ふ、と目を開けて、自分が雪の中にほとんど生き埋めになっていることに気付いた。ルークが危惧したように、このままでは凍死してしまうところだった……とは思うものの、抱きしめてあやしてくれたあの温かな手から再び引き離されてしまったという現実に直面したくなくて、もう一度目を閉じる。
今戻れば、まだあの二人だけの世界にルークがいるかもしれない……。
「あ──見つけたわ!」
「こっちにもいたぞ! ──ナタリア、ナタリア、大丈夫か?!」
だが、ざくざくと雪を踏みしめる音が聞こえたと思うと、アッシュはいきなり雪の中から乱暴に引きずり出され、仰向けにされ、頬で炸裂した容赦のない張り手で強制的に覚醒させられた。
「……っ、なにすんだてめえ!」
「あ、あら……起きてたの?」
「起きてたのじゃねえよ、恨みの籠った一撃だったぜ?!」
バツが悪そうに顔を赤らめるティアに、飛び起きたアッシュは半ば八つ当たりのように怒鳴ったあと、眠気の残滓が残る頭を振って座り込んだ。
「──助かったのか」
「私たちのいた場所は真下に足場があったの。それでなんとか助かったみたいね」
「ってこたあ、あいつらは……」
視線を動かすと、谷底を覗き込むようにアニスがへたり込んでいるのが目に入る。「……谷底へ、落ちちゃった」
その背中に、ガイがそっと手を添えると、アニスはぐす、と一度だけ鼻をすすった。
「運が良ければ助かってるさ」
「……どの道倒さなきゃいけない敵だったんだもん……」
「また向かって来たら倒せばいいだけのことよ。無事を祈ったっていいじゃない」ティアはさらりとそう言ったあと、それより見て、と全員の注意を引いた。「パッセージリングの入り口があるわ」
「なんとまあ……」
「雪崩に巻き込まれて転落しなかったら、永久に扉を探して彷徨っていたような気がするぜ……」
質感を確かめるようにアッシュが扉をノックすると、ナタリアも大きく頷いた。「ツキがあるとか、そういうレベルの問題ではない気がしてきますわね。なにか大いなる意思が働いてでもいるような……」
「ユリアの預言を狂わせ、解放されたいと願っているのは、ローレライやヴァン、僕たちだけではないのかも知れませんね」すっとイオンがアッシュの横から入って来て、その文様を撫でる。「些細な変更は、預言の強制力に修正される。ですがこの世界そのものが、その力を越えて解放されたいと手を貸してくれているように思いませんか?」
ダアト式封咒を解くために力を溜め始めたイオンに、全員がその意味を考えるように沈黙した。
「はあっ、はあっ……」
「イオン様……」
「大、丈夫。もう、この力は使いませんから……」
「……はい」
内部は風を遮るだけでなく、暖かくすら感じた。ザレッホ火山のパッセージリングの内部がひんやり心地よく感じたのとちょうど逆になる。洞窟と一緒で、内部は一定の温度が保たれているのだろう。
暖かい場所に避難が出来ると、急に寒さが身に沁みた。雪を纏って凍り付いた服は、暖かい場所で急速に緩みつつある。このままにしておいては体力を奪うばかりなので、少し開けたところで着替えがてら休憩を取ることになった。
異性の目を恥ずかしく思ったり、また下心を持って異性の身体を見つめたりするのも余裕があってこその話。全員が思い切りよく全裸になって、ガタガタと震える身体を冷たいタオルで擦るように拭い、乾いた服を身に着けていく。長く埋もれていたアッシュやナタリアよりも、早く正気付き、横殴りの吹雪に身を晒していたガイやティアのほうがダメージが大きく、何度も取り落としているガイの下着をナタリアが拾ってやったり、震えて止められないでいるティアのブラジャーのホックをアッシュが止めてやったりと大混乱を来したあと、全員ぐったりと脱力して床に座り込んだ。
ホテルで用意してもらったサンドイッチはさすがに冷たく固くなってしまっていたが、紅茶を詰めた瓶のほうは保温も出来る優れものだったようで、時間が経っているにも関わらず、まるで淹れ立てのような温度と香気を保っていた。
寒さを凌ぐためにもなにか食べなければならず、サンドイッチの代わりに全員がせっせと自分の荷物を探ってビスケットやチョコレートを探し出す。中には自分の楽しみのために隠し持っていたものもあったのだろう。見つけ出した物を誰かが広げたナプキンの上に披露するたび、歓声やからかいの声が飛ぶ。熱いお茶と甘い菓子には、凍えた体と疲労した心を優しく解す効果があった。
