イオンの待つペテルブルクに帰投したその夜、ネフリーの好意でささやかな祝いの席が設けられた。祝いというより、彼女自身の礼のつもりが大きかったのだろう。身内を失くすことになったティアへの気遣いもあり、本当にささやかなものだったが、それは一つ大きな節目を越えたのだという安堵感を一同に与えた。
ヴァンの遺体は、ホドの一地方で行われていたという火葬にし、遺灰を崩落跡に撒くことになった。ティアの希望としては彼が最も長く暮らしたダアトに葬りたかったのだが、詠師であり、神託の盾騎士団の総長でもありながら、国際指名手配の犯罪者という不名誉を得たヴァンの受け入れを、ダアト側が拒否したのである。導師イオン、今は大詠師となったトリトハイムなど穏健派の一部の意見ではなく、数多い教団員、騎士団員を初め、多くの信者の嫌悪感を慮った結果だ。
グランツ家のあるユリアシティは長く魔界にあり、義実家のある場所ながら外殻から崩落してきたヴァンの心の故郷足り得なかったことをティアもよくわかっており、そのためヴァンの行き場はそこしかなかったのだ。
「遺灰の一部を、タタル渓谷のあの場所に葬ろうと思うの。あそこからなら……ホドがあった場所が見渡せるってガイが教えてくれたから」
普段より数段豪華な夕食を終え、ルークはティアに誘われてぶらぶらと夜のケテルブルクを歩いていた。時刻は午後九時を大きく回っていたが、グランコクマに次ぐマルクト第二の大都会であるケテルブルクの通りは明るい。
自分たちの住んでいる場所は本来の地面から大きく上空に浮いているなどという『与太話』を馬鹿にしていたり、あるいは半信半疑だった人々も、何時間も揺れていた大地に恐ろしい思いをさせられたばかり、自棄を起こしたようにあちこちでばか騒ぎを繰り広げているのだ。いくらゆっくりと降下させたと言っても、人が体感出来ないスピードではなかったし、敏感な者は気分を悪くすることすらあったようだ。その上、大地が固まりつつある魔界に完全に降りた時には、それなりの衝撃もあった。恐る恐る見上げた空に浮かぶ雲も譜石帯も、見慣れた距離より遥かに遠く、人々はようやく、自分たちがいつ割れるとも知れない薄氷の上で危うい生活をしていたことに気付いたのだった。
「……タタル渓谷、か」ルークは感慨深く思い出しながら頷いた。「おれたちの始まりの場所でもあるよな。うん、おれもそれがいいと思うぜ」
ヴァンの始まりとは、いつの、どの出来事を指すのだろう。
第七音素に対して人より高い素養があったために、疑似ではあるがアッシュのように超振動の実験に使われ、フォミクリー実験の被験者として使われ、おそらくアッシュ同様、激しく拒絶したにも関わらず、装置に繋がれて強制的に疑似超振動を起させられ──ルークと同じように多くの生命を飲み込んでホドを落とした。
アッシュとルークは二人だったから、その苦痛も半分ずつ受け持つことが出来た。だから互いに、憎しみと恨みに飲み込まれずに済んだのかも知れない。もしもルークがいなければ、アクゼリュスもアッシュが落とすことになったはず。おそらくは、命も。よしんば運良く命長らえたとしても、アッシュはそのことに一人で耐え切れただろうか。
『ヴァン』とは、誰とも憎しみや苦痛を分かち合うことが出来ず、たった一人で立ち向かわなくてはならなかったアッシュの姿だった。
アッシュが、母やナタリアなど温かい思い出の残るバチカルの屋敷を『居場所』と恋い慕ったように、ヴァンの想い定めた『居場所』もホドでしかなかったのだろうか。ヴァンが十年以上を過ごし、彼を慕う多くの者たちの住まうダアトも、ヴァンが幼い頃の優しい記憶には勝てなかったのだろうか。彼を真に暖めるものは、本当にホドにしかなかったのか。
ルークは、ヴァンの理想、ヴァンの戦いが、喪われた故郷のための、ただの復讐ではなかったと思いたかった。ヴァンなりに、この美しい世界を守ろうとしたのだと思いたい。
──例え彼が作ろうとした新しい世界に、ヴァンを慕う多くの者、深く愛する家族が、誰一人含まれていなかったのだとしても……。
行き先のあても無く、ただなんとなく歩いて高級住宅地の高台にある広場へ出ると、二人は入り口で立ちすくんだ。先客の姿があったのだ。
街を見下ろせる展望台の手すりに、アニスとイオンが並んでもたれ、街を煌々と照らす灯りを見つめていた。
