治療を拒否して逃げようとするアッシュをガイが押さえつけ、ナタリアとティアが譜術をかけている途中で、遅まきながら傷の原因に気付いたティアが真っ赤になって悲鳴を上げ、思わずガイごとアッシュを突き飛ばすという一幕があって、ナタリアもようやく血膿で覆われた酷い傷跡が爪で掻きむしったものであることに気付いた。気付いても、誰が、如何なる理由でこのように惨い真似をしたのか、何故アッシュが治療を拒むのかすぐにはわからず、蒼白になって震えているルークがもしや何か知っているのかと視線を向けると、彼はまるで叱られる子どものようにびくりと身を震わせ、俯いた。
城で働くものたちの話に注意深く耳を澄ませていれば、実に様々な話が聴こえて来るものだ。ナタリアとて、将来に備えて教えられていることもあり、性と言うものに対してそこまで初心ではないはずだったが、鈍いことにしばらくはそれらを結びつけることが出来なかった。だから激しいショックを受けているルークの様子をぼんやりと眺め、横合いからアニスが「ナタリア!」と小声で咎めるような声を出して、我に返った。
「わ、わたくしは、そんな……」
責めていたのではないとアニスに言い訳をしかけ、何故自分がルークを責めているのではと思われたのか、唐突にその理由に思い当たり、ナタリアは真っ赤になった。そう、本来ルークの立ち位置はナタリアのものであるはずだった。──ほんの少し何かが変わっていれば、あんな風に、アッシュの背中一面に掻き傷を付けるのは自分だったのかも知れない──。
だが、ナタリアは眉を顰めてその想像を打ち消した。はしたない想像を恥じたからではなく、ナタリアがその中で掻き傷を付けたのは、アッシュの背ではないように思えたからだった。
その日に出来る検査をすべて終えると、四人の研究者たちは結果を携えて別室へ籠り、残る面々はそれぞれティーカップを持って応接室に座っていた。
何のためにレプリカの研究施設へ来いと言ったのかはわからずとも、この一月心配で胸が張り裂けそうな思いをさせられた代わりに、少なくとも一人三発はアッシュを殴ってやろうぜと息巻いてここに来たのに。
ナタリアは毒気を抜かれたようにアッシュとルーク、二人を見つめるものたちの中で、一人彼らと顔を合わせることも出来ず、心も身体も強張らせたまま、居心地悪く座っていた。時折心配そうに様子を窺っているティアやガイが、自分の様子について誤解をしているのはわかっていた。だが、今のナタリアにはそれを正す余裕がない。
アッシュは気まずそうに女性陣から顔を逸らしたまま、ぐったりと長椅子に足を伸ばしているルークの肩にブランケットをかけたり、起きていやすいように背中にクッションを入れたり、熱いミルクティーで満たした大きなマグを持たせてやったりとまるで子どもの面倒を見ているようだ。世話を焼かれているルークの方は、申し訳なさそうな顔をしてはいるものの、そんなアッシュの姿に驚いている様子はなく、このような光景がすでに珍しくもないのだという確かな関係の変化を感じさせた。
「あのさルーク。さっきの……アッシュがルークを食い殺すってなんなの? そのことでディストやスピノザがここにいて、大佐が抜けちゃうの?」
「うん」ルークは手を温めるようにマグカップを両手で包み、やっと仲間たちの方に顔を向けて申し訳なさそうに笑った。「そのぶん、おれもアッシュも頑張るから。──あのな、完全同位体同士では『大爆発』って現象が起こるらしいんだ。まだ先の話なんだろうけど、アッシュの身体ではもうその前段階の症状が出ちまってて……」
「……ってことで、おれのこの身体はいずれアッシュのものになる。おれの記憶だけがアッシュに残るけど、自我はない。元々アッシュの一部で作られたおれが、強制的に分たれて自我を持ったけど、また一つに戻るってことで不思議はないんだろうけど……」
「とんでもありません! あなたはあなた、アッシュはアッシュですわ!」
噛み付くようにナタリアが叫び、アニス、ティア、ガイも首振り人形のように首を縦に振った。
「心と身体が揃っていてこそ一人の人間なんだよ~!」
「わっ、私もそう思うわ! 記憶があったって、自我も身体もないのじゃ、それは『アッシュとルーク』とは呼べない……!」