「ああ〜っ沁〜み〜るぅぅ〜」
カップを両手で包み込み、しみじみと呟くアニスに全員が大きく頷いた。
手がかじかみ、骨の髄まで冷えきっていたことに、熱いお茶を手にして初めて気付いたようなありさまだったのだ。
「だけど転落していなかったら、もっと深刻な状態になっていたのかもしれないな。凍傷になったり……」
「扉を探して彷徨ったあげくに遭難、なんてこともあったかもしれませんわね……」
あまりぞっとしない想像に、全員がぶるりと身体を震わせる。
「とにかく、大事にならずに済んで良かった。次のアブソープゲートにはヴァンが待ち構えているからな。一人でも欠けるのは痛え」
「欠けるとしたらあなただったわよアッシュ」ティアがベーッとアッシュに舌を出してみせたあと、全員に自分の受けた理不尽を訴えた。「顔半分以外は全部埋もれて、一番酷いありさまだったのに、なんだか微笑んでたりするんだもの。渡ってはいけない川でも渡ってるのかと焦って起こしたのに、怒鳴られたのよ」
「あーそりゃーティアが悪いわー」
ぐっと詰まったアッシュに、思わぬ所から援護が入った。と、思ったが、
「ニヤニヤしながら気絶なんて、どうせルークの夢でも見てたんでしょ! イイ夢見てたのに、なんで起こしやがった! ……って感じじゃないのぉ?」
夢ではなかったことを除けばその通りであったので、アッシュは一言も返せずぐっと奥歯を噛み締めた。
「ま、いやらしい! どんな夢を見ていらしたのやら」
「天国行きみたいな夢じゃな〜い? きゃははっ」
あれこれと恥ずかしい前科があるせいで、少女たちは皆辛辣だった。
「ちょっと話しただけだっ!」
とんでもない誤解に慌てて弁解すると、驚いたような視線が一斉に突き刺さる。
「──驚きました。ルークの夢をご覧になってたのは本当だったんですね……」
「…………くっ」
笑いを噛み殺しかねたイオンの言葉に、良いように遊ばれていたことに気付いたが、むろんもう遅い。
アッシュはそれからパッセージリングの下に辿り着くまでからかわれ続けたが、唇はむっと引き結んだままで一言も口を聞かなかった。
──またそれが笑いの種になったのだが。
体力温存のため、イオンとアニスはもう少し奥に行った安全なところで戦列を離れた。メジオラ高原、ザレッホ火山に継いでもう三度目になるので、四人だけで戦闘を行うのも慣れたものだ。
最深部に辿り着き、ユリア式封咒を解いて操作盤を展開させたティアにナタリアが薬を飲ませると、後はガイとアッシュの仕事だ。
実際の操作盤とジェイドの指示書を見比べ、間違いがないのを確認してから、ガイが指示を出し、アッシュが書き換えを行って行く。
「──よし、いいぞ、アッシュ。あとはすべてのセフィロトを、アブソープとラジエイト、両ゲートに連結。……そうだ、よし」
「これであとはその二つのゲートのセフィロトを起動すれば、全部のセフィロトが繋がるんですのね?」
「ああ、そう……」そうだと答えかけたとき、突然激しい揺れが起きた。
「どこかで雪崩がっ?!」
「雪崩なんかじゃこんなとこまで振動は来ねえ。ガイ! 眼鏡がどこかしくじったんじゃねえのか?」
「俺も確認したんだぜ、そんなはずは……!」慌ててパッセージリングに駆け寄ったガイが、壮絶なうめき声をあげた。「セ、記憶粒子が逆流してる?!」
「ヴァン! くそっ……! あの時の余裕はこれかっ!」
「何があったの?!」操作盤に拳を打ち付けて歯ぎしりするアッシュに、障気中毒の辛さも忘れたようにティアが声をかける。
「連結したすべてのセフィロトの力を使って、地核を活性化させやがった!」
「兄さんね! でもなぜ? 記憶粒子を逆転させたら、アブソープゲートのセフィロトも逆転するはず。ゲートの辺りも崩落するのに……!」
《アッシュ!》
キィンと甲高く金属を打ち鳴らす音が脳裏に響き、ルークの声が被さった。
《こっちで異変が感知された! アブソープゲートのセフィロトから、記憶粒子が逆流してるって!》
《こっちでも認識してる。眼鏡か》
