古い知識に精通したユリアシティが外殻大地降下と障気問題を総括することになり、数人の研究者が会議の終了を待たずにべルケンドへ飛んだ。平和条約は締結されたが国家間で話し合うことはまだまだ多く、会議は数日は続く模様だ。ルークたちも非公式にテオドーロと面談した結果、同じく終了を待たずにシェリダンへ向かうことになった。
「叔母様は、会議の終了までユリアシティに滞在なさるの?」
「うん。ユリアシティの医者が体調を診てくれてるし、母上も無茶はしないって約束してくれた」
「しかし」未だ腫れぼったい目を晒したまま、ガイが目を細めて笑う。「ファブレ公爵はともかく……奥様があれほどしたたかな方だとは思わなかったな……」
「パパ、ママ、アッシュ、ルーク、頑固なところが四人ともそっくりだよ! 普通、あれだけ完璧に他人のフリは出来ないって!」
移動中のアルビオールの中では、全員ヴァンのことには触れず、少しでも気分が明るくなるような話題を注意深く選んでいた。そうなると、全員を最も驚愕させ、感心させたファブレ公爵夫妻のことが自然と多くなる。苦笑いするルークの隣で、アッシュは我関せずといった態で腕組みして目を閉じていた。
ルークはアニスに一部除いて大いに同意しつつ、アッシュの横顔を見つめた。固く結ばれた唇はこうしてみると本当に頑固そうで、歳を取ったらさぞかしクリムゾンに似るのだろうと思わせる。自分は確かにアッシュから作られたものかも知れないが、クリムゾンやアッシュほど頑固じゃない。もう少し柔軟性がある。……はずだ。
「……」
「あ」
急にアッシュの唇が弧を描き、薄らと開けられた森の色の目がルークを見返した。気付いたら人差し指の腹でアッシュの唇をつついていたらしい。眠りを妨げられてムッとしたような顔にも見えるが、目元はほんのり笑みを含んで細められている。こちらを見ているアッシュの目が、すべてお見通しだと言っているようにも見え、ルークはおれってそんなにわかりやすいのかな、と恥ずかしくなってアッシュの服の袖を掴んだ。
「キスしたいなあって思ったんだよ。……わかった?」
「ああ」
すっとアッシュの顔が近づき、反射的に目を閉じると同時に唇が触れ、離れる。
お返しにルークの方からも軽いキスを返して、ルークはアッシュの肩に寄りかかり、目を閉じた。「おれも少し寝る」
「夕べ、あまり寝てねえのか?」ルークは昨夜はシュザンヌたちの滞在している部屋を訪ね、そのままアッシュのところには帰って来なかったのだ。
「うーん……うー、そうでもねー。かも? でも、結構遅くまで話したな」
「良かったな」
「うん、あのさ」ルークは目を閉じたまま甘えるように額をアッシュの肩にこすりつけ、少しだけ恥ずかしそうに囁いた。「母上と父上と、同じベッドで寝たんだ……」
「……良かったな」
子どものようにすぐに眠りの淵に落ち込んでしまったらしいルークを横目で見やり、アッシュは参ったなと苦笑して窓の外をゆっくりと流れる雲の群れに視線を向けた。
あの二人はルークとの関係を最初から、そして思ったより本格的にやり直すことに決めたらしい──七歳の子どもとして。この調子で接していれば、今はあの二人に対して遠慮がちだが、根は単純なルークなど早晩ほだされることになるだろう。
アッシュが幼いころ、父や母がアッシュを自分のベッドに入れるようなことはなかった。添い寝は乳母の仕事と決まっている。貴族の女性は、自分で子どもに乳を含ませたり、抱き上げたり、ましてや寝かしつけたりする習慣がないし、そもそもあまり感心されないことだ。が、息子との距離を縮めるために添い寝をしたという母は、もしかしたら本当は市井の母親のように子どもを育てたい人だったのかも知れない。
そんな風に彼らの気持ちを想像することも出来ないくらい当時のアッシュは子どもだったわけだが、親もまた未熟だったのだと思うと、二親に対して持っていた最後の屈託が溶け出して行くように感じる。
