「──坊主?」
子どもは興奮し、同時に混乱もしており、話したい気持ちが先行しすぎて返って言葉にならないようだった。何かを言おうとして果たせず、子どもはパクパクと口を開閉しながら、家とアッシュの間に忙しない視線を交差させる。
ひんやりしたものが背筋を這い、何があったと振り向くと、籠を取り落とし、洗濯場に洗い上げたばかりの洗濯物をばらまいたティアと目が合った。怯えた様子で首を振るのを見、ざあっと音を立てて血の気が引く。
弾かれたように、アッシュは子どもを小脇に抱えたまま家に飛び込んだ。一段飛ばしで階段を駆け上がったが、寝室の前まで来て立ち竦む。何をためらう、俺は臆病な男ではないはず、そう自身に叱咤するも、ドアノブに伸ばした手はひどく震え、満足に掴むことさえ出来なかった。
アッシュが躊躇しているうちに子どもが拘束を逃れて滑り降り、怯えている男を尻目に性急な仕草でドアを開ける。
大きく開け放たれた窓から、白いカーテンを翻らせて涼やかな森の香りの風が入る。窓際に置かれたベッドの上で、長い間眠っていたはずのルークがなんとか起き上がろうともがいている姿が目に入った。肩に付くほどに伸びた朱の髪が、光を弾いてきらきら輝いている。
「……レ……」
アッシュの弱々しい呟きに、ルークが顔を上げた。どこか茫洋とした視線が最初に捉えたのは、アッシュの足もとに固まっている小さな少年だった。曇りのない新緑の瞳がみるみるうちに驚愕に見開かれ、動かなくなる。腹這いになって肘をつき、上体だけひねって戸口を振り返った不安定な体勢のまま、ルークは少年だけを凝視していた。
「……おいで……?」
寝起きのせいか、酷く掠れた声が少年にかけられた。少年はどうしよう、というように一度アッシュを見上げたが、すぐにおとなしくベッドの傍へ駆け寄った。
ルークは痩せ細って小刻みに震える手を伸ばして、子どもの柔らかな頬に触れた。か細い指先がぷくぷくした頬に浅く沈むと、ルークの顔が幸せに溶けたように綻ぶ。
「…………おい」
アッシュの不機嫌そうな声にもルークは反応せず、頬に、鼻に、唇に、耳にと子どもの質感を確かめるように指先をすべらせている。
「いいかげんにしろ! てめえの伴侶をいつまで無視してやがる!」
駄々っ子のように足を踏み鳴らして怒鳴りつけると、ルークはようやく顔をアッシュの方に向けた。が、視線は子どもに向いたまま、感動したように呟いた。
「どこもかしこも、アッシュにそっくりだ……」
「別におかしかねえだろ」アッシュはルークの目の前にゆらりと腕組みして立ち、不機嫌そうな顔を隠しもせずに見下ろした。「……そいつはてめえの末の弟なんだからな!」
「……おとうと?」ここで驚いたような顔が初めてアッシュに向けられた。「アッシュ……? だよな? あんた……」
もともとアッシュは不機嫌顔の男だったが、ここまで渋い顔を見たことがないと思うくらい眉を寄せている。ルークの記憶とは顔が違っているのも承知の上だったはずだが、わざわざ他人行儀に聞き返されたことに腹を立て、アッシュの顔はますます凶悪に歪んだ。
子どもがそんなアッシュに呆れたように少しばかり肩を竦め、ルークの傍に寄り添う。
「そいつはてめえのお袋さんが五年前に生んだ三人目だ。ファブレ公爵家の三男坊」
「え、五ね、え、え、母上が? 三人目?」
目を白黒させているルークの前で、アッシュは少年の頭に大きな手を乗せてわしゃりと掻いた。少年がくすぐったそうに目を細めて首を竦める。