「綺麗ですね」
「そうですねー。この街はグランコクマと同じで、眠りの遅い街なんですけど、今日はちょっと特別に遅いみたい」
街の喧噪も、ここまでは伝わらない。雪が上がったすぐ後の、しんとした静けさの中で、他に聞こえる音は時折木の枝から雪が滑り落ちる音くらいだ。二人の会話は澄んだ空気に良く通った。
「なんで止めたのかって聞きに来られたんでしょ、イオン様」
「……アニス」
「もう! ちゃんとお部屋に送ったじゃないですか。お休みになったと思ってたのに。護衛も無く、一人でふらふら歩いちゃ駄目ですよ。──って、護衛はあたしかぁ」
「すみません、アニス。でも、僕……」
「あたしにも、わかんないんです」アニスが両腕で手すりを掴み、その手に頬をすり寄せて言い淀んだイオンの言葉を引き取った。「──ただ。あいつのイオン様がもういないんだって知っちゃったら、あいつ、絶望して死んじゃうかも、って思って。……そんな気がして」
「……そう……だったんですか……」
「ま、あいつしつこいしずうずうしい奴だからわかんないですけどぉ。──でも結局、死んじゃったし……っ」
「アニス……」
行こうか、とティアを促し、ルークは踵を返して歩き出した。
「……アニス、アリエッタとは仲が良くないって思ってたけど……」
「おれはすごく意識し合ってるんだなって思ってたけど」ルークは、二人のいがみ合いに近いやりとりを思い出しながら首を傾げた。「……本当に仲が良くなかったら──嫌いだったらさ、多分、声を聞くのも、目を合わすのも嫌なんじゃないかな。……ほら、アッシュがさ。そんな感じだったじゃん、おれに」
「……ルーク」
咎めるような、それでいてどこか切なそうなティアの声に、ルークはあれこれと考えて沈みかけていた思考を慌てて振り払った。「い、いや! 前は、ってことだぜ! 今は違うし、事実を事実として言っただけで、別に卑屈になってるわけじゃ!」
あっけにとられたように見つめてくるティアから、ルークはバツが悪そうに顔を背けた。そんなこと力説しなくたって、ティアはわかっているはずだ。ルークだって、今のアッシュの気持ちはちゃんとわかっている。
だけど、あの頃のことを思い出すと、やっぱり少し寂しくなってしまうのだ。今、アッシュと話したり、笑い合い、触れ合ったり──二人きりでいるときに、特別優しく時間が流れるように感じられるのは、ルークの人生でただ一度しか起こらない奇跡みたいなものだった。
「……もしもアリエッタが生きていたら、いつか仲良くなることもあったのかしら」
「それはどうだろ。……アニスを含めて、俺たちはライガクイーンの仇でもあるだろ。けど、アニスに何かあったら、やっぱりアリエッタは寂しく思ったんじゃないかな」
「あなたたち二人がいつの間にか恋人同士になっていたのより、あの二人が仲良くなる方が、確率としては高いような気もするんだけど」ティアはからかうでもなくそう言ったあと、そう言えば、と仲間たちが休んでいるはずのホテルの方へと視線を向けた。「……アブソープゲートで、私とアッシュが別行動になったでしょう?」
「道が崩れた時だよな」
「ええ。あの時アッシュが、兄さんに会ったらもう一度だけ説得してみろって言ってくれたの。あのアッシュがよ? 私、本当に驚かされたわ」
「……アッシュが?」
「そう、アッシュが」ティアはおかしそうに笑った。「私は兄さんの妹だから、兄さんがもう、どんな説得にも耳を貸さないって分かってた。でも嬉しかったのよ。アッシュが兄さんを憎んでいたってそれは当然だし、兄さんは今や世界の厄介者。でもアッシュは、愛する人のことを簡単に諦めるなって」
「アッシュが?!」
「アッシュが」
目を剥いて驚くルークに、ティアも同じように目を剥いて驚くふりをし、ヴァンを倒してからようやく、心からの笑みを見せた。
「……とても感謝しているの。兄さんがこれ以上の罪を重ねる前に止めてくれて。……私に、兄さんを取り返してくれて」
「……アッシュは、ほんとに優しいよな」
嬉しそうにはにかむルークに、ティアは笑い、首を振った。「それは認めるわ。でも、あなたがそうしてくれたのよ」
「えっ?」
