バニシング・ツイン 20

 べルケンドの港町でスピノザ、ディストと別れて以来、ルークは生まれて初めて一人きりになることになった。
 スピノザはルークを気遣い、アッシュが戻ればどうせ研究所へ来ることになるのだし、今一緒にベルケンドへ行こうとしきりに誘ってくれたのだが、ルークは一人でアッシュを待っていたくて、首を縦に振らなかったのだ。
 アッシュの隠れ家は本当に山奥で、風の立てる葉ずれの音、小さな虫や鳥の鳴き声くらいしか聞こえる音もない。淋しいは淋しいが、大勢いるのにその中で自分だけが独りだと感じたアクゼリュスまでの旅路に比べると、何倍もましだ。
 ただアッシュに逢いたかった。逢いたくて逢いたくて、今ここにアッシュがいないことが信じられないくらいだった。なぜ別行動を受け入れることが出来たのか、自分でもわけがわからない。アッシュが側にいたからか、それとも夢も見ないほど疲れさせられていたからか、久しく夜中に目を覚ますようなことはなかったのに、眠っても頻繁に悪夢に起こされる。震える手で残されていたアッシュのシャツを抱え込んで涙を吸わせ、やっとわずかな眠りを得ることが出来た。

 一人でここに来て三日目の夜、作り置きのシチューを暖め直してパンを添えた夕食を摂り、後片付けをしているところで、明日にはべルケンドに着きそうだというアッシュからの連絡がきた。
 声を聞くなり思わず泣きそうになった。その気配を察したのか、アッシュが一瞬ひどく動揺したのがわかった瞬間、これまで堪えてきたものが決壊した。スピノザやディストが教えてくれたヴァンの真の目的など、アッシュに話さなければならない大切なことがあったのに、それを何一つ話すことが出来ないまま、淋しい、一人はいやだと訴えながらわんわん泣いてしまったことを、今になって思い出すと留守番一つ出来ない子どものようで恥ずかしいのだが、その時はそんな風に感じる余裕すらルークにはなかったのだ。
 しきりと頭が痛くないかと気にするアッシュに、連絡を寄越したがらないのはそれを気遣ってのことなのだろうとわかるが、それでもルークはアッシュと話したいし、声が聞きたいと思っていることを、いい加減アッシュもわかるべきだとルークは思う。何か大事があればいやでも寄越すのだろうから、連絡がないのは無事な証拠とも言えるのだが、何もなくとも「お休み」くらいは言って欲しいと思うのは、決して我が侭ではないはず。
 そんな風に思うのは、前回アッシュが無意識に回線を繋いできたとき交わした、最後の会話のせいだ。

 吐息まじりに「おやすみ」と言ってくれたとき、アッシュは「ルーク」と呼びかけた。まるで慣れているかのように自然な呼びかけだったけれど、ルークがアッシュに名を呼んでもらったのは、実はこれでやっと二回目なのだ。
 聞いたものが信じられずに絶句していると、悲痛なほどの寂寥感が押し寄せ、そして繋がりが断たれる寸前。
 ──淋しい、と湿った声が、聞こえたような気がした。
 或はアッシュにもそう思って欲しいというルークの願望が、何でもない吐息一つをそんな台詞に換えたのかも知れない。だがそれが聞こえたと思った瞬間、ルークは上手く呼吸すら出来なかった。圧倒的な質量を持った幸福感と、アッシュから伝わってきた強い淋しさに、比喩でなく、本当に胸が押し潰されるかと思うくらい苦しかった。ルークの気持ちが一方通行であったときには、アッシュにどんなに罵倒され、無視されても、想うだけで幸せだったのに、なぜ気持ちを返してもらえるようになると、こんなにも胸が苦しくなるのだろう。

 あの圧力を思い出すと、発作のように胸苦しく、恋しくなって、ここに来てからライナスの毛布のように離せないでいるアッシュのシャツを抱きしめた。ずっとルークが握っているから、最初は確かにしていたアッシュの匂いが少しずつ薄れて己の匂いに取って代わりつつある。早く逢いたい──完全に匂いが消えてしまう前に……。

 ほとんど眠れないままで夜を過ごし、夜明け前にとうとう諦めて起き出した。夏でもひんやりと心地のいい泉で一人分の洗濯をし、残り物のシチュー、パンとお茶だけで朝食をすませ、隠れ家を出る。
 ここにいるよう言われていたけれども、じっとしているのは辛かった。それならばまだ港で待っている方がいい。ここから離れたって危険なことは何もないのだし……。
 最初は確かに少し重たく感じたアッシュの剣も、慣れればそれなりに使えた。強敵と戦うのはこれではきついかも知れないが、ここの往復くらいは何ほどのこともない。
 ──これを片腕で楽に振り回しているアッシュの膂力に対して、複雑に思うところが全くないわけではないけれど、アッシュの方が何にしても己より秀でていることには、悔しさよりもむしろ誇らしさをより強く感じるかも知れない。いつかこうなりたい、という指針となる人物が、常に目の前を歩いて導いてくれることは、ルークに取っては幸運でもあり、喜びでもあった。