《うん。ヴァン師匠はアブソープゲートで待ってるって言ったんだよな? 多分、この操作のために向かったんだろうって。あっちこっちのセフィロトの力が、今の書き換えでアブソープゲートに流れてるだろ。余剰分を使って逆流させてるんだろうから、師匠のいるアブソープゲートには問題がない。だけど、それ以外の大陸はこのままじゃ崩落するって!》
「冗談じゃねえぞ、このまま活性化が続けば地核のタルタロスが壊れちまう!」
回線ではなく、その口から唸りが洩れ、会話の内容を察した仲間たちが息を飲んだ。
「そんな、皆があれだけ苦労したんですのに……」
「無駄にしてたまるか、ヴァンを倒しにアブソープへ向かうぞ!」
《ちょっと待ってジェイドが──うん、うん、わかった。アッシュ、何があってもすぐ対処出来るように、ジェイドがシェリダンで合流する。ディストと、もちろんおれも行くから! 今からすぐに発つから、街に戻ったらノエルを寄越してくれ!》
大地が崩落してしまっては、大爆発の研究もなにもない。《わかった。ケテルブルクで待つ》
「急いで出るぞ!」
アッシュがティアに背を向けてしゃがみ込むと、ティアは事態を飲み込んで遠慮なく負ぶさった。
異変を悟ったアニスとイオンはいつでも出立出来る状態で待ち構えており、ほとんど言葉を交わすことなくパーティーに加わる。
雪崩に怯えながらほとんど滑り落ちるようにアルビオールに辿り着いた時には、半分凍り付いたように全員が真っ白になっていた。
「機内温度、もっと上げますね! 皆さんは早く着替えて!」
「うー、また着替えんのぉ……」
「埋まってないですし、気絶もしていないだけさっきよりはマシですけれど。このままだと風邪を引きますわ」
ノエルが乾いたタオルをどさどさと積み上げる横で、雪崩にあったときと同じようにわたわたと着替えていく。生命の危機というほど切羽詰まった状況ではないものの、早くもガイが鼻を啜っている。全員が一息ついて座席に収まると、ノエルがコーヒーを配って回った。
「じゃ、出発しますね。座席の灯りを絞りますから、皆さんは少し眠って下さい」
「ノエル、君にばかり負担をかけてすまない。もしも無理だと判断したら、睡眠をとるなり、きちんと休んで欲しい。数時間を惜しんで君とアルビオールを失うわけにはいかないからね」
ケテルブルクまで数時間の飛行のあと、ノエルは南下してシェリダンへ向かい、休む間もなくケテルブルクへ折り返す。最短距離を往復しても、それには丸一日以上の時間がかかる。今は迅速に行動すべきときだが、急ぐあまりに返って遅れるようなことがあってはならない。
「ありがとうございます。でも大丈夫です! 皆さんを待ってる間私は仮眠取りましたし……私も皆さんのお手伝いが、世界を救うお手伝いがしたいんです!」
「部外者みてえなこと言ってんじゃねえ」
通路に発つノエルの傍の座席に座っていたアッシュが、ぐったりしたまま唸るように叱りつけると、ナタリアも得たりと大きく頷いた。
「大地のことは、ヴァンを止められさえすれば何の問題もなくなる──と言うわけではないと思います。先の長い話かもしれないのですから、身体が第一ですわ。ルークがいたら睡眠はきちんと取れ、旅のペースを乱さずに、と言いますわよ」
「レプリカも、たまにゃマシなことを言うじゃねえか」
「お前との旅で学んだことの一つだとさ。悔しいし腹立たしくもあるが、あいつはお前と一緒に旅をしてすごく成長したよ。頼もしくなった」
視線に面白がるような色を乗せて、ガイが反応を窺うようにアッシュを横目で見た。雪崩で気を失い、目覚めて以降ずっとルークとのことをからかわれているので、さすがに耐性もついている。アッシュはガイを無視し、窓の外を眺めるふりをして顔を逸らしたが、操縦席に駆け出して行くノエルの軽やかな足音に全員の押さえた笑い声が被さった。多分、熱くなった頬の色のことを笑っているんだと思ったが、辛い目に合わせてばかりだったあの短い旅の間に、ルークはちゃんと前を見据えてさまざまなことを考え、吸収していたのかと知ったことは、愛おしさと同じくらいの誇らしさをも感じさせた。
焦りが講じて部屋にじっとしていることが出来ず、ホテルの庭の片隅を借りてガイと手合わせをしていると、一息ついたところで地面が揺れた。
「──あ、また……」
