吹雪はまったく止む様子がなかった。
熱い紅茶の入ったカップを両手で包み、窓の外を見つめて、ルークは一人ため息をついた。
窓の外は強烈に吹き付ける雪と風で真っ白だ。他のものは何一つ見えない。せめてもう少し穏やかな降雪であれば、窓からは夜のケテルブルクの名物とも言われる美しい景色が見えるはずなのだが。
ルークは退屈しきっていた。
アッシュは、一体何に取り憑かれたのかとルークが危ぶむほど惰眠を貪っていた。自主的に起きることもあったが、それはおそらく排泄のためで、ついでに水とパンをいくつかもそもそと食べ、何か言い訳らしきものを呟きながらすぐにベッドに戻ってしまう。その時間は、十分にも満たなかった。起きた回数にしても、決して多いわけではない。ルークがまともな食事を摂らせるために叩き起こした一回を足しても、片手で十分数えられるのだから。
最初の一日は気にならなかった。ルークを長く思い悩ませていた子どももやっと腹に宿ったようだし、しかもアッシュには「好き」という信じがたい言葉も言ってもらえた。何度も何度もそれを反芻して少しずつそれが現実感を帯びて来ると、ルークは重荷から解放されたように晴れやかな気分になった。おまけに、これまで一人で気を張り続けていたらしいアッシュが、ルークの前にこれほど無防備に寝顔を晒してくれている。
ただでさえ体力を使うアレを、連日、しかも何度もしていたせいで、アッシュが疲れきっているのはわかっていた。だから十分休んで欲しいと思ったし、初めはただ寝顔を眺めているだけで、嬉しくて、幸せでならなかった。
眠っているアッシュの顔を、こんなふうにすぐ傍でじっと眺めるなど、ルークには初めてのことだった。じっと見つめると、眉間に皺を寄せて逸らしたり、或いは逆に睨まれたりしてしまう。眠っていたってルークが顔を覗き込んだとたんに目を覚ましてしまうから、ルークは寝顔をしみじみ眺めたりしないように気を遣っていたのだ。──といっても、アッシュは大抵ルークよりも後に眠り、先に目覚めていたし、そうでなくともルークの覚醒の気配を感じ取ればすぐさま起きてしまっていたのだが。
初めてじっくりとアッシュの顔を観察してみると、いやでも顔立ちすらルークと同じではないのだということに気付かされた。おれとお前は違うんだと叫びながらも、容姿は同じだと信じていたことが不思議なくらい、観察したアッシュの顔は、どの角度からどのように眺めても女性的なところがまったくない。ルークはこの間女の子に間違われたというのに……。むろん、そこまで酷い言われようは初めてだったけれど、さんざん言われてきた『可愛い顔』という評価がアッシュの顔に当てはまるとはとても思えなかった。見てわかるかどうかといった些細な違いではあったが、アッシュの方がやや顎がしっかりしていたり、輪郭がくっきりして頬がそげていたり、ほんのちょっぴり肌のなめらかさが欠けていたり、そういった一つ一つの小さな違いが、全体になると違いを大きく際立たせてしまうのかも知れない。これだけ放置すれば、アッシュの頬や顎は無精髭がまばらに覆う。今までルークが気付かなかっただけで、アッシュは洗顔の時に生えて来る髭の処理をしていたはずだ。もう少しアッシュが大人になれば、きっとガイやジェイドのように毎朝髭を剃ることになるのだろう。だがそれは、いまなおルークの顔には発生しないものだ。
自分はアッシュのレプリカなのに。完全同位体であるはずなのに、なぜこうまで容姿が変わるのか、ルークは不思議でならなかった。利き腕が違うことによって、左右の腕の太さがアッシュと逆であることには早々に気付いたが、生活習慣の違いと言うのはここまで顕著に人の容姿に介入するものなのだろうか。
やがて見ているだけでは飽き足らず鼻を摘んでみたり(が、というような呻き声を上げてぽかりと口を開けたが、起きなかった)、瞼を持ち上げて眼球がぐるぐる動いているのを吹き出しながら見つめたり、こっそりキスしてみたり(これらにはぴくりとも反応しなかった)、髪を編んでみたりとさして退屈もせず一人で遊んでいたのだが、それもこれもほぼ一日中やっていれば飽きてもくる。
だが寝癖だらけの茫洋とした顔で謝られては責める気にもなれず、アッシュが起き出した隙に借りた本を読んでみたり、寝顔を見つめているうちに眠くなって一緒に眠ってみたりと、このところの強行軍とは正反対の怠惰な生活を繰り返し、もう三日目だ。
外に出られないから、食事はホテルの中で取るしかない。無理をすれば出られないこともないが、この天気では営業しているかどうかもわからないと従業員に言われたし、何より雪に慣れぬルークなど町中で遭難しそうで怖かった。たまにぼーっと起きて水やパン、林檎を四分の一とかチーズを一欠片とか口にするだけでまともな食事もせずひたすらごろごろと眠るアッシュが心配で、昨日の夜は恐る恐る起してみたものの、半覚醒状態でどこかふらふらしており、到底ホテル内のレストランになど連れて行けそうもなかった。そこで部屋まで料理を運んでくれるというサービスを利用してみたが、そのメニュー数はレストランに出向くのと比べると格段に貧相だった。
もう、一人にはうんざりだ。
だが観光で時間を潰すこともできず、話し相手がいるわけでもない。仕方なく自分のために紅茶を淹れ、ぼんやりと白一色の外を眺めていたというわけだった。
アッシュはというと、ぴくりともせずに寝入っている。
「そのうち、脳が融けるんじゃねーの……?」
さすがに悪態の一つも出てこようというものだ。
それにしても、一体何がどうなってこんなことになってしまったのだろう? 少なくとも、子どもの話を始める前はこうではなかった。アッシュはいつもピリピリしているようだったし、ルークを見る目もどこか複雑で……優しいと思えば突き放されたり、視線が合えば抱き寄せられることもあり舌打ちされることもあり、態度にも一貫性がなかった気がする。なのに、急にルークを好きだと言い出すなんて、考えてみれば少し妙なのではないか。あれだけルークのことを疎んじていたのに、なぜ気が変わったのだ。一体ルークのどこを好きになってくれたというのだろう。
話し相手もなく一人で考えていると、思考は安易に暗いほうへと流れていく。急に怖くなって、ルークは慌ててアッシュの枕元に駆け寄った。
「アッシュ、」
「アッシュ……」
「……まだ、起きねえ……?」
声をかけても、アッシュは反応一つ見せない。
怒られるかな……?