 べルケンド港は、学術都市であるべルケンドの街とは趣が違う、そこそこ大きな港町だ。活気、という点ではこちらの方がむろん上で、ルークはどちらかというと港町の雑多な匂いや猥雑さを好んだ。まだ早朝だが、野菜や果物、肉、魚、香辛料、穀物、乾物など、食材を扱う市場マーケットはすでににぎわいを見せていて、ルークはちらちらと興味深く眺めていたのだが、ふと、果物の露天の前で足を止めた。
 真っ赤に熟れて艶のある林檎が山と積まれている。
 思えば、エンゲーブで真っ先に目についたのも林檎だったな、とおかしく思いながら、最初の日にパイを作ったことを思い出した。
 あのとき、アッシュはルークのパイを気に入ってくれたようだった。もちろん口にも態度にも出してはくれなかったので、アッシュの反応を見てルークが勝手にそう判断しただけにすぎない。だが今なら、どういう反応が返るだろう?
 何となくそんな形での違いを見てみたくなり、ルークはふらふらと露天に寄っていった。

「パイ作りに向いてる、ちょっと酸っぱい林檎、ある?」
「パイならこれだね! 一個45ガルド」
「? なんで他のより5ガルドも高いんだ?」
「そのまんま食べるには向いてない林檎だから、他のほど売れない。儲けがあまり出ないから、栽培農家が少なくってさー」
「うーん……5個買うから205ギルドに負けてくんねーかな」
「205?! 破産しちまうよ! 220でどうだい」
「44ガルドかあ……。んー、なら……6個で245」
「6個なら260!」
「もう一声! 250!」
「ううっ……くっ、ええい、持って行きな!!」
「ありがとう、おじさん!」

 一人で買い物を憶えて早いうちにアニスから「値切らず買うな、買うなら値切れ」と叩き込まれたため、ルークは毎回きっちりと値切る。最近は、ここまでは値切れるという境目のようなところまで分かるようになってきたため、ますます値切りに熱が入るのだが、アッシュと一緒に旅を始めたばかりのころはかなりドン引きされたものだった。
 金を支払って品物を受け取ろうと手を伸ばしたとき、視界の端から転がるように駆けて来た物が二つ、顔と横腹に突進して来た。
「おわっ!!」
「ルーク!! ルークルークルークルーク!!!!」
「御主人さま〜!! 生きてたですの! 生ーきーてーたーでーすーのー!」
「うぜーっつーのブタザル! それにアニス、」
 目をまんまるにして、林檎の入った紙袋を差し出したまま固まっている果物屋の前で、ルークは戸惑って仲間たちを見回した。

 腰が抜けたように手に手を取り合って座り込むティアとナタリア。その後ろで厳しく、しかしどこか安堵したようにルークを見つめるジェイド。アニスがルークに抱きついて号泣しているため近寄れないでいるガイも、流れる涙を袖口でひっきりなしに拭っている様子だ。
「アニス、ガイ……一体??」
 ルークは困惑して、全員の顔を見渡した。








