バニシング・ツイン 12

バニシング・ツイン 12

 脳の血管が膨れたり縮んだりしているような、酷い頭痛がする。
 その脈動に合わせたように、眼球の奥が疼き、手足の先がぴりぴり痙攣を起こしたように震えた。短気なアッシュですらついぞないほどの、煮えたぎるような怒りが、脳の奥をひどく疼かせる。
 目を固く閉じ、今にも呪詛の言葉を喚き出したくなるのを、唇を噛み締めて堪えた。
 その仕打ちは。
 まるで家畜の種付けのような所業は。

(俺が受けてた実験なんかより、もっとずっと惨い……)

 人間扱いされていないのは同じとはいえ、アッシュはそれに耐え抜くことで、己の誇りは守り通すことが出来た。だが、ルークは違う。ルークは飼われていることに気付かせないよう、注意深く飼育された家畜だった。
 男女の区別無く、受け入れる側になりさえすれば腹に子どもが出来るものと思い込んでいるルークがあまりに不可解で、あれこれと問いただしてみたが、意図された通り彼はほとんどの質問に答えることが出来ず、羞恥に顔を染め肩を落としてしまった。きっとこれまでなら愚か者のレプリカと蔑んでいただろうが、彼の話を聞いた今、アッシュはルークが意図的に知識を得られない状態に置かれていたことを嫌でも悟らざるを得なかった。
 ルークに接触する人間は、少なければ少ないほど良かった。アッシュから引き継がれた教師たちをルークが嫌い、そのほとんどを馘首クビにさせたあと、後任が探されなかったのもその一環だろう。二人の種が結びついて子どもになるなどというものは、だから屋敷を出て以降に聞きかじったことなのだ。知識の無いことを当初ルークは馬鹿にされていたし、それを恐れて周囲に質問することもせず、性に絡んだ話を耳にするたび自分なりに整合性が付くよう適当に解釈していったため、あれこれとつじつまが合っていないままになってしまったのだろう。

 その行為におとなしく従事させるため、下手な知恵を付けないよう、あらゆる知識から遠ざけた。
 ──それはもはや虐待ではないのか。

 無知で、愚かで、おまけに怠惰だと蔑んできたルークが、この旅の間強い好奇心や知識欲を見せるのをアッシュは目の当たりにしてきた。
 ルークは決して愚かでも怠惰でもなかった。
 その芽を、巧妙に摘み取られていたのだ──。

「アッシュ……? 大丈夫か?」
 アッシュの肩を少し押すようにしてルークが身を離し、気遣うようにアッシュの顔を覗き込む。
「あ、ああ……。何でもねえ……」
 ルークに無様なところは見せたくない。目も眩むような痛みの一切を顔に出さず、アッシュは頷いて見せたが、心配そうなルークの顔は晴れない。

(なんでこいつは俺の心配なんか出来るんだ。そんな風に気遣われる資格、俺にはねえのに)

 そう、アッシュに、ルークが受けてきた仕打ちを怒る資格などない。
 まさにその、ルークの自尊心を打ち砕く意図を持って、最初の陵辱は実行されたのだから。
 彼らのしたことと、アッシュのしたこと、どちらもルークの人権を無視し、彼を家畜に貶めたことには変わりがない。

 これまで不審に感じながらも流してきた数々のことが、今になってすんなりと理解出来た。
 あのベルケンドでの最初の一夜に、「忘れてた」と呟いたルーク。ルークは屋敷であったことを話しながら、この行為が好きではなかった、憂鬱だったと言っていた。もしかしたら……相手がアッシュでなければ、ちゃんと拒絶も出来たのかもしれない。アッシュの意図を悟ると無抵抗どころか協力的にすらなったのは、ルークにとっては、アッシュこそが課せられた義務を果たそうとしている正しき公爵子息だったからだ。胎内に出したものをシャワーで流せと言った自分に「そんなことして大丈夫なのか?」と尋ねたのも、こっそり流さずにおいて腹を壊したのも、ファブレ家に跡取りをもたらすための種を流す行為が理解出来なかったからだろう。
 もしも自分が女であったなら、胎内の精液を掻き出そうが出すまいが、結果に対して無意味であるということなど、ルークは当然知らなかった。

