威圧感に怯むようなことは、もうなかった。代わりに全身の血が熱く沸き立っていくのを感じる。彼を長く操り人形のように支配して来た相手との決別は、ほとんど性的な興奮にも似た震えをもたらした。
「ベルケンドはすっかりお前たちに乗っ取られてしまったな。あれだけ出来損ないのレプリカを憎んでいたというのに、どうしたことだ」
「そういうふうに誘導したのはお前だろうと言いたいところだが」アッシュは口の端に自嘲と皮肉の入り交じった笑みを刷いた。「俺が愚かだったということに気付いただけのことだ。レプリカとは和解した。もう二度と……憎むことはない」
強い憎しみは、そのまま愛情へと変化してしまった。この先、もしも些細なことで仲違いすることがあったなら、あの手この手で機嫌を取り結ぼうとするのはきっと自分のほうなのだろう。
「……もう引いたらどうだ。このまま続ければ、お前も遠からず命を落とすことになるぜ。障気でボロボロになった妹のようにな」
「些細なことだな。私は、人類がユリアの預言から解放され、生き残る道筋が作れるならそれでいい」
暗闇を透かすように観察したヴァンの顔は、少しだけ憔悴してはいるものの、わざと持ち出したティアの話に動揺している気配は微塵も見せない。
「地核はすでに静止した。これ以上の第七音素の供給は望めねえぞ」
「やってくれたものだ」
これからまだ大量にレプリカを作らねばならないというのに、さして堪えたようすもなく苦笑するヴァンを見つめ、微かな疑念が起こる。まだなにがしかの手を残しているのか。あるいは──すでに手を打ってあるのか。
「……念のために言っとくが、レプリカの体液は乖離する。当然、精液もな。レプリカの大地にレプリカだけを残したところで、行き着く先は預言通りの滅亡だぜ?」
「精液ね……」ヴァンは片眉を上げてアッシュを見つめ、細かいことを語る気のなさそうな愛弟子の冷たく冴えた顔に肩を竦めてみせた。「……音素は同じ属性同士で引き合う。余剰の第七音素がなければ良いだけの話だ」
「やっぱり、てめえが俺にやらせたいのは、第七音素集合体の完全消滅なんだな」
神殺し──。
ローレライの解放はルークでも──ルークにしか出来ないとローレライは言う。あれこれと考えたが、それ以上の力を必要とするものはそれぐらいしか思いつかなかった。それはレプリカを世界に固着させると同時に、世界から預言を消し去ると言うヴァンの計画に合致している。
「そればかりは出来損ないには無理なのでな」
「ならば今、俺を倒して引きずって行くがいい。じき、俺も使い物にならなくなるぜ」
剣を抜き去り、アッシュは自然体で師に対峙した。実力は、まだヴァンの方が上だろう。その上アッシュは持てる力の何もかもを失いつつある。
それでも、負ける気がしなかった。
音素が抜けて行くのと同時に、恐怖心もまた抜けていってしまったのかもしれない。
「最後にもう一度だけ言う。私と一緒に来い、アッシュ」
「ごめんこうむる」
アッシュは肉食獣の嗤いを漏らし、かかってきたらどうだというように指先でちょいちょいと挑発したが、さすがにヴァンは乗ってきはしなかった。
「……アブソープゲートで待っている」
鋭く見つめる先で、す……っとヴァンが一歩を下がり、そのまま闇に溶け込むように消えた。
アッシュはしばらく抜剣したまま気配を探り、やがてそれが遠ざかり、消えたのを確認すると、張り巡らせていた気を散らして剣を収めた。
リグレットに続いて加減なくやり合える相手を逃がしてしまい、昂揚した闘気がただ身のうちに燻る。剣の師であるヴァンの圧力は半端なものではなかったが、アッシュの力を必要とする限り、加減なく叩きのめすのは所詮不可能なのだ。
「ローレライの消滅、か」
そうすれば、余剰の第七音素がなくなる。引き合う音素がなくなり、レプリカが乖離しなくなる。
死せば遺体を残し、子どもも……残せるようになる。
それは、鮮やかな銀朱の髪に、日に透かした翡翠のように明るく陽気に輝く大きな目をして、きっと向日葵のようにおおらかに笑う子どもだろう。思いやりがあって、素直で……でももしかしたら親に似て意地っ張りで、少しばかり鈍臭い子かも知れない。
その小さな手を伸ばす先には……。
──馬鹿な。
