バニシング・ツイン 05

「お前が会ったとき、ルークはどんな様子だった……? どこか、おかしいと思うところはなかったか?」
「……間抜け面で林檎を抱えていたな」
「アニスにパイを作ってやるって……出掛けたんだ……」

 よろめくように門に寄りかかり、とうとう顔を覆ってしまったガイを、アッシュは波立つ胸の内を押さえ込んで見つめ、務めて冷静な声を作った。
「……そんなことより今、立ち聞き野郎が逃げて行ったぜ」
「立ち聞き……?」
「スピノザがな」
「ガイ? どうしたんですの?」
 中からぞろぞろとルークの仲間と、い組の老人たちが現れる。目の下にうっすらと隈を作ったナタリアが、アッシュを見て目を見張った。
「……ルークの、ルークの声が聞こえたと……思ったんだ」
 ガイの呟きに俯くティア、アニス、ナタリアを押しのけるように、ジェイドが進み出て来た。
「今、聞き捨てならないことをおっしゃっていましたが……? スピノザがどうとか」
「何か立ち聞きをしていたようだったが」
 顎をしゃくって方角を差し示す。
「スピノザが? あいつ、立ち聞きなんかしてどうしようと言うんだ」
 ヘンケンが首を傾げるのに、ジェイドが眼鏡を押し上げながら皮肉気な笑みをを浮かべた。「『親分』に通報するつもりなのでは?」
 ジェイドの言い分に、キャシーが声を荒げる。
「スピノザはそんな男じゃないよ!」
「人は見かけによりませんよぅ」
 い組の老人たちとアニス、ジェイドが睨み合っているのを視界の端に入れたまま、
「何か、聞かれて困る話でもしていたのか」
 アッシュはナタリアに問うた。ルークを含めてもこのメンツの中では、まずナタリアに声をかけてしまうのがアッシュの常だった。
「ファブレ公爵やヴァンには内緒で、禁書の音機関を復元させるんですの」
「その間に私たちがイオン様をお連れしにいくのだけれど……」
「音機関……?」
 首を傾げるアッシュに、ジェイドが肩を竦めた。
「あなたがもっと早くいらっしゃれば、話が一度で済んだんですがねえ。──禁書を読みました」
「何かわかったのか」
「ええ。地核の液状化の原因が。プラネットストームが原因で、固定されているはずの地核が振動しているのですよ」
「プラネットストーム? ──つまり止めればいいってことか?」
「ええ」
 思ってもみなかった原因にアッシュは目を見張り、次いで苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。
「それは停止させるのが難しい。音機関が使えなくなるくらいならともかく、パッセージリングが──ああ」
 ジェイドの顔をちらりと見やり、アッシュはふっと息を吐いて軽く肩を竦めた。
「それがなんとかなるってんだな?」
「察しが良い方で助かります。セフィロトの暴走の原因が分からない以上、液状化を改善して外殻大地を降ろすしかありません。その液状化を改善するための音機関のことも、本には書かれていました。それを復元します」
「その話をスピノザに聞かれたということか」
「困りましたねえ。ヴァンなどに注進に及ばれては厄介だ」
「なら、奴は俺が引き受けよう。捕まえておけばいいんだろ」
「そうですか? それは助かります。まさか、あなたが協力を申し出て下さるとは」
「ついでだ。俺も奴に用がある」
 迂闊なことに、スピノザを見て初めて彼も大爆発のことを知っている可能性があることに気付いた。ダアトに戻る用が出来る前にスピノザを捕まえれば、ディストに会うために危ない橋を渡るよりいいかも知れない。

 用は済んだとばかりにさっさと背を向けるアッシュを、甲高いアニスの声が引き止めた。
「アッシュ! ルークが昨日から帰ってこないの! アッシュなら、連絡が取れるよね……?!」
 その台詞で全員がはっとしたようにアッシュの背を注視する。縋るような、祈るような、だがこれで居場所がわかるとほっとしたような視線に、アッシュはうんざりと顔を歪めた。

《──レプリカ。聞こえるか》
《痛、ぅ……アッシュ?》
《用は済んだ。これから戻るが、何か必要なものはあるか》
《──っ、みんな怒ってねえ……?》
《……怒ってはいねえようだな。必要なものは》
《あ、あー良かった……うん。粉石鹸が欲しいな、洗濯用の。お前さー、贅沢いうわけじゃねーけど、洗濯用には洗濯用の石鹸買えよな! それからミルク》
《……粉石鹸? ミルク?》
《そそ! ごめん、全部使っちゃったんだよ》
《……? わかった》
《気をつ》

「──繋がらねえみてえだな」
 ルークがまだ何か言いかけているのを一方的に遮断し、アッシュは肩を竦め、嗤った。
「どっかでのたれ死んだんじゃねえか」
「アッシュ!」
 息を飲む人々の中で、蒼白になったナタリアがアッシュを咎める声を上げた。
「みんな……みんなルークを心配してるんですのよ!」
 アッシュはむっとしたした顔を隠そうともせずに舌打ちし、ナタリアにのみ聞こえる声で「失言だった」と謝った。アッシュはかつては婚約者でもあった、この美しい年上の従姉妹に未だ弱い。

