ゲートの入り口で二つに分かれたパーティは、言葉もないままにつかの間見つめ合った。
ギンジとノエルの兄妹は戦闘員ではない。万が一を恐れてネフリーの元に留まったイオン同様、中に入らず表に残るのだ。
「皆さんどうかお気をつけて。私、ここでご無事を祈ってますから!」
「おいらたちはここでこいつの点検や整備をやってます」
ノエルはいつでも決して不安そうな顔を見せない。戦えない者を残して行く一行の気を軽くするためかもしれないが、なにかあったとしても意外になんとかしてしまうかも、そんなふうに思わせる明るさとしたたかさを併せ持っている。
今回はそこへ何事にも動じることがなさそうな兄のギンジが加わるのだから、いつも以上に安心して出発出来るはずだが、内部にはおそらくヴァンがいることを思えば、互いに、すぐには別れがたいものがあった。
両者はしばらく無言のまま向き合っていたが、真っ先にアッシュが、続いてディスト、ジェイドと次々に背を向け、内部へ入って行く。
「行ってくるな!」
ルークがにこやかに手を振ると、ノエルもぱっと笑顔になって、ぶんぶんと大きく手を振った。
いつもと大して変わりのない、一時の別れだ。互いに自分に出来る仕事をして、また合流して、一緒に食事をしながらその日の報告をし合う。
全員が己自身にそう言い聞かせていたのだとしても、少なくとも表面上はいつもと変わりなく手を振り合ったのだった。
「プラネットストームが吸い込まれてる……。キラキラ光ってるのは……」
「記憶粒子だな。雪が降ってるみたいで綺麗だ……」
おそらく一行の中で最もロマンティストであるガイがそう呟けば、ナタリアやティアもどこか陶然とその光景を見やった。
「レプリカ。口開けて見てると入ってくるぞ」
「……!?」
ルークも同様に魅入っていたのだが、アッシュの指摘に慌てて口を両手で押さえた。口を開けていたつもりはないのだが、万が一飲み込んでいたらどういう害があるのだろうと一人狼狽えていると、噛み殺しかねた、というようにティアが喉の奥で笑いを漏らした。
それでからかわれたことに気付き、ふてくされたような気持ちになってアッシュを睨みつけると、案外真面目な顔をしたアッシュの顔が振り返った。
「……アッシュ?」
目が合った瞬間、アッシュの眉が少しだけ下がり、どこか懐かしそうな、優しい顔になる。からかわれたと思って確かにむっとしたはずなのに、そんな気持ちはすぐに霧散して、代わりにふわふわと顔に血が上っていった。
「……なんでそんな顔すんの……?」
「雪」
「え?」
ガイが雪が降っているようだと評した記憶粒子の光を、アッシュは眩しそうに見つめた。「スピノザを追ってケテルブルクに入るとき、口を開けて空を見たもんだから、お前雪が入ってひゃってなってただろう」
「み、見てたのか」
雪を食ベたらお腹を壊すぞと幼いころからガイやナタリアに言われてきたので、焦ってルークは舌を拭ったのだ。最もそれは、子どものルークが珍しくバチカルに降った雪を丸めて食べようとしたのに端を発している。雪は大して積もらず、ルークが作って口に入れようとした雪玉には土が沢山付いていたのだ。
さすがに今ではルークも、少しばかりの雪が口に入ったところで腹を壊すことなどないのはわかっているが、子どものころにそう脅された記憶はそうそう忘れられるものではないのだった。
「……どーせガキだとか思ったんだろ」
そう毒づいてみたけれど「どうだろうな」と答えたアッシュの顔はやはり思ったのとは違う表情を浮かべていて、ルークはさりげなくガイの影に隠れて、どうしようもなく赤くなっているであろう顔をアッシュから隠した。
「あら……また地震ですわ」会話を聞いてくすくす笑っていたナタリアがふと足を止めた。
「少しずつ頻繁になっていますねえ」
どういう造りになっているのか、支える柱もない空中の通路から深部を見透かすように見下ろしてジェイドが呟いたとたん、これまでにない規模の地震が起こった。
「きゃっ!」
「ルークッ!」
バランスを崩したティアの腕をアッシュが掴むのを見、ほっと息を吐いたとたんルークの足下が崩れた。ガイの手がルークの背を掴むが、そのガイの足下までが同時に崩れる。
「しま──っ」
「下に足場が……うまく……地……!」
ガイの声に、アッシュの怒鳴り声が重なり、徐々に小さくなった。
「──っ、てて……っ……受け身、ちょっと失敗しちまった……」
