二人は、声もなく男──息子である青年を見つめた。
彼はほんの一瞬、懐かし気に目を細めたものの、そんな感情を抱いたことが自分でも意外だったというように口元に微かな苦笑を刷き、目を閉じた。何かを振り切るように一拍を置き、再び静かに目を開ける。
その瞳は自分たちをまるで観察するかのように冷たく、そんな感情のゆらぎがあったことなど微塵も感じさせない。男は緩んだ空気に活を入れるように、一度引いた剣を再度クリムゾンに突きつけた。冷徹な瞳には、良く見知った親しいものを見る色はない。
「お前、お前が息子を……? だが、あの子は、お前の……」
クリムゾンは呆然と呟いた。明るいところで顔を見れば、先ほどクリムゾンが思ったような、息子との性的な関係を自慢たらしく語るような下種な男ではないことがわかる。シュザンヌの言うように、クリムゾンを怒らせて反応を見たかったのか、或は己の怒りを最も端的に伝えるための言い草だったのだろうが、その内容そのものは真実なのだろうか?
考えるまでもなく、その関係は二重の禁忌を含んでいるはずだが、目の前の青年は容姿がこれほど似ているにも関わらず、いなくなった息子に比べるとあまり『息子』という気がしないためか、さほど嫌悪感も感じない。クリムゾンが罪悪感を抱き、拒絶しようとしながらも愛した『視線』の持ち主は、十歳までの息子であり、十歳から十七歳までのレプリカの息子であり、このように油断のならない目付きの侵入者では有り得なかったためかも知れない。
「……残念ながら、あなたの賭けは成立しない。少なくとも、レプリカ男性は子が残せないようだ。ご子息の体液はすべて乖離する。涙も、汗も……精液もな。──閣下。あなたとキムラスカ国王の図ったことは、徒労に過ぎなかった。だが、よもやご子息を責めるような真似はなさるまいな? 親思いのご子息は、ただでさえ閣下の期待に応えられなかったことに、大変お心を痛めておいでだ」
「おお、ルーク……!」
ここまで気丈に振る舞っていたシュザンヌが、とうとうかぼそい泣き声を上げた。
どうしても傍若無人でちゃらんぽらんな振る舞いが目につきやすい息子だが、その実とても気が弱く、生真面目であることをシュザンヌは見抜いていた。傲慢さは気の弱さを隠す彼の鎧だ。子を作れと言われながらそれが叶わないことにどれだけ心を痛めていただろう。彼はそれを、ただの一度も、シュザンヌに感じさせたことはなかった。
それだけではない。間違いなく血の繋がりがある息子でありながら、シュザンヌが腹を痛め、文字通り命がけで生んだルークとレプリカのルークとは、一線を画した存在であることは否定出来ない。今後、ルークがまた元のように遠慮のない態度で接してくれることは、もう二度とないだろう。それなのに、後に続く血を残すことが出来ないルークは、真に血の繋がりのあり、気の置けない家族を今後も持てないというのだ。
前に連綿と続いて来ているはずの血も、後に続く血もない、時間の流れの中でぽんと生まれ、そして取り残されていく。シュザンヌにとって、それは絶対の孤独だった。
偽姫騒動の折りに、ほんの少しだけ顔を見せてくれた息子。屋敷の使用人たちは息子をレプリカと知り、見る目や態度がおかしかったと後になってラムダスから報告を受け、目眩がするほどの衝撃と、自分自身への怒りを覚えた。自分にとって七年育てた──というのは正確ではないのかも知れないが──息子は、レプリカだろうと偽物だろうと息子に変わりはなかったため、他のものの心情まで思い至らなかった、それは母としてというより、この屋敷の女主人として本来あってはならないことだったのだ。この屋敷に入ることは、あの子にとってどれほど辛く、居たたまれないことだったのだろう。どれほどの勇気を振り絞ってくれたのだろう。だが、あの子はそんなそぶりは少しも見せず、寝込んだ母を逆に気遣ったのだ。寂しがりやで傷つきやすく、繊細で、だがとても優しい……子なのだ。
──母上、と……そう、お呼びしても、いいですか……?
慕わしさを隠そうともせず、おずおずとそう問いかけた息子に、なぜそんなつれないことを言うのかとシュザンヌは身勝手にも密かにショックを受けたし、微かな憤りも感じたし、寂しさや悲しみも感じたものだったが、あのとき、シュザンヌは逆に問いかけるべきだったのではないのか。
このように愚かな女を、まだ母と呼んでくれるのですか。呼びたいと思ってくれるのですか? と。
自分の方こそが、母上などと呼ばれる資格がなかったのに……!
