航海は出航前にあれこれと騒動があったにも関わらず、拍子抜けするほど順調に進んだ。
「空と海では揺れ方が違う」とノエルが軽い船酔いになったものの、一日横になったあとは特に問題は起きていない。嵐の多い季節であることを思えば、これは幸運と言って良かっただろう。
目的地まで十時間を切ると、交代制の見張りは自然解消になり、全員が申し合わせたようにブリッジに集結した。ノエル、ガイ、それに勘が良く飲み込みの早いアッシュがコンソールの前に陣取って、最適と思われる突入地点の割り出しや残り時間の確認を始める。
船室に一人こもっているのが落ち着かないだけの残りの面々は、音機関が絡むとなにも手伝うことが出来ない。申し訳ない思いで三人を見守るしかなかったのだが、突然アニスがなにか作って差し入れをしようと言い出した。地殻突入地点のアクゼリュスに近づくにつれ鬱いでゆくルークの、おそらくは気をそらそうとしたのだろう。気乗りはしなかったが、アニスの気持ちが嬉しくて、ルークは二つ返事で了承した。そしてそれは実際、ルークにとっていい気晴らしになったようだった。レシピどおりに作る菓子は特に無心に作業することができ、心を鎮めるのに向いている。時間が空くと料理や菓子作りをしているアニスも、案外それをわかっていて言い出したのかも知れなかった。
「この調子だと、ほんのちょっとだが予定時間より早く着きそうだ」
計器類を覗き込んだまま満足そうに頷いたアッシュは、ルークが淹れたコーヒーを一口飲んで、口元を綻ばせた。「──お前か」
コーヒーとミルクというあまり好きではないものの組み合わせを、なぜかおいしいと感じて以来、ルークはコーヒーも上手に淹れられるよう練習したのである。アッシュもどちらかといえばルークと同じくお茶を好むようだったが、一緒につまむものによってはコーヒーを欲しがることもあった。
「えっ、うん。よくわかるな?」
驚いてアッシュを振り返ったルークに、少し弾んだノエルの声もかけられる。
「すごくおいしいです! ルークさん、すごいですね! コーヒーおいしく淹れるのってむずかしいって聞くのに」
「ほんと?」いまだ褒められ慣れないルークがはにかんでいると、
「ルーク、色々腕を上げてるんだ。このところおいしいコーヒーも淹れるってわかってたから、お菓子も軽食も合わせてみましたー!」
お茶受けのサンドイッチは、普段は野菜だけの飾らないサンドイッチが多いのだが、今日はこってりと濃いめの味をつけて焼いたチキンと野菜を挟んだボリュームのあるものだ。リキュールをたっぷり使った濃厚なチョコレートケーキや、バターの香りが芳醇なマフィンも用意された。オーブンから出したばかりのルーク特製アップルパイは、まだ湯気を立てている。
「わたくし、この焼きたてのアップルパイが大好きですの!」
「ボクもですの!」
パイを見つめて顔を輝かせるナタリアにミュウが同意し、制作者のルークも嬉しそうに笑った。
予定通りの航海に全員がほっと一息つき、七人と一匹全員でのティータイムをにぎやかに楽しんでいると、突如艦内にけたたましい警報が鳴り響いた。面倒を呼び寄せる不吉な合図に、ガイ、アッシュ、ノエルの三人が即座にコンソールの前にかけ戻る。
「な、なに?」
「侵入者よ!」
「場所の特定が出来るか?!」
「出来ます……! アッシュさん、上部甲板です!」
「甲板?! あそこには脱出用の譜陣が描いてありますわ!」
「──っ! おれが行く! アッシュとガイは万が一のときのためにノエルとここにいてくれ! ティア、アニス、ナタリア! 四人で大丈夫だよな?!」
「ええ、任せて」
「とうぜ〜ん!」
「行きますわよ!」
「待て待て待て!! ルーク、じきにアクゼリュスだ、突入までそんなに時間ないぞ!」
「わかってる、師匠じゃねーこと、祈っててくれ!」
「ちょ、ルーク、」
「ガイ」やり取りを無言で見守り、かすかにルークに頷いてみせたアッシュが、苦笑してガイをたしなめる。「任せておけ。こいつらなら大丈夫だ。少しは信用してやれ」
それだけ言うと、アッシュは進路を見守りつつパイを齧り、コーヒーを口へ運んだ。
「わかってても心配だろ? なんでお前は熊みたいに落ち着いてるんだよ?」