「おれも。でもツイてたな、ちょっとずれてたら……」
少しばかり下を覗き込むと、打ち身の痛みからではなく身体が震えた。道を外せばどこまで落ちて行くかわからない場所なのに、かろうじて足の付く場所に落ちたのはもう奇跡としか言えない。
「ルーク、怪我はないか?」
「ん、お前は?」
「俺もない。奇跡だよな」ガイが苦笑し、上部をあおいだ。「おーい! 無事か!?」
「……、……!!」
上部からアッシュらしき声が何か応えたが、何を言っているのかまでは聞き取れなかった。
「アッシュは落ちなかったと思うんだが……」
「うん、多分ティアもだ。ディストがナタリアを掴むのは見えたけど、足下が崩れてるのが見えた気がする。一瞬だったから、落ちたかどうかはわかんねえな……。あとの二人は……」
落ちる寸前で見たものを告げ、なんとなくガイと顔を見合わせて、同時に苦笑する。アニスとジェイドの心配など、するだけ無駄なようにも思えたのだ。
《アッシュ、おれ。なんとかちゃんと着地出来た》
回線で話しかけると、返事が返るまえにアッシュの感じた安堵が伝わって来た。
《まあ、無事でいるのはわかっていたんだが……。こっちも問題無い。ヴァンの妹とブタザルも一緒だ。ガイも一緒にいるな? 問題は》
《ないよ。怪我もない。ちょっと打ち身があるけど、グミ、食っとくから》
《そうか。ディストとナタリアはほんのちょっと落ちただけだ。声は届く位置だったが、足場もねえし引き上げられなくてな。ディストが、おそらくどこを通っても合流出来るだろうと言っている。すぐにナタリアと一緒に最深部へ向かった。あとの二人は見てないが……まあ……》
《まあ、一番心配のいらねえコンビだよな》
落下を免れたアッシュは、どうやら一番事態を把握しているようだ。すぐに下道の存在を指摘したのも、曲がりなりにもダアトでは師団長と言う立場にあり、状況判断も早く指示を出すのに慣れていたからだろう。
歩いて行くと、時折何かの仕掛けが作動したような痕があった。別のルートを通った誰かが仕掛けを解いてくれているのかもしれない。いろいろと面倒な道に当たってしまった不運な仲間には申し訳なかったが、ルークとガイは特に問題もなく、たまにぶつかるゲートの『番人』の成れの果てのようなものを倒しながらひたすら道なりに歩き続けた。
道連れは、ルークのこれまでの人生において最も長くを一緒に過ごして来たガイだ。最も気安く、ルークにとっては友であり兄──本人は親代わりと言ってからかうが──のようなものだ。屋敷にいた頃のように、てれてれと雑談しながら歩いていると、この先にヴァンと言う脅威が待っているということに、あまり現実味を感じない。
「……ガイ、あのさあ」
「ん?」
「なんかさ、もう大爆発、始まってるみたいなんだ」
「……ああ。らしいな」
「あれ? もしかしてアッシュに聞いたのか?」
「俺だけな。隠すつもりだったらしいが。……お前たちの隠し事なんか、俺に通用するはずないだろ」
「だよなあ」ルークはそれを指摘された時のアッシュの反応を想像して苦笑した。
「おれがアッシュを分解したら、音素がそのままおれのところに来ちまって、そのまま大爆発終了! ──もうアッシュがやるしかないんだよな」
「そう……なるか」
ガイが渋い顔をしたのは、ルークと同じように、ベルケンドで回避の方法を聞いた時のアッシュの反応を思い出すからだろう。酷い心的外傷をアッシュが負っているのは、誰の目にも明らかだった。
「……アッシュはさ。うまくいきっこねえって思い込んじまってんだ。けど、怖がることない、きっとうまく行くなんて慰め、絶対言えないよな。おれはまだ、人を分解したことなんかねえし、だから失敗したことねえし……失敗したときどうなるか、なんて知らねえしさ」
ガイの足が止まり、正面からルークの顔を見下ろした。ぐっと眉を寄せているが、ルークに同意も、否定もしない。
「アッシュに渡して欲しいものがあるんだ。悪いんだけど、ガイにしか頼めなくてさ」
「自分で渡せと言いたいところだが。俺が一度でもお前の頼みを断ったことがあるか?」
ガイはすぐに頷き、少しだけ目を細めて笑った。笑っているのに、泣き出しそうだとルークは思い、頼み事の内容を聞きさえせずに了承してくれたガイが、ここに至るまでにさまざまなことを考え、すでに整理してくれたのだと悟る。
「……もう、おれが何を頼むかわかってんだ」