「──馬鹿な! 私、俺が、息子を責めたりなどするものか……! 俺は、俺は……! あの子の目を見られなかった、顔を合わせることが出来なかったんだ! そんな資格がなかったのだ! お前も知っているんだろう、あの子がどれほど無垢な、澄んだ目をしているか。どれほど……真っ直ぐに人を見るか……!」
「資格だと?!」
静かに、淡々と話をしていたと思った侵入者が、突如激昂し、大きな声を出した。
「父親であるあなたが一言、ただ一言彼に愛していると伝えるのに、何の資格が必要だと?! 子どもが出来ないのはお前のせいだと馬鹿な女に罵られ、傷つき、怯えながら、彼がそれでもあなたの愛と関心を欲し、失望させまいとしていたのをご存知か?! 彼がどれほどあなたがたを親と恃み、慕っているか、あなたは結局何もお分かりではない! あいつを省みない親などいる意味もねえ、捨ててしまえばもっと楽に生きられるものを……!」
まさに母親としての資格を己に問うていたシュザンヌは、叫び出しそうになった口元に両手をあて、ただ静かに涙を流す。クリムゾンもまた。
「あいつが突然子どもが出来たかも知れないと、俺の子が腹にいるかも知れないと言い出した時の俺の気持ちがわかるか? 彼が俺に何一つ抵抗しなかったのは、組敷かれる意味がわからなかったためでもなく、単にセックスがしたかったからでもなく、ましてや彼が俺に惚れているからでもなく! あなたに望まれた子どもをただ欲したからだ。あなたを失望させないために。あなたに褒めてもらうために。あなたの愛情を得るために!」
「……!」
「────!!」
「同じ男の俺をいくら受け入れたところで子どもなど出来るはずがないのに、あいつはそれを知らないんだ。──今もな。でかくなるはずも無い腹を毎日撫でて待っているあいつに、俺はなんと言ってやるべきなのか教えていただきたい!」
「ルーク、ルーク……ああ……! なんと惨いことを……」
血の繋がりが有りさえすれば『親子』になれるのではない。
母親に、父親に『資格』が要るのかと問われればそれも必要ではない。
ただ、努力が必要だった。シュザンヌが母親になるために、クリムゾンが父親と呼ばれるために。
息子の一人は幼いながらも努力を続けたが、やがて諦め親を切り捨てた。
もう一人はまだ諦められず、努力を続けようとしているのか……?
この家で、『家族』になろうと努力し、今なおもがいているのは、昔も今も『息子』だけだったのだ。
「──ちっ。こんなことまで言うつもりじゃなかったってのに!」
男が忌々しげに舌打ちし、吐き捨てた。
クリムゾンとシュザンヌは寄り添い、しばらくの間声も出さずに泣いていたが、意外にも先にシュザンヌが、のろのろと泣き濡れた顔を上げた。
「お願いします。……愛していると、あの子に伝えて下さい。わたくしも、お父様も、ただ、あなたを愛していると。あの子に……」
泣き崩れる夫の頭を抱きしめ、自らも滂沱の涙を流しながら、シュザンヌは男に頭を下げる。
男とシュザンヌ、全く同じ濃い翡翠の瞳が交錯した。
ややあって気圧されたように、男がふ、と目を逸らした。
「……お伝えしよう」
だが、再び二人を見据えた瞳は、反論を許さないというような苛烈な焔を宿していた。
「ヴァン・グランツが、預言に詠まれていないレプリカという存在を作り出すことによって、あなたがたのご子息をこの国から掠めとり、己が力にせんとしたことはすでにご承知のことと思う。ご子息の役割は最初から、『鉱山の街』で街と共に命を落とすこと、それ一つのみだ。その預言は外れ、ご子息の命は繋がったが、これで彼の役目は終わった。もともと失う覚悟もなさっておられたろう、ご子息はもうこの家にとって不要のはずだ。だからあなた方には返さない。申し訳ないが、それは御了承いただく。──もう、ご子息の御子は必要ないな?」
男は、最後の問いを殊更ゆっくりと、噛み締めるように発した。
「──それを伺うために、俺はここへ来た」
「──ああ。必要ない。息子も、持って行くがいい」
妻の胸に顔を伏せたまま、クリムゾンが穏やかな、だが湿った声を出した。
「……俺が、極普通の、市井のおやじであったなら、国のためとはいえ息子の命を差し出すくらいなら家族を連れてマルクトに亡命でもしただろう。そうはせず、息子の命を繁栄の贄とすることを了承した時点で、俺はファブレ家の存続を諦めたのだ。ファブレ家は、この家は、俺の代で閉じる。──陛下の命がなければ……最初から俺はそのつもりだった……」
「あなた……」
シュザンヌが薄く微笑み、自分のものと同じ紅い頭に頬ずりをした。そして涙ぐんだままの顔で、縋るように侵入者を見つめた。
「わたくしたちは、二度とあの子に逢えなくとも構いません。ですが、約束を……して下さい。あの子を必ず幸せにして下さると。産まれて来て良かったと、あの子が心の底から笑えるように愛して下さると……お願い……です……」
シュザンヌのその願いを聞いたとき、きついばかりだった男の目から、ほんの少し険が消えた。
