ケテルブルク港に向かう前に街で旅の準備を整えたあと、アッシュは船の運航状況を確かめてくるということで別行動になった。
少し吹雪き始めていたが、ルークは教会前に転々と配置されたベンチの一つに座り、荷物の番をしながらアッシュを待っている。中で待っているよう言われたのだが、こんな天気にも関わらず教会では結婚式の準備が行われており、なんとなくルークは気後れして入って行けずにいた。
厚着をしていたし、いつもの巡礼用マントのフードも深くに被っていて、それほど寒くは感じなかったが、指先は冷たく凍えている。吐く息でそれを温めつつ、港の方角を仰ぎ見ると、どす黒い暗雲が少しずつこちらに迫って来ているのが見えた。
(アッシュは大丈夫かな……)
ルークは街のどこかを歩いているはずのアッシュを思い浮かべた。アッシュはルークより寒さに強い。というよりどちらかといえば暑がりな方かも知れない。だからきっとルークよりは平気な顔をしているのだろうが、それでも心配は心配だ。
「誰か待ってんのかい?」
アップルティーの茶葉を燻したような香りが漂ってきて、ルークがそちらを向く前に、低い男の声がかけられた。
年頃はイエモンやヘンケンと同じくらいだろうか、結婚式の参列者らしい礼服を着て、パイプを燻らせている。
「えっと。うん……あの」
老人は美味そうに煙を吐いて、物問いたげなルークに気付き、ああ、と苦笑いをした。
「せっかくの花嫁衣装に臭いが付くと言って、孫娘に追い出されちまってね」
「お孫さんが結婚するのか?! おめでとう!」
以前セントビナーで一度だけ結婚式に遭遇したことのあるルークは、うらやましがって教会の前からなかなか離れようとしなかった女性陣や、幸せそうにキスを交わしていた新郎と新婦を思い出し、破顔した。
「何がめでたいもんか!」
ところが老人は、ルークの祝いの言葉を耳にするなりむうっと眉間に皺を寄せ、不機嫌にスパスパと煙を吸って呟いた。
「めでたくねーの??」
心底不思議そうに、小首を傾げるルークに、老人は溜め息をついた。
「……娘夫婦が流行病で逝っちまったあと、一人残された孫娘を俺とババアで大切に育てたってのに、よりにもよって結婚前に孕ませちまうような男にくれてやらなきゃならねえ。生まれる前にとにかく式を挙げておかねえと外聞も悪い、ってんで慌てて預言を詠んでもらったってのに、天気はこれだ。なんでも、これから猛吹雪だと言うじゃねえか? ったく、どこまでもケチが付いてやがる」
「えっ?」
「おじいさん!!」
問い返そうとしたルークの声を、若い男の声が遮った。
「誰がテメエのじいさんだ!!」
大人げなく噛み付く老人に、青年は困ったような、だが微かに弾んで聞こえる声で「式、もうすぐ始まりますよ!」と笑った。
ルークは言葉もなく、青年の顔を見つめた。視線を感じた青年がルークを見やり、ちょっと顔を赤くして会釈をする。そこで初めてルークも失礼になるほど凝視していたことに気付き、同じように赤面してぺこり、とお辞儀をしたのだが目は離すことが出来なかった。
唇の端が切れて、少し青くなってしまっているのはともかく、いっそ滑稽なほどに、右目を丸く囲むような青あざがくっきりと付いていたからだった。
「嫁入り前に孕ませるような真似しやがって、孫娘をくれなんて抜かすからよ!」
老人が武勇伝を語るように得意げに胸を張り、青年が情けなそうにルークと顔を見合わせて苦笑した。
「君、ここは寒いだろう? 中に入るといいよ。良かったら、参列していってくれないかな?」
「え、あ。ありがとう! でもおれ、連れを待ってるから」
「えっ? あれ? ……君、男の子?」
「…………そうだけど」
「カッコいい」ではなく「可愛い顔をしている」と言われることの多いルークでも、さすがに女の子と間違えられたことはない。
憮然と押し黙ったルークに恐れをなしたように、青年は赤くなったり青くなったりと顔色を変えながら老人を連れて教会の中に戻っていった。なんのかのと言いながら、老人は本当は孫娘の選んだ相手をそれほど嫌ってはいないのだろう、ずるずると引き摺られて行きながらも、満更でもない顔をしているのがおかしく、下降気味だった気分があっけなく戻る。
青年は教会に入るとすぐに一人で飛び出してきて、寒そうに息を吹きかけているルークの手に、まだ焼きたてらしいほかほかのマフィンを乗せた。香ばしいナッツの香りがする。
「今日は寒いから、式の開始を待ってもらう間にお茶を振る舞おうっておばあさんが焼いたんだ。お連れさんの分もあればよかったんだけど、一つしか残ってなくて。待ってる間に、君、食べて……あ、待ち人が来たみたいだね! じゃ!」
えっ、とルークが背後を振り返る隙もあらばこそ、青年はあたふたと慌ただしく教会に駆け戻って行ってしまった。
「アッシュ!」
「──ひでえ顔の花婿だな」
ぱっと顔を輝かせるルークに、戻った、というように頷いてみせ、アッシュは呆れたように青年の後ろ姿を見送っている。
「お孫さんを下さいって言ってきたから、殴ったんだってさ」
「親父がか? そりゃ随分と嫌われたもんだな」
ルークの横に纏めてあった自分の荷物を担ぎ上げながらアッシュは鼻で笑う。そのアッシュの顔をじっと見つめ、ルークは困惑して首を振った。
「嫁入り前の孫娘をはらませた、って、おじいさんが……」
「はっ、そりゃ殴られても仕方ねえ!」
「──そうなのか?」
でも、じゃあ……なんでおれたちは、いいんだろ?
