目を開けると、白く無機質な天井が映った。ここはどこなのかと周囲を見渡して、ジェイドを含むルークの仲間たちの姿を流し見たあと、隣のベッドに眠るルークに気付いた。
「俺は気を失ったのか」
「というより疲れて眠ってしまったんでしょうね。かなりの力を必要としましたから」
ジェイドの返答に曖昧に頷く。眠い、と思った憶えもなければ、眠りに落ちる瞬間の記憶もない。眠った、というのは案外慰めなのかも知れないと、少しばかり自尊心が傷ついた。ルークはティアの再構成後に無事を確認する余裕があったというのに……。
アッシュは少しふらつきながら上体を起こし、伸び上がってその顔を覗き込んだ。なんとなく身体が重く感じるのは、おそらく力を使ったのと寝起きだからだろうか。音素が乖離していた時のような、どこか苦痛を伴うような脱力感、無力感は完全に払拭されている。
「……レプリカ。起きろ」
意識がなくなる前に見た通り、ルークの姿は今朝同じベッドで眺めたばかりの寝顔に寸分変わりない。
そのことにひどく安堵しながら、アッシュは震える腕を伸ばし、指の背でルークの頬を撫で、その体温にぎょっとした。
「アッシュ、まだ休んでろ」
まるでルークの世話をしているかのように、ガイがアッシュのベッドにせっせと枕を積んでいき、アッシュの肩を小突いて沈める。
「なあ、ガイ。レプリカはなんでこんなに冷てえんだ? 生きてんだよな……?」
「ええ、生きてはいます」部屋の隅から、感情をすべて落としたような声がつげた。「体温は二十度強、心拍数、呼吸回数は一分間に一、二回、大半の臓器が機能停止状態になってはいますが、ね。通常の百分の一程度の代謝量で確かに生命の維持はされています」
「……いつごろ目を覚ます?」
「……春に、とお答えできれば良かったのですが」
「わかんねえのか」
「ええ」
「ずっとこのままじゃねえだろ?」
「今日、明日目覚めるような状態ではないとしか言えませんね。これからの研究によっては、正確なことがわかる可能性もありますが……。最低限の生命維持さえ、ずっと続いてくれれば」
「ああ……」アッシュは納得できないまま頷いた。弱々しい脈動はいつ止まるともしれない。今かろうじてルークの命を繋ぎ止めているそれが止まれば、ルークは死を迎えることになるのか。
啜り泣きが耳に入り、アッシュはカッとして少女たちを怒鳴りつけた。
「泣いてんじゃねえよ、まだ生きてんだ!!」
怒声にびくりと身を震わせ、泣き声を立てないよう、必死に息を止めようとしている彼女らに舌打ちすると、宥めるようにガイが肩を叩いた。
《……レプリカ。起きねえのか……?》
最近ではルークの心がアッシュに向かって開かれていたせいか、フォンスロットを同調させるのも楽なものだった。頑に拒もうとするフォンスロットを無理にこじ開ける必要もなく、ほんの少しだけ己のフォンスロットに意識を向けるだけでそれは簡単にルークのフォンスロットと同調を果たした。
だが、ルークに向けて開いたフォンスロットの先に、今は何者のフォンスロットも感じない。
「フォンスロットが同調しない」
軽い驚きとともに呟かれた言葉に、ジェイドが肩を竦めた。「ええ。あなたたちはもう同位体ではありませんからね」
「え?」
「ルークの音素振動数は、もうあなたと同じではありません。百万桁で綺麗に終わっていますし、百万桁目の数値もあなたと違う。一応、成功と言えるでしょう」
「……このありさまでか」
「……」
自嘲に口元を歪めたアッシュに、ジェイドは彼らしくもなく一瞬口ごもった。ややあって、取り繕うように眼鏡を押し上げる。
「施術中に事故が起こりましてね。ローレライの介入ではないかとスピノザ博士と洟垂れは言うのですが……。ルークの元素を結びつける音素は、分解と再構築によって、一部どころか大部分が別の音素に入れ替わっています。元のままの音素が非常に少ない。音素には元の通りに結びつこうという力も働きますから、入れ替えられた部分は元の音素とまだ馴染んでいないんです。はっきり言ってしまえば、いつ結合が解けて乖離するかわからない。我々の考え通りの方法で再構成出来ていれば入れ替わった音素も少なく、ここまで脆い状態にはならなかったはずなのですが……」