「……なんとかなるんだよな?」
「なるんですわよね……?」
大爆発という、誰も予想だにしなかった完全同位体同士の現実を突きつけられ、全員が言葉を失って、次々と過酷な運命を押し付けられる二人を見つめた。
「それを祈るばかりだ」アッシュは淡々とそれを締めくくった。「正直、譜術の威力も落ちて来ている今、俺がどの程度戦力になれるのかわからないんだが……」
「お前には剣があるじゃん。それにみんな、そんな顔しないでくれよ」
ルークが気遣うように全員に笑いかけた。
「まだ、アッシュもおれも、諦めてないしさ。なんせ、ジェイドと天才博士、薔薇のディスト様が付いてくれてるんだ、きっとなんとかなるよ。──それより、今後のことを聞かせてくれよ」
「あっ……ああ……」
残す方にも、残される方にもどうしようもなく惨い運命をもたらすというのに、ルークの表情はガイがこれまで一度も見たことがないほど静謐で、だが力強い。
「ルークお前……。変わったなあ……。すごく、強くなった」
その変化はガイにとっても好もしいものであったため、ガイはしみじみと呟き、笑いかけた。きょとんとしたルークが伺いをたてるようにアッシュを見やる。アッシュが良かったな、というように目元を和ませて頷くと、ルークは顔を薄紅に染めて俯いた。ガイの言葉を噛み締めるように何度か瞬きをして、ようやくガイに視線を戻し、ルークは嬉しそうに歯を見せて笑った。
「俺たち、べルケンドを出たあとタタル渓谷のパッセージリングで振動周波数の計測をしてきたんだ。結果はもうシェリダンに届けてある。禁書の音機関については、もう出来上がるのを待つだけになってるんだ」
「禁書の音機関?」
ルークが首を傾げ、傍らのアッシュが何かぼそぼそと説明をし、ルークが何度か頷いた。「じゃ、おれたちはそれが出来上がるのを待つ間に、パッセージリングの操作をすればいいってことなんだな?」
「ま、そういうことだ」
「……残念だが、スピノザがヴァンにそのことを知らせてしまうことは阻止出来なかった。途中でなんらかの妨害が入るのは確かだ」
「あっ!」突然ルークが顔を上げた。「それを話さなくちゃ! アッシュにもまだ話してなかったよな、スピノザとディストが、師匠の本当の目的、教えてくれたんだ……」
「つまり……今オールドラントにいるすべての被験者のレプリカを作って、レプリカの大地に住まわせて……」
「被験者を全員殺すってこと?! 総長まさか本気じゃないよね?!」
「……ガイ」ルークは真っ直ぐに幼なじみの顔を見つめた。「計画が進めば、ホドの住人が……ホドの住人のレプリカも、作られる」
一瞬、言われたことの意味が飲み込めず、ガイが彼らしくもない、無邪気なほどきょとんとした顔を見せる。「なん……?」
「ホドの住人のデータは、崩落の前に丸ごと保管されてるって、ディストが言った。お前の姉上のも……だ……」
「嘘!」ティアが悲鳴のような叫びを上げた。「嘘、嘘、嘘よ、嘘……ルーク……お願い、どうか嘘だって言ってちょうだい……。ガイは、記憶を取り戻したの。なぜ女性が苦手だったのかわかったのよ……! ガイを庇って亡くなった大勢の女性たちのレプリカも作られるというの? あんまりよ……兄さん、あんまりだわ……」
「……ティア」
泣き崩れるティアの背を、未だ青白い顔のガイが気遣うように撫でた。ルークが驚いて目を見張り、ほんの少し険しくなっていた表情を和ませた。
アッシュは目を細め、柔らかな表情のルークを見つめる。
レプリカだけの世界? 無理だ、絶対に。逆の場合のことはわからないにしても、ルークは子どもを作れない。レプリカの男は、子孫を残せない。レプリカたちだけの世界は、一代で終わる──。
いや。
待て。その計画のどこに俺の出番がある? ヴァンが俺に、俺の超振動でさせようとしていることはなんなのか、よく考えろ──。
そもそも『超振動』とは、ありとあらゆるものを分解し、再構築する力だ。兵器としての俺に期待するなら分解までか、昔この施設でも分解までで力を止める訓練を何度もやらされた……。ヴァンが俺に求めるのは、分解と再構築、どっちだ?