 ──俺があいつに子どもを生ませるつもりでいると、そのつもりであいつを抱くんだと思っていたんだ。

『なあ、アッシュ。……おれたちは、殴られねえの?』

 ──ああ、だからあの質問だったのか。そうだよな、片や結婚前に子どもを作ったと殴られ、片や結婚前に子どもを作れと急かされる。両者の違いが、お前にはわかるはずがなかった。屋敷では何も教えられず、俺も質問の意図を勘違いしてまともに説明していない。

 優秀な馬を作るためだけに、ファブレという厩に閉じ込められたまま、わけもわからず血統の良い牝馬に種を付け続ける哀れな種馬ルーク。いや、馬でさえ、人間の思惑をあざ笑うように最後まで抵抗する奴がいるのに。
 だが、なぜそれをしなくてはならないのか、人間のルークは弁えてしまっていた……。

 アッシュは怒りや悲しみ、憐れみでぐちゃぐちゃに心を乱しながら、縋るようにルークをかき抱いた。
 ルークが気にする、とわかっていても、体の震えは止められなかった。

 そういう扱いを受けるのは、本当は被験者のアッシュであったはず。そんなことも知らず、居場所を掠めとられたとレプリカを憎み続けた、自分はなんと滑稽で愚かだったのか。
 ルークがそんな生活に閉塞感を感じていたとはいえ、憤りを感じていないのは、その扱いが家畜に対するものと同じだと、人間扱いされていないも同然だと、気付くだけの知恵と知識を与えられなかったからに過ぎないのだ。

 だが、レプリカのルークはどれほど努力しても種馬の役目を果たすことが出来ない。
 誰もそのことを知らなかった。彼自身もそれに気付かなかった。その行為には愛も、意味も、欲望すら無く、ただ無駄に繰り返されただけ。
 ルークが抱え込んで行ったシーツが吸った二人分の体液は。

 ──今頃とっくに一人分になっているはずだった。

「アッシュ……? 大丈夫か?」
 おずおずとルークの手が伸ばされ、自分から触れても怒らないだろうかというように一瞬だけ逡巡し、そっと唇に触れた。「血が」

 痛々しいものを見るように顔を顰めるルークを、ひどく物悲しい気分でアッシュは見下ろした。
「……消毒を頼む……」
 唇に触れたルークの手を掴み、まだ目蓋の腫れが引かない瞳を見つめたまま手のひらに口づける。そっと手を離して指先でルークの唇を軽く押してやると、ルークは少し驚いたような顔をしてアッシュを見つめ、すぐに頬を染めて顔を寄せた。娼婦顔負けの技巧でアッシュの雄芯を舐めていたのと同じ舌使いでアッシュの唇を舐める。頭痛と怒りに歯を食いしばって傷つけた唇に、微かに唾液が染みたが、アッシュはルークを抱え込んだまま真後ろに倒れ込み、反対にルークの唇を吸った。ルークは伸しかかるかたちになったアッシュの身体の上で一瞬びくりと体を竦ませたが、すぐに力を抜いてアッシュの舌に応え始める。
 思えばルークとキスをするのは初めてだったが、その技巧はさすがに大したもので、アッシュは主導権を取り戻すために体勢を入れ替え、再びルークの体の上に伸しかかった。

