バニシング・ツイン 41

 アッシュは、目の前に立っている創世歴時代の衣装を纏った自分自身を、殺気の籠った目で睨みつけた。
 だが、それはそんな視線を飄々と受け流し、顎をそびやかせ、腹立たしいほど尊大に問うた。

《お前の望みを聞いてやろう》

 ──は? なんで俺なんだよ。てめえを解放したのはレプリカじゃねえのか。あれの望みを聞いてやれ。

《ルークは望みを口にしなかったが、彼の望みは、お前が幸せになることだ。故に、お前の望みを聞いてやろうと言うのだ》

 ──俺の望みも似たようなもんだ。傍にあれがいて、幸せだと笑っていてくれさえすれば、他には何も望まん。

《我の望みも、ルークが傍らにあり、笑ってくれることだ。我は七番目の音譜帯となる。ルークは第七音素の子。いずれは我に引き寄せられ、我とともに過ごすだろう》

 ──はっ、レプリカの気持ちや意思は無視か。望みを叶えてもらった礼がそれたあ、第七音素集合体殿は人の礼儀をご存知ないと見える。

《……ルークの望みはお前の傍らにあることではない。ルークはお前の幸せを願っている。他の望みを言うがよい、お前が幸せになれる望みを》

 ──俺を幸せに出来るのはあれだけだ。あれを幸せに出来るのも俺だけだ。てめえなんざお呼びじゃねえんだよ、すっこんでろ!

《お前はルークの他にいくらでも選べよう。我にはルークしかいない。他の望みを》

 ──ふざけんな! 俺にだってあいつしかいねえよ!!

 わざとらしくアッシュ自身を模した姿で現われたローレライに思い切り拳を振り抜いた瞬間、はっと目が覚めた。
 ルークがペンを舐めながら考え考え日記を書いている間、先にシャワーを済ませ、うつ伏せに寝転がって考え事をしている間にうたた寝をしてしまったようだ。
「あ、ごめん……。起しちまったな」
 顰めた声に視線をやると、日記を書き終えてシャワーを浴びて来たらしいルークが、髪を拭きながらすまなげに謝ってくる。
「いや……。ムカつく夢で目が覚めたんだ。お前のせいじゃねえ」
「へ? どんな夢」
「ムカつく野郎を殴ったが、すり抜けちまった」
「そりゃムカつくな」
 ごろりとルークの方に身体を向けて頬杖をつき、くすくす笑っているルークの横顔を見つめる。月明かりを浴びた頬は磁器のように青白く、なめらかで、硬質な美しさがある。女のように、というわけではなく、大人になりきらない未成熟な少年の美しさだ。
「何してたんだ?」日記など書く習慣のないアッシュの枕元に散らばった紙束をルークが視線で示す。
「……ああ」アッシュは中の一枚を取って、ルークに見せた。「ここ、湯が使えねえだろ。今は夏だからいいが、これから先はきついからな。パッセージリングを回ってる間、ガイとあれこれ考えて、設計してたんだ」
「ガイと? 音機関?」
 ルークは設計図を一瞥して苦笑し、すぐに返して来た。
「まあな」
「それを設置したらお湯が使えるようになんの?」
「多分な。ああ、まあ、最終的にはディストにもチェックさせるつもりだが……。形になったら二人でなんとかするさ。──ガイも張り切ってるようだしな」
「おれ、ガイと音機関の話が出来るやつがいるとは思わなかったよ」ルークはおかしさを堪えるような顔をしてアッシュを見つめた。「……すっかり仲良くなったんだな」
「……音機関のことでは話が合うだけだ」
 アッシュは首を振ったが、実のところ、ガイの視線や言葉から険が取れたと感じていた。ルークをちゃんと本気で大切にしているということをガイが飲み込んだころから、少しずつ。それだけガイもルークを大事に想っているということなのだろう。当初はガイへの激しい嫉妬に苦しめられもしたが、今はありがたく思いこそすれ、疑惑の目で見ることもない。ガイのルークへの好意は、本人が言うよう『親友』へのものですらなく、ほとんど親が己の子へ──いや、兄が弟に抱く愛情に等しいからだ。万が一にも自分がルークを護れないとき、代わりに護ってくれるのは、おそらくガイを置いて他にはないだろう。

