ケテルブルク港までの復路も、ルークはなんとなくアッシュの後ろを歩いていた。このあたりの魔物に今更苦戦するような二人ではないが、もうほとんど習慣のようなものだ。
往路と同じようにルークはアッシュの足跡を一生懸命に辿っていて、その緊張感に欠けたようすにはアッシュも思わず苦笑をこぼす。気を抜くなと言ってやるべきかと一瞬思い、すぐに首を振った。ルークも差し迫るまで危険に気付かないような三流剣士ではない。どれほど危険の少ない土地でも常に警戒網を張り巡らせてしまうのは、軍人としての暮らしで培われたアッシュの習い性だった。
「…………?」
きっと測ればきっちり同じ歩幅なのだろうと思われる、規則正しいアッシュの足跡が途中から大きく乱れ、ルークは首を傾げた。いきなり左右に振れたり、綱渡りでもしているかのようにまっすぐになったり、大股になったり、逆に小股になったりと、かなり不規則だ。
しばらくは不思議に思いながら辿っていたが、すぐにアッシュがわざとやっていることに気付いた。うずうずと笑いと嬉しさがこみ上げてくる。
「アッシュ!」
「なんだ?」
用があったわけではない。ただ、呼んでみたくて名を呼んだだけのつもりだった。だが、少し抗議の色が混じってしまったようだ。それに気付いたアッシュが笑いを含んだ返事を返す。
べルケンドの街を出て、隠れ家までの山道を歩いたことを思い出した。
今と同じにアッシュの後ろを歩き、苛立ちと拒絶の気配の漂う背中をずっと見ていた。話しかけた言葉には一言の返答もなく、近づきたい想いと、社交辞令のような誘いに本気ではしゃいでくっついてきてしまった自分への後悔とに苛まれ、居たたまれなかった。
今も二人、無言で歩いているけれど、あの時とは違う。
アッシュは周囲を警戒しながらも、後ろに続く自分を常に気にしてくれている。呼びかければ、返事を返してくれる。
だから、ちょっと話してみたいと思ったのかも知れない。
「アッシュは、どんな父上になるのかな」
きゅっ、きゅっという雪の立てるアッシュの足音が、急に早く、規則正しくなった。
「──想像も出来ねえな」
ルークが肩を落とすまでたっぷり時間が経ってから、アッシュがぼそりと呟いた。
この誤解をどう解くべきか、アッシュはまだ決めかねているのだった。
この道すがら戦闘になった二度、ルークの動きが少しおかしかった。一度目はただ、不審に思っただけだった。二度目で腹を庇っているのだと気付いたときには血の気が引いたが、無意識に身体に負担のかからない戦い方になっているのか、普段の彼よりはよほど効率よく危なげがない戦い方で、何も言えなかった。
家の存続のために、跡取りになる子どもを用意する、その役に立たないのはお互い様なのだ。
──互いが相手であるかぎり。
だが自分で産んでも、誰かに産んでもらってもいい、とにかく子どもを作るのが自分の義務だと思い込んでいるルークが、アッシュが相手である限りそれは永久に得ることが出来ないものなのだと知ったら……。
いや、いっそ誰が相手でも、お前が子どもを得るのは無理なのだと言えば、ルークはそれでも自分から離れないでいてくれるのだろうか。
アレはあまり好きではない、と言いながら、子どもを作るためと信じてアッシュには進んで身を任せたルークの「好き」と「愛してる」を、アッシュは完全には信じきれずにいることに、今、気付いた。
「……レプリカ、俺は、隠れ家での最初の晩、お前と違って家のことや跡取りのことなど全く考えてなかった。あのときだけじゃない。俺はこれまで一度も、捨てた家の将来のことなど考えたことがない」
「えっ?」
気付くと二人は立ち止まり、向かい合って立っている。ルークはアッシュのどこか哀しそうな顔を見て、何か自分がアッシュを傷つけたのかと怖くなった。
アッシュの手が伸びてきて、ルークはびくりと身を竦ませる。アッシュはその動きにこそ傷ついたように一瞬手を止め、そろそろとルークの輪郭に沿うように頬に触れた。
「ア、アッシュ、おれ、」
「いや、いいんだ」
反射的に謝ろうとしたルークを遮って、アッシュはルークをまっすぐに見つめた。
自分と言う人間は、どこまでも卑怯で、醜い。ルークに去られるのが怖くて、重大な間違いを正すことが出来ない。だからせめて自分の気持ちくらいは誤摩化さずに伝えなければ。そのたった一つの嘘以外は、何一つルークに嘘を付かず、誠実であらねばならない。でなければいつかルークが真実を知ったとき、自分の気持ちまでが嘘なのだと思わせてしまうことになるだろう。