全員が浮き足立っていたその一瞬、カップをはなさずパイを銜えたまま行動していたらしいアッシュを、ガイが責めるように問いかける。
「お前は子連れの牝鹿のように心配性すぎる」
「プッ」
思わず吹出してしまったノエルが慌てて口元を覆い、恐る恐る二人をうかがうと、互いにそっぽを向いて憮然としている二人の姿が目に入った。
「す、すみません……」
消え入るような声で詫びたノエルは、二人のその様子に心配することはなにもないと内心ほっとする思いだった。そしてこの二人、実は結構仲いいんじゃないのかな……と当事者たちが知ったら目を剥いて怒り出しそうなことを考えていたのだった。
目の前に描かれた譜陣に触れようとしたシンクの足先に、鋭く空気を切り裂く音がして一本の矢が深々と突き立った。
「!」
「させませんわ!」
「シンク! 侵入者はお前か!」
「わわわわわ〜間一髪だよぅ! やっぱり、これを消そうとしてたんだ!」
バタバタと甲板に飛び出した四人は、上部甲板から下に移り、脱出用に描かれた譜陣に手をかけようとしているシンクを見つけて色めきたった。
「……まあいいさ。お前たちはどうせここで泥に沈むんだしね」
「これが使えなくなったら、お前だって脱出できないんだぜ? 地核を静止させないためにそこまでやるのは何故なんだ」
「答えると思ってるの。相変わらず甘いね……っ!」
口もとが憎悪と嘲笑を孕んだ弧を描いた瞬間、シンクの攻撃が間一髪で避けたルークの髪を数本切り裂いてかすめていった。
「時間が押しているわ、手加減は無用よ、ルーク!」
「ああ、わかってる……!」
複数の敵がいるとあらかじめわかっている場所に単身乗り込んできたシンクの実力はやはり突出している。たった一人で四人を相手どりながら、常に全体を見通している頭と目の良さは、なかでも随一と言ってもいいだろう。その上任務を達成出来さえすれば、後はこの場で果てても構わない、と言わんばかりの捨て身の攻撃は苛烈極まりなく、数の有利をあまり感じさせない。
だが、ルークたちだって木偶ではない。この仲間でなんども戦ってきて、呼吸をするように自然に連携をとることができる。
双方共に全力の攻撃が何度も交錯し、たった一人で回復もままならぬシンクの攻撃に疲れが滲み始めたころ、ナタリアの放った矢がシンクの右腕を貫いた。矢継ぎ早に放たれた矢が、次いでまっすぐに頭部を射抜く。シンクは神業のような動きで後ろに飛び退ったが一歩間に合わず、乾いた破裂音を立てて仮面が割れた瞬間、とうとう力尽きたように膝をついた。初めてさらされたシンクの素顔、そのあまりの衝撃に、とどめの攻撃を放つ手足が動きを止めた。ティアの詠唱も完成されないままに口の中で消えてゆき、手の力が抜けたかのようにアニスがトクナガからすべり降りる。
その顔は、彼らが良く知る人物に、あまりにも似ていた。
「イ、イオン、さまっ……?」
アニスのか細い問いかけに、イオンの顔をしたシンクは嘲笑と憐憫に歪んだ笑みを見せる。「ざーんねん」
「シンク、お前……イオンの兄弟、だったのか?」
大きな目をこぼれ落ちそうなほど見開いて、ルークが問うた。導師が世襲や指名ではなく、預言による選定であることは周知の事実である。イオンもまた、誕生と同時に親兄弟から引き離されるかたちでダアトに迎えられた。『導師イオン』の名は世界中で最も知名度の高い名だが、その家族を知るものはそう多くはないはずだった。
「くくくっ。まっ、普通はそう言うかな。アンタだけはボクらの関係を正しく指摘出来ると思っていたけど、これは買い被りだったみたいだね」
ルークの疑問を受け、シンクは初めて心の底から可笑しそうに笑った。「いいや、違うね。ボクは五番目に造られたレプリカイオン。だから『
「イオン様のレプリカが造られていたなんて、そんな話……」
呆然と呟くティアをちらりとみやり、シンクは笑みを嫌な感じに歪めた。「妹なのに。アンタ、あいつから何にも聞いてないんだね」
「……なにを……」
「イオンのレプリカが七体造られたことをさ。二年前に死んだ被験者イオンのね!」
「に、二ね……?」
「うそぉ!! じゃ、じゃあ、イオン様は……?!」