ルークがいなければ、きっと自分は両親を誤解したまま生き、心のどこかで彼らを恨んだまま、アクゼリュスで死んだだろう。
ガイの言う通り本当に不思議なやつだと、アッシュは笑みを浮かべてルークの寝顔を覗き込み、ルークと愛し合うようになるまでの自分なら、きっと想像もつかなかっただろうと思うほど満たされた気分で目を閉じた。
「おお、来たか! タルタロスの改造は終わっとるぞい」
ここに来るたびに興奮するガイをいつもは宥めるのに苦労するのだが、今日は全員が、ガイが嬉しそうにしているのに慰められた気がして、いつになく話を聞いてやったりと優しかった。意外にもアッシュが音機関にそれなりの関心があるらしく、時折質問や意見を挟んだりしてガイの興奮度を上げるのに貢献した。
「さすがシェリダンの技術者! 仕事が速いぜ!」
興奮のあまり顔を赤くして身を捩るガイから、アッシュを除く仲間たちは薄気味悪そうに一歩下がったが、イエモンは若者の賛辞を快く受け取ったらしい。後ろにひっくり返りそうなほど反っくり返った。「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ、年寄りを舐めるなよ! もうタルタロスはシェリダン港に着けてあるぞい!」
「あとはアクゼリュス崩落跡から地殻に突入するだけさ」
「タマラは簡単に言っとるが、いくつか注意点があるぞい……」
イエモンが話す「注意点」を一度で理解出来たのはガイとアッシュだけで、あとのものが理解出来たのは、ここからアクゼリュスへ航行し、地殻へ突入し、脱出する、それを十日でやらねばならないというところだけだった。
「……アクゼリュスまでにそもそも五日はかかる。──厳しいな。失敗は絶対に許されないということか」
「ほんの少しの遅れも失敗も命取りになるってことなのね?」
「……障気や星の圧力を防ぐための譜術障壁は絶対に必要で、だが百三十時間しか持たねーんだな? 脱出は?」
ルークも聞いた話を脳裏で反芻しながら、必死に理解しようとした。
「アルビオールを使う。アストンが道具持って飛び出して行ったからな。今、圧力中和の音機関を取り付けておるはずじゃ。終わったらタルタロスの格納庫に入れておいてくれる」
「何から何まで、ありがとう……!」
細々した打ち合わせをして、全員がこれからの流れをかっちりと飲み込んだころ、若い技師の一人が港の方角に狼煙が上がったと告げて来た。
「港も準備が整ったようじゃ! さてタマラ、見送るぞい!」
「あいよっ!」
「行きましょう、ルーク! 一分一秒を惜しまなきゃ!」
「ああ!」
「……待て! 神託の盾兵が……!」
集会所の入り口で、アッシュが仲間たちを手で制す。
「リグレット教官?!」
集会所の入り口を取り囲んだ神託の盾兵の背後から、リグレットがゆっくりと現れた。「スピノザが書いていた通りだ、やはりここにいたか。地殻を静止されては困るのでな。お前たちを行かせるわけにはいかない。港もすでに我々が制圧した。おとなしく武器を捨ててもらおうか」
「──っ、どけよっ!」
「……出来損ないは、」
「タマラ、やれいっ!!」
イエモンの号令と同時に、タマラの構えた火炎放射器の大きな炎が、恐ろしい勢いで神託の盾兵を薙いでいく。舌打ちをしてリグレットは飛び退いたが、間に合わずに多くの兵の軍服に火が乗り移った。悲鳴を上げて転がり回る兵、またそれを追い、火を叩き消して仲間を助けようという兵の上を、火炎放射器を振り回すタマラの炎が更に舐めていく。その場はあっという間に阿鼻叫喚の地獄絵図となった。
「今じゃ、行けい!」
「けど……っ!」
置いては行けないと首を振るルークに、タマラが噛み付いた。
「あたしらの仕事を無駄にする気かい?! タルタロスを守るんだ、沈められるんじゃないよっ!」
