ふっ……と空気が動くのを感じ、だが寒いと思う間もなく暖かいものが全身に絡まってきて、アッシュは薄らと笑んで猫のように満足そうに唸った。
「……もう歩けるのか……?」
「……うん」
会話はそれで終わり、すぐに傍らから安らかな寝息が聞こえてきた。たった一月という短い時間に、この気配はデュベットをめくり上げられてもすぐには気付けぬほど馴染んでいて、ゆるゆると覚醒を促しはしたが眠りを妨げるようなことはない。アッシュは自身の身体に巻き付いている暖かいものを強く抱き寄せ、またとろとろと微睡んでいった。今、一体どういう絡まり方をしているんだろう……と別に答えを必要としない疑問が沸いたが、互いの体勢を全く想像することが出来ないまま、すぐに消えた。
「ルークさん、アッシュさんの部屋に入って行きましたが……」
ルークが与えられた部屋からふらふらと抜け出したのが、監視していたモニタに写り、シュウが慌てて様子を窺いに走ったのだが、アッシュが眠る部屋から出て来る様子がないのに困り果て、再び研究室に戻って来た。
「──あれじゃよ」スピノザが笑みを含んだ声で答えるのにシュウが視線を動かすと、一人用のベッドに二人が寄り添って眠っているのが目に入った。
ルークはアッシュの脇の下にでもはまり込んでいるのか、暗い部屋ではあまり色の区別のつかない髪がほんの少し、薄いデュベットからのぞいているだけだ。アッシュはそれを大事そうに抱え込み、鼻をルークの髪に埋めるようにして眠っている。
「ああ……」シュウは納得したように頷き、苦笑を漏らしてから慌ててディストを窺った。「いいんですか?」
同じく口元に苦笑を刷いたジェイドの向こうで、盛大に顔を顰めたディストがそっぽを向いた。「……一つベッドで眠るくらいなら、まあいいでしょう」
「分けておくと落ち着きなくごそごそしていたようじゃったが、やっと安心して眠れたようじゃの」
「こうやって見ると、ルークさんはともかく、アッシュさんもまだ子どもなんだとわかりますね」
「子どもはあんな風に背中を引っ掻かれたりはしませんけどね」
「ははは……」ジェイドの突っ込みに、スピノザとシュウが苦笑する。
「どうしてなんですか……」
椅子の上で足を抱え込み、他の三人から顔を逸らしていたディストがぼそりと呟いた。
「虹彩、網膜パターン、指紋、静脈、一卵性双生児でも違うと言われている部分でさえ寸分同じ。遺伝子も、音素振動数も同一。一卵性双生児などより余程同一人物と言える二人がなぜこんなに違うんですか……」
世にも哀れっぽい声にシュウは目を見張り、訳知り顔でスピノザとジェイドが目を見交わす。
「……環境が人を作るとも言いますし──人格形成という意味ですが、身体的にも私は当てはまると思います。育って来た環境、受けた教育、運動量、その質、食べて来たもの、またその量、ありとあらゆることが違えば、この結果も不思議ではないのでは。すでに体重、身長、視力もずれて来てますね」
シュウが生真面目に答えるのを、ディストは膝に顔を埋めるようにして黙って聞いていた。
「……被験者も、レプリカも、同じ条件で生育する研究所内では気付かんことじゃったの」
「スピノザ博士、アッシュが十歳当時は見分けが付かなかったとおっしゃいましたね?」
「つかんかった。髪の色と……。強いて言えば、強い意思のあるものとないもの、その目の光くらいじゃった。しかも、我々は真相を知っておるからこそ些細な違いも気付くが……知らぬものには難しかったじゃろう」
スピノザはジェイドの問いに答えながら、今回採取した二人の生体データを過去のものと比べ、ため息を付いた。「儂も二人のことをよく知らん間では、どちらか片方だけに会うと一瞬区別がつかんかったが……。今は二人が意識的に互いのフリをしても見分けがつくじゃろ。そのぐらい、違う。──のう、ネイス博士」
「……うるさいですよあなた方は! 私は部屋で資料をまとめて来ます! 二人が布団の下で怪しい動きをしているようなら、行って剥がして下さいよ!!」