「こう言っちゃなんだが、俺はアッシュよりお前のことをわかってる」
ルークは一歩を踏み出して、目の前の幼なじみに抱きついた。一拍を開けて、ガイがルークをかき抱く。「本当に馬鹿だお前は……!」
「……うん。ここを出たら、もう泣かねえから、さ。ちょっとだけ……」
ガイの肩に涙の染みを作りながらくぐもった泣き声を上げると、髪が暖かく濡れて行く感触がして胸が詰まる。
「……ああ。今だけ、な」
ガイの声はこれまで聞いたことがないほど湿り、掠れていた。それを聞くと、押さえていた涙がどっと溢れ出す。
とうとうしゃくりあげてしまったルークを、父母とも、アッシュとも違う温かい想いが、ぎゅっとくるみ込んだ。
数時間後には全員が大過なく合流し、さらに深部へ進む。
ティアの目が少しばかり赤いのが気にはなったが、問いかけの視線をアッシュに送っても困ったような笑みが返ってくるばかりで、合流まで何があったのか、また何を話したのかルークに語る気はないようだ。ティアの表情は鬱屈していたものを払ったようにすっきりと晴れ渡っているので、みんなそのことに関しては気付かないフリをすることに決めたようだった。
一歩歩くごとに、最奥から聞こえるオルガンの音が大きくなっていく。「気障な野郎だ」と吐き捨てるようなアッシュの呟きと、誰かの洩らした失笑だけを最後に、全員無言になって最後の部屋に入った。
まるで巨大なガラス張りのドームのような部屋だった。
実際にガラスが張ってあるわけではないが、一定のところで記憶粒子が入って来ないようになっている。窓の外で雪が降っているような美しい光景だったが、感嘆の声を上げる者はいない。ヴァンの弾く曲は、どこか不吉さと悲しみを帯びていて、薄紫の空に降る雪に不安を掻き立てられたからかも知れない。
ルークたちが到着したことに気付いたはずだが、ヴァンは曲を最後まで弾くつもりのようだった。それが余裕なのか、あるいは彼なりのけじめのようなものなのかはルークにはわからない。
そんなことを考えながら、曲の美しさに耳を傾けていられる自分が、ルークには少し不思議に思える。ほんの少し前ならば、ルークはこちらを向いて自分を見て欲しいと切望しただろうに。
「……またぞろぞろと連れて来たものだな、アッシュ」最後の一音が溶けたあと、ヴァンが呆れたように言った。「──いや、ルーク・被験者と呼ぼうか。お前はずっと『ルーク』に戻りたがっていたからな」
「子どものころはそうだったかもな」
アッシュの返答はそう呼ばれたことに対して何の思いもないといった無造作なもので、返って人を食った返答にも聞こえ、ゆっくりと振り向いたヴァンの目が剣呑に細められる。
「出来損ないのレプリカとつるんで、お前まで劣化したか」
「いや、いや。逆だ。そもそもこのレプリカが鈍臭いのは、被験者があまりに不出来なせいだろう」
「そのレプリカに、お前が気にかけるような価値はない。私と来い、『ルーク』。世界に秩序を生み出すには、お前の力が必要だ」
「だとよレプリカ。ヴァンはああ言っているが、もちろん行く気はねえだろうな」
「アッシュ……」
実の親にさえ自分が被験者ルークであることを認めなかったアッシュだ。その態度はここでも徹底されていた。
「愚かなレプリカルーク」あの暗示は今もルークの音素のどこかに刻み込まれてでもいるのか、ルークはヴァンの視線を心の奥底で恐れる気持ちがあることを自覚しながらも、ヴァンにまっすぐ向き直った。
「なぜアッシュが必要なんですか? おれという存在のせいで、預言は狂い始めてるんでしょう?」
「お前ごとき歪み、ユリアの預言はものともせぬ、枝葉が変わろうと、樹の本質は変わらぬものだ」ヴァンはつまらない質問をするなとばかり、手遊びに鍵盤を叩きながら言った。「預言は麻薬と同じだ。『東に向かって歩けば大金を拾うだろう』その通りになれば次の預言も信じたくなる。ユリアは二千年をかけて、人類を預言中毒に仕立てたのだ」
耳が痛くなるような不快な和音が周囲に響き渡った。手を叩き付けた鍵盤にそのまま手を付いて、ヴァンがゆっくりと立ち上がる。
「二千年にも及ぶ預言の支配から人類が解放されるには、劇薬が必要なのだよ」