 ふ、と苦笑が漏れる。
 ルークはその素直な性質と無邪気な表情が相まって、幼く、頼りなく見えるけれども、護ってやらねばならないようなお坊ちゃまでも子どもでもない。誰かを護る力のある、一人前の男なのだ。

 髪を拭い終わったルークが濡れたタオルを椅子にかけて振り向いた。じっと見つめるアッシュの視線に気付き、微かに首を傾げる。
「……なに?」
「何で着てんだ。脱いで入れよ」
「うん」
 夜着を着ないままベッドに入っているアッシュの意図など考えるまでもない。ルークは素直に夜着を脱ぎ始めた。殊更に見せつけるようでもなく、かといって恥じらうでもなく、育ちの良さを表すように一つ一つボタンを外し、無心に肌を露にして行く様子には清潔な色気があり、艶かしいというよりひどく愛くるしい。
 アッシュはルークの肌の白さに目を奪われたままゆっくりと起き上がり、こちらに来てベッドに入ろうとするルークを手で押しとどめた。
「……?」
 戸惑ったように立ち尽くすルークの身体を、アッシュはほとんど恍惚として見つめた。
 青みを帯びた灯りを纏っているせいか、シミや傷の一つもないルークの身体は、まるで石膏像のように造りものじみて見える。アッシュ自身が熱心に付けた花びらがあちこちに散っていなければ、呼吸さえ通っていないように見えるのかも知れない。アッシュより線が細いとはいえ、その身体はやはり女とは違い、しっかりした筋肉が全体を覆い、固く引き締まっている。当初はわざとらしく盛り上がっていた腹筋も実戦を繰り返すうちに研ぎすまされて、今は必要なぶんを残して光の陰影でその存在を主張する程度だ。

 ──綺麗だ……。

 ルークの容姿を褒めることは、まるで自画自賛のように思えて一度たりとも口にしたことはなかったが、こうやって美術品を鑑賞するように見つめると、やはり自分とはとことん違う存在なのだと知れる。
 ベッドの縁に腰掛けたまま、正面に立つルークの腹に手を伸ばした。ぺたりと手のひらが触れた瞬間、ルークがぴくんと身体を震わせた。両手を伸ばして身体の凹凸おうとつを確かめるように滑らせ、水を吸ったばかりの、ひんやりとなめらかな肌触りを楽しんだ。ルークが大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。呼吸に合わせて、赤ん坊のそれと同じ色をした性器が、続きを期待するようにゆっくり勃ち上がってくる。

