「……次に、第三セフィロトと第一セフィロト、繋いで。オーケー次、第六セフィロトの横に『ツリー降下、速度通常』。もう一息だぞ、『第一セフィロト降下と同時に起動』……よし、ルーク、よく頑張ったな!」
ジェイドから託されたメモを読み上げるガイの横で、ルークは集中してセフィロトの書き換えを行っていたが、くしゃくしゃと頭を撫でられるに任せて身体を揺さぶりながら、どこか不思議そうに両の手のひらを見つめた。
「レプリカ?」
「あっ、うん」気遣うようにかけられたアッシュの声にルークは振り向き、笑ってみせた。「何だか、前よりも楽に制御出来たような気がしてさ。精度も上がったみたいな……。疲れてもいねーし。……お前が側にいてくれるからかな」
「ルーク、言うねぇ!」
アニスが破顔してからかいの声を上げたが、すぐに真顔になってルークの顔を覗き込んだ。「そーいう話じゃないっぽい……?」
「心や身体の疲労度とか、そういったものも関係するのではないかしら……?」
顎に手を当てて生真面目そうに考え込むティアに、ルークは戸惑ったように首を振った。「身体、今すげー疲れてる。夕べア、もがっ」
「次は俺がやってみる。それで力が干渉し合うのかどうかわかるかも知れねえし」
実にさりげなくアッシュは動いてルークの口を塞いだが、女性たちの軽蔑の集中砲火を喰らうことは避けられなかった。
ガイがそんなアッシュを気の毒そうに見やり、口を開いた。
「ルーク、『アレ』に関することは、当人同士としか話さないのが普通なんだ。ファブレ家は、お前にそれを知られないようにしていたけど、外では簡単に裸を見せてはいけないのと同じで、そういうルールなんだ」
ガイは、それを知らないのはルークが無知だからではないということをしっかり交えて言って聞かせた。
「……そうなのか?」
驚いて、確認するように振り返るルークに、アッシュは曖昧に頷いた。
「……ファブレ家に都合良くお前を育てるために、お前に知られたくないことがたくさんあったわけだが、『アレ』に関するどれは知られても良く、どれがまずいかという知識の振り分けがし難かったんだろう……」
まさに同じことで馬鹿な葛藤をしていたアッシュは、上手い線引きをしてくれたガイに感謝の視線を投げ掛けた。その先でガイが肩を竦める。
これで他人に筒抜けになることもなく、しかしルークに変に知識を与えて不必要な羞恥心を煽ることもない。そのように内心でほくそ笑んでいることが少女たちに知られようものなら、凄まじい非難を浴びることになるのだろうが、無表情が幸いして彼のそんな考えは誰にも悟られることはなく、ルークは神妙に頷いた。
「外では簡単に、って、中では裸でもいいわけ?」
首を傾げるアニスに答えたのはナタリアだった。「旅の間はともかく、わたくしたちは本来入浴も一人でする習慣ではないのです。わたくしは女ですから、世話も同性のメイドがやってくれますが、ルークの入浴のお世話は、ガイか、メイドが行っていましたわ。ルークは普段の着替えくらいは自分でやっていたようですけど……夕食の着替えもメイドの手を借りたでしょう?」
「うん」
「それが女性であろうとも、ルークが使用人の前で裸になることをいちいち恥ずかしがるようなことはないんですの。でも貴族の習慣を知らない人の前で、同じことするわけには行きませんでしょ」
感心したように頷くアニスとティアを尻目に、ガイが目を見張った。
「君も?」
「まあっ!」途端にナタリアが眉をきりきりとつり上げ、アニスとティアが軽蔑の視線をガイに向ける。
「女性は夫以外の殿方に肌を見せてはいけない教育もされるんですの!」
「ガイ、今想像したでしょ! したよね?!」
「まあっ、ガイ、あなた!!」
「最低な人ね……」
「ガイって、何気に失言が多いって前ティアが言ってたけど、今のもそうなのか?」
「完全に失言だな」
「ナタリアの裸を想像しちゃいけなかったんだな?」