三人の顔を見ないようにディストは研究室を飛び出していき、戸惑うシュウにジェイドはため息を付いて肩をすくめてみせた。
朝食どころか昼食も水も摂らせないまま、大きな研究所内を右へ行け左へ行けとたらい回し、四人でたてた研究方針に従い、必要と判断した全ての検査をようやく終えて遅い昼食──もはや早い夕食というべきか──を食べてもいいと許可をしたときには、アッシュもルークもすでにぐったりと疲れ果てていた。
「これで必要な検査は終わったのか? 全部?」
問いかけるアッシュの声が、微かに緊張を孕んでいるのにジェイドは気付き、僅かに眉を動かしたが、彼の探るような視線に気付いたアッシュが一瞬だけ目を伏せたものの、すぐに挑戦的な目で睨み返してきたのに苦笑して「終わりですよ」と答えた。
ふん、と鼻を鳴らして何事もなかったようにすっかり凝ってしまったらしい肩をまわしたりしているが、ほっと胸を撫で下ろした気配が読めないジェイドではない。アッシュが何か隠しているらしいことにすぐ気付いたが、口に出しては何も言わなかった。大爆発を回避するために必要な情報だと思えばアッシュも隠しはしないだろうし、この様子ではルークのいる場では決して口を割るまい。今のところ、こちら側で調べておくべきだと四人で判断したことは全て調べた。隠し事をしているらしいことを知っているだけでよしとする。
「明日からは鋭意外殻降下作戦に従事していただきますけど、さしあたって今日はもう自由にしていいですよ。宿は取りますか? 今夜もここに泊まられて構いませんけど」
「いや、監視付きの部屋に二晩はぞっとしねえし、俺は一旦帰ろうと思う」
「ああ……『隠れ家』ですね」
「しばらく戻って来ねえなら、それなりに整理しておきたいしな。お前はどうする」
最後の問いはジェイドではなく、ルークにだ。
「うん。おれも帰る」ルークは少し思い出すように首を傾げた。「鍋……はお前が洗ってくれたんだっけ? アレしたあと、シーツ剥がしもしないで出て来ちまったし……マットに染みてねえかな? 日の当たるところに晒しておけば良かったんだけど……。っと林檎、林檎! せっかく買ったんだから、アップルパイ作らねーと! 今度こそアニスとティアに食わせてやらなきゃな!」
おやおや、というようにジェイドは片眉を上げてアッシュをちろりと見やったが、アッシュは無邪気に騒いでいるルークを苦笑で見守っていて気付きもしない。
「──まあ、ごちそうさまと言っておきましょうか」
「あっ、ならここへも差し入れするからな!!」
意味を取り違えたルークがジェイドに笑いかけるのに、ジェイドは眼鏡を押し上げて頷いた。「あなたはお菓子作りだけは上手いですから。楽しみにしていますよ」
「へへへへ~! 最近は料理の方もイケてんだぜ!」
「ああ、花嫁修業というわけですか?」
「修……っ?! アッシュは父上と母上におれのことお嫁さんに下さいって言って来たんだよな?? ──それって、なるのに修業が要ったのか?」
「──っ!」
「ほほう?」
「もう行くぞ、屑!」
「待てってばアッシュ! それならそうとちゃんと言ってくれよ! おれ、修業とか何にもしてねーぞ?! あっ、ジェイド、また明日な!」
頭から湯気を噴き上げながらものすごい早足で去って行くアッシュを、ルークが慌てて追って行く。去るアッシュに追うルーク、何度も見た光景だった。だが、ジェイドから十分距離が離れたところでアッシュが根負けしたように立ち止まり、振り向いた。ルークが追いつくと首に腕を回して締め付けるふりをし、何か叱ってでもいる様子だ。だがルークは嬉しそうに、幸せそうに笑い、両腕でアッシュを押しやった。押しやられたアッシュの顔も、微かに笑みを刷いている。
二人の子どもは走ったり追いついたりじゃれ合いながら廊下の曲がり角に姿を消した。