くっと唇を噛んで、全員が走り出す。尚も周囲を薙いで行く炎を避けてリグレットがタマラに銃を向けるのがルークの視界の端に映った。キャンッという聞き慣れた弓弦の音が高く響き、ナタリアの矢が左の銃を突き通し、弾き飛ばす。そのナタリアを守るようにアッシュが殿を務めており、ナタリアを狙って撃たれた銃弾を剣で弾いた。
「──アッシュ!」
「早く行け!」
「え、ええ!!」
「イエモンさん!!」
振り返り振り返り走るルークの視界に、リグレットを止めようとイエモンが飛びかかるのが見え、ルークは悲鳴を上げた。殿のアッシュが足を止め、振り返って壁に叩き付けられたイエモンを見、再び顔を戻してルークの顔を見据える。
見つめ合ったのはほんの一瞬だったはずだが、二人の視線が交錯し、互いに互いの意思を読み取るその一瞬は、まるで時間が止まったようにルークは感じた。
「アッシュ!」ルークの表情がくしゃりと崩れ、今にも泣き出しそうに歪む。「──守ってくれ……!!」
心とは裏腹の願いを舌に乗せるのに、非常な葛藤があったはずだったが、ルークはそう叫んだ。アッシュの口元が、満足そうな笑みを刷く。
アッシュが無言で踵を返すのと同時に、ルークはもう振り向くのを止めて真っ直ぐ前を向いて走り続けた。ちり、と頭が痛む。
《任せろ》
一言だけ告げて、アッシュはルークの返答を待たずに回線を閉じた。
「ルーク……!」
気遣うように隣に並び、声をかけるナタリアに、ルークは思いがけないほど力強く、太陽のように笑った。「大丈夫だ、アッシュは強いから……!」
アッシュを特務師団の師団長と見知っているものが遠巻きにしたまま戸惑っているうちに、何も知らずに向かって来る神託の盾兵を容赦の欠片もなく倒す。一撃で仕留めねば頭数は減らない。その合間にイエモン、次いでタマラを集会所の中に突っ込み、アッシュは己の身体で守るように入り口を塞いだ。技術者を殺すのが目的ではないのだから、万が一自分が倒れたとしても踏み込みはすまい。
「お前ともあろうものが、あの出来損ないのレプリカになぜ入れ込むのだ。憎んでいたのではないの?」
「出来損ないのレプリカ? 口の聞き方に気をつけろ、リグレット。俺たち被験者の代わりにこの世界の次の主人公になるものたちだろ。もっと敬意を払うんだな」
アッシュはリグレットを鼻で笑い、嘲るような笑みを浮かべたまま兵たちを睥睨した。
「それで? ヴァン・グランツが犯罪者として指名手配され、全世界が崩落の危機に瀕していると発表されたにも関わらずヴァンに付いているお前らは、家族や友人、好きな女の命すら諸共にヴァンに捧げ尽くすつもりだと思っていいんだな?」
「──ヴァン謡将は、忠義を尽くすものには預言のない新たな世界を見せてくれるとおっしゃった!」
「──ハ! ヴァンも案外セコいやつだな! 言葉は正確に使えよ。見せてやるのはこいつらの『レプリカ』にだろ」
呆れたように言葉を返すアッシュに、数人が目を見開いた。窺うようにリグレットを見つめる。
「貴様……!」
「アッシュ師団長、導師イオン、キムラスカ王、マルクト皇帝の連名で行なわれたあの発表は……本当のことなのですか?」
最もアッシュの近くにいて槍を構えていた兵が恐る恐るそう聞くと、なんとはなしに周囲に答えを待つような、弛緩した空気が漂った。
「てめえらは馬鹿か。耳に心地いい嘘なら付く価値もあるだろうが、下手すりゃ世界中がパニックになるような嘘をなんでわざわざ発表しなきゃならねえ」
「黙れアッシュ!」
「黙るのはお前だ、リグレット。どうしても口を開けてえなら、せめてこの可哀想な兵たちにヴァン・グランツ総長閣下の壮大な計画を聞かせてやるために使うんだな。沈む大地の代わりにレプリカの大地を作り、全人類のレプリカを作ってそこに住まわせる。素晴らしい計画じゃねえか? もっと大げさに喧伝しろよ」