 思えば、すぐに他の部分に気を取られ、ここを口で愛撫したことがなかったような気がする。

 気付いたら、すぐに試してみたくなった。軽くルークを押しやって、開いた隙間に滑り落ち、膝を付く。アッシュ、と不安そうな声を上げるルークを見上げ、アッシュは邪気の無い笑顔を見せてから、おもむろに芯が通り始めたルークの性器の先端に舌を這わせた。
 ひっと息を飲む音がしたと思うと、さらりとした透明な蜜液がどっと溢れ出す。
「あっ……、……っ、……っ、ん、んっ」
 クリームを味わうように丁寧に舐めとり、じゅるじゅると音を立てて啜ると、ルークは忙しない呼吸の合間に、小さな声を洩らして腰を揺らめかせた。
「あっ、や、だめ、もうだめ……っ!」
 肩を掴んで力なく揺さぶるルークに、何が駄目なのかと深くまで銜えた性器を吸いたてながら先端近くまで引き出すと、絶え入るような悲鳴が聞こえ、口の中に粘液が溢れる。わかっていたことだが、予想以上にろくでもない味だった。なのに、心にはひどく甘いものが広がっていく。
「……随分早えな」
 口元を拭いながら見上げると、ルークは荒い息を吐きながら、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしてアッシュを見下ろした。「だ、だって……。お、おれ……。口でされると達けなくて。いつも途中で飽きて……」
「悦かったか」
「う、うん、すごく……気持ちよかった。それに……」
「それに?」
 ベッドに座らせてやりながら問いかけると、ルークは真っ赤になって俯いてしまった。
「なんだよ、言えよ」
「…………から」
「聞こえねえぞ」
 意地の悪い気持ちではなく、本当に聞き取れなかったのでそう問うたのだが、ルークは突然逆切れしたようにアッシュを突き飛ばし、アッシュが驚いている隙にベッドに潜り込んで頭からブランケットを被ってしまった。
「……ほら。なんだよ」何を照れているのかと、今度こそ意地悪な気持ちになってブランケットの上から耳らしき部分を探り当てて囁くと、亀になったルークがびくっと跳ね上がった。
「ア、ア、アッシュの顔が」
「俺の顔が?」
「……」
「俺の顔がなんだって?」
「おれの銜えてるアッシュの顔、な、なんかやらしかったから……っ」
 はあ? とルークの塊をまじまじと見つめ、ややあってアッシュはにやりと口の端を歪めた。「……で。お前はそういう俺がお気に召したようだな」
「そそそそう言うわけじゃねえもんっ。ただ、ちょっと。いつものお前と違う顔するから……なんて言うか、ちょっと、違う人みたいだってどきどきして……」
「……興奮したのか」
 ふうん、とアッシュはもぞもぞと居心地悪げに動くブランケットの山を見下ろした。あまりこういうことに羞恥心を見せないルークのこんな初心な反応は、逆に少し新鮮な気がする。
 きちんと満足させている気ではいたけれど、少しマンネリ化してきているのかもとアッシュは大いに反省することにして、ルークの被ったブランケットを強引に剥ぎ取り、紅葉した葉っぱのような耳を甘噛みしながら囁いた。
「じゃあ、今日はいつもと違うことをしてやるよ」

 カタカタと風で窓が鳴る音で、ルークは目を覚ました。窓ガラスにはまるで桶で水をかけているようにざあっざあっと雨がぶつかり、夏の朝だと言うのに薄暗い。
 アッシュが背後にぴたりと寄り添い、首の下に回した片手でルークの頭を抱え、胸を軽く抱きしめているため身動きはし辛かったが、あまりに激しい雨のため、例え窓の外を覗けたとしても何も見えやしなかっただろう。
「すげえ、降ってるな……釣りに行こうと思ってたんだが……」
 いつ起きたのか、まだ眠そうな掠れ声が、緩慢に呟いた。
「釣り? そこの泉で?」
「少し歩いたとこに沢があんだよ……」
「沢? そこに魚がいんの?」
「……水が澄んでるからな、川魚が結構いる……」まだ半分は眠りの中にいるのか、アッシュは聞き取り難い声でそう囁いたあとルークの身体をぐっと抱き寄せ、裸の背中にキスを落とした。「今日はもう何にも出来ねえ。このままうだうだしてようぜ……」
「ん」

 深夜をかなり回るまで散々貫かれた身体は未だ重く、ルークは素直に身体を預けて目を閉じた。アッシュの方も目を閉じて深い呼吸をしているようだが、完全に意識が飛んでいるのではないらしく、時折ルークの髪やうなじ、背中にキスしてみたり、胸や腹を手のひらでゆったり撫でていたりする。性的な色を含まない触れ方は若干くすぐったくもあったけれど、身体から疲れや強ばりを解いて行くような優しさがあり、まるで湯に浸かったときのように全身からくにゃりと力が抜けた。

 結局一日雨は降り止まず、二人はほとんどをベッドの中で過ごした。裸のまま寝転がって、ルークは小説の続きを読み、アッシュはディストから借り受けたらしい音機関の仕組みについての解説書を読んでいる。ここを作ったご先祖は薪を使って湯を沸かし、盥で行水をしていたようだが、盥はすでに朽ち、アッシュが薪にして燃してしまっていたし、そもそも彼らのように、大量の湯を運んでくれる使用人がいるわけでもない。アッシュは水浴びが厳しい季節になる前に、なんとかしたいようだった。
 腹が減れば各自昨日アッシュが作っておいた豆とソーセージを煮込んだものをよそい、酸味の強い黒パンと炙ったチーズを添えて食べる。
 会話はほとんどない。なんとなく、最初の船旅を思い出す。あのころも会話という会話はほとんどなく、やはり大部分をベッドで抱き合うことに費やした。
 けれど、あのときと今とでは、その心情が全く異なっていた。
 今は確かに二人とも無言のまま、互いに違うことに気を取られているけれど、身体の一部──例えば背中や腕、足先などが絶えず触れ合っていて、何かの折りに視線が合えばどちらからともなくキスをして照れ笑いする。似ているけれど、こんな優しい時間ではなかった。