その様子をジェイドは不思議な、だが愉快な気分で見守っていた。色々と問題がないわけではない関係だが、こんな状況のさなかでも極々普通の若い恋人同士として精一杯楽しんでいる様子は、見ているジェイドの気分まで明るくしてくれる。
もうジェイドは、ルークが自分の誕生を苦痛に思っているかもしれないとは思わない。彼の誕生が神の采配ではなく、策謀に満ちた人のわざであったとしても、生まれた意味はその後の生き方が、きっと決めてくれるはずだ。
「ここで地震があって、アニスちゃんが手、掴んでくれたティアごと落っこちそうになってるのを、ガイ様が華麗に助けてくれたってワケ」
「そっか、それでガイが女に触れるようになったんだな。ガイ、頑張ったんだな」
「それ以外にもティアさんがユニセロスに襲われたり、大変だったんですの!」
「ティアが? 怪我、なかったのか?」
ルークはアッシュから引き離されて、完全に女性陣に取り巻かれている。その表情は向日葵のように明るく、楽しげで、アッシュと二人きりでいるときとはまるで違う表情を見せていた。それは見ているだけで、こちらも釣られて笑顔になるような。
「お前がそんな顔でルークを見ているなんて、何だか今でも信じられないよ」
ルークを囲む女性陣から弾かれたかたちになっているガイは、何となく彼女らの後ろを守るようにアッシュと連れ立って歩いている。ガイの指摘に、アッシュは弾かれたように我に返り、表情を引き締めた。
「警戒、しないでくれよ。……なんて、言える立場じゃないか。お前にはまだ色々と複雑な気持ちがないわけじゃないんだが、でももう復讐する気持ちなんてないんだ」
「……別に、警戒しているわけじゃない」アッシュは少し赤くなった顔をガイから隠すように背けた。
「いい加減な気持ちじゃないんだな。……女の子の代わりにしてるなんて決めつけて、悪かったよ」
「いや」アッシュはそっぽを向いたまま苦笑を漏らした。「あいつに対するこれまでの態度を思えば、そう思われても仕方がねえし」
「ルークは気にしてないか……?」
「気にしてねえ」
きっぱりと断言するアッシュに、ガイも苦笑を刷いた。
「一ヶ月とちょっとの間に、そんな信頼関係ができるほど仲良くなるとは思いも寄らなかったな。──一昨日港で会ったあと、アニスがルークは元々お前が好きだったはずだと言っていたが……」
「らしい、な」
無表情を装ってはいたが、どこか照れたようなアッシュの横顔を、ガイはおかしげに見つめ、そうか、と呟いて前を向いた。ルークは相変わらず、アニスにからかわれたり小突かれたりしながらも楽しそうに歩いている。時折悲鳴のような甲高い声や、おかしくてたまらないという笑い声が聞こえてきて、四人が一塊にじゃれ合っているのがわかった。アニスもナタリアもティアも、この一月憔悴するほどルークを心配していたから、今は嬉しくて仕方ないのだろう。
「ルークは、不思議なやつだな……」ガイはそんな仲間たちを笑みを浮かべたまま眺め、感慨深く呟いた。「怒りと憎しみの塊みたいだったお前を──こんな言い方を不快に思わないで欲しいんだが──手なずけるとは、な」
「復讐者からも牙を抜いたようだしな」
アッシュが喉の奥で笑い声を立てる。気を悪くした様子はなく、そこはアッシュも同意見のようだということが伝わった。
「……悪い。ファブレ公爵へ復讐をするのに、無関係のお前を巻き込むべきでないってこと、理性ではわかっていたんだ」
「……? お前の家が騎士の家系とは聞いていないが……。ホドの領主ではなかったか?」
アッシュが不思議そうに振り返って問うのに、ガイが首を傾げた。「そうだが……」
「騎士でないなら、お前は単なる復讐者、暗殺者だろ。標的の弱点を突くのは上手いやり方だと思うが」
「ずいぶん物騒なことを言うんだな……」ガイがぎょっとして思わず足を止めると、アッシュも釣られたように足を止めた。
「復讐は自分の気が一番すくやり方で遂げるからこそ復讐だろ。復讐する側、される側では論理が違う。──ま、お前が甘ちゃんなおかげで俺もレプリカも今生きてるわけだがな」