「──男とも寝ていた理由はなんだ?」
「男? ……そーいや、男が来たことはなかったかも。全部女だった」
「なに?」
 アッシュは眉を寄せて、組み敷かれたルークを見下ろした。ルークはなぜアッシュが驚くのかわからないといった顔で、まじまじとアッシュを見つめ返している。
「……白光騎士とか……ガイは」
「えっ? あいつらとアレをしろって言われたことはないけど……。あのときガイは使用人だったし、騎士とは家格とかが合わないんじゃねーの? おれが生むとしても……」
「……お前、俺のを嫌がらずに咥えたろ。今まで誰かにやらされてたんじゃねえのか? 俺には……慣れているように見えたが」
「え、ほんと!? じゃあアッシュ、ちょっとくらいは気持ちいいって思ってくれた? おれずっと言おうと思ってたんだけど……。『授業』さぼってたみたいに思うかもしれないけど、おれ、実は受け入れ側の『授業』受けてないんだ。仕方ねえからパドマがやってくれたのを思い出しながらやってみたんだけど、お前絶対途中でもういいって言うしさ。同じようには出来てないってわかってたんだ。一度でいいからアッシュが受け入れ側になってくれたら、おれもちゃんと勉強したんだってわかってもらえると思うんだけど、アッシュ怒っちまったし、言い訳みたいに聞こえるかと思って……なかなか言い出せなくて」
「お前……」
「え?」
「いや、いい。お前が嫌じゃなかったなら、いいんだ……」
「なんで? 全然嫌とかねーよ?」ルークは驚いてそう言ったあと、落ち込んでいる様子のアッシュに気付いて戸惑うように言った。「おれは……。アッシュにたくさんさわれて嬉しいけど……」

 アッシュは深いため息をついた。
 ルークは本物の七歳児よりもずっと幼い。男女の性の違いすらちゃんとわかっていないルークが、同じ男の性器に口で触れるのを厭うはずも、後孔を穿たれることに屈辱感を感じるはずもなかったのだ。
 まったく、うまく躾けたものだ。
 ここまでくれば、もう怒りより、幻滅の気持ちの方が強かった。

 アッシュはなにやらルークには意味のわからない悪態をつきながら頭をがりがり掻いた……と思うといきなりルークの顔の真横に突っ伏した。
(ああ、もう、認めよう……)
 ルークは男に抱かれてはいなかった。女が相手の時ですら、彼自身の意思ではなかった。彼は日々遊蕩に耽って堕落していく貴族の子弟とは違い、驚くほど無垢なままでアッシュの腕の中にいる。そのことがなぜこれほどまでに心の平穏をもたらしてくれるのか。

 ルークには表向きナタリアという婚約者がいたはずだが、ルークの話ではナタリアが『繁殖牝馬』としてファブレ家に訪れたことはないようだ。ルークの子を生むのに、ナタリアほど相応しいものはいなかったのに。うまく二人以上の子を残せれば、ファブレ家は代々と同じく王家の血を得、王家は赤毛の御子を得ることが出来たはず。
(預言、か)
 おそらくナタリアも初潮を迎えると同時にそれを期待されたに違いないが、毎年の誕生日に詠む預言に、ナタリアに子が出来ると言うものがあったはずがない。二人の婚約は、単に『ルーク・フォン・ファブレ』に詠まれた秘預言を隠すためだけのものだったのだろう。王族の結婚は高い確率で政略的なものであり、そこに個人の事情、恋愛関係が絡むことは極端に少ない。そのため、王家の都合と預言に差異が現われることはほぼ皆無といえる。現時点では、『ルーク・フォン・ファブレ』を王女ナタリアの王配候補から外すことの方がむしろ不自然なのだ。
 ルークがいずれナタリアと結婚して王家に入るのは周知の事実だった。その前にファブレ家の跡取りを作っておこうというのは、秘預言を知らない者にとっても自然な話に見えただろう……。

 目覚めたあとからこっち、アッシュの行動は謎だらけ、質問の意図は判然としない。子どもが出来たと伝えてからのアッシュの不可解な言動に混乱したまま、ルークがその頭を抱え込んで髪を撫でていると、小さくくぐもった呻き声が聞こえた。悪かった、と言ったようにも聞こえたが、アッシュの何が「悪かった」のかルークにはわからなかった。アッシュは一体、ルークに謝らなければならない何をしたというのだろう。
 だが何をしたにしても、ルークに思い当たらないことは気にする必要がないはずだ。
 ルークは気にしないという気持ちと慰めを込めて、髪の隙間に見え隠れしているアッシュの耳に口づけた。