一同を焦らせるのは、ただ待つしかできない今の状況と、時折起こるこの小さな地震だ。恐れをなすほどではないが、何も知らない多くの人が不審に思う程度には頻度が高い。だが預言にも詠まれていない程度のこととなると、人々は恐怖を感じなくなるようで、断続的に感じる揺れのことをもう話題にもしていない。
一応、ネフリーには話をしておいたが、全大陸が崩落するとなると、避難する場所などどこにもない。結局、全世界に無意味な混乱を起こさないためには、危険を承知していながら口を閉じている他はなかった。それが余計に焦りと苛つきの原因になるのだ。
部屋で横になって体力を温存させられているティア以外の三人は、やはりじっとしていられないのか、あるいはこんなときだからこそ皆でいたいという心理が働くのか、二人が剣を交わす傍で体力作りに励んだりしていたのだが、唐突に上がったナタリアの奇声に、全員が驚いて振り返った。
「ルーク?!」
あと半日くらいは待たなければという予想を覆して、ルークがきょろきょろと辺りを見回しながら庭に入ってくる。仲間たちの姿を見つけると、迷子のように不安げに曇った顔に、ぱっと笑顔が弾けた。
「まあ思ったより早かったですわね! もう少し待たなければと思っていましたのに」
「ノエルは休み無しで操縦してるのかい?」
「いや、アルビオールでしっかり寝てたぜ。ここまで操縦してくれたのは兄貴のギンジだ。交代で操縦したほうが効率がいいって、ギンジも来てくれることになったんだ」
「大佐とディストは?」
「まっすぐティアの様子を見に行った。もう少しいい薬をシュウ先生が作ってくれたから」
「すぐに発てるのか」
アッシュが問うと、ルークはアッシュを少しだけ眩しそうに、そして照れくさそうに見つめた。「──うん。浮力機関が凍っちまわねえように、アルビオールはずっと稼働させたままにするって。お前らは?」
「こっちも荷物を解かずに待機してたんだ。すぐ取ってくる」
全員がホテルの中へ駆け戻って行った。ようやく動けるとほっとしたのか、その足取りは弾むように軽い。その後ろ姿に苦笑してアッシュも歩き出すと、ルークも並んで歩き出した。
昇降機が降りてくるのを待つ間、二人は無言で、ただ並んで立っていた。人目があるから手を繋ぐことすらしなかったが、どちらからともなくだらりと垂らした手の甲同士を触れ合わせる。何度も身体を重ねてきたのに、たったそれだけの接触に暖かさと面映さを感じるのはなぜなのか。
部屋に入ると、二人はようやく正面から向き合った。
「すごく久しぶりにアッシュに会った気がする」
こんな時だから控えめにではあるが、逢えて嬉しいと遠慮がちに振っている尻尾が見えるような気がしてアッシュは笑い、軽めのキスを一度して、こつんと額を合わせた。「些事に拘っている余裕は俺たちにはない。──さっさと倒すぞ」
うん、という返事はなく、今にも泣き出しそうな儚い笑顔を見せたあと、ルークは耐えかねたようにアッシュに抱きついた。「おれからも回線が繋げたよ」
「ああ。それだと痛くねえのか?」
あのとき、特に苦労した様子もなくするりとフォンスロットが繋がったのを感じたし、ルークの声に苦痛の色がなかったからそうだろうと思っていたが、案の定ルークはこっくりと頷いた。
「良かったじゃねえか。これからはお前から繋げば──」好きなだけ話が出来る、と言いかけ、アッシュはもう別々に行動する必要などなくなるのだと気付いて言葉を詰まらせた。「──ラジエイトの起動も終わったら、もう、回線が必要なほど傍から離したりしねえ」
例え大爆発が回避出来なかったとしても。決して一人で逝かせたりはしない。
「うん……」
「ずっと一緒にいよう」
「……うん」
「不甲斐ない伴侶ですまん」
「まだ失敗するって決まったわけじゃねえだろ」ルークは呆れたように笑い、アッシュに行こう、と促した。「おれさ。八割以上の確率で生き物、元に戻せるようになった。ほら、ディストの作った例の譜業、力の添わせ方っていうか流し方っていうか……コツが掴めてきたみたいなんだ。伝授するから、一緒に頑張ろうな。ティアに比べたら、おれたちにはまだ時間があるし、気楽に行こうぜ」
そうだな、とルークに笑顔を向けながら、アッシュはそれほどの時間がないこともまた悟っていた。力が弱くなって、コントロールが利くようになった、この危うい均衡はいつまでも続かない。時間が経てば経つほど、アッシュの力は弱体化していく。