 ローレライが言うのだから、どんな違いが出たとしても音素振動数さえ同じならばそれがルークであることに間違いないのだろう。それならば、明日以降もしばらくは一緒にいられる。明日の結果を踏まえて、再度再構成を試みるまでは……。
 アッシュがただまっすぐに未来を見つめているのを眩しく、そして申し訳なく思いながら、ルークはあとどのくらい一緒にいられるのだろうと、そればかりを考えていた。

 譜術だと些細な外部刺激で目を覚ましてしまうことがあるので、ティアや訓練に使った家禽、家畜と同様にルークにも深く眠るための薬が処方された。
 失敗しても再構成は出来ると言うアッシュの言葉を信用してか、特に緊張したり怯えた様子は見せなかったが、急速に迫る眠りに幾度か抗い、眠そうに目を閉じては開き、アッシュが傍にいるのを確認している様子が愛おしかった。
「また後でな」
 そう囁いて、額に唇を押し当てると、ルークは少しだけ目を細め、口元を綻ばせて目を閉じた。
 研究者たちはほんの数分、ルークの様子に異変がないかをモニターの数値で確かめ、深く寝入っているのを確かめてからアッシュに頷いてみせた。
 アッシュはもう一度ルークの、今度は唇にキスを落としてから、大きく深呼吸した。背後に立ったシュウが、幅広の黒い布でアッシュの目を覆い、後頭部で縛る。音素化したルークを目の当たりにして、平静でいられる自信がアッシュにはなかったからだ。
「では、始めますよ」
 特徴あるディストの声が開始を告げると同時に、ふっと耳に軽い圧力がかかるのを感じる。『総譜』が流れ始めたのだ。
 目の前で眠るのは、失ってもさしたるダメージのない食材ではなく、ルークだ。
 そう思うと、心臓が大きく跳ねて、激しく、不規則な鼓動を刻み出す。
 落ち着けと自分自身に言い聞かせ、アッシュはもう一度大きく深呼吸をして、ぐっと前に突き出した両手の先に力を集めた。
 力が放たれた瞬間に、周囲に緊張が漲った。見えずともわかる。ルークが音素に変わった。目の当たりにしている四人の緊張感が、アッシュにまで伝わって来る。
(大丈夫、焦るな……)
 背を滑り落ちる汗の気持ち悪さを意識の隅で感じながら、アッシュは耳を澄ませてルークの『音』を聞き取ろうとした。
(……どこかで)
 その『音』に聞き覚えがあるような気がして、目隠しの内側で眉を顰める。もっとはっきり聞こえてくれたらいいのだが、いつもと同様、それは気のせいで済ませられるような微かな『音』だ。
 だがいつもよりは聞き取りやすいと思えたのは、それがやはり知っている音だったからだろう。
(これは……譜歌、か……?)
 一度そう思いついてしまうと、もうその微かな音の気配は譜歌にしか聞こえなかった。しかもいつも同様、音程の狂った。
 しばらくはティアと戦闘を共にしたため、彼女の歌う譜歌は憶えてしまっている。ティアはまだ七つの譜歌をすべて歌うことが出来ないと言っていたが、どうやら『音』はアッシュが未だ聞いたことのない部分も音を外したまま繰り返していた。
 すぐに失敗を悟った。アッシュはその狂った音程を頭の中で聞き慣れたものに正しながら聞き取ってしまっている。このぶんだと、訓練同様ルークをそのまま再構成することになるだろう。
 が、次の瞬間、流れていた『音』が途切れた。不安と焦りにカッと全身が熱くなった瞬間、これまで流れていた音とは全く別の音が流れ出した。これまでのように、聞こえるか聞こえないかの幽かなものではない。やはり譜歌に似ている気がするが、音程が狂っているとは感じない。原曲の面影を微かに残して改編された曲、そんな感じだろうか。
 何が起こったのかわからないまま、アッシュはその『音』に全神経を集中した。