アッシュはそう言ったが、ガイの視線に咎められているとでも感じたのか、ほんの少しだけバツが悪そうに付け足した。
「神託の盾は騎士と言っても公式な身分はあくまで教団の修道士で、預言を守るため、教団に都合の悪いものを排除するために汚い真似をすることも厭わねえ。その最も汚い部分がガイ、特務師団なんだよ。ある人物を痛めつけるためにその女房や子どもを目の前で強姦したり拷問したり殺したりは日常茶飯事でな。……俺はそういうことを感心しねえと思っていたが……悪い、やっぱり麻痺しているようだ」
ガイは一瞬呆然と立ちすくんだあと、ぐしゃぐしゃと髪の毛を掻き回した。アッシュの言う「甘ちゃん」という言葉が胸を抉る。一瞬はムッとしたが、その通りなのかも知れない。少なくともガイは「甘ちゃん」のまま大過なく生きて来られた、それがとても幸運なことだとも思わず。
ローレライ教団のえげつない所業を隠すでもなく淡々と言ってのけるアッシュに、ガイは微かに肌が粟立つ思いがした。幼いころに白光騎士たちに接していたせいか、貴族たちが尊ぶ『騎士道』というものをそれなりに理解していながら、自分とは無関係なもののように語る、そのことがキムラスカが彼に対して行って来たことの、最大の罪のようにも思える。本人がそれをまるで気にした様子がないのが一番惨い、悲しいことだと。
「いや。俺も、ルークのおかげでそれを実行せずに済んで良かったと思ってるんだ。それに、ファブレ公にとってどれほどのダメージになったのかというと疑問だしな」
「なったさ」アッシュは何かを思い起こすように目を細めた。「『息子』の死は、ファブレ公爵にとって酷いダメージになったろう」
「……ファブレ公爵、か」
ガイは苦笑して呟いた。「……まるで他人のように言うんだな。本当に無関係で通す気なのか」
「あいつが大切にしている人たちだ、無関係じゃねえ」
ガイは特に気負った様子もない柔らかなアッシュの表情をじっと見つめた。「筆頭公爵だぜ。跡取りはどうするつもりなんだ」
「それこそ、その跡取りを狙っていたお前や、他人の俺が心配することじゃねえだろうよ。……閉門するつもりでいたと聞いた」
「……」
ガイは空を仰いで、大きく息を吐いた。自分は家族を失ってからの十有余年、あまりにも何も見ず、何も知ろうとせずに過ごしてきたらしい。どうやらルークもアッシュも、ファブレ公爵ですら、自分は正しく評価が出来ていなかったようだ。「ルークのあんな話を聞いたせいかな。まだ俺は、ファブレ公には良い感情を持てそうにない。だが……俺はもっと、いろんなことを知るべきだったのかも知れないな」
「……」
「アッシューガイー何してんだよー急げってー!」
いつの間にかルークらはずいぶん先へ進んでいたらしい。遠くから少し間延びして聞こえるルークの呼び声がかけられた。
「ああ、今、行く!」
ガイは大声で答え、再び歩き出すと肩を竦めてみせた。「あいつはほんとに不思議なやつだ。どんな人間の心も溶かす力を持ってる……。結局、あいつのことを誰も長くは嫌えなかったし、憎めなかった。一番辛辣だったはずのアニスでさえ、今じゃまるで弟の面倒を見るように可愛がってる」
「──愛されて、大切に育てられているからだろう。そういうやつは、人の心を解す力を持ってるのかもな」遠くでぴょこぴょこ飛び上がりながらこちらに手を振っているルークに手を挙げて答えながら、アッシュは目を伏せて笑った。「公爵と夫人に会って、それがよくわかった」
「……」
「お前もな、ガイ。家族に愛されて育ったんだということがわかる。……そうだな、お前が俺をどう思おうと、俺はお前が嫌いじゃねえ」
アッシュはそう言うと、追い越し際にガイの肩を軽く叩いて歩き出した。ガイは驚いてアッシュの背を見送り、参ったな……と項を揉んだ。「お前だってそうだろう」とは、言えなかった。
何故だか、自分一人が成長出来ない子どものように思えた。