 ゆるゆると上げられた顔は戸惑ったようにも、後ろめたそうにも見える、アッシュらしくもない表情で、びっくりして瞬きを繰り返すと、その顔が泣き出す一歩前のようにくしゃりと歪んだ。長い間剣を握り続けた節の目立つ指が、ルークの頬をそっと撫でる。
「俺はどうしようもない愚か者だな」
「アッシュ……?」
「好きだ」
「……ぇ」
「好きなんだ。……お前が」
「アッシュ、」

 触れ合わせた唇の間からアッシュの舌が入り込んで来て、呆然としたままのルークのそれに絡められた。やわやわと吸われたり、口内を舌で撫でられたりしていると、それだけで息が弾み、萎えていた性器が立ち上がってくる。
「ほ……ほんと、に?」恐る恐る両手を上げてアッシュの頬に触れると、初めて見る柔らかな視線がふっと細くなって肯定を示した。「──本当に……」
 同じかたちの唇が優しく落とされると、それだけでさっきまでアッシュを受け入れていた場所がじん……と甘く疼き、ルークはとろりとアッシュを見上げた。
 視線の語る欲求に気付いて、アッシュは苦笑した。いっそ清々しいほどに真っ直ぐで飾り気のない、欲望。駆け引きなど出来ないルークの素直な欲望にまたも煽られ、冷たいシャワーの下で一度冷やしたばかりのペニスが再び堅く充血していくのを感じる。
「……俺に抱かれんのは、嫌じゃなかったか」
 ひくひくと収縮を始めた蕾の奥は未だに熱く潤ったままで、貪欲にアッシュの指を飲み込んだ。半ば確認のためといった質問に、ルークは余裕の無さに引きつった笑みを閃かせ、うん、うんと何度も頷く。
「嫌じゃない。誰としたのより気持ちいい。アッシュとするのが一番好き、おれもアッシュが好き……。だから、だからいらないなんて言わないでくれよ、おれ、頑張るから……。跡取りだからじゃない、おれがアッシュの子ども、欲しかった。アッシュは、誰でもなくおれに子ども生ませてくれるんだって、嬉しかったんだ……」
 無知と誤解から端を発しているとはいえ、あまりの健気さに胸を突かれ、真実を教えてやらなければと思いつつも、アッシュはそのささやかなルークの願いを否定することが出来なかった。
「レプリカ、俺は……。お前が好きだから、欲しいから、抱いてたんだ。ここまで気付かないフリをして来たが、本当はずっとそうだった……。お前を痛めつけるためでも、被験者の優位性を思い知らせるためでも、ましてやガキが欲しいからなんかじゃ、絶対にねえ。……ただ、」

 ──ただ、お前が抱きたかったんだ。

「アッシュ……」ルークは喜ぶべきなのか悲しむべきなのかわからないと言うような、曖昧な笑みを見せた。「でも、でも……。おれが生んでいいんだよな? 駄目って……言わないよな……?」
「レプリカ……」国家の思惑に縛られたままのルークの必死さが哀れで、愛おしくて、だが同時に彼にそんな馬鹿げたことを思い込ませ、追いつめたものたちへの怒りと嫌悪感が、アッシュの言葉を詰まらせた。「……言うわけねえよ。でも、もし出来てなかったとしても、がっかりしなくていい。焦らなくていいんだ。ほら──今はあれこれ大変な時だろ、子どもは面倒なことが全部片付いた後でいい。──それじゃ駄目か?」
「ん。うん……」
「……まだ最初の薬が、良いか?」
「今使ってるのでいい。あれじゃなくても、気持ちいい、もん」ルークはひどく嬉しそうに笑い、両腕を伸ばしてアッシュの首に巻き付け、引き寄せて囁いた。「アッシュ、ありがと……」
「……レプリカ?」