「元よりそのつもりだ。努力を惜しまないことは約束しよう……。それを、ご子息がどう評価して下さるかまではわからないが」
「ありがとう」シュザンヌは真剣な顔で頷いた。その生真面目な言いようは、彼女の腕の中で息を潜めている、最愛の夫に良く似ている。この青年が「約束する」というからには、本当に信用していいのだろう。
「あなたのお名前は、なんとおっしゃるの」
「……俺の名を聞いて何になる」
「あなたがあの子の伴侶になって下さると言うのなら、親のわたくしが名を知っておきたいと思うのは不思議なことではないでしょう」
男はしばしの間、不思議なものを見るような目でシュザンヌを見つめ、やがて大きく息を吐いた。
「……アッシュ。家名はない。──ローレライ教団詠師、神託の盾の響士、だ」
「詠師……そう、ですか。お若いのに、ご出世されていらっしゃるのですね」
シュザンヌがその音を口の中で馴染ませるようにアッシュ、アッシュと小さく繰り返すのを、男は黙って見つめた。
「用は済んだ。──邪魔をした」
漆黒のコートの裾を翻し、男が窓に手をかける。
「待ってくれ!」
クリムゾンはもう用はないとばかりに何の未練もなく出て行こうとする男に、慌てて声をかけた。「一つだけ、聞かせて欲しい」
「──何か?」
「あの子は、俺の息子は、お前を幸せにすることが出来ようか?」
男は公爵夫妻を振り返った。その顔が、優しく綻んでいく。
その表情は、言葉より雄弁にクリムゾンの問いに答えていた。
ファブレ家の長子として、子どもらしさに欠けた矜持を抱え、いつもしかつめらしい顔をしていた少年が、長じてのちこれほどに柔らかい、和んだ表情を見せるとは。
──そういう表情をすると、本当に『息子』に良く似ている……。
「──お返しする気は全くないが、俺はご子息がたまに里帰りしたいというのまで、止める気はないんだ」
息子にどうやら甘いらしい男と、もう二度と自分たちには言ってこないであろう「お願い」を、この男にだけは言うらしい息子。そんな関係を匂わせてくれた男に、クリムゾンはほっと息を吐いた。
「……いつか息子が、伴侶を連れて遊びに来るのを、楽しみに待つとしよう」
「……考えておく」
男は再び窓に手をかけ、ふと一瞬だけ言いよどんだが、結局軽く首を振って口を開いた。「御領地べルケンドの山奥に、ファブレ家所有の古い狩猟小屋がある。そこを時折仮宿にお借りしていた。──ご子息も、今はそこに向かっておられるはずだ」
狩猟小屋……? とクリムゾンは首を捻った。普段から戦いの場に身を置いているからか、貴族の男としては例外的に狩猟に関心がなく、まるで記憶にはなかった。ベルケンドで指示した捜索範囲にも、むろん、含まれてはいない。が、一つ頷いて男に告げた。
「──良い。持参金代わりに、息子に持たせよう。後で文書にしておく」
男は一瞬目を見張り、口角の片側だけを面白そうに歪めた。
「──それはありがたい」
窓が開かれると、ほんの一瞬だけ湿った風が吹き込み、雨音が強く聞こえたが、すぐに再び小さくなる。
呆れるほど慣れた身のこなしで、男はするりと夫妻の寝室を抜け出した。しばらく二人で耳を澄ませてみたが、騒ぎが起こる様子はない。
白光騎士団も存外情けないと嘆く心の反面、神託の盾の響士としか名乗らなかった男の真の肩書きが、名の轟く神託の盾の六神将であり、「鮮血のアッシュ」その人であるならば、あの若さで精鋭ぞろいの白光騎士団を出し抜き、主の寝室に侵入を果たしたとしても無理はないのだろう。
(俺の背中ばかりを追ってきていた子どもが、いつの間にか一人前に働き、同じ男として俺と対等に話し、値踏みをするまでになったのか)
後悔と、淋しさと、誇らしさとを胸に抱き、クリムゾンは苦笑した。
「あなた……今のは、『あの子』は……」
男の前では毅然と顔を上げていた夫人が泣き崩れるのを、今度は反対にクリムゾンが抱き締めて、宥めるようにその背を優しく叩いた。
「彼は息子の、ルークの伴侶だ。──そうだろう?」
「ええ、ええ……。そうですね……」
「──俺たちは、息子を一人失ったが、息子の伴侶を新しく得た。顔ぶれが何故か変わらないが……」
「ええ……。不思議なことですわね……」
「息子の伴侶もまた『息子』というわけだがな。……おかしな話だ」
くすり、とシュザンヌは涙を拭い、笑った。
且つてないほど満ち足りた気分で、夫妻は堅く互いを抱き締めたまま横になった。このところ、行方の知れないルークのことが心配で眠っているようで眠っていなかったツケがきたのか、抗い難い眠りの気配が二人を包み込んでいる。
「ねえ、あなた」
「……?」
「わたくしは、もっと強くならねばなりませんね……」
「突然どうした……?」
「わたくしは、長く続いたファブレ家を、貴方の代で潰してしまうようなこと、決してさせませんから」
クリムゾンはふ、と笑みをこぼし、ますます妻を強く抱き締めて、眠りの前の吐息とともに囁いた。
「あまり気張るなよ、シュザンヌ。家など潰れても、俺はお前が残ればそれでいい……」
「え……」
「だが……頼む……」
「……あなた……?」