バニシング・ツイン 17

「ルーク?!」




「ガイっ! お待ちなさい!」
 ナタリアとインゴベルトの親子関係修復が叶い、マルクトとの和平を成さんと仲間たちとグランコクマに来たガイは、到着したばかりの自分たちとは逆に出港していく船上に、一月前に行方不明になったままのルークの姿を見て駆け出した。
 突然走り出したガイを、ナタリアが呼び止める。腕を伸ばして捕らえようとしても、全力で駆け出すガイに追いつけるはずもなく。
「ガイ……!」
「どうしました?!」
 顔を覆って蹲ってしまったナタリアは泣くばかりで、ジェイドは舌打ちをしてガイのあとを追いながら譜術の詠唱を始めた。味方識別がしてあるとはいえ、足止めぐらいには使えるだろう。
 桟橋が尽きたところで海に飛び込もうとしたガイを、すんでのところで氷の柱がとどめ、思わずたたらを踏んだガイを追いついたジェイドがすかさず押さえ込む。
「陛下のところに行かねばならないときに、何をしてるんですか、あなたは!」
「あの船に、ルークが乗っていたんだ!」
「ルークが?」
 ガイを押さえ込んだまま、ジェイドは厳しい目で遠ざかる船を見つめた。互いに顔も見えない距離になっても、見送る人々と別れを惜しんで手を振り合う人々も多い中、彼の目に、今もなお瞼に浮かぶ、鮮やかな銀朱は映らない。
「確かですか?」
「確かだよ! 剣があいつのだった。佩き方も同じだし、体格も……。ルーク! ルーク!!」
 聞こえるはずもなかったが、諦めきれずに船に叫ぶガイに、疲れたような声がかかった。
「ガイ、違いますわ」
 真っ青で倒れそうなナタリアを支えるように、ティア、アニスの三人が追いついてきた。
「ルークがいたのっ?」
 身を乗り出すティアに答えず、ナタリアはガイに言った。
「──あれは、アッシュでしたわ。深くフードを被っていらしたけれど、一瞬だけ風に煽られて横顔が見えましたの。……わたくしに、気付いては下さらなかったけれど」
「アッシュだって?!」
 ジェイドに掴まれたまま、尚も身を捩っていたガイは、弾かれたように船を振り返った。もう、いくら泳ぎの達者なガイとて追いつける距離ではないところに行ってしまった船を。
「だけど、剣が。そんなはず……」
「剣は確かに、背に佩いていらした……ルークのように。でも、アッシュですわ……。わたくしの位置からは剣がルークのものであるかどうかまではわかりませんでしたが」
「──確かにアッシュですか?」
「ええ。……子どものころならいざ知らず、今のあの方たちを見間違えるのは逆に難しいことですわ」
「ガイ、柄の向きを憶えていますか?」
「──っ、そこまで、は……」
「顔は見ていないのですね?」
「……」

 つかの間全員が、それぞれルークの剣をアッシュが持っていることの意味を考えた。ジェイドには落ちる沈黙と、重苦しく立ちこめる空気は、その思考が良くない方向に流れていっていることの証拠のように思えた。
「あいつ、もしかしてルークを探してくれてるんじゃないかなぁ?! それで途中で食い詰めたルークが手放した剣を手に入れて、『あの屑!』とか言いながら追っかけてる途中なんだよ!」
 アニスがそんな空気を払拭しようと明るい声を上げたが、どこを見ているのか視線の定まらない目つきが、強張った顔と震えた声が、それが彼女の虚勢にすぎないことを容赦なく暴いていた。
「そ、そ、そうですわ! きっと……そうですわ。アッシュはああ見えて面倒見が良い方ですし。ほら、わたくしとルークを助けにバチカルまでいらして下さったこともありましたもの」
 ナタリアがアニスの言葉に飛びつくように合わせたが、言いながらもポロリとこぼれた涙が台詞を裏切っている。自分の台詞を自分が一番信じていないことを、本人もわかっているのだ。
「……ユリアシティで……アッシュは、ルークを殺そうと……していたわ」
 呆然と座り込み、ティアが呟いた台詞は、他の誰にも聞こえなかったであろうが、ジェイドは聞き咎め、きつく眉を寄せた。
 そもそも、ルークが自分たちに何も言わず、突然姿を消したくなる理由とはなんなのだろう? 無理に理由をつけようとするならば、思い当たることがないでもない。──アラミス湧水洞の入り口で合流してからしばらくの間、全員が気まずくぎくしゃくとしていたころならば。
 しかしルークは、楽しそうにティアやアニスとおやつの話をし、食べさせてやると言ってはりきって出かけたのだ。お菓子作りだけは上手いルークが作ると言うパイ皮だけのアップルパイを、二人だけでなく、ナタリアやガイまでが懐かしみ、楽しみに帰りを待っていた。
 ──そんなルークが、自分から姿を消す理由など、ジェイドを以てしても思い当たるものがなかった。