「正直、生存が絶望的だと思われたあなたが、これほど元気に値切っているとは想像だにしていませんでした」
 震えの止まらないティアとナタリアを気遣いつつ、泣いているガイをわけも分からず慰め、横腹に涙の染みを広げていくばかりのアニスを巻き付けたまま、市場マーケットの真ん中にある円形の広場に場所を移し、大きく息を吐いたジェイドがまず口火を切った。
「せいぞんがぜつぼう?!」
 ルークは仰天して身を乗り出した。「な、何言ってんだよ? おれが、なんで?」
「ベルケンドでパイを作ると出て行ったまま、行方不明になってたからだ」
 なおも滲む涙を拭いながら、ガイが湿った声で告げる。
「ゆくえふめい??! なんで? なんでそんなことになってんだ? アッシュと話したんじゃねーの?」
「──アッシュ?! あいつ!」
「やはり、ご存知でいらしたのですね……」
「なん、で、なんで知っ、あいつ、便利連……網、繋がら、ないって! ううっううううう〜っ」
「アニス、アニスもう泣くな。な? 目、腫れちまうぜ?」
 離したら消えると思ってでもいるかのように、未だに強くルークにしがみついたまましゃくり上げているアニスの背を優しく撫でて、ルークは慰めた。
「おれとあいつでスピノザを追って、みんなはダアトにイオンを迎えに行くって……聞いてたんだけど。アッシュから、何にも言われてねえ? っていうか、そもそもおれは……」
 明日には戻るって、伝言頼んだ……。
 言いかけて、ルークは口を押さえた。この有様を見れば、アッシュが伝言をしていないどころか、一緒に行動していることさえ彼の一存であったことがあからさまだった。
「……あなたは、少し見ない間にずいぶん雰囲気が変わりましたね。ずっと、アッシュと一緒にいたのですか?」
 ショックを受けたように押し黙ってしまったルークを気遣うように、ジェイドが優しく問いかけた。
「う……うん……」
「何故ですか? ──こう言ってはなんですが、彼はあなたを拒絶しているように見えましたが」
「……う、うーん……それはそうなんだけど……あ、いや。でも今は違うぜ? 今は、一緒にいたいからいる……」
「今、アッシュはどちらに?」
「バチカルに用があるって、出かけたんだ。今日、帰ってくるから、おれ……」
 乗り出すように問いかけるナタリアから、ほんの少し目を逸らしてルークは答えた。
「ああ、そうでしたね。グランコクマで、バチカル行きの船に乗っている姿を見られています」
「あ、うん。グランコクマで、一旦別行動になったんだ」
「ルーク。剣はどうしたんだ?」
 ガイが割り込んでくるのに、ルークはあ、と声をあげ、巡礼用のマントの下から剣を抜き取った。
「それは、アッシュの……!」
「詠師の剣……」
 ティアとアニスが同時に言うのに、ルークは驚いて剣を見下ろした。「──詠師の剣?」
「そうよ。それは七人の詠師しか持つことを許されない剣なの」
「えっ、そうなのか?! じゃ、おれが持ってたらまずいんじゃ、」
「なぜ剣を交換などしたのです?」
 慌てふためくルークを落ち着かせるような穏やかな声で、ジェイドが問う。
「お守りにしたくて、おれが我が侭言ったんだ……。でもこれが、教団の位階を表す剣だなんて……おれ……」
「……アッシュがお前の我が侭を聞いたのか?」
「えっと……う、うん……ご、ごめん……」
「謝る必要はありませんよ、ルーク。譲渡というわけでもなさそうですし、どうしても駄目ならアッシュははっきり言うでしょう。──ところで、ベルケンドでどうしてアッシュと行動することになったんです?」
 穏やかに、笑みさえ浮かべて話を促すジェイドに、ルークは頷き、しどろもどろで憶えている限りのことを話した。
「林檎を買った帰りに、アッシュに会ったんだ。日が暮れるのに街出ようとしてたからさ、何処へ行くんだって聞いたら隠れ家があるからって言われて……」

 羨ましがったら、見たいならくればいいと言われたこと。
 その夜、アッシュとアレをしたこと。
 翌朝立てなくなって、山を降りることが出来ず、アッシュに伝言を頼んだこと。
 戻ってきたアッシュから、自分たち二人でスピノザを追い、みんなはダアトへ行くことになったと聞いたこと……。

 他人に話すべきこと、秘すべきことの区別が付かないルークは、辿々しい口調で一生懸命に話した。途中で「アレ」とは何かと察しの悪いティアが質問を差し挟み、ルークが状況を説明すると、仲間たちの顔は最初は怒ったり赤くなったりしていたのに、どんどん白く青ざめていった。
 話が進むごとにルークは不安になったが、抱きついた腕にぎゅうぎゅう力を込めるアニスの体温が、多少、ルークの気を休める効果を果たしてくれたかもしれない。