「俺は多分、ずっとお前のことが気になってたんだと思う。今思えば、あのときお前を誘ったのは……罠におびき寄せるようなつもりが無意識にあったのかもしれないな。お前は──俺の張った網にかかった蝶だった。だから食い散らかした。あの小屋に入ったのがお前じゃなかったら、それが誰であろうと俺は抱いたりしなかっただろう」眼を細めて、アッシュは親指の腹でルークの唇をなぞり、軽く唇をめくったり押したりしてその弾力を楽しむ。「こうやって、お前に触れるのが好きだ。お前に触れてもらうのも、お前が感じてあげる声も好きだ。お前を抱きしめて、中に入るのが好きだ。子どもを作るためなんかじゃない」
「……アレって、子ども作らなくても、していいものなのか?」
ベッドでの行為を思い起こさせるような触れ方に、ルークは切ないような、困ったような顔を赤く染めて俯き、戸惑ったように問いかけた。
「こないだそう言っただろ? 俺は子どもが欲しくてお前を抱いたんじゃねえ。自分が気持ち良くなりてえし、お前にも気持ちよくなって欲しいからするんだ」
「子どもがいても?」ルークがふっと自分の腹に視線を落とし、両手を当てた。
そこに命の種など存在しないことを、アッシュは知っている。だが、ルークが本当に──優しい、まるで我が子を愛おしむ母親のような顔をするものだから、アッシュは言葉に詰まった。
言えよ、ひと言。「男は子どもを生めないんだ、ルーク」それだけでいいんだ。
「……いても、だ」
どこか落ち着きがなく、幼い行動は大雑把で、太陽に向かう向日葵のように素直でおおらかに笑っていたはずのルークの、その慈愛に満ちた表情は、アッシュの過去に置いて自分には向けられたことのない顔だ。母は確かに優しかったが、乳母ほど気の置けない存在ではなく、母も実の息子でありながら滅多に会うことのない気難しいアッシュを扱いかねて遠慮がちだった。貴族の家ではそれが当たり前だったが、アッシュ自身はそれをどこか寂しいと思ってはいなかったか?
──ああ。
俺の子は、こんな顔で見守られ、こんなふうに愛されて育つのか……。
言葉にできない切なさが、胸をぎゅっと詰まらせる。
「そ、うなんだ。それなら、おれ……おれも、アッシュに触りたい。もっと。おれも、アッシュに触られるの、好きだ。アッシュがいくときの声も好きだ。アッシュが入って来る瞬間、うって息が詰まんのも好きだし、アッシュの舐めるのも好きだよ」ルークは素直に頷いた。この三日アッシュは眠ってばかりで一度もしなかったから、子どもが出来たからもうしないのかと思っていた。そういうものだと思っていたし、屋敷にいたころはだから早く子どもが出来ればいいのにと思っていたのに、相手がアッシュに変わっただけでそれをどこか寂しく思っていたことに気付く。
「確かに子どもを作るためにはしなきゃならないんだが、本来は好きな者同士がそんなふうに愛情を確認したり、互いを幸せな気分にさせるためするものなんだ」
「好きなもの同士……」
ぼんやりと呟くルークの頬に添えた手をうなじにずらし、アッシュは優しくルークを引き寄せて、これで理解出来なくたって何度でも言い聞かせよう、という決意を持って囁いた。
「俺はお前が好きになったから、もうお前としかしねえ。お前も俺を好きだと言ったんだから、他の誰ともするな。いいか?」
「おれとしかしない?」
ルークははっとしたようにアッシュの顔を覗き込み、確認するように恐る恐る問いかけた。
「──ナタリアとも?」
「しねえ」
「……ノワールとも? 絶対?」
「……? しねえよ」
なぜルークがノワールの名を出すのかわからず、間が空いてしまったのをどのように受け取ったのか、ルークは唇を噛んで俯く。
「前はしただろ? ……アッシュはノワールが好きだったのに、もう嫌いになったのか?」
今度はアッシュが唇を噛む番だった。ノワールとは確かに何度か床を共にしたが、互いに身体の欲求に素直に従っただけで、そこにどちらかの気持ちが伴われたことなどない。好意があることは確かだが、恋愛対象として見るには、互いに隙がなさすぎた。肉欲は鎮めることが出来ても、安らぎは得られまい。
ルークは赤ん坊のように知識がないくせに、なぜこんなことだけ勘がいいのか。ノワールは軽く仄めかしただけにすぎないのに……。
「俺もノワールも好きなやつが誰もいなかったから、熱を鎮めるのに互いを利用しただけだ」