「……しても良いが、他人の裸を想像するなら、せめて人にそれを悟られないようにこっそりするべきだ」
「なんで」
なんで? 答えは簡単だ。だがその答えの根本部分を、今のルークは理解することが出来ないだろう。アッシュは返す言葉に詰まり、結局唸って考え込むフリをしながら徐々にルークから距離を空けていった──逃げるのがデフォルトになりつつある自分を情けないとは思うのだが。
アルビオールから下りて紫色に澱んだ空の下に立ったとき、ルークは自分を呼ぶか細い女の声を耳に拾って周囲を見回し、ある一角に目を留めると驚愕のあまり叫び声を上げた。アッシュ初め仲間たちが何事と身を強張らせたときには、ルークはもうその人たちの姿目がけてまっしぐらに走っていた。
「ファブレ公爵夫人?!」
さすがのアッシュもぎょっとして身を強張らせる。ここには障気は届かないが、一歩街から出ればそこは死の障気渦巻く魔界なのである。
「叔母様?! ルークに会いにここまでいらしたの?!」
「えーっ?!」
「お、奥様はお体がお悪いのではなかったかしら!」
「無茶なことを……っ」
アッシュは言葉もなく、駆け寄って行くルークとそれを待ち受ける男女を見つめた。ほんの少し、距離を空けたままでルークが立ち止まると、シュザンヌが焦れたように両手を広げて自分から息子に抱きついていく。小柄で痩せたシュザンヌを、何故だかルークが受け止め損ね、たたらを踏むのが見えた。
「母上……っ! お身体が弱いのに、こんなとこに来ちゃダメですよ……っ」
偽物の自分が母上と呼んでもいいのかとずっと悩んでいたルークだったが、あまりに思いも寄らない邂逅に、思わず素直な言葉が転がり出る。それが、シュザンヌに更なる力を与えたことも知らず。
「あなたも来ると聞いて、もしかしたら一目だけでも姿を見られるかも知れないと旦那様に我が侭を言ったのです。さあ、ルーク、わたくしに良く顔を見せて……ああ、元気そうね。それに、なんだか綺麗になったこと……」
「き、綺麗って。おれ、男です、よ?」
戸惑ってシュザンヌとクリムゾンを見比べるルークに、クリムゾンも苦笑した。「私も息子しか持った憶えはないのだが……。お母さんの言うこともわからんでもないようだ」
「男の子だろうと女の子だろうと、愛する人から大切に愛情を注がれていれば、綺麗になるものなのです」
シュザンヌの言葉にルークははっとし、ついでじわじわとこみ上げる喜びに頬を染めた。「……はい」
「良かったわ。あの方はきっと約束を守ってくださるだろうと思っていたけれど、あなたが元気そうで、幸せそうで……ほっとしました」
「付いて来ると駄々を捏ねた甲斐があったな」
「ええ」
ルークの記憶にはない、両親の自然な、仲睦まじい姿を見て、ルークは驚いて二人を見比べた。
「何だか母上も、綺麗になられたような気がします。……あの……前よりずっと」
「まあ、口も巧くなったこと」シュザンヌは微かに頬を染め、嬉しそうに笑った。「少し、身体が丈夫になってきたようなのです。そのせいかも知れませんね」
ね? というような妻の視線を受けて、公爵が照れたように視線を逸らすのを、ルークは不思議そうに見つめた。
「……どうした」
息子のそんな視線を感じ、クリムゾンがルークに視線を向ける。ルークは叔母夫婦を気遣うナタリアを先頭に、アッシュをも含めた仲間たちがこちらに向かって来ているのを目のはじに入れた。
「あの、被験者のルーク……父上と、母上の本当の息子が、そこに来ています。お会いになりませんか……?」
ルークが恐る恐る申し出ると、息子の視線を追った二人が「あら」「おお」と声を上げる。
「確かに息子の伴侶なのですから、息子と言えますわね。あなた」
「そうだな、彼は一度屋敷を訪ねてきてくれたが、ルーク、改めて私たちに紹介してくれるかね」
「え……」
ルークは戸惑ってクリムゾンとシュザンヌの顔を見つめた。そこにいるのが二人の本当の息子なのに、わからないのだろうか?