 突然、でたらめな数字の羅列を流し始めたり、挙動のおかしくなった譜業にすわ故障かとジェイドは焦り、必死で元に戻そうと格闘しながら、ただ呆然としているスピノザとディストを怒鳴りつけた。
「何をぼやっとしているんです! こちらは故障箇所が特定出来ません、早くそちらを調べなさい!」
「こ──これは……」
 二人はみるみるうちに室内に張りつめてゆく濃密な第七音素と、時折小さな稲妻が音機関に走り、ピシピシと軋む音がするのを呆然と見回していた。
「駄目だ、受け付けない」全く操作が利かなくなったコンソールに両手を叩き付け、ジェイドが片手で顔を覆った。「──こんな時に……!」
「これは、あの時とよう似ておる。あの時は譜業の故障かと思うたが……」
「……なんの話ですか」
 おろおろと問いかけるシュウに、興奮に口元を歪めたディストが掃き出されて来る紙をずるずると巻き取りながら言った。
「……この数字……ローレライの音素振動数……」
「事故じゃ。アッシュのレプリカを作るとき、思いがけない事故があったんじゃ。それで出来るはずのない完全同位体が出来た」
「この私がその事故を再現して、一度だけ完全同位体の作成に成功しました。数十回繰り返して一度ですから、それが完全同位体作成の条件とは確定出来ませんが、確かに似ているようですね……」
「まずい。『総譜』が流れとらん……!」
「ローレライ」ジェイドが赤い瞳を煌めかせてのろりと顔を上げた。「あの事故を起こしたのはローレライらしいと、ルークは言っていましたよね」
「ではこれはローレライの御業だと……?」
 シュウが、音素に変じたルークを見つめた。アッシュが動揺していたせいか、一時は軽く拡散していきそうな気配があったものの、今は安定して、少しずつ、少しずつ集束していきつつある。ティアの時より遅いのは、身体を作り替えているからだろうか。

「アッシュは一体、何を目安に、何を再構成しているんじゃ……」

《……定着せぬ》

 ──なに……? 誰だ……。

《やはり音……動数を……の……響か……》

 どこか困惑したような声に、アッシュは『音』を追いながら首を傾げた。脳裏に直接響いた声に、聞き憶えがある。だが、それを聞いたのは夢であったはず。

「──ローレライ? お前なのか?」

 焦った声を上げたが、ローレライは聞こえているのかいないのか、アッシュに返答することはなかった。

《ああ……時……切れか。もう……ねば……》

 これまでルークにのみ聞こえ、アッシュには聞こえなかったその声は、『音』同様に聞き取り辛い。アッシュは全神経を『音』に集中しているため、少しずつ遠ざかって行く声を詰問することが出来なかった。

《我……出……るのはこ……で……願わくば……》

 渦巻く疑問や焦燥を押さえつけ、アッシュは微かな『総譜』に縋った。実際にどのくらいの時間がかかったのか、一日も二日も経ったように疲労を感じたころ、両肩に強い力を感じた。
「終わりましたよ、アッシュ」
 その一言に、全身から力が抜けた。ぐったりと背もたれにもたれかかり、震える手を上げようとしたが、鉛のように重い手はほんの僅かしか持ち上がらなかった。
「外しましょう……」
 意図を悟って、シュウの手が目隠しにかかる。その声は、感極まったように興奮し、濡れていた。
 目隠しが外され、眩しさに数度瞬きを繰り返す。
「──ルーク」

 涙の幕がかかり、視界はヴェールを被ったように曇っていた。
 揺らぐ視線の先に見えるのは、鮮やかな緋色。

 目隠しをする前と寸分変わらない、ルークがそこに眠っていた。


(2014.04.19)