それに、第七音素はより多くの第七音素に引き寄せられる性質がある。つまり、乖離しやすい……。
「……レプリカが乖離しない方法が、人と同じように生きて行ける方法が、何かある、のか……?」
「アッシュ?」
突然ルークに声をかけられ、深い思考の海に潜っていたアッシュはぎくりと身を震わせ、我に返った。
「驚かせてごめんな? 何度か呼んだんだけど……」
「ああ、いや。すまない。……その計画のどこに俺がいるのかと思ってな……」
「──そう言えば、アクゼリュスで、兄さんはイオン様よりもあなたを優先して助けたわ……」
「超振動なら、ルークだって使えるだろ?」
ルークが悲しげに目を伏せる。「ああ、おれ……師匠に懐いてたし……利用するなら、実際おれの方が簡単だっただろうと思う。けど、おれは劣化してて使えねえって師匠が……」
「──こいつの力は、最高で俺の六割程度だとヴァンには聞いている」
アッシュが言うのに、アニスが目を剥いた。「あれで六割いっ?!」
「いや。あとで聞いたが、こいつはあのとき暗示をかけられていた。一度も訓練したことのない状態で、半信半疑で音素を集め、最後の最後で抗った。で、なければ、あの時点であの辺り一帯は消し飛んでたろうな。こいつ自身の限界値の一割も出てねえよ」
しん、とした部屋の中に、誰かがごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。
「つまり……アッシュの力でないと、分解出来ないものを分解し、再構築したい? ってこと?」
「……それは一体……?」
「……駄目だよそんな力、アッシュに使わせられるわけない、身体、消し飛んじまうかも知れねーのに……。それは今考えても仕方ないよ。そのことは頭に置くだけにしておいて、まずは大地の降下、頑張らなきゃな。……もしも師匠がこれからも邪魔をしてくるなら、これから目的を探って行くことだって出来るんじゃないかな」
アッシュが驚いたようにルークを見つめ、喉の奥でくぐもった笑い声を漏らしてくしゃくしゃとルークの髪を掻き回した。表に出さないよう自制してはいるようだが、愛おしさを隠しきれていない。「ああ……そうだな。出来ることから少しずつやっていこう」
「……じゃあ、お前たちの検査が終わった後のことを打ち合わせておくか」
ガイがそんな二人を見比べ、苦笑して頭を掻いた。
今後の行動を詳細に打ち合わせると、アッシュとルークを残して残りは宿へ帰ることになった。
「……ルーク、少しお話がありますの。よろしいかしら」
背後からかけられた声に、アッシュが驚いて振り返り、ルークは何かに耐えるように一瞬目を閉じて、振り返った。「うん……ナタリア」
「……ナタリア王女」
アッシュの瞳の奥に安堵と喜びを見いだして、ナタリアは一瞬酷く傷ついた顔を見せたが、すぐに首を振って笑った。「しばらくぶりに会った従姉弟同士のお話ですの。ですから……あなたはご遠慮下さいな」
「……は」
部屋の中に心を残したままのアッシュが最後に部屋を出ると、応接室の中には幼なじみの男女だけが残された。
「ナタリア……」
最後に気遣うようにアッシュが視線を向けたのは、ルークだった。目に鮮やかな真紅の髪が残像を残して消えたあとを、真っ直ぐに見据える蒼い瞳が潤み、開かれた口が震えているのを見て、ルークは目を伏せた。
「アッシュは……アッシュは、わたくしではなくあなたを選んだのですね」
「……っ」
「ルーク、わたくしの顔を真っ直ぐご覧なさい」
ぴしゃりと言われ、ルークはびくりとナタリアを見つめた。いつの間にかナタリアはテーブルを周り、ルークの横たわる長椅子の側に両膝を付き、ルークを見上げていた。
「ルーク。わたくしの顔をご覧になって。わたくしは今どんな顔をしているんでしょう? あなたに怒っていますか? 怨んでいるようですか? ──あなたを憎んで、醜い顔をしているのではなくて?」
ルークはまじまじと正面からナタリアを見つめ、ふにゃりと表情を崩し、おそるおそる手を伸ばして、剣を握るせいで歪になりつつある指先で、ナタリアの頬に触れた。
「……ナタリアは、相変わらず美人だ。おれの自慢の従姉弟──おれのこと、憎んでない。怒ってもいない。──怨んでも。泣いてる。けど、笑って……くれてる……」
「そうですわ」
ナタリアは頬を伝う涙をそのままに、ルークをぎゅっと抱き締めた。