いかにも余計なことをしてくれたと言わんばかりのジェイドの説明に、アッシュは眉を寄せた。
アッシュが聞き取っていた『音』が途中で変化したあと、男の声が何かぼやいているのを聞いた。昨夜うたた寝で見た、不愉快な夢。その夢に出て来たローレライの声に、似ていたと思わなかったか。
あれはローレライだったのか。ローレライがルークの再構成を阻止したというのだろうか。
──いや、聞き取り難かった最後のぼやきを思い出すと、ルークを連れ去るために再構成を阻んでいるという様子ではなかった気がする。
「……参ったな」
ぐしゃりと前髪を掴んで、アッシュは弱々しく苦笑した。
もし、あの夢がただの夢ではなかったとしたら。ローレライはルークを連れ去りたかったのだろうが、アッシュが引かなかったため、諦めて手を貸すことになったのだろう。ローレライが手を出さなければアッシュのレプリカがルークではなかったように、今回も『事故』が起こらなければ再構成されたそれはルークではなかったのかも知れない。
もしもそうなら、ローレライのお陰でルークを失わずに済んだわけだ。礼をしない、という選択肢がなかったことだけは褒めてやるが、だがやるならなぜもっと完璧にやらないのだ。
明日の朝目覚めるのならいい。
十年待てば起きるというなら、待ちもしよう。
だがもし永遠に起きないということになれば、いつルークのところに行ってやればいいのだろう。約束したのに来ない、裏切られたと誤解して悲しむのではないだろうか。殺されそうになったときにルークが見せた、あの空虚な表情をふと思い出し、心が軋んだ。
「……気のせいでなければ、再構成中にローレライの声が聞こえた。『定着しない』と。何かしくじったというわけではなく、こうなるのも想定内と言った感じだったが……」
「定着しない、ですか」ジェイドがルークを見つめたまま眼鏡を押し上げる。「元のままの遺伝情報を用いながら音素をほとんど入れ替えた弊害でしょうか」
「腹立たしいやつだが、無意味なことはしねえだろ。どの道、あのままだと失敗していた」
「『音』ですね。我々の作ったルークの新しい『総譜』は、やはり音程が狂っていましたか?」
「ああ。俺には調子の外れた譜歌に聞こえた。聞き慣れたものだから、いつも以上に違和感があって……どうしても脳内で修正してしまう。聞き慣れたものより幾分長かったが」
「それ……大譜歌かも知れないわ。譜歌は七番目まであるの。私はまだ解釈が出来てなくて歌えないのだけど……。ひょっとして、私が大譜歌を歌えたら、ルークは目を覚ますことができるのかしら」
譜歌、という単語に反応したティアが期待に満ちた視線をルークへ向ける。
「……どうだかな。今のこいつの『音』は、譜歌に似てはいるが非なるものだ」
「でも……明日、明後日とは言えなくても、近いうちに目が覚める可能性だってあるんでしょ……?」
「ええ、もちろん。ですが音素乖離するのも近いうちかも知れません。──どうして乖離しないでいられるのか、不思議なくらいなんですよ、今は」
おずおずと問うたアニスに、ジェイドはにべもない。
困惑と悲しみを含んだ沈黙がしんと落ちて、ジェイドのため息がひどく大きく聞こえた。
「とにかく、我々はもう少しルークを調べてみます。──構いませんね?」
「ああ。……頼む」
アッシュの返答に、ジェイドは眼鏡を押し上げて全員を見回した。「それでは、皆さんは宿へどうぞ。アッシュ、あなたはまだ疲れているはずですし、今日はここで休んで下さい。念のため、明日検査をしておきましょう」
確かにルークがティアの再構成をしたときも、二人共に簡単な検査は受けていたが、なぜ自分は入院が必要なのか。弱さを見透かされたようで思わずムッとしたのが顔に出たのか、ジェイドが呆れたようなため息を付いて眼鏡を押し上げた。
「時間の感覚が狂っているようですね。ティアの時は十分もかかりませんでしたが、あなたは三十分以上超振動のコントロールを続けたのですよ。自分で思っているより、あなたは疲れているんです」
「……本当に疲れてない!」