「七年前に二人目が産まれてるんでな。お前、三人兄弟の長男になったんだ。公爵は領地とバチカルを行ったり来たりだが、お袋さんはここ数年領地から出てねえから、たまにチビどもが遊びに来ている。──八つになったら、こいつはうちで引き取ることになってんだ。剣の道に進みたいらしくてな」
「な──ななねん? そんな……え? 引き? 今は一体? あれから──?」
大混乱を全面に出してアッシュと子どもを見比べているルークの前で、アッシュは子どもの襟首を掴むようにして「そら」と出入り口の方へ押しやった。「八年だ」
「え、は、八年?」
「そうだ。──ティアにレプリカが目を覚ましたと言え。それからしばらく近寄るな」
頷いた子どもが部屋を出て行くと、名残惜しそうにその後ろ姿を見つめていたルークに舌打ちして、アッシュはルークの上体を引きずり起こして胸の中に抱え込んだ。痩せて衰えた腕が震えながら上がり、背中に回されたと思うと、深く、長いため息を吐く。
「ああ……アッシュの匂いだ……」
「……ちっ、遅えよ。俺を後回しにしやがって」
「だって、子どものころのアッシュって感じでさ……。でも、ごめん」
「謝るまえに俺に言うことがあるだろうが」
「えーと……。あっ、おはよ!」
「阿呆」
抱え込んだ手のひらがぺちりと後頭部を叩いた。しがみついたアッシュの身体は最後に抱きしめたときに比べると更に厚みを増していて、体温は熱いほどだった。少年の名残の無い、成熟した男の身体に、まるで他人に間違えて抱きついてしまったような違和感と羞恥を感じる。少し離れようとごそごそしていると、苛立ったように強く引き寄せられた。
「ガイに残したあのくだらねえ遺言の言い訳を聞いてやろうって言ってんだよ! ガキなんざいらねえとさんざん言って聞かせたのに、てめえは!」
はっとしたようにルークの身体が一瞬こわばり、長い間寝たきりのままですっかり萎えて震える手がアッシュを軽く押しやろうとする気配を見せた。「遺言って、そんなつもりじゃ……」
「俺の子は……お前以外のやつに生んでもらう気なんかねえ」
「だっておれは……!」ルークはアッシュの顔を見上げ、深い翠の瞳がより深さを増して自分を見つめているのに気付いた。
「だから、『俺の子』はいらねえんだよ」
諦念とは違う、深い想いと決意の滲んだ静かな声に、ルークの瞳からすうっと涙が一筋、頬を滑り落ちた。「おれは、ただ……」
もしルークを再構成するのに失敗したら、アッシュはどれだけ自分を責めるだろう。
すぐにも後を追う約束なのだから、悲しまない? いや、そんなことはおそらくない。きっと幼い頃の苦しみを思い出す。自分が失敗しなければこの後も続いたであろう日々のことを思うかも知れない。
自分の力でルークを消滅させたと酷く苦しむ姿は、容易に頭に浮かんだ。
押し付けられる苦痛に耐えるばかりだったアッシュの、ただでさえ短い人生を、そんな風に終わらせるのは良くない。嫌だ。
最後の最後になって、ルークはそんな風に思ったのだった。
「やっぱりてめえは屑だな!」アッシュはきつく吐き捨てたが、口調とは裏腹にルークを抱く腕はより強くなった。
小刻みに震えているその腕を感じ、ルークは肩口に頬を摺り寄せて涙をこぼした。ただ、アッシュに幸せになって欲しいと思っただけなのに、その想いはアッシュを苦しめただけなのだろうか。ルークがいなくてもアッシュは結婚して子どもを持ち、幸せになるはずと確信していたのに、あの幻は──あの子どもは、さっき会ったアッシュの弟で……子どもではなかったのか?