怒鳴られるかも……。
そう怯えながら極々軽く肩を揺すってみたけれど、アッシュは唸っているばかりで起きる気配はなかった。
「……おれのこと好きなんて……嘘じゃねえ? 言って、後悔……してたりしねえ……?」
答えが返らないと知りつつも──返して欲しくないと願いつつも、小さく擦れた声でそう呟いた、とたん。
ルークはいきなりアッシュに引き倒された。仰天して声も出せないでいるうちに、強く胸に抱き込まれる。
「ア、アッシュ……」
「──おまえ……あったけえなあ……」
寝言のように聞き取りづらい間延びした声がその一言だけを呟くと、腿の間にアッシュの片足が押し込まれ、もう片方がルークの脚を絡め取り、ぐっと引き寄せる。もう、身動きも取れない。暖かいのはアッシュの方で、ずっと眠りっぱなしで体温が上がって、暑いくらいだ。汗が吹き出してくるのは、きっとそれだけではないのだろうが。
「ア、アアア、アッシュ!?」
「……もう少しで頂上だから、我慢しろ」
「…………はあ?」
「文句いうなおまえ……んだよタコの分際でー」
「アッシュ? えっと……一体、何の話?」
「リンゴ……ってんだろ。吸盤に……ってから」
「リンゴ? 吸盤??」
「…………」
「アッシュ?」
「……」
「……寝言かよ……」
「……」
緊張して損をした。
全身から力を抜いて、ふう、とルークはため息を付いた。
すーっすーっと規則正しい寝息が聞こえてくる。
「…………」
一体、どんな夢をみているのだろう? 吸盤に林檎をくっつけた大きなタコを引率して、登山でもしている夢なのだろうか?
そう思った途端、まるで発作のように笑いがこみ上げた。
笑い声を堪えることは出来たが、体の震えが止まらない。ルークはあまりのおかしさに声を出さずに笑いこけた。
腕の中に収めた体が小刻みに跳ねるのが気に入らなかったのか、アッシュの眉間にみるみる皺がより、抗議するように唸り声が漏れる。
「ご──ごめん、ごめんアッシュ」
「好きだ」
どきん、と大きく心臓が跳ねた。まるでつい先刻までぐだぐだと悩んでいたことを見透かされたようなタイミングに、なおもどきどきしながら続きの言葉を待ってみたが、相変わらず聞こえてくるのは寝息と、アッシュの心臓の鼓動だけだ。
ルークの心臓に大打撃を与える台詞を吐いたくせに、その鼓動はルークの全力疾走と比べてやけにのんびりしたものである。
「あのさ。……タコに言ったんじゃねえよな……?」
泣きたい思いで呟いて、頬を胸に押し付けると、ルークを抱きしめるアッシュの腕がますます強くルークを掻き寄せた。
ルークは息をひそめ、戦きながらアッシュの様子を窺っていたが、身動き一つできない牢獄は、次第にルークの強ばった心と体を甘く蕩かしていく。アッシュの鼓動は規則正しく、じっと聞いているうちにルークの鼓動も落ち着いてきた。
ルークはそっと目を閉じた。その鼓動は、ほんの半拍ずれたままで規則正しいリズムを刻む。
──その鼓動が、いつかぴったり重なる日が来るのだろうか。それを、望んでもいいのだろうか……。
コーヒーの香りで目が覚める、なんてことは初めてで、ルークはいつもの寝起きの悪さをかなぐり捨てたように飛び起きた。
あまりの勢いにアッシュがぎょっとしたように目を剥く後ろで、窓から明るい日の光が射している。
「──晴れたのか?」
「ああ」
アッシュは妙にさっぱりした顔で頷き、ルークにもゆっくりと丁寧にコーヒーを落としてくれた。反射的に受け取ったが、ルークはあまりコーヒーが好きではない。その上、大嫌いなミルクもたっぷり入っているようだ。
「チケットは取ってきた。午後にはここを出て港に向かうぞ」
「え、いつのまに?」
一体何時に起きたのか、と改めてアッシュを見上げると、ちょろちょろとまばらに顎を覆っていた無精髭も綺麗になくなっている。すでにシャワーも浴び、身支度を済ませてチケットを取りに行ってくれたのだろう。
「おれも起こしてくれればよかったのに」
「良く眠っていたし、起こすまでもねえと思ったんだ」
少し表情を曇らせたルークに気付いて、アッシュは慌てて言葉を接いだ。