少し驚きはしたものの、尚も意地を張るアッシュの耳に、小さくひそめられた優しい歌声が聞こえる。
振り向くと、ティアがルークのベッドの傍に座り、薄い掛け布団の上に投げ出されたルークの手を柔らかく叩きながら、子どもに子守唄でも聴かせるように譜歌を歌っていた。
一瞬、その優しい光景に目を奪われたが、すぐに彼女の歌っているのが文字通り「子守唄」だと気付く。
譜歌を歌うことがルークの目覚めに繋がるのではと言ってはいたが、今、このタイミングで譜歌を歌う意図は明らかだった。
アッシュは舌打ちをして再び枕の山に上体を沈め、おとなしく目を閉じたが、その口元は苦笑を刷いていた。
目を閉じると、やはり疲れていたのか、目の奥が重くじんと痺れる。
──疲れた。
今朝までは腕の中にあった温もりが、ひどく恋しかった。
すべてが終わったと思われたあとにも、さまざまな問題は尽きなかった。第七音素の集合体ローレライが強引に新たな音譜帯になろうとしたせいでプラネットストームに更なる軋みが生じ、キムラスカ、マルクト、ユリアシティ、独立を希望するケセドニアの代表が協議を重ねた末、結局プラネットストームは停止させることになった。
液状化のそもそもの原因は、はるか昔に使用された兵器の影響でプラネットストームが支障をきたしたせいだというが、それを修理する技術は現代にはない。今は固まっている大地も、将来的にはどうなるかわからないという懸念もあったため思ったよりも早く意見が纏まったのだが、便利な生活に慣れた人々は各国上層部の出した結論にすぐには納得しなかった。抗議運動が各地で絶えず、預言士が預言を詠むことが出来なくなったことによるパニックも起こった。
だがあれから一年以上が過ぎ、このオールドラントの大地がいかに不安定な状態であるのかが世間に広く浸透して行くにつれ、混乱は少しずつ諦めと、そして希望とに変わって行った。時々小規模な衝突は起こるものの、現状はまずまず好転しつつあると言っていいだろう。
ベルケンド第一音機関研究所は、現在はマルクトと協力して、音素に頼らない機巧の開発や譜術治療に頼らない医術の研究を行っている。マルクトからも大勢の研究者、技術者が訪れ、街はより活気づいたが、手狭になってきたため近いうちに建て替えや移転することが決まっていた。
アッシュは最奥にある医療区に急いでいた。数日ダアトを離れてユリアシティに滞在していたのだが、戻るや否や留守中に入った伝言を聞いて、旅装も解かずにダアトを発った。ベルケンド港からは最低限の休息だけで馬を飛ばしたため身体はくたくたに疲れていたが、ジェイドからの「次の休暇にはできるだけ来て欲しい」という伝言が、彼の気を逸らせた。まとまった休暇を取る余裕もなく、一月近く顔を見ていないルークの様子に変化があったのではと焦る気持ちも強い。
ジェイドの研究室に本人の姿は見えず、新たな助手なのか見覚えのない研究員に病室に向かったと告げられた。なかば走るように病室へ向かうと、そこにはジェイドだけではなく、ティアとガイの姿もあった。この一年、各自それぞれが混乱を収めるために駆け回っており、顔を合わせたのは十八年の暮れ以来だ。嫌な予感にアッシュは顔を曇らせたが、ティアやジェイドの顔はそう暗くない。
「よ、ずいぶん早かったな」
「アッシュ!? 驚いた、もう何日かはかかると思ってたのに、かなり無茶をしたわね」
素直に驚きを表すティアにアッシュが問いかけの視線を向けると、ティアは軽く苦笑して言った。「アニスにあなたの予定を聞いたのよ」
「いやあ、ユリアシティに出張中と聞きましたが、急ぎの用ではないのでそちらには連絡しなかったんです」
「大したことじゃねえなら用件まで伝言しろ、寿命が縮む。──レプリカに何かあったわけじゃねえんだな?」
「緊急の用ではないということはお伝えしたはずなんですがねえ」
「聞いてねえぞ」
恍けた調子で首を傾げるジェイドに、アッシュは苛立たしげに舌打ちした。