ため息をついて情けない事実を告白し、白いミトンの手を掴む。雪を踏みしめて歩き出すと、ルークは納得がいったのかいかなかったのか判別のつかない曖昧な表情で頷き、素直に付いて歩き出した。
「……わかった。おれはアッシュが好きだから、アッシュとしかしない。アッシュも、絶対、絶対おれとしかしちゃダメだぞ!」
「もうしたいとも思わねえよ」アッシュは笑って頷き、握った手に力を込めた。
「アッシュの旦那!」
生まれて初めて楽しかった、と言える船旅を終えてグランコクマに辿り着くと、待ち構えたようにヨークが手を振っていた。
二人が下船の客をかき分けて駆け寄ると、ヨークはルークに人の悪い笑みを見せ、軽い会釈をした。
「坊ちゃんも元気そうで何よりだ。別に、どこか変わっているようには見えないな? 直視するなって言われていたんだが」
「へ?」
「余計な御託はいい! スピノザは」
またもルークの前に身体を滑り込ませ、アッシュが睨み上げると、ヨークは肩をすくめた。
「押さえたぜ。この街の隠れ家の一つで、仲間が見張っている」
「よし、すぐに案内しろ」
グランコクマの細い裏路地をぐるぐると歩き続け、時に店先から入って裏口から抜けるようなことまでして、すっかりルークが道を憶えていられなくなったころ、ようやく一件の寂れた本屋の本棚の裏から、『漆黒の翼』たちのグランコクマでの隠れ家の一つに到着した。
古い書籍がいっぱいに詰まった棚が手前に引かれたとき、アッシュはこれ以上はちょっとないほどにわくわくと顔を輝かせたルークにちょっと苦笑した。こんな顔が見られるのなら、もっとわかりにくい隠れ家を用意してやりたいと思ってしまうではないか……。
本棚の奥にはゆるく地下に向かう階段とまっすぐな通路が続き、左右と正面にいくつかの部屋があるようだった。
ヨークは奥の部屋の前に二人を案内すると、顎をしゃくって鍵を回した。
天井近くの壁に、曇りガラスのはまった横長の明かり取りがあるだけの部屋。簡素な一人用のベッドの上に両手両脚を縛られ、猿ぐつわと目隠しをされた老人が転がっている。
二人が部屋に入ると、ヨークはアッシュの視線を受けて頷き、部屋を出て行った。静かな足音が遠くなると、アッシュは乱暴に老人を引きずり起こし、目隠しと猿ぐつわを外した。
明るい音素灯に、老人が眩しげに瞬きをする。
「久しぶりだな、スピノザ。鬼ごっこは楽しめたか」
アッシュは転がるスピノザを見下ろした。
長い間、この老人はアッシュの憎しみの対象だったはずだが、ルークへの自分の気持ちが変わったせいなのか、心は恐ろしく穏やかで、ちらりとも泡立つことがない。
「アッシュ……」
「べルケンドで何を聞き、誰に報告したか、話してもらおうか」
「……」
「ヴァンか?」
「……」
ふて腐れたようにそっぽを向いているスピノザに、アッシュは呆れたように肩をすくめた。
「『あれ』が命を賭けるに値するやつとも思えねえが」
「……わしを殺す気か」
「死にたいのなら、そうしてやってもいいぞ」
「……」
おびえたように身を震わせる老人を冷たい目で見下ろして、アッシュは肩をすくめた。
「まあいい。それよりお前に聞きたいことがある」
アッシュはスピノザを起こして壁にもたれさせてやっているルークをちらりと見て、スピノザに言った。
「知っているだろうが、俺のレプリカだ」
「……並べてみると、あまり似てはおらんな」
「育ちがだいぶ違うからな。こいつが生まれたばかりのころとはずいぶん違いがでているだろうな」
「お……おれ、好き嫌いが多いから……」
ルークが横合いからぼそりと付け加えるのにアッシュがぷっと吹き出した。叱っても断固として嫌いなものは口にしなかったくせに、アッシュは未だ骨が軋む音が聞こえるような気がして目が覚めることがあると聞いてから、ルークは決死の表情でミルクも摂っているし、徹底的に取り除いていた魚の小骨も涙目で口に入れている。身長が伸び悩んでいることはやはり気にしているのだ。
己のレプリカを見つめるアッシュの表情は穏やかで、困った奴だというように向けられた視線は笑みを湛えており、アッシュがレプリカをどのように思っているかが伝わった。
笑われて口を尖らせるルークの頭をアッシュがかき回しているのを、スピノザは恐ろしいものを見るような目で見つめた。優しげにルークを見つめていたアッシュの瞳が、ふっと厳しいものに変わる。
「アッシュ?」
「レプリカ。本当はお前には聞かせたくねえんだが──おそらくお前も聞いておくべき話だと……思う」
「……う、うん……」