「てめえの考えはいつだってちょっと的を外してんだよ! ったく、鈍臭え!」
「……ただ、アッシュに幸せになって欲しかったんだ……おれ、アッシュを苦しめたくなかったんだよ……」
「幸せじゃなかったとは言わねえよ。いつ起きるかと思いながら寝顔を見てるだけでそれなりだったからな」
「……アッシュ」
望んだのはそういう幸せじゃない。
そう返そうと思ったのに、わななく唇から洩れたのは嗚咽だった。その上、じんわりと胸に熱いものが広がる。
自分ではない誰かと家庭を持ち、子どもを得て幸せになって欲しいと思ったくせに、手紙を無視してこうして待っていてくれたことが、嬉しい。嬉しいと思う自分が、ひどく厭わしい。
「ルークっ!!」
階段を駆け上がる音にルークが驚いてアッシュの肩口から顔を上げた瞬間、部屋に女が飛び込んで来た。後ろに必死で引き止めようとしている子どもを引きずっている。
「……ティア?」
髪の色、面影、間違いはないだろうが、ルークは僅かに驚いて問いかけた。
「しばらく近寄るなと言っておいたろうが」
「独り占めはよしてよ!」
「てめえはさっきまで独り占めしてたじゃねえか!」
「意識はなかったもの! それに、あなたが面倒を見られるときは二人きりにしてあげてたじゃないの!」
掴み合わんばかりに怒鳴り合う二人の舌戦をルークはしばらくおろおろと聞いていたが、ふとあることに気付いて顔を上げた。
「もしかして、ティアもずっと一緒にいてくれてたのか?」
「代謝は落ちてたが、数日置きに点滴で栄養を入れたり、床ずれしねえように身体動かしたりが必要だったんだ。さすがに風呂までは俺がいるときじゃねえと無理だが、身体を拭いたりもな」
「そ、そんな、ティアに使用人みたいな真似させるなんて……」
「シモの世話までしてもらってたんだ、今更だろ」アッシュは面白くもなさそうに鼻を鳴らした。「本人からやりたいと言ってきたんだし、気に病むこたねえ。それに、俺はちゃんと給料も振り込んでる」
申し訳無さそうに肩を落とすルークを、アッシュは絶対に渡すものかと言わんばかりにますます強く抱え込み、鋭い視線をティアに飛ばす。
「ガイか、俺自身が見てやれたら一番良かったんだが、俺はお前の親父の手前無職になるわけにもいかねえし、ガイはマルクトで家を再興しねえとならねえ。そんなときにこの女がお前の面倒を見ると言い出したんだ。これだって色々面倒がねえとは言えないんだが──」アッシュは『これ』とティアを顎で差した。「この女は潔癖性でプライドが高え。業腹だが、とりあえず意識の無いお前に跨がったり突っ込んだりしねえと信じられる人間はこの女だけだったんでな」
「またが……」
アッシュの言い分をティアが飲み込むだけの時間が空いたあと、ティアが半分ひっくり返った金切り声を上げた。
「はあっ?! ──なに考えてるのよ、一体誰が──」
「よく考えてみろ、寝起きは悪くても、こいつは一応ファブレ公爵家の長男なんだ。一発子種でも貰っとけば何か良いことがあるかもと考える女がいるかも知れねえだろ。男だってこんな発散する所もねえ山奥で一人、溜まってムラムラしてちょいと借りようなんて思うかも知れねえ。口封じの必要もねえしな。ちょっと反応は鈍いが、それなりのことをすれば身体はそれなりに反応するし、そうでなくたって多少見られる外見だしな。俺に似て」
「どこもかしこも似てなんかいないわよずうずうしいわね! 眠って意識のない相手をどうこうなんて、そんな卑劣なこと考えるのはあなたくらいのものでしょうよ!」
「卑劣? 俺はこいつの親からも許しを貰った伴侶だぜ?」
「ブー! 残念でした、夫婦間にだって強姦罪は──はっ!?」ほとんどひっくり返った声で真っ赤になって叫んでいたティアが、毛を逆立て、雷に打たれたようにびくんと身体を震わせた。「『それなりのことをすれば身体はそれなりに』……?」