脳裏を栗色の髪がよぎり、アッシュはちっと舌打ちをした。
あの思い込みの激しい馬鹿なレプリカのせいで、子ども子どもと振り回されっぱなしではないか。
「そう……兄さんが……」
導師の私室で食事を摂りながらアッシュの話を聞いていたティアが、哀しげにぽつんと零した。
「……もう一度説得してみるかい? 君が話せば、ヴァンデスデルカも……」
「兄さんは、妹の説得に耳を貸すような人じゃないわ。もしそうなら、とっくにこんな恐ろしいことから手を引いて、別の道を探してるはずだもの……」ガイが言うのに、ティアは感謝の笑みで応えたあとゆるゆると首を振った。「私の身体に障気が蓄積されているなら、きっとパッセージリングを使っていた兄さんも同じだと思うの。それでも兄さんは止まる気がないのよ。もう、私と兄さんは進むべき道を違えてしまったの」
「……それでいいのですね?」
「はい」
イオンも気遣わしげにティアに問いかけたが、ティアはこのことについては自分の中ですでに整理がついていたものらしく、案外さばさばと頷いた。
「それでは次はロニール雪山ですね。魔物も強く、かなり危険なところだと聞いていますが……。皆さん、よろしくお願いします」
出来ることならば安全のためにもイオンは置いて行きたいが、彼にはダアト式封咒を開くという役目がある。
「これで最後ですから」沈鬱な雰囲気を払拭しようと、イオンが殊更に明るい声を上げた。
「なら、ケテルブルクの高級ホテルに一泊して、スパでリフレッシュしてから乗り込むとしようか!」
「わ、さんせーい!!」
それを受けて明るく提案をするガイに、全員が大きく頷く。女性陣はすぐに水着を新調する話で盛り上がり、アッシュは苦笑を洩らした。
ここにルークがいたら、きっと喜んではしゃいだだろう。あとで聞けば自分だけが行けなかったことに、ふてくされるかもしれない。その膨れた顔を想像し、どうやって宥めようかと考えるのも、アッシュにとっては楽しいことだった。
全部が終わったら、きっと連れて行ってやろう。あのとき泊まったのよりもっと、いや、一番良いホテルに泊まって、うまいものを好きなだけ食わせて、遊ぶことだけを考えて。今度こそ目的地を決めない旅をぶらぶらして、世界中に隠れ家みたいな家を用意して──。
はしゃいでいる仲間たちの声に合わせて微笑みながら、果たして俺たちに「全部が終わったあと」があるのだろうかと、アッシュはぼんやりと考えていた。
「この山では、魔物よりもまず自然が脅威です。以前、雪崩れで大勢の神託の盾兵が犠牲になったとか」
「雪崩は回避のしようがないものな」
「せめて空気を振動させるような大きな音を立てるのだけは注意したいところだが……。魔物との戦闘なんかどうなんだ」
彼らに気付いて距離を縮めつつある魔物を、抜剣した剣の先で情けなそうに示したアッシュに、全員が引きつった笑顔を向けた。
「その程度なら雪崩の原因になるほどじゃない。……はずだが」
一度は力強く請け負ったガイが、最後に自信なげな一言を付け加えたせいで、仲間たちの戦闘意欲は目減りした。すこしばかり手こずったが、戦いは実に静かに無言のままで始まり、終わった。そのことにどれほどの効果があったかというと誰にもわからなかったが。
しばらく立ち止まって耳を澄ませたものの、雪崩の前兆を思わせるような音は聞こえない。
「まあ、このくらいの騒ぎなら大丈夫だってことだね~」
「そ、それよりも、おおおお、女の人が泣いてるみたいな声が……」
「……風の音ではありませんこと?」
そういうナタリアと同時に耳を澄ませたアッシュは、次の瞬間脳裏から雪崩への恐怖を打ち消して、全員に静かにするよう身振りで示した。「──誰かいる」
「六神将ですか?」
「おそらくは。っち、戦闘にならねえよう避けたいところだが」
「ま、無理だな。十中八九待ち伏せだろう」
「先行されたのは痛いですわね……」
「でもいるのがわかっているだけでも十分だわ」
顔を寄せてひそひそと話す全員が、うんざりした顔のまま頷いた。
しばらくは、さくさくと雪を踏む音だけが耳に入った。
これまではずっと一人で走り回っていたのだし、無言の行軍の方がずっと馴染んでいるはずなのに、いつもは何かと騒がしいパーティーのせいか、この沈黙はアッシュにも酷く寂しく感じられた。