 身体を深く繋げて、ルークの胎内に埋まった快楽の実を押し引きしながら抉る。汗に濡れ光り、暖炉の炎にオレンジ色に染められた身体には陰影がくっきりと浮かび上がっていて、体をくねらせる様をひどく淫らに見せた。アッシュの雄を包み込む粘膜は燃えるように熱く、塗り込めた潤滑油だけではない体液で濡れそぼつ。
「や……っ、あっ──シュ、あっ、あっ、やだ……やだぁ……」
「やだ? 何が嫌だ、レプリカ……」
「や──っ、とけ、とけ、るっ、からだ、溶けるっ」
 あれほどアッシュを苛つかせた言葉は、真意がわかってみればひどく甘く心と体を疼かせた。アッシュを気遣う余裕すらなく肩にきつく食い込む爪が彼をより一層駆り立てる。「──いい。溶けちまえ」
「やだ、やだっ! ……ひ、う、こわい、や、や、とける、おれぇ、おれ、アッシュの中に戻っ……ああぁっ」
 アッシュの方にも、ルークを気遣う余裕がなくなってきた。もうすでに散々貫いて、赤く腫れ上がったルークの秘部を気遣って優しく抱いてやりたかったのに。そんな風に情欲に狂った男の凶暴性を煽るようなことを言われたら、元々あるようで無い理性など簡単に弾け飛ぶ。
「──くそ、そんなことになんねえよう俺が見ててやるから、安心して感じてろ!」
 ルークの体が跳ねるように反り返り、声なき絶叫を上げるように大きく口が開いた。柔らかなペニスの先から、壊れた蛇口のようにとろとろと粘った液体が洩れ、淡い緋色の草むらを濡らす。どこか呆然としたように虚ろな瞳も、濡れてアッシュの体に吸い付く肌も、痙攣の収まらない後孔も、すべてが美しく、愛おしかった。ルークが、こんなにいやらしく乱れることを、他の誰も知らない。
 アッシュしか知らないのだ。

 ──もう、俺だけのものだ。

 入り口まで引き抜いて、まだ達し続けている身体を裂くように貫いた。

 ふ、と目を覚ますと、いつの間にか窓の外は真っ暗になっていた。
 吠えるような風の音、ピシピシと雪が窓ガラスを打つ音が室内まで聞こえる。預言通り、猛吹雪になったようだった。
 肌寒さに室内を見回すと、暖炉の火が面倒を見るものもないままに小さくなっている。
 胸元にブランケットをかき寄せながら重い身体を起すと、体の上からずるりとアッシュの腕と冷えたタオルが落ちた。
「アッシュ……」
 起こして良いものかどうか悩みながら肩に手をやると、おそらくは汗をかいたまま眠ってしまったのだろう、肌が僅かに粘つく感触がした。
 対して自分はというと、肌はさらさらに乾いているし、一番どろどろになっているはずの足の間も綺麗に拭われている。アッシュは、どうやらルークの体を浄めたところで力尽きてしまったようだった。
 思い返せば、ここしばらくは気を失うように眠ってしまい、自分で湯を浴び、中に出されたものを処理出来ていない。にも関わらず腹を壊したことはあれ以来ないし、目覚めた時にはいつもルークはこざっぱりと拭われて、体中にアッシュの匂いを色濃く纏っていなければ、夢でも見たのかと思うくらいだ。
 泣き出したいような、いっそ胸苦しいほどの愛おしさが込み上げ、汗のにおいの濃い湿った真紅の髪を一救い持ち上げ、口づける。

 ルークはがくがくと力の入らない身体を叱咤して立ち上がり、ベッドの縁、椅子、あらゆるものに縋りながら暖炉の前へよろばい、消えかけた火を熾し、新しい薪を足した。
 アッシュの身体も同じように世話したいのだが、ここまでが限界で、ルークは暖炉の前で羽織ったブランケットを掻き合わせて踞った。よほど疲れているのか、それともここには自分を害するものなどいないと知っているからか、アッシュは深く、深く眠っているようだった。その寝顔がいつもより幼く、穏やかであることに、ほんのちょっぴり安堵する。