「手放しで祝福出来るかと言われれば……まだ無理かも知れません。わたくしだって、ずっとルー、アッシュを想っていたのですもの。でも……でも、ずっと孤独でいらしたあの方が、国に、人に苦しめられ、それらすべてを……叔父様や叔母様でさえ拒絶していらしたアッシュが、やっと誰かと生きて行こうと思って下さったことが、嬉しい。それがわたくしでなかったことは悲しいけれど、アッシュに酷い苦痛を与え、両親も、名前も捨てさせる切っ掛けを作った我が国の王女として、従姉弟として、友人として。ルーク、あなたの幸せを祈って祝福を。あなたの幸せが……あの人の歓びとなりますように。ルーク、わたくしの大切な従姉弟。わたくしは、ずっとずっとあなたを愛しています。それを忘れないで欲しいんですの……」
ナタリアが、そっと長椅子に両手をついて伸び上がり、ルークの額にキスをした。
「ナタリア……ありがとう」
ルークは必死で腕を伸ばし、ナタリアを抱き締め、必死に涙を堪えて震える唇を開いた。「おれもナタリアを愛してるよ。おれが歩けるようになるまでガイと一緒に手助けしてくれて、絵本を読んでくれたよな? アッシュも……」
『自慢の姉』だと言っていたアッシュを思い出しながらルークは言った。それを自分の口からナタリアに伝えることは出来ないけれど、アッシュだってナタリアを愛しているんだということは、アッシュのためにもわかって欲しかった。
しばらくの間ほんのたわいのない思い出話をして微笑みを交わし、幼いころのようにじゃれ合って、ナタリアは涙の痕の残る頬もそのままに、応接室を出た。廊下の端で所在なく外を眺めていたアッシュが、その場で臣下の礼を取る。
「アッシュ」
「──は」
「みんなと一緒にいるときだけでも、みんなと同じような態度を取って下さらなければ。わたくしは身分を隠して行動しているんですの」
「……御、わかった」アッシュは苦笑し、立ち上がってほとんど目線の変わらないナタリアを見つめた。そして苦笑を柔らかいものに変えた。「レプリカを気遣ってくれて、ありがとう」
ナタリアもそれには苦笑を返すしかない。だがアッシュのこの悪びれなさは、ナタリアに取って非常に好もしく映った。「あら。どうしてそうだと思うのかしら。もしかしたら、何か意地悪をしてきたのかも知れなくてよ」
「あなたがそんな真似をしない女性であることは、誰よりも知っているつもりだ」
アッシュが柔らかい礼をして、応接室の中に戻って行くのを見届けて、ナタリアは切なさと、未だ傷口も生々しい失った恋の傷、未練、今にもみっともなくすがりついて喚き出したい苦しみに胸を押さえた。だが、その奥の奥から、うずうずとこみ上げてくる笑いもある。
「……ナタリア」
「待ってたよ。一緒に帰ろう?」
「ティア、アニス……」ナタリアは衝動のままに笑い声を上げた。「お聞きになっていらした? アッシュはわたくしを買い被っていらっしゃるんですの。もちろん、わたくしはルークに意地悪をすることが出来るんですわ。物わかりのいい従姉弟のフリをするのはアッシュに嫌われたくないからで、ルークのためではありませんのよ?」
「ナタリア……そんな偽悪的なこと言わないで。アッシュじゃないけれど、あなたがそんな人ではないって、私たちは知ってるの」
「そうそう。それに、女の子は振られるたんびに綺麗になるんだよ〜! 次はきっと、ルークなんかよりもっと良い男が現れるって!!」
えっとナタリアとティアがアニスを見下ろす。急に強い視線を向けられ、アニスはきょとんとして二人を見上げ、首を傾げた。「な……なに? まさか、恋はこれっきりなんて思ってるんじゃないよね?」
「そんなこと思ってませんわよ。あなたがアッシュをルークと呼ぶので、驚いたんですわ」
「ルークはルークだよ?」
「……わたくし、アッシュに失恋したんですのよ?」
「えっウッソ。ルークでしょ」
「アッシュですわ」
「あー……まだ勘違いしてんだ。さすがに失恋したらはっきりするって思ったのになぁ? だって、アッシュは全然ナタリアの好みじゃないじゃん」
「全然……て。こ、好みって……。王族の婚約者は好みで選ぶのではありませんわ!」アニスの爆弾発言に、ナタリアは異様なほどうろたえ、反駁を試みる。
「し、知ってるよう、アニスちゃんだってそれくらい!」
アニスは詰め寄るナタリアに恐れをなしてティアに助けを求める視線を送ったが、ティアは何だかわからないといった顔をして瞬きを繰り返すばかり。
「ナタリアはアッシュみたいに、何でも一人で決めて、一人で行動出来て、黙ってオレに付いてこい! なーんてタイプは好みじゃないはずだよ? なんで最初にお城、飛び出してきたのか考えてみなよ、ただ婚約者の側にいたかったからでも、旅がしたかったからでもないでしょ。ナタリアはさあ、世話を焼く方が好きなんだよ。ルークみたいに手のかかるちょっと頼りない男の子を相手に、「わたくしが付いていないと!」って面倒みてるときが一番生き生きしてんじゃん。男の顔色窺いながら側をちょろちょろしてんの、らしくなさすぎて痛々しいなぁ〜ってあたし思ってたけど、心変わりの罪悪感からなら仕方ないかなって」