研究所から少し離れたベルケンドの宿の一室で、ルークは丁寧に淹れた紅茶を飲みながら、アッシュが結局最後まで読まずに放り出したままの本を読んでいた。ルークだって女性を良く知っているわけではないが、なんとなく女性が好みそうに思えるじめっとした展開が、アッシュには読み辛かったのだろう。ルークとてあまり好みとは言えなかったが、ルークはアッシュよりも読む早さが格段に劣る反面、どのように合わないと感じても読み始めたものは最後まで読まねば気が済まない性分だ。
──いや、もしかしたら習慣、もしくは強迫観念に近いのかも知れない。
まだ教師たちを放逐する前の話だ。理解出来ていたはずなのだからと、まるでわからないことに苦しみながら最初から最後まで何度も本を読み返し、『思い出そう』としたことが、かつてはあった……。
大きな欠伸をして涙を拭い、紅茶で口を湿して再び本に視線を落としたとき、小さなノックの音を聞きつけてルークは飛び上がった。さして面白くもない本への意識が、すぐにどこかへ飛んで行く。
小さな金属で塞がれた覗き窓を引き上げ、立っているのがアッシュと確認するや否や、ルークは鍵を外して扉を引いた。
「おかえり、アッシュ」
「ただいま。──やっと覗き窓の使い方を憶えたな」
苦笑するアッシュを、ルークもばつが悪そうに笑って迎える。確認もせずに扉を開けて、実はこれまで何度も叱られていた。
朝出かける時にはどこか落ち着かなげに苛ついて見えたアッシュだったが、非常に疲れた様子で、顔色も良くないものの、今は少なくとも表面上は落ち着いて見える。研究所から宿まで歩く間にかなり汗ばんだようで、ルークが水に浸して固く絞ったタオルを渡すと、アッシュにまとわりついていた緊張感がほろりと綻んだ。
ルークは成果を問うようなことはせず、黙って向かいにあるテーブルセットの椅子に座り、ティーポットに残っている紅茶をカップに注いだ。さっき淹れたばかりだし、コジーを被せていたから、まだ冷めてはいない。むしろアッシュのような状態の人には勢い良く飲める温度の方がいいだろうからちょうど良い。
よれよれとベッドに腰を下ろしたアッシュにカップを渡すと、案の定半分を一気に飲み干した。いつでも注ぎ足してやれるように、再びポットにコジーを被せておく。
「再構成は出来た」
アッシュがふっと吐息を付いたのに、少し落ち着いてきたらしいと踏んで、労うために腕を伸ばして頭を撫でてやっていると、ぽつんとそんな言葉が落ちた。
「え!? ほんとに!?」
思わずルークが身を乗り出すと、アッシュは思ったよりも落ち着いた様子で苦笑を深くした。
「お前の助言、的確だったぞ。力が落ちてコントロールしやすいのもあるんだろうが、気のせいかも知れない『音』を聞き取ろうと集中していたら、それに気を取られているうちに勝手に再構成されていた。あいつらの造った音素誘導器がなければこうはいかなかっただろうが……。正直、拍子抜けするほど容易かった」
「やったな、アッシュ!」
だがアッシュははしゃぐルークを手で制し、言葉を継いだ。「だが、成功したわけじゃねえんだ。結果としては失敗だった」
「は? なんで」
思わずきょとんとしてしまうルークに、アッシュは言った。
「メロンの時と同じじゃねえだろ。今度の『総譜』はオリジナルに手が加えてある。音素振動数が変わるようにな。今回の練習もそうだ。お前のときと同じ、鶏やら七面鳥やらでの練習だったんだが、『総譜』は元の音素振動数から変更されてたんだ。だが、俺はそれを無視して、元のままに再構成しちまった」
完全同位体でなくなるように、研究者たちは被検体の音素を、脳を構成する元素を繋ぐものを除いて、最低限のところで弄った。アッシュはその聞き取れないが音楽のように聴こえるはずという『音』を聞き取るために耳を凝らし、確かに聞こえると思うのだが、なぜかその音程が狂っていると感じてしまう。違う、違う、こんな音のはずはないのにと首を傾げながらなおも『音』を追っていると、分解された音素は『総譜』を無視して元の音素振動数のま再構成されてしまったらしい。