あまり聞き覚えのない言葉だったが、ルークにも文脈からなんとなく意味が掴めた。多分、腹の中に子どもが宿ることだ。けれど、結婚前に「はらむ」となぜ殴られなければならないのだろう。皆それを望んでアレをするのではないのか。ルークが追い出したあの女は、その言い方でいくと孕んだものがファブレ家に迎え入れられると、そう言っていたのに。
「何もたもたしてやがる。行くぞ」
「あっ……ごめん」
慌ててルークは自分の荷物を掴んでアッシュの後に続いた。
「……港は封鎖されたらしい。残念だが、猛吹雪は二、三日続きそうだ」
「そっか……。スピノザは、港に着いてるかな」
「どうだろうな。雪は降りっぱなしだし、夕べは早々にどこかで野営したはずだ。街道にもこう雪が積もってちゃそう飛ばせねえだろうしな、この調子ならどこかで足止めを食ってる可能性が高えかも知れねえ」
「なら、今から追えば、ケテルブルク港で捕まえられるかもってこと?」
「ああ、ま、そうなんだが……」
アッシュは険しい表情で空を仰いだ。釣られてルークも見上げたが、先ほどよりも色濃い真っ黒な雲が凄まじい勢いで天を覆ってゆくのを見、思わず息を飲んだ。アッシュの舌打ちが聞こえる。
「このありさまじゃ、下手すれば遭難する。……宿は押さえておいたから、吹雪が収まるまではおとなしくしておいたほうがいい──奴が出した手紙の受け取り人がヴァンだったとしたら、今更ジタバタしても仕方ねえしな」
「ああ……そうだな。なあ、スピノザ、生きてるかな。遭難なんかしてないよな?」
「別に死んだって困りゃしねえよ」
「でも、ヘンケンさんたちが、悲しむ。おれだって……。別に良く知ってる訳じゃないけど……生きててくれればいいって思うよ」
アッシュの後に付いて彼の台詞に反駁しながら、ルークは殴られた新郎に貰ったマフィンを半分に割った。割れ目からふわっと微かな湯気が立つ。「アッシュ」
突き出されたマフィンを、アッシュが胡乱げに、だが黙って受け取った。ルークは一つのものを半分づつ分け合うのが好きだということを、長くもない二人旅の間に知ったからだった。案の定、黙って受け取ってもらえたルークはひどく嬉しそうな顔をする。
「待ってる間に食えば、って貰ったんだ」
「さっきの間抜けな花婿にか」
む、とアッシュはルークの顔を見つめた。アッシュの視線にルークは気づかず、無心な様子でマフィンに齧り付いている。白い頬にくっきりと陰を落とす長い朱の睫毛が驚いたように瞬いた。うまいな、と口元を綻ばせ、油汚れの付いた指をぺろりと舐める。
その仕草から、アッシュはすぐに目が離せなかった。そのピンク色の舌が、夕べは指ではなく赤黒い醜悪な肉塊の上を這っていたのを思い出す。
今ごろになって、ノワールが単にからかっていたのではないことが良くわかった。
──いつからだ?