「前のままのアッシュなら、きっと私や、あなたや、自分のために、兄さんを救って最後のお別れなんかさせてくれなかった。そもそも、私たちと一緒に来てくれていたのかしら? 私、思ったの。だって、あの時アッシュ以外は、誰一人動けなかった。動けたとしても、アッシュの位置からでなければ兄さんは捕まえられなかった。そのアッシュは、ナタリアがどれだけ説得しても、私たちに同行してくれようとはしなかったわよね。……あなたのために私たちと同行し、あなたを理解して、あなたの望みをできるだけ叶えようとしているんだと思うの。兄さんはあなたに、どう償えばいいのかもわからないことをしたのに、あなたはずっと兄さんを慕ってくれていたでしょう? きっとその気持ちが、アッシュを動かしたんだわ」
「……おれは、何も」ルークは顔を強ばらせて首を振った。「おれは何もしていない。師匠を説得するようティアに言ったのも、魔界へ落ちて行く師匠の手を掴んだのも、みんなアッシュがしたことだ」
「あなたはどれだけまわりの人間に影響を与えているか、自分で分かってないのよ」
「逆だろ。おれがどれだけどうしようもないやつだったのか、みんな知ってるはずだ」
目を伏せたルークの頬に、ひんやりしたティアの手が触れる。「あなたがどういう状況で育てられたか、皆もう知ってる。今、どれだけ頑張っているのかも。その頑張りに、皆が触発されているの。あなたは、とても変わったわ。だから私たちも変わらなきゃって思うのよ。アッシュも、ナタリアも、ガイも、アニスも……私も。大佐や、ディストですら」
「……ティア、でもおれ」
「私も馬鹿なことたくさんやったわ。あなたの家で兄さんを襲撃したり、あなたを誘拐してしまったり。でもあんな形ではあったけど、結果あなたに出会えたことはほんとに良かったと思ってる。馬鹿をやるのも、時には悪くないものね」
ティア、と呼びかけようとした声は、ひんやりとしたティアの唇に吸い込まれた。
今のはなんだろうと呆然とするルークの前で、ティアはルークの前ではほとんど初めてと言っていいくらい子どもっぽい無邪気な笑顔でにかっと笑った。
「じゃあ、また明日ね! おやすみなさい!」
パタパタと走っていくティアの後ろ姿を見つめて、ようやくキスされたのだと気付いた。
「わあ……」
じんわりと嬉しさがこみ上げる。唇にキスなんて、好意が無ければ絶対にしないものだ。ティアが言ってくれたことは、お世辞でもなんでもなかったのだ。
大きく深呼吸して、ルークは天を見上げた。今まで大地があった辺りでは風が出ているのかも知れない。雪が止んだばかりなのに、厚い雲は流れ、美しい星空を垣間見ることが出来る。
「おれ、頑張ったよなあ」
あのまま屋敷でぼんやりと過ごし、アクゼリュスで命を落としたままでいたら、自分と言う存在は一体何をこの世に残せただろう。
償いのために必死で走り続けた。すぐには信頼してもらうことも出来なかったし、きつい言葉も態度もルークを萎縮させ、未熟で怠惰な精神しか持たなかったルークには、それでも立ち上がるために、とてつもない意思が必要だった。
だが、その努力はきちんと報われたようだ。例え消えてしまうことになったとしても、生きた証はアッシュの、ガイの、両親の心に残る。もしかしたらティアの心にも。
アッシュが必ず失敗すると思っているわけではない。むしろ成功して欲しい。自分のためではなく、アッシュのために。
ルークたちを煩わしがっていつも一人で行動していたアッシュだから、どうしても一匹狼のような印象が拭えないが、意外に孤独に怯えているのを、ルークはもう気付いている。
──おれに子どもが生めたら良かったのにな……。
寂しがりやのアッシュのためにも、遺していきたかった。ルークには無理だと言われたものを、抱きしめてみたかった。
彼を一人残して逝くのは……怖い。
部屋の扉をノックすると、アッシュが顔を覗かせ、片眉を上げた。
「……遅かったな」
「ただいまー。ちょっとティアと話してたんだ」
「冷えてんじゃねえか」
暖炉の炎が明々と燃える暖かい部屋に引き込まれ、熱いほどの胸に抱き込まれる。ほっと息を吐いてアッシュの身体に腕を回し、しばらくぐずぐずと甘えていたが、促されて熱い湯を浴び、アッシュと同じベッドに潜り込んだ。ツインルームのベッドは一人用だけれど、こんなふうにぴったり抱き合っていれば狭さをあまり感じない。