「『総譜』を作る作業もあって、今日一日では五回が限界だったんだが、とりあえず再構成自体は一度も失敗しなかったし、多分コツも掴んだ。例え失敗したとしても、多分元のままには戻せる。……と思う。少なくとも、今日の夕食は肉抜きじゃねえ」
なんとなく言わんとするところがわかって、ルークは頷いた。駄目で元々の治療なのだから、試みても元に戻せるというだけでアッシュの負担は格段に減るだろう。
「シュウ先生は平行して音素乖離をさせない薬の開発もしてくれているようだ……」
「ならどっちにしたって、ぎりぎりまで一緒にいられんじゃん?」
ルークは笑ってベッドに移動し、紅茶を啜るアッシュの邪魔にならないように寄り添い、そっと肩に頭を乗せた。
頑張ってくれているジェイドたちやアッシュには申し訳ないが、アッシュの幼いころの心的外傷を知ったルークには、実のところ超振動による大爆発回避を望む気持ちがあまり強くない。
かといって何もせず、ルークの身体をアッシュの音素で書き換えさせ、記憶を明け渡してアッシュを慟哭の淵に落とすのは論外だ。その前にルークが自分で命を絶てば大爆発そのものがなくなるが、どちらにせよアッシュを苦しめることには変わりがない。
ジェイドらの考え通りにことがうまくいくのが一番問題無いのだろうが、もし失敗したとき、それはどれほどの傷をアッシュに与えるのだろうかとどうしても考えてしまうのだ。結局、これまでに彼を傷つけて来た多くのものの中で、自分が最も惨い傷を与えてしまうことになるのかもしれない。
ルークが死んだら、アッシュはきっと約束通り、自分で命を絶ってルークのところへ来てくれる。だけど、ルークの行くところとはどこだろう? そこではアッシュに再び逢うことが出来るのだろうか。
「不安にさせて、すまねえな……」
「おれ? ……全然、不安なんかねえよ?」目を閉じ、もたれたアッシュの肩に頬をすり寄せて、ルークはゆったりと笑んだ。「ほんとに全然。わかんねーかな……」
もしも、死の先になにも無いのなら。
これまでずっと辛い思いをして生き抜いてきたアッシュは、一体何のために生まれて来たというのだろう。多くの人が一生のうちに何度も体感するであろう「幸せ」を、彼はほとんど知らないままで生を終えることになるのか。
他の誰のものにもならず、ルークのために命を絶つという約束は、いっそ吐き気がするほど薄暗く甘美な想いをもたらしてくれるが、同時にそんな身勝手な自分への嫌悪感をも感じる。
ルークはアッシュに受け入れてもらえて初めて、今が一番幸せだと思った。自分が幸せだと思えるようになって初めて、アッシュの幸せにも心を配れるようになった。そうすると、多くのものに傷つけられ、またルークの再構成失敗に打ちのめされ、そのまま命を絶つようなことはあってはならないと思うようになったのだ。ましてや、それを嬉しいと思うようなことなど。
アッシュの命は、ここで終わらせてはならない。
かといってルークが命を絶つような形で大爆発を止めてもならない。
温かい手が頬に触れ、ルークが顔を上げると、目の前にアッシュの顔があった。あ、と思ったときには唇が触れている。
ゆっくりと二人でベッドに倒れ込むと、どうすればいいんだろうという思いはすぐにルークの脳裏から消え去り、刹那の快楽を追うことで一杯になった。
ローレライの意思によって生み出されたせいなのか、何も聞かずとも『鍵』の使い方を知っていたようだった。
白や黄色、薄紫の、名も知らぬ小さな花が生い茂った大地に鍵を突き立てると、ゆっくりと一回転させる。実際に音が聞こえたわけではないが、どこかで何かが解錠された手応えのようなものを感じた。鍵を中心に譜陣が広がり、手を離して一歩を下がると、鍵は譜陣に吸い込まれるように消えた。
ルークが息を飲んで見守る先で、譜陣の中心からゆらめきながら、濃い第七音素の塊が立ち上る。
《ここは……》
「ベルケンドの山ん中。おれとアッシュの一番好きな所なんだ」