 アッシュの体には傷が多い。肌の色が変わるほど肩口にたくさん付いた鬱血や掻き傷はルークの仕業だが、魔物の爪に裂かれたとおぼしき傷や、焼いて止血したらしい大小の火傷の痕や、何かの毒物にかぶれたような痕、そして変に規則正しく並んだ刺し傷、切り傷はなんなのだろう? そのほとんどは随分前に受けたものらしく、薄い。普通に治療を受けたのなら傷跡など残るはずがないのに、どういう理由でこんな傷が残ることになったのか。アッシュはその傷だらけの体を恥じているような気配があったから、ルークは理由を聞けないでいたが、その壮絶な傷の一つ一つに触れるたび、今彼がそれらを乗り越えてここに生きていてくれることへの感謝と愛しさが溢れる。

『好きだ』

 ふいにアッシュの声が脳裏に蘇り、ルークは信じられない思いでアッシュの顔を見つめ直した
 本当に本当のことなのだろうか?
 初めてアッシュとキスをした。アッシュは一度もルークを罵らず、代わりに何度もレプリカ、と呼んだ。それはもちろんルークの名ではないが、レプリカ、と呼ぶアッシュの声音があまりに愛おしそうに、むずがゆさを感じるほどに慈しみを含んでいたので、ルークは『レプリカ』というのがまるで特別な呼び名であると勘違いしそうになるほどだった。アッシュ、と返すと柔らかく笑んで、額に、目尻に、唇にキスの雨が降ってくる。それが嬉しくて、幸せで、何度もルークはアッシュの名を呼んだ、と思う。恥ずかしいことに、すぐに意識が飛んで、後のことは憶えていない。

(子どもいらねえってのは……本気じゃないよな。なかなか出来なかったから、おれに気を遣ってくれただけで、生まれたら喜んでくれるよな)
 ルークはそっと、両手でまだ平たい腹を押さえた。いつ頃から腹は大きくなるのだろう? ルークはそういうことを丸きり知らない。屋敷で罵られたときに、子どもは出来ても出て来るまでに十ヶ月はかかるということを知った。外の世界に出てから腹の大きく突き出た男女を見て初めて、腹の中で子どもが大きくなっているという具体例を見たのだ。
「……もしかして、腹大きくなったら戦えないんじゃ……」
 ルークは焦りすぎていて、言われるまで全く気付かなかった。確かに今動くことが出来なくなるのはまずいのかも知れない。旅の間に見た数人も、重そうな腹を突き出し、いかにも大義そうによたよたと歩いていた。あの状態では、さすがに剣は振るえまい。
 だが、もうここにいるかもしれないと思うと、いらないと言われても諦める気にはならなかった。

「──大丈夫。おれ、ずっとずっと待ってたんだ。おれは嬉しいと思ってるし、必ず護るからな。父上だって、きっと喜んでくれる……」
 中にいる子を安心させるように腹に両手を当てたまま、ルークはそう話しかけた。暖炉に新しい薪を足してベッドの傍に這い戻り、少し逡巡したあとアッシュの横に滑り込む。思うように動かない身体で苦労して居心地の良い場所を見つけると、深く寝入っているはずのアッシュの腕がおもむろに伸びて来て、ルークの身体を抱え込んだ。冷てえな……という小さな呟きとともに、冷えた足に熱く感じるほどのアッシュの足が絡まり、腕は緩慢にルークの背をさすった。起したのかと思ったが、どうやら無意識のようで、ルークの耳を深い呼気がくすぐる。
 ルークは目を見開いて少しだけ硬直していたが、その寝息を感じているうち、次第に意識が遠のいていった。


もう少し削れそうなので、完結したら直したい。あ、終戦記念日ですね。(2011.08.15)