「……」
「ま、まさかあなた──」
「アッシュ?」
「あのな。あれからもう八年経ってんだぜ。その間ずっと俺に禁欲してろっていうのか?」
「あ、あ、相手が眠ってる間くらい我慢出来るでしょう!?」
「寝てるだけで病人ってわけじゃねえのに、我慢なんざする必要ねえだろうが。いい加減男の生理くらい理解しろ生娘じゃあるまいし──ああ、失礼。まだそうだったか?」
怒りのあまりきいっとアッシュに掴み掛かるティアと、意地の悪い笑みを浮かべて片手でそれをあしらっているアッシュを、ルークは呆然と見つめた。まるで兄妹喧嘩のようなじゃれ方だ、いつの間にこんなに仲良くなったのだろう。いつの間にか経っていた時間に、その間に変化したのであろう二人の関係に、嫉妬めいた複雑な感情がまるでないとは言えないものの、「幸せじゃなかったとは言わない」の言葉が嘘ではなく、きちんと地に足を着けて生活してきたのだろうこと、にもかかわらず、やはりアッシュが自分を求め続けていてくれたことに、身体の奥底から噴き上がるような喜びを感じる。
「折ったり曲げたり開いたりすんのも適度な柔軟体操に──」
「本能を理性で押さえられない自分がそんなにご自慢かしらっ? 何かと言えば私が男性を知らないって馬鹿にするけど、それで黙らせられると思っているなら大違いよ、本能を制御出来ない言い訳を何でもかんでも性の違いにしないで欲しいわ、この外道! 鬼畜! ぺぺぺっ!」
ルーク自身は眠っている間に勝手に身体を弄られていたのだとしても、それがアッシュなら何の問題も嫌悪も感じない。諦めて誰か他の人との間に愛情を育んで、結婚して子どもを作り、幸せに生きて欲しいと言い残したけれど、もちろんそんなもの本心であるはずがなかった。
──本当は別の誰かをアッシュが愛するのが嫌だった。誰かとあれを、セックスをするアッシュを想像するだけで心が軋みそうになる。ルークではない誰かと作った家庭で、アッシュはこういう父上になるのではないかとルークが想像した通りの父親になって……。
「レプリカ」
拭うことも忘れて涙を流しているルークを、アッシュが舌戦を中断して抱き寄せる。静かな、深いため息がルークの耳をくすぐった。
「……今までだってそうだったし、俺は後腐れのない相手と適当に寝られる。当てつけにそうしてやろうと何度も思ったんだが、もしお前が起きたら、俺に幸せな結婚をして子どもを作れとか言ったくせに、やっぱり泣くような気がしてな」
「ご──ご、めん」
しゃくり上げるルークを慰めるようにアッシュの大きな手のひらが肉付きの薄い背中を撫でる。
「自分がどれだけ馬鹿な遺言したかわかったか」
「……あれは遺言なんかじゃ……いや、でもごめん、おれ……ほっとしてる。ごめんアッシュ、おれすげえ勝手だ……。でも……嬉しい……」
「寝てる間に身体いじくり回されたのがか? もちろんお前に拒否権なんかなかったが」
起きてから初めて、アッシュの声に笑みが含まれたのに気付いて、ルークは恐縮してアッシュの胸に顔を押し付けた。
「別に嫌じゃねえし……。けど、つまんなかっただろ……」
「そうでもねえ。意識の無い身体を抱くのも結構興奮した」
なんとなく、悪びれもしないその言い草に、気を遣わせまいとする自分への思いやりを感じた。ルークに負担をかけないための、優しい嘘なのかもしれないと思う。それが本当のことだったとしても、八年は長過ぎる。つまらなく思ったり、空しくなることだってあるだろう。アッシュが言うほど、眠るルークで慰めを得たとは思えなかった。
「……今からする?」
「あの女にこれ以上鬼畜呼ばわりされるのはごめん被る。それに、これからはいつだって出来るだろ」
喉の奥で笑うアッシュの振動が伝わり、ティアを忘れていたことを思い出してはたと振り向くと、いつのまにか姿がない。開け放してあった扉も、きちんと閉めてあった。
「──ティア?」
