初老の男が入って来てちらりとルークを見やり、持ち込んだ黒い鞄から注射器を取り出すのが見えた。
 何をされるのか悟り、ルークは必死で抗った。両手を振り回して伸びてくる手という手を打ち払おうと頑張ったのだが、到底自分の体とは思えない非力な体は、なすすべもなく大勢のメイドたちや医者によってたかって押さえつけられる。
「や、やめろ! 放せよ……! アッシュ……!」
 無意識に助けを求めてころがり落ちた名に、ルークはぎょっと身体を強張らせる。そうだ、大切なことなのに、なぜ忘れていたんだろう? しっかり抱えていたはずなのに、腕の中から消えてしまった。
「アッシュ、アッシュは」
 血管に食い込んだ針の先から、ひやりと冷たい薬剤が入ってくるのを感じた。
 意識が急速に落ちて行きそうになる。唇を噛み切り、その痛みでなんとか繋ぎ止めながら必死で抗った。
「ルーク、血が……!」
 口を開かせようと伸ばしてくるガイや少女、メイドの手を、全身を捩って払いながらルークは必死で問うた。これを知るまでは眠るわけにはいかなかった。
「あ……あっしゅ、は? かえってきたか……? ぶじにかえってきたよな……?!」
 顔を見合わせる人々の中で、ガイの半泣きの声が聞こえた。
「ああ、ああ、帰ってきたよ……! だから眠れ……! 眠ってくれ、ルーク……」
「かえってきた……? ほんとに……?」
「本当よ。だから安心してお眠りなさい、ルーク……」
(よかった……アッシュは無事、戻ったんだな……)
 ガイと、顔中を涙でくしゃくしゃにした少女が力強く頷いてくれたので、アッシュは自分との約束を守ってくれたのだと、ルークは胸を撫で下ろした。

 そうだ、彼は出来ない約束は決してしない人だったはずだ。

「よかった……」
 これで、───アを悲しませずにすむ……。

 自分を押さえつけていた人々の群れの中に、泣きたくなるほど懐かしい男女の蒼白な顔を見つけた。真紅の頭がこちらに来たそうにそわそわ動いているが、治療の邪魔になるのを恐れているようなのと、暴れる患者を押さえつける人の多さになかなか近寄れないでいるようだ。目が溶けるのではと思うほど泣いている女に向かって、ルークは手を差し伸べた。女がはっとしたように目を見ひらき、伸び上がるようにして必死でこちらに手を伸ばしてくるのが見える。
「そんなに泣かないで、は……は、う……」
 ルークは安堵と嬉しさに顔を緩ませて微笑みかけ、今度こそ抵抗せずに眠気に身をまかせた。

「……誘拐犯によって……ほど……恐ろしい……しれま……」
「体に危害は……ですか……せめて……った……」
「……もの時は、こちらのく……落ち着……」
「精神的な……ージの方が……しばら……別人のように見……いりません……ですが……」

 半日ほど眠り続けた後目が覚めたルークは、薬の影響でぼんやりしたまま、側で声を潜めて交わされる会話をぼんやりと聞いていた。
 会話の内容はあまり理解出来なかったが、人の声に集中していると底のほうに沈んでいた意識がゆっくりと上がってくる。
 ルークは両手を顔の前まで持ち上げて見つめた。白い小さな、子供特有のぷくぷくした甲。節の目立たないほっそりした指。左右どちらの手のひらも柔らかく、優しい手だった。

(手がある。身体……おれの身体? おれに身体なんてあったっけ? ……いや、あった。あった、よな? そ……だ、乖離。身体は乖離したはず。乖離して、それから……どうなった?)

 動かせる範囲で顔を動かし、周囲を観察して、ルークは疲れたように目を閉じた。自分が寝かされているこの部屋には見覚えがありすぎる。ここは、彼の人生のほとんどを過ごした部屋だった。懐かしさも感じるしほっとするような気もするが、どうにも居心地の悪さを禁じ得ないのは、ここが二度と戻って来られないと覚悟したはずの部屋だからか。

 カーテンを開けて朝の光を浴び、変わらない一日が始まることにため息をつく自分。ガイのたわいのない冗談に、ベッドにひっくり返って笑う自分。いつ剥がしたか憶えのないヴァンの絵姿を憧れを籠めて見上げる自分。
 そして、そんな部屋の記憶の中に、ベッドに腰掛け、呆然と項垂れるアッシュの姿や、身を寄せ合って泣いている両親の姿、家具を布で覆い、部屋に鍵を掛けるメイドの姿や、次第に離れそのものが蔦で覆われていく様子など、見た憶えの無いものも混じっている。

 一体何が起こった?
 震える手で顔を覆い、必死で考えても分からない。今分かるのは、自分がこの場にいるのが絶対におかしいということだけだ。

(……体から音素が急速に抜けていく感覚を憶えてる。アッシュが上から落ちてきた……。もう息がなくて、身体が氷みたいに冷えてて……涙が止まんなかった……。あれは……夢だったのか……?)