大きく枝を伸ばした木々の天蓋が覆う、澄んだ泉の傍。奥の方からこちらへ絶えず小さな漣が立ち、木漏れ日を煌めかせる。真夏の蒼天の下、そこだけは居心地の良い日陰になって、涼しい風が吹き渡る。
ルークは煉瓦作りの狩猟小屋を含める広大な景色をぐるりと見回して、薄ら人の形に集った第七音素の塊に言った。
「アッシュはおれたちが被験者とレプリカって関係だから、好きなものが似てるって言うんだ。おま……あんたはどっちでもねえけど、同じ音素振動数だし、もしかしたらやっぱり好きかも知れないって……。だから、見せたかったんだ。綺麗だろ? おれ、オールドラントの中で、ここが一番綺麗なところだと思うんだ」
ローレライの解放はどこで行っても良いようだったから、ルークはほとんど迷わずこの場所を選んだ。
かつて丁寧に手入れされていたのだろう小屋の周囲も雑草が生い茂り、蜜蜂や蝶やもっと小さな羽虫が飛び交う。時折、地面から雲雀が飛び立つのを見れば、雑草をかき分けた先に我が物顔で巣を作っているのだろう。人の気配がなく、静かで、どこか朽ちたような風景。だが生命の気配がそこかしこに満ちあふれている。
第七音素の集合体の静かな同意を感じ、ルークはほっとして感覚の鈍い指先を見つめた。
感覚がないのもそのはず、第一と第二の間接の半ば辺りから指先が消えて、泉の傍の苔むした木々や、湧き水のさざ波が透けて見えている。
「何があるかわからねえから、ローレライの解放には立ち会う」とアッシュは言ったし、実際ルークもそのつもりでいた。今一人でローレライを解放したのは、決してアッシュを出し抜くなんらかの意図があったわけではなく、整理していた荷物の中に宝珠を見つけ──アッシュは研究所にまで持ち歩く必要性を感じていないのだろう──こういう待ち時間に無駄なく用を済ませておこうと突然思い立ったからに過ぎない。だがこうなると、やはり一人で試みて良かったのだ。
じわりと恐怖が胸を冷やし、半分透けた指先から目を離せなかった。そのとき、指先に光の手が優しく触れた。みるみるうちに指先が実体を取り戻して行く。
《……力をかなり使わせた》
泣きたい想いで指先を見つめ、ルークはそっと手を握った。
「……ありがとう」
あんな手、アッシュにはとても見せられない。もしも指先が透けたままになっていたら、ルークはもうアッシュには会えなくなるところだった。
もしかしたら大爆発がなかったとしても、どの道大して長くはなかったのかもしれない。レプリカの寿命は被験者と同じなのだろうかという疑問が、ふと過る。
《……人とは、いつの時代も不思議なことを考える。理論上では、人は壁を通り抜けることも、時間を越えて過去や未来へ行くことも、本人同然のレプリカを造ることも出来ると。──我は一度足りとてその例を見たことがないが》
ルークは手に触れたままの光をじっと見下ろした。ジェイドがフォミクリー研究から手を引いた後もディストが密かに研究を続けたのは、死んでしまった大切な人を完全に復活させるため──いわば本人を黄泉から呼び戻すためなのだそうだ。そんなことは出来っこ無いと普通は諦めてしまいそうなものだが、なまじ彼は優秀であったがために理論上はそれが可能だと知っていた。だからどんなに低い確率でも追い求めずにはいられなかったのだろう。
《例えお前が手足を失おうと、あるいは首を失おうと、それがお前であることには変わりない。同様に、手足の元素を繋ぐ音素を失っても、音素振動数は変わらない。アッシュもお前もすでに夥しい音素を乖離させているが、それでも音素振動数は変わらないのだ。音素振動数を変えるということは、全く別のものになるということ。今は存在せぬ新しき人格を造り出すということだ。──それはもうお前ではない》
全く同じ人間をもう一人造り出すより、ほんのちょっぴり音素振動数を変えることは簡単そうに思えたけれども、「人は不思議なことを考える」とローレライが言うからには、きっと壁を通り抜けるのと同じくらい不可能なことなのだろう。