 唇を硬く引き結んだガイの目は、見開かれ、真っ赤に充血しているが、彼は船の消え去った方向をじっと睨みつけ、何も言わなかった。
 何を考えているのか、何を感じているのか、全く読めない目でジェイドは眼鏡を押し上げた。
「……行きましょう。今はこちらが優先です。アッシュが何か知っていると確信が取れただけでも一歩前進、良い方に考えましょう……」








 船がバチカルに着港する直前になって、大粒の雨が落ちてきた。夏の嵐を呼ぶ雲に、追われるように航行してきたが、航海の間かろうじて持ちこたえてくれていたものがとうとう堪えきれなくなったものらしい。
 雨はすぐに本降りに変わったが、アッシュにとっては僥倖だった。フードを深く被るのに違和感がなくなるだけではなく、けぶる雨の帳が顔を見えにくくしてくれる。
 アッシュは一番最後に船を降り、迎えの人々との再開の抱擁もそこそこに、蜘蛛の子を散らすように我先に宿へ急ぐ人々の間を悠々と抜けると、多くの人が向かう華やかな中心地から逸れた、昼でも薄暗く、猥雑な界隈へと足を向けた。途中、濡れてもあまり動きを阻害しない黒い薄手のレインコートと、靴底が非常に柔らかく、足音の立たないブーツをそれぞれ別の店で買い、一軒の宿に滑り込んだ。そこは漆黒の翼の構成員が営業している店で、アッシュには何かと便宜を図ってくれる。例え真夜中に得体の知れない風体で宿を抜け出したとしても、見て見ぬフリをしてくれるはずだった。

 個室に通されると簡単に食べられるものを部屋まで運んでくれるように頼み、わずらわしくまつわりつく服を脱いで軽く濯ぎ、絞って干しておく。
 食事が来るまでの時間に、身体を温める目的で簡単にシャワーを浴びた。運ばれてきた食事を摂ってから、深夜まで仮眠を取るためにベッドに入る。じっと横になり、目を閉じていると、遠いところで雷の鳴る音が聞こえた。船の中で、天気の預言を聞いたものが『今夜は雷雨』と話しているのを小耳に挟んだが、やはり預言に外れはないようだ。

 アッシュは幼いころ、雷の苦手な子どもだった。単なる偶然だったのかも知れないが、そんな日には母が体調を崩していることが多く、近寄らせてもらえなかった。父は不在がちで、アッシュは一人布団の中で丸まり、ぶるぶる震えながら雷が過ぎ去るのを待っていた。ガイや、アッシュ付きのメイドを呼べば傍にいてくれたのだろうが、そんな子どもっぽいことは出来なかった。──今にしてみれば、その意地の張りようがまた幼いと感じるのだけれども。
 この歳になると、さすがになぜそんなに恐れていたのかももうわからないのだが、漠然とした不安感と孤独を感じることには変わりがない。己のレプリカであるルークも、こんなときは一人が辛かったのではないか。案外素直に「怖い」と口にしたような気もするし、自分同様に意地を張った気もした。そのどちらであってもルークらしいとアッシュには思える。今頃はどのあたりにいるのか。天気はどうだろう? 海は荒れていないか? 雷は? ──怯えていないか……?

《──痛っ、アッシュ!》
《……レプリカ?》

 突然ルークの声が聞こえ、アッシュはぎょっと半身を起こした。ルークの方から回線を繋ぐことは出来ないのだから、これはアッシュが繋いでしまったということなのだろう。まだ別行動に入って数日しか経っていないのに、一体どれだけ依存しているのかと思わず苦笑が漏れた。

《すまない、無意識に繋いでしまったみたいだ。痛くねえか》
《──》

 ルークの返事は、すぐには返らなかった。代わりに、驚きと喜びと面映さが入り交じった感情の奔流がアッシュに向けて流れ込む。

《う、ううんっ! 嬉しい! お前、全然連絡寄越さねーんだもん!》
《頭が痛いだろ》
《どんなに痛くたって、お前と話せないよりいいよ!》

 アッシュに流れ込むルークの感情に、如何なる虚飾も虚偽もない。ただ向けられる真っ直ぐな好意は、思わず圧倒されるほど強くひたむきで、いつもは固く引き結ばれたアッシュの口元をも綻ばせる力を持っている。