「空気読んだんだろ。呼ぶな」
アッシュがルークを抱え込んだままごろりとベッドに転がる。じっと見つめて来る瞳の穏やかさと相反する熱さ。削げた頬やがっしりした顎、青銅色に焼けて厚みを感じる肌はあのころのようなきめ細かさはなく、目尻に微かな時の流れを刷いている。以前よりも髭の剃りあとがわかるのが、確かにアッシュでありながらまるで別の男のようで、ルークは居たたまれなさにぎゅっと目を閉じた。その目蓋に、何度も唇が落ちて来る。睫毛に絡んだ涙を舐めとられているのだと気付き、その愛おしむような行為に全身がかっと熱くなった。
恐る恐る目を開けると、少しだけ細められた濃い翡翠の色がまっすぐにルークを見ている。視線を外すことを恐れてでもいるような、苦痛と恐れを秘めたその眼差しに、ルークはか細い指を伸ばした。その目を塞いでしまいたかったのに、指先は途中でアッシュの肉厚で大きな手に絡めとられ、ぱくりと銜えられてしまった。知られ尽くしたルークの官能を引き出すようなものではなく、ぎょっとルークが固まっている間に爪や手のひらに唇が押し当てられ、また指先を食んだと思えば、掴んだままのルークの手を頬に触れさせる。
「……」
ざらざらとした顎や、固い頬、瞳の周辺に指先を這わせ、知らぬ間に経ってしまった年月を感じ取る。アッシュの成長を、そして世界の変容を、見届けることなく眠っていた自分が、無性に歯がゆかった。
「おれ、結局何の役にも立てなかったな……」
ぼそりと呟くと、アッシュが心外そうに目を見開いた。「そんなわけねえだろ。ローレライの解放をしてくれたじゃねえか」
「別にそんなのたいしたことじゃねーじゃんか……」
「何言ってんだ、あれがなけりゃ、チビたちは生まれて来れなかったんだぜ」
「……なんだよ、それ」
「ファブレ家の子どもは『ルーク・フォン・ファブレ』ただ一人。公爵は、二人目の子どもを持てないはずだった。夫人は元より、側女を持ったとしても意味が無いということだ。ファブレ家は『ルーク・フォン・ファブレ』の死と共に跡取りを失う、だからこそ公爵は預言を持たないお前になんとか子どもを作らせようとしたんだ。夫人──お袋さんもな、子どもどころか、一生健康にはなれないはずだったってのに、今や健康とまでは言えないもののかなり丈夫になってる。年に数回は風邪やらなんやらで寝込むこともあるようだが、ほとんど寝室から出られなかったバチカル時代とは目を見張るほど違うぞ。五年前の出産はちょっとヤバかったが──まあ、歳が歳で無茶をしたからな──チビたちは二人とも乳母を付けず、自分で育ててんだ。それどころか、月に一度はここまで登って来て、なにくれと話しかけながらお前の世話をしている」
母上が、とルークは仰天してアッシュを見つめた。
子どもを自分で育てたかったという母は、寝込んでばかりだったころでも調子の良い時には庭でルークと遊んでくれていた。それが少しでも元気になったというなら、さぞ張り切って子育てに励んでいることだろう。
だが、ルークの足でも二時間はかかる山道を登って来るというのは「ちょっと元気になった」の次元を越えている気がする。
アッシュはプラネットストームを停止せざるを得なくなった経緯、それに対する反発や暴動、だがかつて預言で否定されたはずのことが次々に起こっていることが広く世間に浸透して行くにつれ、世界に希望が満ちて来たことを話した。
「ファブレ家のような例もあるだろうし、好き合ってんのに結婚出来ねえカップル、商売を広げられねえ商人、学びたいのに別の進路を預言された子ども──大勢が、自分の希望で夢が広げられ、叶えられることもあると知った。未来が大きく広がったんだ」
──人は預言から解放され、己の意思で未来を選ぶことが出来るようになった──
それは、ヴァンが渇望した世界にひどく似ている。