「……ん」ルークは涙をこらえるように天を仰ぎ、固く目を閉じた。「あんまりショックじゃない。おれ、どっかでわかってた気がする。ジェイドたちは一生懸命考えてくれたし、アッシュだって昔酷い目にあったってのに頑張ってくれてる。なのにおれ、どっか人ごとっていうか、うまく行かないのを前提に後のこと色々考えちまってたから」
《ルーク……》
いいんだ、とルークは首を振った。
七年前、ローレライが手出しをしなくとも、きっとアッシュのレプリカは誕生しただろう。だがそれはルークではない。完全同位体ではなく、超振動も使えず、みすみすアクゼリュスでアッシュを死なせたかも知れないのだ。
だが、ああ……。
おれがアッシュの再構成をやれたら良かったのに。そうしたらアッシュがこれ以上傷付かずに済んだのに──。
《……何か望みはあるか、ルーク。解放の礼をしたいのだが》
「礼? いらねーよ、そんなもん」ルークは一瞬きょとんとしたあと苦笑して首を振った。「礼を言うのはこっちのほうなんだ。おれが言うのも変かもしれねえけど、長い間ありがとう、ローレライ。ヴァン師匠が言うように、預言のせいで身を持ち崩した人もいたんだろうけど、それはあんたのせいじゃねえもんな。少なくともおれは、あんたのおかげで生まれて来て、幸せだったんだ」
光が、気後れしたように少し弱くなった。そのままどんどん儚くなっていって、ルークの指先で小さな光が明滅した後消えた。長く彼を束縛していたものから解放され、きっと行きたい所へ行ってしまったのだろう。
別れの挨拶もねえのかよ、とルークは苦笑した。
ローレライは人ではなく、音素の集合体だ。精霊や神のように高次の存在なのだと思って来たが、人であるユリアに接触して契約を交わしたり、鍵を授けたりと、他の音素の集合体に比べると随分社交的……というか人間臭く、感情豊かに思える。そのせいか、自分が完全同位体として誕生させ、またそのせいで存在が抹消されてしまうルークの前にいることが居たたまれず、そそくさと逃げたようにも思えたのだ。
沈んだ太陽のあとに月が昇り、さえずる小鳥の種類が変わっても、ルークは泉の傍にぼんやりと座っていた。
おれという人間は、意外に肝が座っていたらしいと、頭の片隅で思う。
生きている、とは到底思えなかった軟禁時代。
ひょんな事故でアッシュの身代わりとしてヴァンに、そして国家に死を望まれていたと知った。
完全同位体である被験者とレプリカは、一緒に生きられないのだと聞いて──。
(ああ、そっか。おれは……)
肝が座っていたのではなく、ただ、現実感のない世界で生きていたのだと気付いた。触れたいと思うだけアッシュに触れて、触れて欲しいと口にすることができ、欲しい時に欲しいだけ与えられた、この短い期間、見たい夢だけを見ているようなものだったのかも知れない。
鳥が一斉に飛び立つ羽音や、慌ただしく逃げ出す益体も無い魔物の気配に、強い気を放ちながら向かって来る人の存在を感じ、ゆるゆると振り向くと、どこか機嫌を損ねたようなアッシュが汗まみれで立っていた。
「──ここに来るなら来ると、メモくらい残していけ!」
「あーごめん。思いつきだったし、すぐに宿に戻るつもりだったんだ。けど、すぐにわかったんだろ」
てへっと笑ってみせると、
「わかるはわかるが、そういう気遣いのなさにムカついてんだ!」
「ごめん、ごめん」
怒鳴られて慌てて駆け寄り、ぎゅっとしがみつくと、怒れるアッシュは一瞬だけ振り払おうと言う気配を見せたが、甘えるルークには怒りの持続も難しいようで、大きなため息を付いてルークの背に腕を回してくれる。ぺろっと舌を出したのがなぜわかったのか、一度ぺちりと背を叩かれた。
「……部屋にいると思っていたものがいねえとドキッとすんだよ。回線で連絡だって出来ただろ」
「あー、うん。ちょっと思ったけど、訓練の内容が内容だし、やばいことになったらまずいかなって」
アッシュはルークの後頭部に指を沈め、柔らかな髪を絡めながら再度深いため息をついた。「で、何を思いついてここに来た」
「お前、宝珠持ち歩いてなかっただろ。荷物整理してて見つけてさ、暇だったし、今のうちにローレライ解放してやろうって」