ジェイドはひょいと肩を竦めて眼鏡を押し上げた。「このたび、機巧と医療で研究所を分けることになったのはあなたもご存知ですね。機巧の研究所はシェリダンに移転し、ここは研究所を兼ねた総合医療施設として建て替えが決まっています。最初は洟垂れがシェリダンの施設を統括し、私がこちらの総括をするという話だったんですが、マルクトにも同じ医療施設を作ることになりまして。元よりマルクト人ばかりがトップに立つのは不公平ではないかという意見もありましたし、こちらはシュウ先生に任せて、私はそちらに赴任することになったのです。それで、ルークをどうするかご相談したかったんですよ。このままここに入院するか、退院してあなた自身や……例えばファブレ家で面倒を見てもらうか」
「……そんなことかよ。こいつはここを出ても問題ねえのか?」
「病院にいるから乖離しないとか、個人の家で見ているから乖離しやすいとか、そういうものではありませんからね。何かあった時には私が一番的確に対処が取れますし、本音としてはルークはグランコクマに連れて行きたいのですが」
アッシュは安堵の息を吐き、苦々しげにジェイドを横目でねめつけた。「マルクトにはやらねえぞ」
「そう怖い顔しないで下さい。あなたの答えなどわかっていましたから」
何をどう言われようとマルクトにルークを連れて行かせる気はなかった。ルークが只人であるなら、その生命維持のためにもそれを飲んだだろうと思う。だが、今はもう完全同位体ではないとはいえ、ルークは元は単独で超振動を起すことが出来るレプリカ体だったのだ。実際にヴァンによって兵器として扱われた経歴のあるルークに、マルクトが何らかの利用価値を見出さないとは言えなかった。
「乖離の可能性は」
「ここまで安定してくればもうないかと。後は目を覚ましてもらうだけです」
アッシュは頷いてルークの頬を撫でた。その目を覚ましてもらう『だけ』が難しいのだが、ある日突然ベッドの上から影も形も失くなってしまう可能性が激減しただけでもありがたい。
「そういえばお前、時々様子を見に来て譜歌を歌ってくれてたそうだな。レプリカの音素の結合が安定して来たのは、そのせいかも知れないとスピノザが言っていた」
互いに同じ組織に属するとはいえ、所属が違えば会うこともなく、礼を言いそびれていたティアにアッシュが礼を言うと、ティアは一瞬きょとんとしたあと、自信無げに首を振った。
「私、大譜歌が歌えるようになったの。……今のルークの『音』はだいぶ変わっているとあなたは言ってたけど、何もせずにはいられなくて」
「大譜歌……? それ、今歌えるか」
「え? ええ……」
澄んだ美しい声が病室に響き渡り、全員が目を閉じて耳を澄ませている。
ティアの予想通り、元のルークの『音』は大譜歌で間違いなかったようだ。ということは、アッシュ自身の『音』もこれなのだろう。そのせいか、体中に力が満ち、巡り、ざわめく感覚がある。
「……綺麗な歌だ。身体の隅々まで活性化していくような気がする」ティアが歌い終わっても少しばかり余韻に浸ったあと、アッシュは彼らしくもなく素直に感想を言った。「今のルークの『音』は、これのアレンジバージョンと言っていいようなものだったと思う。お前が歌を歌ってくれていたことが、音素の安定と無関係だとは思えねえ」
素直な賛辞に、ティアは少し照れたような顔をして、眠る幼子を見守る聖母のような眼差しでルークを見つめた。
「で? ガイ、お前はなぜここに?」
邪険にしているわけではなく、ガルディオス伯爵家当主として政治にも参画し、日々忙しくしているはずのガイの姿がここにあることを純粋に不思議に思っての質問だ。
「……一年経ったから、お前に会いに来たんだ」ガイが、歌を聴いている間閉じていた目を開いて、不思議そうに瞬くアッシュの目をじっと見つめた。「お前に渡して欲しいと、ルークから手紙を預かってた。もしも明日ルークの目が覚めたら大間抜けだよなと思いながら、渡せないまま一年経ったんだが……なんていうか……もう渡しておいた方がいいような気がしてさ」
「いらん」
「これ以上は俺にとって重荷なんだ、嫌でも受け取ってもらうぞ」にべもなく断るアッシュに、ガイは困った顔で苦笑を漏らす。
「この状況で俺に受け取らせたいものなんて、ろくな予感がしねえ」
「ま、否定はしないよ」ガイは肩を竦めた。「あいつの考えそうなことはお前よりわかるつもりだ」