朝起きて、自分がしっかりとルークを抱いているのに気付いたとき、アッシュは何か暖かいものが胸に満ちてくるように感じた。そんな気分を、遠い昔に感じたことがあるような気がしてルークの顔を覗き込むと、歳よりも幼い──多分、実年齢に近いのだろう──無防備な寝顔が目に入った。すると、暖かいものが更に量を増した。それは、他の何処よりもここが一番安心出来る場所なんだと言わんばかりの寝顔だったからだ。
自分が笑みを浮かべていることにも気付かずしばらくその寝顔を眺め、アッシュは慎重に身を起こし、身支度を整えた。ルークが起きる前にチケットを取っておこう。吹雪で大勢が足止めを食らったせいで、早朝は込み合うはずだし、早い便から満室になることもあり得る。このところ半分惰性のようにスピノザを追っていたが、なんとしても彼を捕まえなければならない確固たる理由が出来た。
チケットを取り、念のためにグランコクマの酒場の一つに鳩を飛ばして、戻ってきてもまだルークは眠っていたが、アッシュが眠っていた方に転がって、アッシュの使っていた枕に顔を押し込んでいるのを見つけ、愛おしさがこみ上げた。こんな風にルークはずっとアッシュを慕ってくれていたのだろうに、くだらない矜持に心が麻痺していたせいで、ずっと気付かなかった。何も見えていなかった。ずうっと張っていた気は、今ルークによって少しずつ解かれ、摩耗した部分は満たされていっている、そう感じる。
べルケンドを出て以来初めてといってもいいほど、心は穏やかに凪いでいた。たまにはのんびり寝顔を見ているのも悪くない、もう少し寝かせておこう、とコーヒーを淹れ、その枕元に椅子を引いて座り、長い間読みかけのままで放置していた短編小説集を時折ルークの寝顔を眺めながら読んでいたところでルークが飛び起きた、というわけだった。
「船の時間まではまだあるし、もう少し寝てても構わねえが……もういいのか?」
「う、うん……」
せっかくアッシュが起きているのにもったいない。くす、と笑みをこぼして本に目を落としたアッシュの伏し目がちの目元に、ノワールの色っぽさとは違う、硬質な、男っぽい色気を感じて、ルークは惹き付けられた。ちょっと前まではこんな大人みたいに穏やかな顔、しなかったのに……。
なんだか置いて行かれたような淋しさと、貴重なものを見たと誰かに自慢したいような複雑な気分で、ルークは無意識にカップの中身を口に含んだ。
「あれっ、美味しい?!」
思わず叫ぶと、アッシュが顔を上げた。不思議そうにまじまじとカップを見つめているルークをしばらく見やり、バツの悪そうな顔をする。
「……ミルク、飲めねえんだったな」
子ども舌のルークに合わせたつもりで、ミルクも砂糖もたっぷり入れてしまった。
「う、うん……。コーヒーも、あんまり好きじゃねー……はずなんだけど、うまいって思う。これ、なんか特別なコーヒー? 高いやつ?」
「いや? このくらいのランクの宿になると何処にでも置いてある豆だろう」
「え……?」
首を傾げているルークにアッシュは自分の分のカップを見下ろして苦笑した。
「味覚が変わったのかもな。苦い、酸っぱいと、俺も昔はあまりうまいと思わなかったが、今は砂糖もミルクも入れねえそのまんまのコーヒーを一番美味いと感じる。お前も、きっとそうなるんじゃねえか」
アッシュはそう結論づけたが、ルークはなんとなく、それだけではないような気がした。
クリームシチューもルークは食べられるのだし、こうやってコーヒーにも入れれば、ミルクはかなり頻繁に摂れることになる。伸び悩んでいる身長にも希望の光が見えたぞ、と思うとアッシュの淹れてくれたコーヒーはますますありがたく、貴重な味がした。
(アッシュは、ミルクも砂糖も入れないコーヒーが好き)
新しく得た情報も、しっかりと頭のメモに書き込んでおく。
あ。
「──なあ、アッシュ。お前って、タコが好物だったりする?」
「あー、あれか……あれを食べると俺は蕁麻疹が出る……」
「えっ、そうなのか?! 聞いといて良かった……!」
右に左に目を泳がせた上に、ルークと目を合わさずに答えたアッシュに気付かず、ルークは妙にうれしそうな顔で一人頷いたのだった。