先頭を歩いていると、後ろに続く足音にルークを思い出す。楽しそうに足跡を踏んでいた姿が思い出されると胸を締め付けるような切なさと愛おしさがこみ上げて来て、何もかもを後にして飛んで行きたくなる。その体温を腕の中に収め、甘い首筋の匂いを思い切り吸いたくなる。ルークの匂いはそのとき作っている菓子によって多少変わったりするが、総じてそれはアッシュを幸福にさせる匂いだった。
いけねえ、とアッシュは軽く目を閉じてその想いを振り払った。なんと言っても、今の自分はそれを可能にする能力があるのだ。
ルーク……。
男の自分は子どもを産めないと知って、あれほど切望していた子どもの話をしなくなってしまった。どちらも産めないし、また産ませることができないのだから、それはそのまま諦めてもらうしかない。
だが、ふと、おれに子どもを産ませてくれ、お前の子どもを抱いてみたいと縋るように請うた姿が蘇ると、自分も同じように、ルークの子どもを抱いてみたいと思ってしまうのだ。
そして、それは叶う可能性のあることだった。
アッシュはルークに、お前は──レプリカは子どもを残すことが出来ないと、どれほど努力したところで体液はすべて乖離して残らないのだと言うことが出来なかった。
だが、アッシュ次第ではそれが可能になるという。ルークは、その気になりさえすれば、子どもを持つことができる。ルークはきっと、欲しいのは子どもではなく、お前の子どもなのだと言うだろうが。
ふ、と自嘲の笑みが漏れる。
何もかも、大爆発を回避してからの話だ。
俺が、レプリカを再構成することが出来たらの話だ──。
待ち伏せはわかっていたし、用心もしていたが、それでも山腹の開けた場所で六神将と対峙するのには、それなりの感慨があった。
待ち構えていたのはラルゴとアリエッタ。
アッシュ、ディストがこちら側に。リグレットとシンクはすでに亡い。ヴァンに付く六神将も、いまやたった二人だった。
「イオン様……邪魔、しないで……」
「アリエッタ、僕は……!」
「イオン様!」
アリエッタに本当のことを話そうと口を開いたイオンを、アニスの鋭い声が制した。
「アニス、なぜ……?」
「知ってはいけないと思うから」
「えっ……?」
アリエッタは一瞬だけイオンとアニスを見比べ、悔しげに唇を噛んだ。
「お前たち、ママの仇。邪魔するなら、イオン様だって許さないんだから……!」
血を吐くようなアリエッタの叫びが、戦闘の合図となった。
「お姫様は城でおとなしくしていたらどうだ!」
「わたくしを侮辱するのはお止めなさい。わたくしには、父に代わってすべてを見届ける義務があるのです!」
「……父ねえ。どちらにせよ相容れないなら力ずくでやるしかねえというわけか!」
「おおっと! こういうレディファーストは感心しないな!」
ナタリアに対峙したラルゴの前に、ガイが割って入る。素早く繰り出された突きにラルゴが飛び退った瞬間、その影をナタリアの矢が数本、甲高い弓弦の音を立てて射抜く。
このコンビなら援護は必要ないと見て、アッシュはアリエッタに対峙するアニス、ティアの援護に向かった。アニスはイオンと言う被保護者を抱え、ティアの譜術、譜歌は発動に時間がかかる。そのためダガーで応戦していたが、障気中毒で弱った身体では効果的な一撃が繰り出せない。
横合いから切り掛かると、合図を送るまでもなくアニスがイオンを連れてすかさず距離を取る。ティアはアッシュが敵を引きつけてくれると信じてホーリーソングの詠唱を初めた。アリエッタはまずティアを倒したかっただろうが、そうするには先にアッシュを倒さねばならないと踏んだようだ。十数匹いた魔物の群れが一斉にアッシュに向かって飛びかかってきた。
「アッシュ!」
「こっちはいい! ガイに集中しろ!」
ナタリアの悲鳴に怒鳴り返し、魔物を数匹切り捨てながらアリエッタに切り掛かる。譜術を使う暇を与える気はない。視界のすみに、イオンをティアの後ろに押しやり、魔物の群れの中で大暴れしているトクナガの姿が映る。
どうやら、後ろも任せられるようだ。
そのことに妙にくすぐったい気持ちになりながら、アッシュは目の前の敵に意識を戻す。幼く見えても六神将、決して侮って良い敵ではなかった。
ドォォォォォォォォォン!!