いつからこんな風に。
睫毛を震わせるだけで、舌先を覗かせるだけで、俺を誘うようになったんだろう。
本当に質が悪いのは、ルークが無意識にそれを行っていることだった。花が蜜蜂を誘うように甘い蜜の芳香を周囲に振りまいて、雄を引き寄せる……。
ルークから目を逸らし、半分に割られたマフィンを上の空で口に入れた。
ふらふら引き寄せられた愚かな雄を、ルークは嬉々として貪るのかも知れない。なにせ相手が同じ顔をした男の被験者でも気にしやしなかったのだし、媚薬入りの潤滑剤でさえ劇的な効果を与えることが出来なかったくらいの淫乱なのだ。気持ちよくしてくれる相手なら、きっと誰でも受け入れる。太い血管の這ったグロテスクなもので喉の奥を突かれても、何度暴いてもきつく吸い付く蕾の奥を擦り切れるほど擦り立てても。男の欲望を掻き立てて已まない甘えるような喘ぎ声を上げながら、獲物が枯れ果てるまでその精を吸い取って、己一人だけ、光り輝くように美しさを増していくのだろう。これまでも、そしてこれからも。
──気が狂いそうだ……。
「お祖母さんの手作りなんだってさ。今度ナッツ入れてマフィンを焼くときは、一度炒ってみようか。この香ばしい風味、絶対焦げる寸前まで炒ってあるよな?」
「……ああ」
結婚式で忙しそうでなかったらレシピを聞きに行けたのに、とルークはしきりと残念がっていた。
味など、わからなかった。
しばらく無言で歩いていたが、ルークがふと、ぽつりと口を開いた。
「なあ、アッシュ。……おれたちは、殴られたりしねえの?」
何の話だ、と言いかけて、最初の会話の続きと気づき、アッシュはほんの少し後ろを振り向き、視界の端にルークの姿を入れた。
「貴族は惚れた腫れたで結婚するわけじゃねえだろ。家同士の繋がりを強めるためってのがほとんどで、親が相手を気に入る気に入らねえって話じゃねえんだ。お前にゃそもそも関係ねえことだろ」
ルークはアッシュの返答に、一瞬きょとんとしたあと、躊躇ったように首を振った。
「……アッシュだって貴族じゃん……」
「俺は違う。大抵の奴らと同じように普通に働いて、ある程度金が貯まったら普通に好きな子を嫁にするんだろう」
それを聞いて、ルークの心臓が大きく跳ねた。
どこか人ごとのように肩をすくめるアッシュに、ルークは胸を押し潰されるほどの物理的な苦痛を感じる。
「あ……。今、好きなやつが、い──いたりする……?」
「将来の話だろ。貴族や王族ならともかく、普通成人前に結婚なんてしねえんだよ、お坊ちゃま」
「ナ、ナタリア、は……? お前には、ナタリアがいるだろ……?」
違う、本当はナタリアのことを気にしてるわけじゃない。ルークの知らないどこかの誰かをアッシュが愛するのなら、元々は婚約者であったナタリアのほうが幾分マシだと思えるだけだ──いや、本当のところどっちがマシなんだろう?
屋敷にやって来た女たちが、ルークの身体の下でどのような声を上げ、媚態を見せたかを思い出す。記憶の中の自分が想像の中でアッシュに置き換わると、それだけで堪え難いほどの苦痛が胸を襲った。
「ナタリアは、お前の婚約者だろ」
ルークは深く俯いて、くすり、と嗤った。
可哀想なナタリア。可哀想なルーク。
今の一言で、二人が共にアッシュに捨てられた存在であることがはっきりしてしまった。いや、捨てられたのはナタリアだけか。ルークがアッシュのものであったことなど、ただの一度だってない。
ベルケンドで隠れ家を見せてもらうまでは、アッシュと普通に話が出来るなら、アッシュがルークを見てくれるなら、何と引き換えにしたっていいのに、と思っていたのではなかったか。その贅沢な望みが叶ったというのに、いつの間にか自分は、もっと分不相応な望みを抱いていたようだ。
無視されず、返事が返ってくるとはこういうこと。
聞きたくも、知りたくもなかったことすら耳に入ってくるということ……。
急に俯いて押し黙り、足取りも重くなったルークが、手をぎゅっと握っているのを見て、アッシュはインパクトのある花婿のせいで忘れていたことを思い出した。マントのポケットに突っ込んだままになっていたものを取り出して、ルークに投げてやる。
「レプリカ」の声に顔を上げると、ぽん、と胸元に柔らかいものが当たった。反射的に受け止めると、それは手首の部分に薄い灰色の毛皮があしらわれた、真新しい白のミトンだった。
「使え」
アッシュは顎をしゃくってルークに指示すると、背を向けてさっさと歩き出してしまった。
「……!」
思わず手袋とアッシュの背を見比べ、慌ててグローブを外してポケットに突っ込み、恐る恐るミトンの中に手を入れた。内側は毛皮になっていて、とても暖かい。この寒さにむき出しになったままのルークの指のことを、アッシュは気にしてくれていたのだ。
(ヤバい、泣きそう、だ……)
今、アッシュに抱きつきたくて仕方ない。
アッシュ。
アッシュ。アッシュ、アッシュ──!
胸の中で想いが膨れ上がって、叫びとなって口から飛び出しそうだ。
こんなことをされると、ますます諦めがつかなくなる。誰にも返せなくなる。渡せなくなる。ナタリアにだってノワールにだって、アッシュが将来好きになるかも知れない、どこかの誰かにだって──。
「へへっ、あったけー。アッシュ、ありが、と……」
必死で絞り出した礼の言葉は、我ながら滑稽なほど小さく、掠れて消えた。