だが、ヴァンは過激な方法で定められた未来を壊そうとした。それはある意味、人類が死に絶える預言を成就させようとしたとも言える。預言には修復力があり、なんとか一つの預言を逃れても、何らかの形でつじつまを合わせようとするのだ。細部は変えられても大局は変わらない。今だって結局のところ、人類は更に違う形で滅亡する運命にすげ変わっているだけかも知れない。
だが、定まった未来が無い今、人類はそれを避けるためあがくことが許されたのだ。
「そういうことが少しずつ浸透していって、未だ罪人のままではあるんだが、一昨年ティアの希望通りヴァンはダアトに埋葬し直されたんだ。お前と言う存在を産み出した功績を考慮されたようだな」
ルークはぱっと喜色を全面に表したあと、首を傾げた。なぜ自分が関係するのかわからず困惑しているルークに、アッシュは「自覚はないんだろうが」と苦笑を向けた。
「預言を持たないお前しか、ローレライの解放をし、預言から世界を解放することが出来なかったのは確かだが、お前に関わったことで、大勢の人間が何らかの良い影響を受けた。俺もだが……お前の仲間たち、ガイなんかもそうだろ。お前を愛し、友になったからこそ復讐を取りやめたが、実行していたら奴には破滅しかなかった」
「おれだってアッシュやガイからいろんなこと教わったし、良い影響だって受けてんだぜ。それって別におれの手柄ってわけじゃねーじゃん……」
「そう思うなら、お前が旅の間に出会った人たちに会いに行って見ればいい。──まあ、まずは身体を戻すのが先だがな」
腕や肩、胸を見下ろして、ルークは悲し気にため息をついた。「ごっそり筋肉が落ちてんだな。骨と皮だけになったみてえ」
「そんなもんはこれから何とでもなる。生きていてくれるだけでいいんだ」まるで言い聞かせるようにアッシュは言い、ルークを抱く腕を強くして髪に口づけた。「──それだけで」
「……うん」
もう消滅するものと思っていたのに、思いがけず命を拾ったのだ。それだけでありがたいことなのに、一つ手に入ればまたひとつ、もうひとつとつい欲張ってしまう。少なくともこれからは命のカウントをする必要がない。失われたものはゆっくりとまた取り戻していけばいい。出遅れたぶんも、皆に追いつけるよう頑張れば良いのだ。
ラルゴやアリエッタが生きて見つかったこと、また捜索の過程でラルゴがナタリアの実父と判明したこと、ナタリアやイオンの説得を受け、世界の変化を受け入れたことで罪一等を減じられたこと。アニスが料理の腕を生かして副業で商売を始め、借金を全額返済してくれたこと。ケテルブルクで赤ん坊を抱いて脂下がった老人に声をかけられたことなど、これまでのことを聞きたがるルークにアッシュは記憶にあるより一段低くなった声でぽつり、ぽつりと語って聞かせてくれた。
「……眠いのか? 話しすぎたな、疲れたろう」
低い穏やかな声に、いつの間にか眠気を誘われてうとうとしていたようだった。髪に差し込まれ、ゆっくり梳くように撫でる指が気持ちいい。
「うん……ちょっとだけ」
「少し横になれ。──だが、今度はちゃんと起きてくれよ」
「……ん。早く元気になって、おれも新しい世界のために何かしたい。おれにも出来ることがあるなら……」
「お前が本当にやりたいことをやればいいさ。選択肢は多い、好きなものを選ぶといい。だが、当面お前の仕事は俺の面倒を見ることだ。俺に話しかけて、俺に笑いかけて、俺を抱きしめて一緒に眠って──俺を幸せにすることだ」
薄らと閉じようとする目蓋を上げると、これまでに一度もルークが見たことの無いアッシュの表情が目に入った。
どこか駄々っ子のように挑戦的で、それでいて反応を窺うように不安そうな。
愛おしさが溢れ出し、ルークは口元を綻ばせながら額をアッシュの胸にすり寄せ、深く頷いた。
それは、ルークのこれまでの──そしてこれからの人生で、一番やりがいがある素敵な仕事だと思ったのだ。