「……少し前から、意識をかき乱されるような、酷い頭痛が起こるようになった。同時に、傷の治りも遅くなってきている。譜術の威力も落ちて来ているようだ。スピノザ。お前に聞きたいのは、完全同位体間で起こると言う、大爆発現象のことだ」
「びっぐばん」
ルークが聞き覚えの無いその言葉を鸚鵡のように反芻するのを横目で見やり、アッシュは頷いた。
「俺とお前が完全同位体であることは、ヴァンやこいつは初めから知っていただろうが、俺が気付いたのはコーラル城でお前のフォンスロットをこじ開けた時だ。ヴァンは、そんなこと匂わせもしなかったからな。あのときディストがまくしたてている独り言を聞いて、その現象のことを知った。同位体と完全同位体では、一体何がどう違うのか知りたくて調べてもみたが……ジェイド・バルフォアのレプリカに関する著書は、すべて公には廃棄回収になっていてな。肝心のことは何一つ分からなかった。個人蔵書の回収漏れくらいしか読む手段はねえだろうが……お前の頭には当然入ってるだろう」
「大爆発……そうじゃな、頭痛、譜術力の低下は音素乖離による音素放出の前段階じゃ。そうか、音素乖離が始まっておるのか……」
「音素乖離? 俺は音素乖離を起こしているのか?」
聞き慣れない言葉ながら、あまり良い言葉ではないように思え、思わずルークは寒そうにぶるりと身を震わせ、アッシュにすり寄った。
「そうじゃ。大爆発は、数度の段階を追って完了する。まず第一段階として、音素の結合が解け、少しずつレプリカに取り込まれていく。被験者には副作用として、意識の混濁や音素に干渉する力の低下、といったことが起こると言われる。最終的にはレプリカの死と同じように、完全に、乖離する」
「……」
アッシュは眉を寄せて、一瞬、固く目を閉じる。
「アッシュは死ぬってことなのか?」
ルークがアッシュの腕をぎゅっと掴んで、静かに聞いた。
「……そのように、感じるかもしれん」
「そこまでが第一段階? 次は?」
問いかけたのは、ルークだった。
「乖離した被験者を構成する音素は、すべてレプリカに吸収される。いわゆるコンタミネーション現象じゃな。少し違うのは、第一から第六までの──第七音素の素養のある者なら第七も含むが、人体を構成するすべての音素が、第七音素だけで構成されたレプリカ体を上書きするように取り込まれるということじゃ。最後に」
「最後に?」
いっそ無邪気とも言えるような声でルークは首を傾げた。
「レプリカ体は、単一音素で構成され、元々生物として安定を欠いておる。乖離しやすいのじゃ。そこに第一から第六、第七の音素が足されれば、収まりきれずにおよそ一人分の音素があぶれることになる。それはほとんどが乖離しやすいレプリカの構成音素じゃ。あぶれた音素は乖離するしかない。レプリカを構成していた第七音素は、人体に悪影響を残さない程度にしか残らんじゃろう。つまり、レプリカの身体は被験者に乗っ取られ──大爆発完了、ということじゃ」
「な……なんだと?!」
目を剥いてスピノザに噛み付くアッシュを軽く腕を引くことで押さえ、ルークがスピノザに質問を続けた。
「おれの身体に残る自我はアッシュのもの、おれの身体がアッシュの身体になるということなんだな?」
「そうじゃ。だが、僅かに残る第七音素──もともと第七音素は記憶を司るものじゃからな──おまえさんのこれまでの記憶は、そのままアッシュのものとして残ることになるじゃろう」
「記憶? おれの記憶をアッシュに見られちまうってこと?」
「アッシュ、お前さんはレプリカの記憶を自分の記憶のように思い出すことが出来るようになるじゃろ。──というのが、バルフォア博士の説じゃな。もっともこれまで完全同位体が作られたことはなく、今はまだ机上の空論と言わざるをえんのじゃが」
「おれ、それはちょっと、嫌かも……」
ルークは困惑したように俯いた。
自分などより余程辛く、惨い人生を送ってきたアッシュに、この上哀しみや罪の記憶まで押し付けるなど。
……その上、どのようにアッシュを求め、感じたか。溺れるように愛する記憶までがすべて丸ごと知られてしまうのは。
「ちょ……っと嫌と言うか、だいぶ嫌って言うか。それはやだ。それは恥ずかしすぎる」
それに、自分がいなくなってしまったら、アッシュはどうするんだろう? ファブレを継ぐにしても、ナタリアと結婚して王様になるにしても、跡取りは必要だ。
元々ルークのものだった身体で、アッシュを愛するルークの記憶を内に抱えたまま、他の誰かと……?。