なら預かってんじゃねえよと吐き捨てているアッシュを尻目にガイは荷物の中からよれた封筒を取り出し、アッシュの胸に押し付けた。反射的に受け取ったあと、アッシュはまるで汚物のように指の先で摘んでいる。
くしゃくしゃによれて手垢のついた封筒は、そのままガイの苦悩を表していた。手紙を握り、渡すか渡さないか、渡すならいつなのか、ずっと考えていたのだろう。預かりものを受取人に無事渡すことができ、ガイは心底からほっとした笑みを見せた。「ルークの奴、一度手紙を書き換えたんだ。あの日の朝、新しいのを──それな──預かったんだが、最初の手紙のときより落ち着いてたように見えたな。きっと、あいつなりに色々整理が付いたんじゃないか」
アッシュはしばらくその顔を無言で睨みつけ、やがて大きなため息をついて封を切った。
「アッシュ……」
視線が左右へ振れるたび、アッシュの眉間に寄った皺が深くなる。気遣ったのか、落ち着かせたかったのか、ティアが恐る恐る声をかけた瞬間、アッシュが吠えた。
「起きろ!」アッシュは手紙をぐしゃぐしゃに握りつぶして床に放ると、ルークの胸ぐらを掴み、引きずり起して揺さぶった。「今すぐ起きろ! てめえの望み通り、俺のガキを見せてやるよ! なんなら仕込むところから見せてやろうか!?」
「アッシュ!」激高するアッシュから、ガイが慌ててルークをもぎ取ろうとする。「ルークの気持ちも考えろ!」
「なんで俺がこいつの気持ちを考えてやらなきゃならねえんだ!」
アッシュは底光りする瞳でガイを睨みつけた。ルークがルーク自身の気持ちを優先するなら、自分がそうしてなぜ悪い。
「アッシュ……」
低く掠れた声は、ガイが思ったより落ち着いて聞こえたのだろう。ガイは両手をルークとアッシュにかけたまま動きを止めた。アッシュは両手で掴み上げたルークの白い顔に視線を戻した。
ただ、眠っているだけ。そんなふうに見えるし実際そうなのだろう。この状態は冬眠中の獣と同じだ。
だが、その器の中にルークは存在するのか。まるで、中がウロになった人形のように無感情で、アッシュの何もかもを拒絶しているようにすら見える。器だけをアッシュに寄越して、ルーク自身はローレライに連れ去られてしまったかのようだ。
──このまま目覚めなければ、いずれそうなるのかも知れない……。
だが最も腹立たしいのは、こうなってしまう前にルークが自分勝手に覚悟を決め、気持ちの整理を付けてしまっていたということだ。
「俺は! 最初からてめえはそう言うやつだと思っていた!」
ルークは結局、アッシュの気持ちなど何一つ思いやってはくれなかったのだ。
「……あの時、おとなしく殺されてやってれば良かったぜ」
え、と怪訝な声を上げるガイから乱暴に掴まれた腕を取り返し、アッシュはルークをベッドへ突き飛ばすように無造作に放した。ベッドヘッドに後頭部がぶつかり、ガツッと嫌な音を立てる。
「ルーク! 乱暴に扱うなよ、いくら意識がないって言ったって──!」
ガイの抗議を聞き流し、アッシュは部屋を後にした。
「どこに行くんです?」
アッシュはルークを一瞥もせず、ジェイドの問いに、返って来る答えもなかった。
「痛かったろ、ルーク。さっさと起きて、アッシュに文句言えよ」
少しでも心地よいようにとベッドを整えてやり、柔らかな枕との間に手を入れてぶつけたところを幾度か撫でて、ガイは大きくため息をついてぐしゃぐしゃになったルークの手紙を開いた。文面に目を通してから、それをジェイドに差し出す。
「『アッシュへ。一方的で悪いけど、前にした約束、破棄させてくれ。
おれさ、見たんだ、お前の子ども。お前と同じ色の髪で、ちっこくて可愛かった。お前と仲良さそうに遊んでた。楽しそうで、幸せそうだった。お前は、おれがいなくても幸せになれるんだ。
ガイに最初に渡した手紙じゃ確信が持てなくて、なんか泣き言ばっか書いちまってたんだけど、今は自信持って言えるよ。
アッシュ、お前は幸せになんなきゃ駄目なんだ。
おれが見たのは一人だけだったけど、もっとたくさん子ども作って、そんで何十年後にまたどっかでおれに会ったらさ、子どもの話、いっぱい聞かせてくれな』