「叔母様、お体は大丈夫ですの?」
「ごきげんようナタリア殿下。あなたもお元気そうで良かったわ。兄上様がたいそう心配していらっしゃるので、早くお顔を見せて差し上げて」
ナタリアがその場に飛び込んで問うのに、シュザンヌはにこにこして答える。イオンを始め、すでに全員と顔見知りなシュザンヌは、親しみと礼儀を程よく混ぜた笑顔で挨拶を交わしたが、以前見た時とは顔色のみならず肌の色艶までが変わっていて、全員が狐につままれたようにきょとんとしている。一月もの間ルークが行方不明だったせいで、まるで死人のようにやつれ果てていた、その微かな名残さえない。
「あの……アッシュ」
迷子の子どものように途方に暮れたルークが呼ぶのに気付いて、アッシュが他のものたちをかき分けて側に寄ると、ルークはぐい、とアッシュを自分の横に引き寄せた。どんなに鈍くたって、アッシュとルーク、二人が並べば気付くはずだ。二人はルークがレプリカと知っているのだから、芋づる式にもう一人が被験者だとわからないはずがないのだ。
「アッシュさん。お礼を言いますわ。約束を守って下さって、ありがとう。息子を見れば、あなたがこの子をどれほど慈しんで下さっているのかわかります」
ルークのみならず、愕然とした沈黙が流れる中で、シュザンヌはルークを愛おしそうに抱き寄せながらアッシュに微笑みかけた。それはルークに向ける、親から子へ向ける手放しの愛情の籠った笑顔とは、少し違った。ナタリアに向けたのと同じ、親しみを込めたものでありながら、どこか気を置いた笑顔。親しいが、あくまで他人に向けるものだ。
「ルーク?」
クリムゾンが促すようにルークに問いかけ、ルークは反射的にアッシュの腕を強く握った。
「あの……アッシュ、です。おれの、一番大切な人で……。でも、ほんとは、」
クリムゾンがそこでルークに笑いかけ、父の優しい笑顔など初めて目の当たりにしたルークが絶句している隙に、その顔を少し引き締めてアッシュに向き直った。
「お前のことを少し調べさせてもらった。神託の盾の響士というのは嘘ではないようだが、師団長という任を今は解かれているようだな。今後息子をどのように養って行くつもりなのか、聞かせてもらおうか」
「直属の上司、ヴァン・グランツの指揮下から離れるため、一時的に六神将から退いているために解任扱いとなっていますが、身柄は第六師団師団長のカンタビレ預かりということになっています。ダアトでヴァン・グランツの処遇が定まり、正式に私に対する指揮権がなくなった時点で、再び元の任に就くことになっておりますのでご安心を。それに、本来の私の身分であるローレライ教団詠師の職は未だ失っておりません」
ええっ本当、いつの間に……というどよめきが起こる中、アッシュは兼ねてから用意していたようにすらすらと答えを述べる。それを聞いて、クリムゾンがようやく満足げな笑みを浮かべ、腕を伸ばしてルークの髪をくしゃくしゃと撫でた。
「この子を路頭に迷わせるようなことにならないのならば、それでよい。お前の言葉を疑う気はなかったが、どうやら本当に息子もお前を好いているようだ。お前のところへやるのに、我々にもう否やはない。我が侭な甘ったれだが、根はとても素直で優しい子だ──よろしく頼む」
ニヤリとしか表現しようのない笑顔でアッシュに手を差し出すファブレ公爵、またそれを恐縮したフリで握り返すアッシュの胡散臭い笑みはそっくりで、確かな血の繋がりを感じさせるのに。両者は結局、互いにそれをちらりとも匂わせなかった。
「ルーク」
呼びかけや視線が己に向いているのに気付き、自失していたルークが慌てて顔を上げると、クリムゾンが苦笑して言った。
「このようにまだ子ども子どもしたお前をよそへやるのは不安で仕方がないのだが……。嫁ぐものには持参金を持たせるのが世の習いなのでな、土地を用意した。我が領地べルケンドの山一つ、持って行くがいい。本当はもっと付けてやりたいのだが……。お前の婿殿は頑固そうだからな」
「え、あの……」
「生活に疲れたらいつでも戻って来なさい、いいな?」
「あなた」夫の台詞をシュザンヌが苦笑で嗜める。「一度家を出たものが、そう簡単に実家に戻ってくるようでは困ります。だけどルーク。遊びにくるのなら歓迎しますからね」
「えっと……はい……」
さすがのルークも、クリムゾンとシュザンヌが真実に気付いていないのではなく、三者がそれぞれ己に課した役割を、忠実に演じているのだと気付かないわけにはいかなかった。いや、三人が顔を合わせた時から気付いていたのに、信じたくなかっただけだ──アッシュの言う通りだった。三人は、赤の他人になることを選択したのだ……。