力尽きたラルゴが膝を付き、アリエッタが雪の中に倒れ込んで動かなくなった瞬間、鼓膜をぶち破る爆発音のような轟音が辺りに轟いた。
「なんですの!」
「くっ、今の戦闘で雪崩が起きたかっ?!」
「イオン様!」「皆さん!!」
「みんなこっちに来てっ!! 譜歌を……!」
「駄目だ! 間に合わねえ……っ!」
(ルーク)
《……シュ》
《アッシュ!》
鋭く名を呼ばれ、何度も頬を叩かれて、アッシュは目を覚ました。霞む目を擦り、瞬きを繰り返して周囲に視線を走らせる。一体どのくらい意識を失っていたのか、辺りには心細いほどしんとした真っ暗な空間が広がっている。
《……助かった、のか……?》
《よかった、起きたな!》
こんな所で聞くはずのない声にぎょっと声のほうを向くと、枕元にルークが座り込んで心配そうにアッシュの右手を握っていた。
《レプリカ? ここは……》
《んん。お前の中じゃね? ほら、アクゼリュスのあとおれいたじゃん、しばらく》
《ああ……》
軽く頭を振って上体を起こすと、ルークが心配そうに覗き込んだ。《お前に呼ばれたと思った瞬間、胸んとこが、こう……ぎゅーっとしてさ。何かあったんだってすぐにわかったよ。おれからは回線も繋げねえし、不安で、不安で……お前の無事な姿見てえって思ってたら、ここにいたんだ。なあ、何があったんだ? 皆無事か?》
《……雪崩にあったんだ》
アッシュは片腕でルークを引き寄せ、その温かな体温に安堵と、そして深い絶望を感じながら呟くように答えた。
《な、なだれ?! 大変じゃん! 皆は──》
《レプリカ》
《つか、ここにお前がいるってことは、身体は気絶したまま埋もれてたりするんじゃ……! 早く起きねえと凍》
《大爆発が、始まっちまってる。俺は分解されたとたんお前を喰らっちまう……!》
半ばしがみつくように呻くと、ルークはしばらく宥めるようにアッシュの背を撫で、うん、と頷いた。《おれのほうからここに来れたし、もしかしたらそうかなって思ってた。ひょっとして回線も使えるようになったかな》
《……レプリカ》
《なあ、アッシュ。やらなくてもいいんだぞ》ルークは少し笑いさえ含んだ声で、アッシュを撫でながら言った。《おれは、お前といられるなら、行き先はどこだっていいんだから》
その優しい声を聞き、穏やかな手に撫でられながら、アッシュは涙が溢れて止まらない顔をルークの胸に押し付け、嗚咽した。
たった一つだけ。生まれて初めて欲しいと思ったたった一つのものに、そんな道しか残してやれない自分があまりにも情けない。
《ティアは予定通りおれが治す。おれのことは──駄目だったらさあ……》
《同じ所に行く。……俺を一人にしないでくれ……》
《……うん。しねえよ……》
さらりと、ルークの指が髪を梳いて行く。
何度も。
何度も──。