「レプリカ世界は劇薬でもなんでもない。兄さんは、レプリカだと蔑んでルークを正面からちゃんと見なかった。そのせいで、物事の本質を見誤ってしまったんだわ。この二人をちゃんと見なさい、兄さん。二人は天文学的確率でしか誕生しない完全同位体。ルークはこれまで作られた、そしてこれから兄さんが作ろうとしていたレプリカの中で最も完璧なレプリカよ。アッシュとルーク、この二人が、最も『同じ』二人なの」」決然とした表情で、ティアが一歩を進み出た。「にも関わらず、二人の容姿は大して似ていない。中身ときたら、もうからっきし似ていないわ。完全同位体の二人でこうなんですもの、他のレプリカは、もう全然被験者には似てないんでしょうね」
「……何が言いたい」
「別に。兄さんに話が通じるとはもう思ってない。さっさと私を殺せば。私に似ても似つかないレプリカを──兄さんのことなど愛してもいないレプリカ・ティアを作って、人類を滅ぼせばいいわ」
気丈に言い放ったティアだったが、その声が僅かに震え、つっかえたことにルークは胸を突かれた。存在を否定されたのは、ルークだけではなかったのだ。世界に残るのはお前でなくてもいいと、レプリカでいいと、ティアは実の兄に言われたも同然だ。完全同位体という被験者とレプリカでありながらあまりに違う二人を見て来たティアにとって、それはいわば兄妹の情を丸ごと否定されたようなものだったのかもしれない。
「……残念だ。ユリアシティでおとなしくしていれば、お前だけは助けてやれたものを」
「『助けてやれた』!?」ため息まじりのヴァンの呟きに、ティアがかっとしたように反応する。「その言葉だけで、兄さんの世界を救うためと言う言い分が上っ面のものであることがわかるわ。レプリカだけの世界に、預言を持つオリジナルが一人混じって、預言に人生を振り回されながら何十年も生き続けてもいいの? 私だけじゃない、私がレプリカと恋をしたら? 結婚して子どもを生むかもしれないわよ? その子にはもう預言がないと言えるのかしら? ……預言は兄さんのつまらない計画では消えないものかもしれない。でも、そんなの兄さんにとってはどうでもいいことなんでしょうね。だって兄さんは世界を救いたいなんてほんとは思ってないんだもの」
「……ならば、どうあっても私と戦うと言うのか」
戦争が起こらなければ。
ホドが崩落させられなければ。
きっと仲の良い兄妹だったはずの二人は、どこか似たところのある表情で静かに見つめ合った。ティアがゆっくりと杖の先を兄に向ける。
「──ええ。元々私は、そのために外殻大地へ来たのよ」
ヴァンは大きなため息を付き、忌々しげな視線をルークに向けた。「出来損ないのレプリカが、あちこちで随分と引っ掻き回してくれたようだ」
気遣ってくれたつもりか、アッシュが僅かにルークに身を寄せた。それ以上ルークを傷つけるようなら、自分がその舌鋒の盾になってくれるつもりなのだろう。
かつては自分を愛する者などいないように思っていた。きっとそれは、ルーク自身が周囲の人々に大した関心を払っていなかったからだ。使用人たちは『かつてのルーク』」に重きをおいて、ナタリアは『約束』を思い出すことを望み、父には跡取りを与えられないことで失望されていると信じ込んだ。母はルークに優しく甘かったが、それだって関心の無さの表れのように思っていた。
だから何もかもを引き換えにしても、ヴァンの関心を欲した。大勢いるだろう彼の弟子の誰よりも見所を感じて欲しかったし、存在を重んじて欲しかった。
ルークはアッシュの顔を振り返り、落ち着かせるように笑んで頷いた。それからぐるりとガイ、ティア、その肩に乗ったミュウ、ナタリア、アニス、ジェイド、ディストの顔を見つめ、ヴァンに視線を戻した。
今だって、やはりルークは師であるヴァンが好きだ。好きな人にはやはり自分を好きになって欲しい。認めて欲しい。
だが反面、それがかつてのように焦がれるようなものではなくなったことも自覚していた。
ルークには認めて欲しい、好きになって欲しいと切望した人がもう一人いた。その人はルークを認め、好きになってくれた。愛してくれた。そんな奇跡がすでに起こったのに、それ以上の奇跡はもう望めない。
「ヴァン師匠、おれを造ってくれてありがとう」
万感の想いを込めた一言を絞り出すと、意外だったのか、ヴァンがほんの僅か、目を見開いた。
「あなたがおれを認めてくれなくても、おれは……」
ルークが剣を抜きヴァンに向けると、背後の仲間たちもそれぞれ武器を構え、臨戦態勢に入る。ルークは床を蹴り、ヴァンに向かって駆け出した。
──おれは、おれとして、生きる。