「はい。バチカルに行くときには、必ずうちにも寄ります。──アッシュと一緒に」
断ち切られそうな三者の絆を再び結ぶことが出来るのは、もうおれしかいないんだ……とルークは使命感に駆られて固く拳を握りしめた。
ローレライ教団最高指導者である導師イオン、キムラスカのインゴベルト六世、マルクトのピオニー・ウパラ・マルクト九世、ケセドニアのアスターにユリアシティのテオドーロ・グランツ。このような事態にならなければ、決して同じテーブルに着くことのなかった五人が、存在すら知らなかったユリアシティで顔を合わせた。
平和条約が結ばれるのである。
今後各国が取るべき政策をすりあわせている途中、発言を許されたルークが、スピノザとディストに教えられたヴァンの目的を話し、妨害に対する警戒を促した。言わば人類撲滅といったヴァンの目的に、一体何が動機なのだろうと全員が青い顔を見合わせたところで、テオドーロが悄然と肩を落とした。
「……ティアの言う通りだったのかも知れん。ヴァンは、世界に復讐したかったのかも知れん……」
「どういう意味ですか?」
テオドーロの呟きをイオンが拾い、声をかける。全員の視線が集中する中、テオドーロは一回り小さくなったように背中を丸めた。ティアが慌てて立ち上がり、力づけるように、慰めるようにその背を撫でた。
「──やっぱり、ホドの崩落が関係してるんだ。ティア、言ってたよな、ホドの崩落のとき、師匠と師匠の母上が魔界に落下したんだって。師匠も譜歌を歌って……」
「え、ええ。兄さ、兄はいつもホドを見捨てた世界を許さないと言っていた……。兄がこの街に最後に帰って来たとき、私は兄が何か恐ろしいことを企んでいると思ったんです。それで……」
「ファブレ家でヴァンを襲ったんだな……」
固く拳を握ったガイとティアを気遣うようにルークは見つめ、ぎゅっと目を閉じた。「でも、だったら。世界がホドを見捨てたことを許せない師匠が、なんでアクゼリュスを見捨てることが出来たんだろう……」
呟き、ルークは驚いて目を開けた。テーブルの下で、誰にも気付かれぬよう、アッシュがルークの手を握ってくれたのだ。瞬きとともに涙が頬を転がり落ちていき、ルークは慌てて反対の手で涙を拭った。
「……ホドは、見捨てられたのではない」
陽気で、いつもどこか人を食ったような表情をしているピオニーが、眉を強く寄せた苦渋に満ちた顔で唸った。「人為的に落としたのだ、アクゼリュスと同様に。──マルクトの手によって」
「……?! そっ……そ、それは、どういう、」
ガイが悲鳴のような、裏返った声を出したが、皆は笑わなかった。視線がかたちを持ったなら、おそらくハリネズミになったであろうピオニーが、伸しかかる重力に逆らうようにゆっくりと口を開く。
「ホドでは様々な譜術実験が行われていたが、戦争の開始とともにそれらはすべて引き上げた。だが、フォミクリー実験に関しては施設の規模が大きすぎ、すべてをよそへ移すことが出来そうになかった。キムラスカはホドに迫っていて、侵攻とともにこれまでの実験データが奪われると怖れた前皇帝──父は、実験データもろとも侵攻して来たキムラスカ軍を葬り去る一石二鳥の計画を立てた。──当時のフォミクリー被験者を装置に繋ぎ、疑似超振動を起こすことによって、ホドを焦土に変えるというものだ。崩落は我々の無知の結果にすぎん。そしてこれをキムラスカの仕業とし……反戦派の声を封じた」
ガイが信じられないと言うようにゆっくりと首を振り、ぐしゃぐしゃと髪を掻き回し、そのままテーブルに突っ伏すのを、全員が言葉を失い、唇を噛み締めて見つめた。ルークが感じている憤りをアッシュも感じているのか、握る手に力が籠る。
「被験者の人が可哀想……」
アニスの小さな小さな、子どもらしい同情の言葉を聞き、ピオニーがほんの少しだけ厳しい表情を緩めた。
「──ガイラルディア。お前はまだ小さかったはずだが……もしかしたら憶えがあるかも知れないな。被験者は、ガルディオス家に仕える騎士の、十一の息子であったと記録には残っている。──確か、フェンデ家と言ったか」
弾かれたようにガイが顔を上げた。まるで雷に打たれたかのように全身が震えている。彼は驚く人々に頓着せず、血走った目を見開いてティアに向けた。
ティアはがくがくと震える身体を、今は反対にテオドーロに支えられていた。ガチガチと鳴る歯を押さえようと口元に震える拳を持って行ったが間に合わず、覆ってしまう前に悲鳴が迸り出た。
「兄さん……!!」
全世界が固い平和条約で結ばれた歴史的な日に、『元』ローレライ教団詠師、神託の盾騎士団主席総長ヴァン・グランツ謡将、本名ヴァンデスデルカ・ムスト・フェンデが、彼の部下四名と共に国際指名手配された。