途端に、鼓膜が震えるほどの怒号が耳を打った。
解放したあとのことをほとんど端折ったルークの話を聞いた後、アッシュは「一人でやるなと言っておいたのに」と難しい顔で一言だけ小言を言ったが、結局は何事も無く終わったことをくどくど叱りはしなかった。
「レプリカでなければならず、俺の完全同位体でなければならなかったってことは、解放すんのに超振動が必要だってことだろ。大きな力を使えば身体に負担がかかるってヴァンのことで怒ってたのはお前だろうが。今後は俺の気持ちも少しは考えてくれ」
「う、うん。ほんとにごめん」
「わかればいい。……ま、どの道タイミング的にはこの辺りでやるしかなかったことだ。肩の荷は下りた」
ん? とアッシュを見つめると、アッシュは少しだけ瞳の色を深くして無言でルークを見つめ、頷いた。「明後日、実行することになった」
「……」
「だが、データを取るためだ。今日、同じ個体の分解と再構成を試みたが、何度やっても結果が同じだった。再構成は出来るが……それだけだ。多分、一回で音素振動数は変えられねえだろう。ただ、それを計測して改善を加えられる所があるならそうしたいからな」
「うん。……明後日なら、明日はのんびり出来んのかな」
「ああ。──万が一のことを考えて、ゆっくり別れを惜しめってことかもな」
「再構成出来てんだから、ちゃんと休んで万全の体勢で挑めってことじゃね?」どきりとしたものの、綺麗にそれを隠してルークはアッシュの腕に抱きついた。「今晩はここに泊まる? 食うもんあったっけ?」
「少し買って来たし、保存出来るものも色々あったろ。適当に見繕って、今日は俺が作ってやるよ」
「じゃあおれはぱぱっと掃除するな!」
しばらくここには帰っていなかったから、少しばかり埃っぽいかも知れないと言いながら、ルークは階段下の物置から掃除用具を取り出した。おう、とアッシュが背を向けたままひらひらと手を振り、台所へ消えて行く。
地下の食料庫を漁っている物音を聞きながら、ルークは暖炉の上の肖像を見つめた。幸せな一家の写真は、ルークの心を和ませると同時に、微かな嫉妬心を起させる。アッシュとルーク、二人しかいないこの小屋は静かで、この家族が狩りを楽しんだ当時のような賑やかさはない。
自分がいなくなったら、アッシュはここをどうするだろう。元よりアッシュに遺すつもりでいるけれど、なんとなくアッシュは二度と近寄らないような気がする。
ため息を付いて振り返り、ルークはぎょっとして思わず後退した。背中に暖炉がぶつかり、鈍い痛みが走る。
未だ地下室から何かの置き場を変えたり、埃をはらったりする音が聞こえてくるのに、この場にいるのが自分だけではなかったのだ。
明々と燃える暖炉の前に敷かれた毛足の長い敷物の上に、今より確実に十年分は歳を取ったアッシュと、真紅の髪の十歳前後の少年が腹這いに寝そべり、一緒に本を読んだり、音機関をいじったりしている。少年の脇には、白とグレーの混じったモップのように毛足の長い大きな犬が寄り添い、毛に隠れて見えない目で興味深げに二人の様子を見守っていた。
驚いて目を見張るルークの前で、アッシュと少年が顔を見合わせて笑う。アッシュが寝そべったまま音機関を高く持ち上げ、少年がそれを取ろうと腕を伸ばすのを、右へ左へと翻弄してからかっている。とうとう少年が起き上がり、本気で取り返しにかかるのを、アッシュが卑怯にも脇腹をくすぐって阻止する。身をよじって笑っている少年に犬がじゃれかかり、少年は勢いで尻餅をついたあと、自分と同じほどの大きな犬を抱えて床に転がった。声が聞こえるわけではないが、二人が大声で笑いながらじゃれあっているのがはっきりわかった。
「……ローレライ……?」
ルークは呆然と呟いた。
だが先刻解放したばかりの第七音素集合体の名を呼ぶ自分の声に眠りから叩き起こされたような衝撃を受け、はっと見直したそこには、敷物もなければアッシュの姿も子どもの姿もない。
むろん、暖炉の炎も。
「なんだよ、今の……」ルークは動揺したまま周囲を見回した。「あんたの仕業なのか……?」