嘲りと呆れを隠そうともしないアッシュに、周囲を取り囲んだ兵たちは明らかに動揺した。ヴァンにどのような弁で説得されてダアトの最高指導者の発表を無視する気になったのか知らないが、思った通り、真実を聞かされた上で、納得して行動しているのではないのだ。
「だっ、だけど、レプリカなら俺自身と言えるんじゃ……」
「そ、そうだよな! な?!」
数人が己自身に言い聞かせるように言うのを、全員が思案するように沈黙する中、最初に質問してきた兵士が「アッシュ師団長……」と伺いを立てるように呼びかけた。
「さっき、この女が俺のレプリカを『出来損ない』と呼んでたのを聞いてたろ。少なくとも、制作者は同じものとは思っていないようだぜ」
完全に周囲から敵愾心が消えたと見て、アッシュは笑みを獰猛なそれに変え、血脂の滴る剣を軽く振って構えた。「同じ六神将同士、本気でやり合うのは初めてだな。──巻き込まれねえように全員下がってろ」
全力でやり合える相手と対峙して、血の滾らない男がいるはずもない。心配しているだろうルークに悪いと思いながらも、アッシュはよくぞこの場に俺を残してくれたという興奮を押さえきれなかった。
「くっ……」リグレットが右手一丁の銃を構え、唇を噛む。
ヴァンはどのようにかアッシュを利用するつもりでいるのだ、殺すなと言われてはいるだろうが、この期に及んでヴァンの命令を守る余裕など与えるかと、アッシュは自分から足を踏み出した。
「……?!」
勢い良く飛び出した足を急に止めようとしたため、前につんのめりそうになり、アッシュは慌ててバランスを整えた。
「「……なに?」」
奇しくも、アッシュとリグレット、対峙するものから同時に同じ音が溢れる。アッシュは無言のまま、あっけにとられてリグレットの身体の中心に急に生えた槍の穂先を見つめた。視線の先でリグレットが右腕を身体に巻き付けるように後ろに回し、一発だけ発砲する。そのままよろめくように前に進み出て穂先を抜き、耳障りの良くない咳と同時に血を吐いた。ぎりぎりと音がするような動きで顔を上げ、大きく震える手でアッシュの顔面に銃口を向けるが、狙いが定まらぬまま腕が落ちていく。ほとんど反射反応で銃口が火を噴いたが、この状況を何一つ変えることがないまま弾は地面に吸い込まれていった。それを追うようにリグレットが俯せに倒れると、後に血塗れの槍を構えた神託の盾兵の姿が現れた。背後に向けて撃たれた弾は兵の太腿に当たったらしい。穂先が鳴るほど震えていたが、急に痛みに気付いたように兵は槍を放り出し、奇声を上げて両手で腿を押さえ、頽れた。
「ヴァン……」
呟きに視線を落とすと、少しずつ斜のかかっていく瞳を虚ろに見開いたまま、リグレットが何かに縋るように手を伸ばしていた。
「……歪んだ世界を……改革して……」
「……ち。余計なことしやがって」熱くなった血を持て余し、アッシュは小さく吐き捨てた。
「アッシュ師団長、我々はどうしたら……?」
武器をおろして伺いを立てる兵たちを見回して、アッシュはふうっと息を吐いて気持ちを切り替える。「知るかと言いたいところだが、そうも行かねえんだろうな。……第七譜術師は何人いる? ──よし。全員で住民の安全を確かめろ。怪我人を治療してまわれ。あとのものは町中の破損状況を調べに行け。人力で直せるものと、後日弁償するもののリストを作成して、後者は詠師トリトハイムに。教団への信頼をこれ以上地に落とすなよ。兵は命に関わるもの以外は後回しにしろ。こういっちゃなんだが、てめえらは自業自得だ。──そこの。腿には動脈もあるがそこなら命に関わらねえ、おとなしく順番を待っていろ」
命令されないと動くことの出来ない兵たちがそれぞれ散って行くと、アッシュは白けた目で足下に転がる元同僚を見下ろし、深く、長いため息をついた。