「アッシュ、ティアが師匠をもう一度説得するように言ってくれたのが嬉しかったって言ってたぜ」
「……そうか。余計な口出ししちまったと思ってたが」
「そんなわけないだろ。……おれからも、ありがとな」
肩口に頭を乗せて居心地の良い体勢を見つけながらルークが言うと、アッシュは少しばかり訝しげな顔をしたものの片腕でルークの頭を抱え込んでそのさらさらした髪に口づけた。
「ヴァンの妹は、すぐに治療するのか?」
「ん、明日な。……薬で抑えてるけど、実際はもう内臓がかなり良くないって、ジェイドが言うんだ。何でも無いふりしてるけど、本当は相当苦しいと思う」
「……そうか」
色々聞きたいこと、言いたいことはあるだろうに、アッシュはただ頷いて背中を撫でた。
「……今日、しねえの?」
「……整えとけ。もし辛いなら、」
「いいよ」後からベッドに潜り込んだのはルークなのに、隣のベッドに移ろうかという気配を見せたアッシュを、ルークは強くしがみついて止めた。別行動の間は一度も触れ合っていないから、ルークにもアッシュに触れたい気持ちはもちろんある。だがただでさえヴァンとの戦いで体力を消耗しているのだ。少しでも復調しなければならず、アッシュが同じように思っていてくれて正直ほっともした。「こうやってくっついてる方が落ち着くから。一緒に寝よ」
「……そこは喜んでいいのかどうかわからねえな」
口ではそう言ったものの、やはりアッシュも疲れていたらしく、声にはもう半分眠りの帳が降りている。いつもはがちがちに勃起してルークの身体の中で暴れているものも、今は穏やかに弛緩して、いち早く眠りについているようだ。
ふふ、と笑って目を閉じた。
「あくまでルークさんの場合なんですが、目が合ってしまうと駄目なようで、被検体が起きていると失敗してしまう確率が上がるんです。なのでティアさんには眠ってもらっています」
診察用の椅子のようなものに座り、頭部と腕、手の甲などにあれこれとコードを付けられているルークを見て顔色の悪くなったアッシュに、シュウが細かく丁寧に説明をしていく。
シュウもまた、アッシュに強制された過去の実験を音譜盤で見た者の一人だ。
「頭部に付けたコードでは、ティアさんから汚染された音素を取り除いた『総譜』を導きます。一説によると生物の構成音素は音楽のように聴こえるとも言いますが、人の耳に聞き取れるものではないようです。ですがルークさんの無意識に影響を与え、自然に正しく再構築しやすいように導くんです。腕や手に付けたものは……超振動を起す時ルークさんは一度手に力を集束させるようなので、それを少しでも理想の大きさにコントロールしやすくなるようにとネイス博士が作ったんです。大きな力の前では無力かも知れませんが……」
「……いや。気を使わせてすまない、ありがとう。非道な真似をするようなあなたがたではないことは、俺もわかっている」
「心も身体も、そう簡単に思考には倣わないものですよ、アッシュさん」
かもしれない。最初から丁寧に導かれたルークは、さすがに元気一杯という顔色ではないもののよく落ち着いている。緊張してもいるが、萎縮するほどではないようだ。
「人には聞き取れないって言うけど、集中して、超振動が起こり始めたらさ。なんかこう……何か音楽っぽいものが聴こえるような……聞き取れてるような気がするんだ。気のせいだって言われたらそうかも? って思っちまうくらい微妙な音なんだけどさ。再構成するときには──なんて言ったらいいのか……うまく言えねえけど。その音を……耳を凝らして集中して追っかけてると、案外すうっと再構成出来てる気がする。──ただ、」
「ただ?」
「動物はさー、ここが前と違うって自己申告出来ねえじゃん。見た目が多少変わってたとしても、多少じゃ区別つかねえし。再構成したあとの精密検査できっちり再構成出来てますよって言われても、本当に前のままなのかどうかはわかんねえよな」
「……そう、だな」
「ちょっと背が高くなるくらいの誤差なら大歓迎なんだけどなあ。お前もさ、おれの性格がちょっと悪くなったとか……ちょっと、不細工になったとか。そんなんでおれのこと嫌いになったりしないでくれよな」