《──どうしてる》
《あっ聞いてくれよ! 今、ディストもいるんだぜ!》
《ディストだと?》
《あいつ、スピノザ取り返そうとして襲ってきたんだ、船をさ!》
《なに》
《スピノザが船内火災用の海水汲み上げホースで海水かけてくれてさ、すぐにごとっと落ちてきたんだけど! 船長に怒られて、罰金とディストの船賃まで請求された! 信じらんねーのこいつ無一文でさ! おれが払わされたんだぜ?!》
《……》

 これも同調効果なのか、ルークに怪我などの異変がないのはわかっていたのでそんな心配が不要なのはわかったが、ルーク、スピノザ、ディストという異色の取り合わせに軽く目眩がする。

《……それでさ、スピノザがディストを説得してくれて、一緒に大爆発の研究してくれることになった! おれたちの身体を色々調べてみたいのが本音らしいけど、ま、そこらへんはジェイドがなんとかしてくれんじゃね? 完全に尻に敷かれてるから! ──なんだよ、本当のことじゃん! 財布も持たずに襲ってきやがった癖にっ──ちょ、待てよ! それおれんだぜ?! なんで勝手に食ってんだよ!》
《……》

 途中からアッシュ宛ではない会話が続き、アッシュはルークが回線での会話時に実際に声に出して話しているのであろうことに気付いた。事情を知るものならば良いが、知らぬものの前ではまるで物狂いだ。頭の中だけで言葉を作れば通じるのに……。もしかしたら、思わず手を振ったり頭を下げたりもしているのかも知れない。
 思わず想像すると、その光景は思いのほか可愛らしく感じられ、アッシュはほんのりと笑みを浮かべる。

 ルークは『大変なんだぜ!』を枕詞に、ディストが合流してしまったせいで起きたゴタゴタの数々をため息まじりにアッシュに話して聞かせたが、ブツクサとぼやいているわりには元気で、楽しそうな感情が伝わってきた。それにほっとすると同時に、自分は結構参っているのに、ルークの方はそれほどでもないようだということに少し複雑な思いもする。

《アッシュは? ……バチカルの用事って済んだのか?》
《──これからだ。その前に少し仮眠をとるつもりで横になったところだった。……もう切るぞ。お前も早く休め》
《う、うん。おやすみ……アッシュ》
《ああ》
《……》

 ルークが口を閉じるのと同時に、胸が痛くなるほどの感情が押し寄せてきた。それは淋しさだったり、悲しみだったり、思わず逢いたい、と叫びそうになるのを必死で押し殺している重苦しさであったりするが、その根底に横たわる散らしようのない深く重い愛情が、思わず一筋の涙をアッシュに流させた。この泣きたいほどの切なさの波は、アッシュとルークどちらのものなのだろう? 『独り』というのはこういうものだっただろうか? あまりに辛く、切るとは言ったもののなかなか回線を閉じることが出来ない。おそらくアッシュのこの感情も、どうにも遮断出来ないままにルークに筒抜けになっているだろう。それを恥ずかしいことだとは、もう思わないけれども。

《おやすみ、ルーク》
《──っ》








《……淋しい》








 暗闇の中でぱちりと目を覚ました。ほんの少しの仮眠だったが、頭の中はしんと冷たく冴えている。正確な時刻はわからないまでも、おそらく予定通りの時間に目を覚ましたはずだ。
 片膝を引き寄せて外の様子を窺う。雨は眠る前と比べて弱まってはいないが、これからの行動に支障が出るほど強まってもいない。
 しばらくそのままで、たまに明るく光る窓の外を眺め、遠くでどこかに雷が落ちる音を聞いていた。雷は徐々に近づいてきていて多少待ったところで収まりそうにもない。ある意味好都合だと腹をくくり、身支度を整えて窓から外へ滑りでた。目的地は最上層、ファブレ公爵邸である。万が一、しくじった場合のことを考えたら、アッシュが宿を抜け出したことなど従業員たちは知らぬ方がいい。

 ある程度の階までは昇降機を使わずとも上に繋がる道があるが、下級貴族の住まう上層、国王の居城のある最上層へは昇降機を使わねば行くことが出来ない。むろんささやかな防備の一環だが、実のところ抜け道は存在した。一見、穏やかな聖地でありながら神託の盾によってガチガチに警護されたダアトと比べ、バチカルという都市は日陰で暗躍するものたちにとっては穴だらけの都市なのだ。
 ファブレ邸もそのようなもので、形骸化した警備は玄人の暗殺者を完全に跳ね返しはしない。ルークがそもそも屋敷から飛び出すはめになったのが良い例で、最上層は、敵に攻め込まれることをそもそも想定してはいないのだ。

 幼いころ、不安と期待と渇望を胸に抱いて歩いた道を再び辿る。あのときのような焦燥はなく、我ながら不思議なほどアッシュにはなんの感慨もなかった。




 (2011.10.16)