シンクの言葉の意味を瞬時に理解できなかったルークとナタリアのかたわらで、『導師イオン』を戴くローレライ教団の唱師二人がするどく反応を返す。
「アンタたちのいう『イオン様』って、被験者とレプリカ、どっちのことさ?」
ナタリアが目を見開き、アニスとティアが小さな悲鳴を漏らす。そしてルークはただシンクをまっすぐに見つめて、静かに立っていた。シンクはなにも知らないものたちのあいだに見下すような視線を流し、なんの反応もないルークのところで一瞬だけ訝しむように止めた。
「被験者イオンは自分の死と、その後の長い空位の時代を詠んだ。だから我らがヴァン総長がレプリカをお造り遊ばしたわけ。だけど一回目でいきなり完全同位体なんてものが出来たどこぞの幸運なお貴族様と違って、造っても造っても劣化はなはだしいレプリカばかりだったみたいでね。被験者と同等の譜力を持つレプリカができたのはやっと七体目さ」
「……そ、か……あいつ……イオンのやつも、レプリカだったのか……」
驚いたのはルークも同じだったが、心のどこかでそれがどうしたという思いもあった。被験者イオンは気の毒なことだが、ルークにとっては知らない人でしかない。思わず鼻からふふふっという笑いがもれ出してしまう。
「……アンタ」
きつく眉をしかめるシンクは、どうみても導師イオン──外の世界で初めて出来た友だち、ほとんどの苦楽を共にしてきたあのイオンとは似ても似つかない。
「あ、気に触ったならごめん。いや、自分のことは良くわからなかったけど、レプリカ同士ってのは似てねーんだなって」
無邪気なほどの言いように、シンクのみならず三人の少女たちまでが驚いたような視線を向けた。
「兄弟くらいには似てるって思ったけど、イオンに比べるとお前、すげえ性格悪そうだしさあ。入れ替わりに気付かなかったってことは、造られたときは被験者に似てたのかも知れないけど……今も似てんのかな」
「似てない、なんてことがあるわけないだろ。ボクらは被験者の代用品として造られたんだ──いや、そうか、その通りかもね? ボクらは代用品にすらなれなかった。被験者に似ていなかったから……。失敗作のボクらは生きながらザレッホ火山の火口に投げ込まれたんだ。ゴミみたいにね! もっとも、被験者の死体も同じ道をたどったみたいだけど」
顔を覆ってへたり込んでしまったティアの傍に、蒼白のナタリアとアニスが寄り添う。実の兄の仕業に衝撃を受けたティアを慰めるだけでなく、自分たちが冷静になるためにも、互いの温かな体温を感じることが必要だった。もちろん、ルークにも。ただルークはこの中では唯一の男で、少女たちを守らなければならないという矜持がある。身を寄せ合いながらも、ルークは三人を守るように正面に立った。
「でも、生きてるってことは……助けがあったんだろ?」
「助け?」シンクは良く出来た冗談を聞いた時のように目を見開き、心底おかしそうに笑った。「どこの誰が出来損ないを助けたりするの? 自分で這い登ったのさ! 熱で焼けた石に剥がれた皮膚を残しながら、絶望すらしらない虚ろな視線に晒されながらね!」
ルークはぎゅっと固く、目を閉じた。
なぜおればかり、と思っていたこともあったけれど、理不尽に苦しめられているのは自分だけじゃない。アッシュだけでもなければ、イオンだけでもない。このところ師匠のことでティアは泣いてばかりだ。ガイだってナタリアだって、預言に人生を狂わされた。アニスだって、ああ見えて苦労しているのだ。
「生きたかったからじゃねーのかよ!」
気付いたら、思わず遮るように叫んでいた。「生きたいと思って登ったんじゃねーのかよ! そいつら……兄弟たちと同じように、ただ死んでいきたくないって思ったんだろ?! なんでこんなところで死ぬ覚悟なんかしてんだよ?! ゴミになるために生きたかったわけじゃねーんだろ……!」
シンクはそれを聞いて、さらに嗤いを深めた。何もかもを赦し、受け入れるような、そんな温かいイオンの笑顔とは違い、まだ幼い少年の笑顔はひどくひび割れ、温かさも希望もなく、見るものの心を軋ませる。
「生きたいと思ったわけじゃない、本能さ! 生き延びてみても、ゴミはゴミのまま。何かに変われるわけじゃない。あんたや七番目のイオンは必要とされたレプリカだ。ゴミの気持ちなんかわかるわけないね」