阿呆、なるかと吹き出して、やはりそれなりにルークも緊張していたのだということに気付く。吹き出したアッシュにつられたように笑うルークを見て、 初めて朝起きてからルークが一度も笑っていないことに気付いたのだった。
きっとうまくいく、などと、簡単には言えない。その代わりアッシュはこめかみから指を入れ、何度か髪を梳くように頭を撫でた。うなじに手を滑らせ、額に小さな音を立てて口づけし、こつんと額を合わせて鼻を擦り合わせる。ルークが立てる、くすぐったそうな、それでいて幸せそうな笑い声を聞くと、アッシュの口元も綻んだ。その鼻の天辺にも唇を落とし、唇をついばんで、もう一度額を合わせると、濡れたようにきらきらと輝く翡翠の瞳がアッシュを見つめ返した。
「……あのメロンだけは失敗しないようそのまま再構成してくれ。もったいねえから」
「メロン……?? わかった。頑張る」
ルークは意外に真剣な顔で神託の盾式の敬礼をし、次の瞬間破顔してアッシュを押しやった。
それからのことは、時間にするとほんの数分のことだったのだろう。
だが、ただ見ているしかない身にとっては、その何倍も経ったように思えた。
出来るだけ施術の邪魔にならないよう、全裸で台の上に寝かされたティアから覆いが剥がされてから数秒後、その身体がふわっと音素の塊に変わった。脂汗と吐き気に口元を押さえ、前屈みになったアッシュの背中に、気遣うようなシュウの手が触れる。ピアノを弾くような手さばきでいくつもの譜業を操るディストとスピノザ、ルークと今や音素の塊になったティアの様子を見ながら、何かの音機関を微調整しているらしいジェイド。
ふわふわと拡散しかけていた音素が、突然分解の様子を逆回しして見るかのように集束し始めた。
そして、そこには何事もなかったように、ティアの姿があった。
まつろわずに拡散していく音素は、おそらくティアの音素に吸着していた汚染された音素なのだろう。シュウが手早くティアにコードを取り付けていき、元のように首まで覆いをかける。ルークは流れるほどの汗にまみれ、息を荒くして、血走った目でティアを見つめていた。
「ティ、ティアは?」
絞り出すような声が聞こえ、アッシュが研究者たちの方を見やると、次々に譜業から吐き出されるデータを四人で確認している。四人の背中が急に緩んだと思った瞬間、スピノザ、シュウが雄叫びをあげ、ディストが快哉を叫んだ。
「データ上は完璧ですよ、ルーク。汚染された音素は混じっていないし、音素振動数も変わっていません。よくやりましたね」
ジェイドに肩を叩かれて、ルークがようやく身体から力を抜いて背もたれに寄りかかった。
ほとんど自失しているアッシュの目の前でそんな光景が流れていき、ふと気付いた時には、ルークとティアが互いにわんわん泣きながら抱き合っていた。
うまく行ったのか、とアッシュの身体からもようやく強ばりが引いて行った。横合いから柔らかそうなタオルが差し出され、見上げるとディストがアッシュから顔を逸らしたままそれを突き出していた。
「あなたの方がよほど死にそうな顔をしていましたよ」
「……そうかもな」
ルークほどではないにしろ、見ていただけのアッシュも結構冷や汗をかいたようだ。アッシュはそれを拭いながら、思わず滲んだ涙も一緒に拭い取った。
一度音素に変わったティアが逆回しのように元の姿に戻る光景は、幼いアッシュが醜く、残酷な光景として記憶しているものよりあっけなく、それでいて美しかった。
ルークの幼い精神では、今自分が裸の女を抱いていることなど何の意識にも上っていないだろう。ルークを愛していてもティアほど胸が大きく美しい裸となると男としてクルものがないでもない。ルークはどうかと思うと少しばかり複雑な気分にはなるが、こういう時に割って入るのも無粋と言うものだ。
見なかったことにしよう、と寛大な気持ちで主にティアから目を逸らしてやりながら、俺には出来ないと決めつけていた気持ちが霧散していることに気付いた。
気持ちが傍にある時も無かった時も、レプリカ・ルークはずっとアッシュの半身だった。元は一つだったものが二つに分たれ、だが深い所では一つに繋がったまま、決して切り離せないはずの二人だった。
だが、レプリカ・ルークはもう被験者から切り離す。
被験者・ルークとレプリカ・ルークは共に分解され、ただのアッシュとルークとして、再構成されなければならない。
その時期が来たのだ。