「ルーク様?」

 物思いに沈んでいたルークは、声をかけられて驚いた。いつの間にか、初老の医者と若いメイドが一人、彼の顔を覗き込んでいた。
「ルーク様、御気分はいかがですか?」
 医師に脈を取られながら、ルークは首を振った。
「ここ、は……? おれはどうしてここに戻ってこれたんだろう……? あれ? 戻ってきたんだよな……? もう、何がなんだかわかんねー……ガイ、ガイは……?」
「ああ、いるよルーク、傍にいるから落ち着いてくれ。お前は半月も行方不明になってしまってたんだよ。コーラル城で発見されて、今朝バチカルに戻って来たばっかりなんだ……」
 医者の背後から慌てて現れたガイが、ルークにすがりつかれ、優しく抱き返しながら答えてくれた。落ち着かせるように背中をなでてくれる。
「コーラル、城……? ここは……オールドラントなのか?」
 頭がまともに働かないままぽろりと零れた質問に、三人がぎょっと目を剥いた。失態に気付いたルークがうろたえると、真っ先に立ち直ったらしい医師が穏やかに答えてくれた。
「キムラスカ・ランバルディア王国、ここは王都バチカルにございます、ルーク様」
「……何年だっけ?」
「2011年ですよ」
「……そう……だっけか。そう、そう……だったよな」
 それはルークが作られた年だった。もう、七年も前のことだ。
 強い焦りと困惑に叫び出しそうになるのを堪え、ルークはぎくしゃくと頷いた。
「知らないところで長い間過ごされて、お疲れになったのでしょう。少し記憶が混乱しておられるようです。おいおい思い出していくこともあるでしょうが、今はお考えにならないように。ゆっくりお休み下さい」
「ありがとう。少し……もう少しだけ、眠っていいかな……」

 なにを失敗した。どこが間違っていた? わからない。そんな焦慮と、間違いなくやり遂げたはずだという確信で頭の中はぐしゃぐしゃだ。だって、ルークはローレライに会ったのだ。アッシュを……そう、アッシュを、返してくれると約束した、解放の礼に。
 アッシュはどこだ? ガイは帰って来たと言ったが、それならなぜ皆は自分を『ルーク』と呼ぶのだろう。
 体が乖離している途中からの記憶がまるでないため、どうすれば良いのか、なにをしたらまずいのか、まるでわからない。判断するための情報が少なすぎる。

 最後まで離れがたそうにしていたガイが部屋を出て行き、無人になった部屋でほんの少し考えてはみたが、混乱した頭は疑問の答えをはじき出すこともなく、またそのまま気を失うように再び眠りに落ちた。

 次に目覚めた時も、ルークは記憶の混乱から完全に抜け出すことは出来なかった。だが、周囲の様子を探り、その混乱をそのまま口にすることが得策ではないことも悟った。この時の会話をまるで憶えていないと恍けても、誘拐の衝撃だろうと誰も追求して来ない。それを良いことに、ルークは自分を取り巻く状況をゆっくりと認識しつつ、記憶の整理を行った。ルークの口から漏れた唯一の人名らしき「アッシュ」なる人物がこのたびの誘拐になにか関係しているのではないかと期待されたが、問われたルークがそんな名を口にしたことを憶えていないと言えば、それ以上の捜査が進むはずもなかった。「アッシュ」が帰って来たかと問うたルークにガイや金髪の少女が「帰って来た」と言ったのは、もちろん興奮するルークをひとまず寝かせるための方便にすぎなかったのだ。
 特に危害を加えられていたわけではなかったし、身代金の要求があったわけでもない。被害者本人は日に日に落ち着きを取り戻していき、「元気になりつつあるのだから、なにも辛いことを思い出させなくともよい」というクリムゾンの一言によって、一体この誘拐は何のためであったのだろうという、何か腑に落ちないものを皆に残しつつも、捜査は打ち切られることになった。同時に屋敷の混乱も急速に収まり、いつもの秩序を取り戻していった。


小説では漢数字のみを使いたいのですが、年号に使用するのはちょっと難しいため、年号のみアラビア数字でいきます。2018.11.24改稿 (初出2012.10.15)