「信じられない」ティアが額を押さえて首を振った。「どうしてそんなことになるの? そういう恋愛を否定はしないけれど、アッシュにはナタリアがいるのに……! ルーク、あなただって、ナタリアの気持ちは知っていたはずでしょう?!」
「……」
 ナタリアは唇を噛み締め、スカートをぎゅっと両手で握りしめたまま、一言も発しない。
「……うん。ごめん。でも、おれ、アッシュの子どもなら、父上が喜ぶだろうって思ったんだ……。それに、おれも、相手がアッシュならいいなって思った……。おれも、おれも……アッシュが好きだから」
 ガイが眉間にぎゅっと皺を寄せ、ティアが困惑もあらわに口を開いた。
「……ティア、待って。ショックなのはわかるけど、もう少しルークの話を聞こうよ。このままルークを責めたんじゃ、アクゼリュスの二の舞だよぅ!」
「?!」
「……どういう意味なんだアニス」ガイが声を低くして問うた。
「それをはっきりさせるために、ルークの話をまだ聞く必要があるとアニスは言ってるんですよ。……ルーク。──ああ、そんなに構えることはないですよ? もう少し、話を聞かせてもらえますね?」
「う、うん……。でも、もう話すことなんて」
「こちらで質問しますよ。──ファブレ公爵は、子どもを欲しがっておられるのですか?」
「後継ぎは必要だろ?」
「そうですね。あなたは、レプリカであるあなたの子どもより、被験者であるアッシュの子どもが跡取りに相応しいと思ったのですか?」
「いや、そうじゃねえけど。おれ、忘れてたんだよ、子どもを作らなくちゃいけないって言われてたこと。アッシュがおれとアレをしようとして、思い出したんだ」
「子どもを作らなくちゃいけない? ルーク、どういうことだ?」
「? ガイも知ってただろ? 二週間に一回びらびら着飾った、すっげー香水くさい女が色々来てたじゃん」
「いや、俺は知らないが……いや、……いや」
 ガイは戸惑いつつ答えたが、すぐに何か思い出したようで、疲れたように首を振った。「……二週間に一度程度、シルフの日に俺は決まった場所に使いに出されていた……」
「あ、そうだよ……シルフの日。憂鬱で、仕方なかった日だ。ガイとは遊べねーし、ほんとつまんなかったんだけど。──あっ、でも、子どもを作るためにするんだって知ってからは、結構真面目にやってたんだぜ? ……嫌々だけどさ……」
 仲間たちの顔色が変わったことに気付き、不真面目な態度を責められていると思ったルークはばつが悪そうに俯き、慌てて言い添えた。
「それは、どのくらいの期間で行われたのですか?」
「十一か二くらいから、ティアと一緒に屋敷を出る前までずっとだけど」
「このところ屋敷に戻っていないし、忘れていたところをアッシュに誘われて思い出したのですね」
「うん……アッシュがおれに子ども生ませようとしてるんだって思って。それなら他所からきたやつらよりアッシュの子どもの方が父上も喜ぶだろ? ……最初はそう思ったんだ。今は……違うけど。アッシュには子どもなんかいらねえ、って言われたけど……今は父上のためじゃなくて、おれが欲しいんだ。もしかしたら、もう出来たかも知れないって思うんだけど……どのくらいしたら腹って大きくなんのかな? ジェイドは知ってる?」
 途端凍り付いた空気に、ルークは戸惑い、しゅんと肩を落とした。「今はそんな場合じゃないってことも、おれ、忘れてて……」
「……つまりアッシュの子どもを、ルーク。あなたが生もうというのですね?」
「え? うん……」
「ひ、酷い……。一体どうしてこんなひどいことが」
 とうとう顔を覆って泣き出したティアに、蒼白になったナタリアが首を振った。
「……ルークがアクゼリュスで街と消滅するという預言を知ってしまいますと、そんなことが行われていた理由も立派に付きますわね。ルークに何も学ばせようとしなかった理由も──ごめんなさい、ルーク。この国のために、あなたたち二人には惨い……本当に惨い真似ばかり……」
 血が滲むほどに強く握られたナタリアの手に気付き、ルークは飛びつくように堅く強ばった拳を解きにかかった。
「え、えっ? なんでナタリアが謝るんだよ? 謝るのは……おれの方なのに。手、開けよ、傷になっちまう!」
「──ルークの心を護るために、公爵家は意図的にルークを無知なまま置いたのかも知れませんね」内心の全く読めない、光る眼鏡を押し上げて、ジェイドが言った。
 本当はそうではないかも知れない。彼が余計な知識を得て意のままにならなくなるのを恐れたのかも知れないし、どうせ死ぬまで軟禁されつづける息子に教育を与えても無意味だと考えたのかも知れない。
 だが、ジェイドはそうではないと半ば確信を持っていた。ただ一度会っただけだが、ファブレ公爵が息子を愛していないようには到底見えなかった。彼の純粋で、真っ直ぐな瞳。汚い真似を憶えた大人には、時に後ろめたさを、憤りを感じさせることもあるほどに、無垢な視線。息子を愛する父親ならば、息子の命が失われるその時まで、その瞳を曇らせたくないと思っても不思議はない。
「ルーク。お相手に男性が連れて来られることがありましたか?」
「えっ? ううん、女だけだった……。なんで? アッシュもおんなじこと聞いて来たけど……」
「アッシュが、ですか」
「う、うん。アレをしてる時にさ、コレを他の男としたかって」
 アレだのコレだのという指示代名詞が多いのは、ルークが『アレ』の名称を教わっていないせいだが、だが。
「ああ、それは多分単なる悋気でしょう。あなたは他の男性とはしていないと答え、アッシュの機嫌は良かったはずだ」
「?! そ、そう、すげ、良く分かったなジェイド!!」
「……ありがとうございます。ですが、私がそれをお尋ねしたのは全く違う意図からです」
 ジェイドは疲れた溜め息を吐いた。
「ルーク、男性は子どもを産めません。子どもを産めるのは、女性だけなんですよ」
 全員がルークの反応を窺ってしん、と彼を注視する中、ルークただ一人がきょとんと無邪気な顔で首を傾げた。





(2011.10.29)