「……そうだよ。アンタと違って、ルークは必要とされているレプリカだよ」
アニスのものとは思えない消沈した声が割って入り、ルークは驚いてアニスを見やる。
「アンタ、ルークがアッシュの代わりにアクゼリュスで死ぬためだけに生まれたって知ってるんだよね? それでもそんなこと言うってことは、そんな役割しか持たないルークのことでも、アンタはきっと羨んだんだろうね。でもあたしたちは、ルークが何かの役に立つから必要としているわけじゃないよ。一緒にお菓子焼いて、話して、笑って、相談したり、じゃれたりしたいんだよ。ルークを……だ、だだっ……大好きだから、傍にいて欲しいの。そういう人と人との交わりを、ルークはあたしたちと一緒に悩んで笑って傷ついて怒って、作り上げてきたんだ。ルークはいっぱい努力してきたんだよ。アンタは? そういう努力、してきた?」
「……なに……」
「ルークは……辛い思いもたくさんしてきたんですの。わたくし、ルークをまるで価値のないもののようにたくさん傷つけました。あのころのわたくしこそ、ルークにとっては何の価値もないものだったでしょう。でもルークは、わたくしのような愚かな女を必要だと言ってくれた。そういうルークが、わたくしは……」
言葉に詰まってしまったナタリアの背をなでて、ティアもこくんと頷いた。被験者イオンに対する兄の所業に未だ顔を青ざめさせ、涙も流れたままになっているが、決然と上げた顔はうっすらと笑みを浮かべている。
「変わろうと思えば人は変われると、必要だと思われることの難しさと喜びを、ルークが教えてくれた……。あなたも、誰かに必要とされたいのでしょう? そうでなければ、ルークやイオン様を羨んだりするはずないもの……。でも、それは努力なしでは難しいことよ。あなたは? あなたは誰かを必要としているの? 誰を愛しているの? 一人で生きている人を、誰も必要とはしないものよ」
「ボクが誰かを必要とする? 愛する? 馬鹿じゃないのアンタ。ボクにはそんなもの必要ない。思い込みで適当なこと言わないでもらえない?」
シンクの目のふちが、怒りでうっすら赤くなる。余裕のあるふりをするつもりがなくなったのか、微笑んでさえいれば可憐といってもよいほど少女じみて整った顔が、ひきつれたようにみにくく歪んだ。
「自分は誰も必要とせず、愛さないと言っておきながら、他人にだけそれを要求するの?」
「──っ。ボクは、別に。誰かに必要とされたいなんて、思ってない……!」
「ご自分でお気づきではありませんの? 矛盾してますのよ。わたくしにはあなたが、自分はゴミであるという思い込みに酔っていらっしゃるようにしか見えません」
ナタリアの言葉は、まるで自嘲のように悲しげに響いた。
「……本当は必要だって言って欲しいけど、誰もそんなこと言ってくれねーし。自分から言ってもらえるように努力するのも媚び売ってるみたいでカッコ悪い。だから自分からは何にもしないけど、誰かがお前は特別だって、必要としてるって、言ってくれないかな……って。おれ、そんな自分勝手なこと、ずっと考えてたんだ。おれ自身は、だれかにその言葉を言えるような付き合い方をしてないのに」
シンクはまるで、あのころの自分を見ているようだとルークは思う。
ルークは、誰かに特別だと、必要だと言って欲しかった。『前のルーク様』ではない、ルーク自身が必要だと。ヴァンはそんなルークの欲しているものを正しく見抜き、身勝手な願いにふさわしい虚ろな応えを与えた。結局のところ、アクゼリュスの悲劇は自分の心のありようが招き寄せたのだとルークは思う。身の内から膨れ上がる力に怖れを抱いた瞬間、心と身体は反射的にそれを拒んだが……それがなければ、おそらくこれでみんなが自分を見直し、必要とするだろうと思い込んだまま嬉々として力をふるったであろうことを、ルーク自身は知っていた。
「シンク、おれたちと行かねえ? イオンがここにいたら、きっとおなじこと言ったと思うんだ。だって、兄弟みたいなもんだろ? お前がいたら、イオンはきっと心強いと思うし。お前も……」