……これだけですか」
ジェイドは手紙を丁寧に畳み、大きなため息を付いた。「アッシュに同情します」
「ルークは……まだ子どもにこだわっていたんでしょうか」
ティアの発言に、ガイとジェイドがのろのろと視線を向ける。
「……あの時、ルークは子どもを生めないということを納得したように見えましたが……アッシュの激高ぶりを見る限り、二人の間ではまだなにかあったのかも知れませんね」
「子どもが作れないってことを、それほど気にしているようには見えなかったんだが……もう少し話し合っておくべきだったかも知れないな」
「ルーク……。あなた、アッシュに他の人を愛せと言ってるのよ? 本当にいいの? ねえ……!」
ティアがルークの手を握り、もどかしげに軽く揺さぶる。
だがルークが目を開けるような奇跡は訪れず、様子を窺うように張りつめていた緊張感がため息とともに霧散する。
遠くで、腹立ちまぎれにアッシュが何かを蹴飛ばしたらしい音がした。
通い慣れた山道を二時間近く歩いていると、甘く焼けるバターの香りがふわりと漂って来て、疲れた足に力を与えた。
ほどなく、山頂までほど近い、大きく開けた場所に出る。そこだけは丸く木々が途切れ、太陽と美しい青空が臨める。
休暇のたびに少しずつ修繕し続けた赤煉瓦の狩猟小屋、鬱蒼とした木々に覆われた小さな泉。水を飲みに来ていたらしい親子のウサギが、慌てたように木立の中に跳ねて行く。
小さな玄関扉の前の最も日の当たる前庭には小さな菜園があり、料理に使うためのハーブや、飾りに添える小さな野菜などが育てられている。乞われて土を耕し、形を整えたのはアッシュだが、どこも大切に手入れされていた。種を蒔いたばかりなのか、よく耕された土がむき出しになっているところには、辿々しい子どもの字で植えられているものが記してある。それが野菜なのか花なのかはアッシュにはわからないが、小さな石で丁寧に囲いを作っている様を見れば、種を蒔いた者がどれほど芽吹きを楽しみにしているかが窺えた。
その上の空間にはロープが張られ、シーツや枕カバー、衣類やタオルなどといった洗濯物が所狭しと柔らかな風にひらひらと揺れている。
その生活感溢れた空間に、うちに帰った、という感慨がこみ上げて、アッシュはほっと息をついた。小さな泉から水を引いた洗濯場へ向かい、その辺に担いでいた荷物を放り出すと、湧き出る冷えた水をすくって乾きを癒し、汗の浮いた顔を洗った。
乾いたタオルを一枚失敬して顔を拭き、その光景をどこかぼんやり見つめていると、いつか扉ごと付け替えたドアが軽やかなベルの音を立てて開いた。ふわっとバターと、甘い香りが漂い出る。強い既視感に、胸が掴まれたように痛んだ。
「……あら?」洗い物を入れたかごを持ったティアが、洗濯場にアッシュの姿を見つけて目を見開いた。「お帰りなさい、アッシュ。──どうしたの? まだ休暇ではないはずよね?」
「昨日付けで、べルケンド駐留の辞令が下りた」
「ああ、じゃあしばらくはここにいられるのね? ──ちょうどパイが焼き上がるところなんだけど、お茶にしない? 食べられる?」
「ありがてえな。ちょっと腹、空いてんだ」
「それならサンドイッチも作るわね。洗濯物を干すまでちょっと待ってて。これで最後なの」
「ああ。ゆっくりでいい」
ティアは洗濯籠を抱えたまま早足で家の中に戻っていき、大声でアッシュの帰宅を告げた。ややあって、小さな足音が聞こえてくる。階段を一段ずつ必死で駆け下りているのだろう足音は、どこか焦ったようにリズムを乱している。
「相変わらず落ち着きのねえやつだ。誰に似たんだか……」アッシュは苦笑して担いでいた荷物を下に置いた。とたんに赤い小さなものが弾丸のように飛び出して来て、アッシュにしがみついた。
「……どうした坊主。大歓迎だな?」
ティアと違ってそう頻繁に顔を合わせるわけではないアッシュに、子どもはいつもどこか遠慮がちだったはずだが、いつにない歓迎ぶりにちくりと皮肉を言い、アッシュと同じ真紅の髪をさらりと撫でて抱き上げると、子どもは大きな翡翠の瞳をこぼれ落ちんばかりに見ひらいて口を開いた。