「それは良い考えですわ、ルーク。上に立つものとは何かと孤独なものです。あなた、そうなさいませ! いつかルークとアッシュのようにお互いがかけがえのない存在になれたら、あなたの孤独もきっと癒されるはずですわ」
「かけ……? 燃え滓がなんだって?」
「二人は恋人同士ですのよ。悔しいですけれど、人の関係は時とともに変わって行くもので……」
「ルークはともかく、アッシュはどうかなぁ? 別れるのはあんまり期待しないほうがよさそうだよ、ティア」
「ななっ、なんの話よ?!」
「恋人?! 燃え滓とこいつが?! まさか、だって……!!」そんな話を聞いてしまったシンクのほうこそ見物だった。驚きに目をまんまるに見開いた顔は、初めて彼らに実年齢を意識させる稚いもので、思わず少女たち全員の母性を刺激する。三人が顔をほころばせる横で、アッシュとの関係が絶望的だと思っていたころを思い出して、ルークは一人苦笑した。
「シンク……いつかお前が必要とする人が出来たら、きっとその人がお前を必要としてくれる人だよ。今お前が誰からも必要とされてないと思うのは、お前が誰も必要としてないからだ」
仲間たちの言葉に確信を得たように、ルークはシンクに笑みを向け、手を差し出した。「おれたちと、行こう、シンク。お前が必要だと思う人を探しにさ!」
太陽に向かって真っ直ぐに立つ向日葵のような。
ルークの笑顔を仲間たちはそんな風に思っていたが、今もまた、闇に生きるものが光に焦がれるように、シンクはルークの笑顔に飲まれ──衝撃の事実に飲まれていたせいかもしれないが──驚くほど素直に、半ば反射的に、差し出された手を掴もうとした。
「──痛っ!」
《レプリカ、時間切れだ、戻れ!》
「みんな、崩落跡に、着、い……!」
「きゃあっ!」
「ナタリア!」
「──シンク!!」
奈落のような大穴をあけたアクゼリュスの崩落跡に到達したタルタロスが、バランスを欠いて大きく揺れ、船縁近くにいたナタリアとシンクが宙に投げ出された。ナタリアの手をティアが掴み、手すりを大きく乗り越えたティアの腰にアニスがしがみつく。
一方、ルークはシンクの指先をかろうじて掴むことに成功したが、今にも滑り落ちそうだ。助けを求めて仲間を見るが、非力な少女の腕で人一人いつまでも掴んでいられるわけがない。両手で掴みたいのに、タルタロスは未だ船体が安定せず、上下左右に振れているため、右腕で手すりを掴んでいないと二人揃って投げ出されそうだった。
「シンク、右手、右手でおれの手、掴んで!」
「だめだ、動かないよ……」
「動かせよ! 生きるために動かせよ! 掴めって!」
指の先だけで掴んだ手は、少しずつ汗で滑り落ち、今や指先だけで引っかけているような有様である。
「──ア、アッシュ! アッシュ────っ! 」
「待ってろ!」
いつの間に、どこから現れたのか、視界の端を真紅の髪がすり抜ける。アッシュは一瞥で状況を悟ると、少女たちのところへ駆け寄った。「どけっ、チビ!」
「う、うん!」
「きゃ……」
アニスがティアを放すと同時に、アッシュがティアを左腕で抱え込み、右手でナタリアの手首を掴んで一気に引きずり上げた。
「先に中に入ってろ!」
「気を付けて!」
奈落に腕一本でぶら下がった恐怖からか、腰の砕けた様子のナタリアを抱えてアニスとティアが急ぎ船内へ戻って行く。
「な、あとでちゃんと治療するから、ちょっとでいい、無理してくれよ! おれの手、つかんでくれよ!」
「はははっ、変なの。アンタ、なんでそんなに必死になってんのさ」
ほんの数十センチ先で、シンクの顔が笑みのように綻んだ。ルークの目にも、それはシンクが浮かべた、初めての嘲笑ではない笑みに見えた。
「お前も必死になれよシンク! 手の皮剥けても這い上がったんだろ! 生きたかったからだろ!!」
「……生きたい……!」
ピッと弾かれたように指先が伸びたと思うと、そこにかかっていた重みが消えた。横からルークのものではない腕が勢いよく伸ばされたが、シンクの小さな指先はそれをかすめ、すり抜けた。あ、と思った瞬間には、一瞬先までこの手で掴んでいた命は、吸い込まれるように奈落に飲まれ、消えた。
「──クソっ!」
ルークのものではない拳が、手すりを叩いた。