「──まあ、レプリカのことも、気に留めておく」

「まずいですね……」
 立ち去るアッシュの背を全員でぼんやりと見送ったあと、ジェイドが珍しく焦りを含んだ厳しい顔で呟いた。
 みんながその言葉にうろたえてジェイドを窺う中、アニス一人がぶるぶる震える手でジェイドに縋った。
「アニス。──気付いたんですね」
「?! 何をですの?!」
「大佐?! アニス、なんだというの?!」
「旦那──」
「同調フォンスロットが繋がらないとなると、厄介です。例えルークが眠っていようと、或は──意識を失っていたとしても、アッシュにはそれとわかるはずだ、」
 生きているのなら。
 という言葉を、ジェイドは飲み込んだ。
「アッ、アッシュ、わけわかんないって顔した……」
 最後に一緒にいたのがアッシュだということで、或は何か知っていても隠しているのかも知れないと表情に気をつけていたため、どうやら本当に回線を繋げてみてくれたらしいアッシュが、憮然とした表情に困惑を浮かべるのを目の当たりにした。
 その意味は、ジェイドには明らかに思えた。
「……戻りましょう。知事に報告を」
「あ、ああ……」
「ジェイド……どういう……どういうことですの……? 何を報告するとおっしゃるの……?」
 本当は、察している。けれど、認めたくない。信じたくない。
 ナタリアのそんな力ない、消え入るような問いかけは、真実答えを求めるものではなかった。
 だが、ジェイドは意識していつもの飄々とした顔を作り、当のルークがここにいたら「お前、そんな顔も出来たのかよ!」と驚愕しそうな笑顔を浮かべた。
「行方不明になっていることを報告しないわけには行きませんからね。皆さんにこんな顔をさせるなんて、ルークは悪い子ですねえ。戻って来たら、みんなで順番にお尻を叩いてやりましょう」
 ──それでも、それぞれの顔に笑顔が戻ることはなかったが。

「なんだ? この匂い……」

 隠れ家に近くなるにつれ漂ってくる甘い香りに、アッシュは疑問符を一杯、頭に浮かべた。こんなところで嗅ぐはずのない匂いに知らず足取りは早くなり、ほとんど走るように開けた場所へ飛び込むと、そこには予想に反した光景が広がっていた。

 てっきり横になっているとばかり思ったのに、ルークは何やら家事に勤しんでいたらしい。どこから見つけ出して来たのか古いロープが木々の間に張られ、埃除けのカバーや夕べ盥に放り込んでおいたアッシュやルークの汚れ物がハタハタと風に翻っていた。
 そろそろ日も落ちてくる時間なので、乾いた洗濯物を取り込んでドアを開けると、その甘い能天気な香りがより濃厚に鼻を打ち、思わず怯んで後ずさってしまう。
 すぐに気を取り直して中に入ると、板張りの床が艶が出るまで綺麗に磨かれていた。暖炉の上にボロ布と空になったミルク瓶があるのを見て、アッシュは小さく溜め息を付く。ルークがミルクを空にしたのは、どうやら床を磨くのに使ってしまったからであるらしい。
 当の本人は、設備が時代遅れで使い勝手の悪い台所にしゃがみ込み、何か熱心に覗き込んでいた。
「──何やってんだよ」
「アッシュ! お帰りー」
 振り向いた顔は煤だらけで、アッシュは思わずその場に立ち止まり、まじまじとルークの顔を見つめた。
「あ、洗濯物ありがと。アップルパイ焼いてんだけど、薪のオーブンって使い辛くってさ……」
 視線をすぐにオーブンに戻してしまったルークの横顔をしばらく眺め、アッシュは現状を把握出来ないままシャワーと着替えのためにリビングを出たのだが、戻って来てもルークは元の場所で微動だにしていなかった。
 どうやらずっとオーブンに張り付いて見ているものらしい。焼き上がりが近いのか、ルークはグリッパーを持ったまましばらくそわそわしていたが、ややあって心配そうにパイを取り出した。
 上は綺麗に格子状になっていて、上手く煮込んだらしいとろりとした黄金色の林檎がその隙間から見え隠れしている。ツヤ出しの卵も丁寧に塗られ、焼き目の付き方がもう少し控えめであったなら、まるでお手本のようなアップルパイだった。

「こないだアニスがアップルパイを買って来てくれたんだよ。それがさ、中にスポンジ入ってんの……」

 ジェイドが言うには、意外にアップルパイは地方色が出るとのこと。それはそれで美味しかったけれど、ルークは林檎の煮たのとパイ皮だけで作られたパイが好きだった。スポンジも、カスタードもいらない。
 だが、アニスとティアが、そういうアップルパイを食べたことがないと言い出したので、ルークは図書館でレシピを調べ、メモを取ってから林檎を買いに出たのだ。
 ルークはアッシュに食べるかどうか確認することもなく、当たり前のように焼きたてのあつあつを八分の一づつ切り分け、剥いた林檎の皮を使って香りの付いたお茶を入れて、目の前に出した。
「冷たくしたのも美味いけど、焼きたてのさっくさくも結構いけるんだぜ!」

 ──こいつ……もしかして本物の馬鹿じゃねえのか……。

 アッシュはあっけにとられて己のレプリカとパイを見比べた。このレプリカは、昨日自分がどんな目に遭わされたのか、理解していないのだろうか。どこの誰が己が陵辱された場所でパイなど焼き、犯した相手に給仕したりするのだ──いや。抵抗するどころか積極的に楽しんでいたのだから、本人はあれを陵辱だとは思っていないのかもしれない。ならば、昨夜己のしたことには何の意味があった。

 食べるかと聞かれれば、いらないと答えただろう。
 食べろと言われれば、無視も出来た。

 が、黙って目の前に置かれたものを、殊更見ないフリをするのも子どもっぽいように感じられ、アッシュは内心で舌打ちしてまだ熱いパイを手に取った。焼きたてのアップルパイなど、アッシュはこれまで食べたことがない。それどころか甘い菓子などこの七年、懐かしむことも、思い出すことすらなかった。
 一口齧ると、小さく割れたパイの欠片がパラパラと零れた。酸味の強い、甘酸っぱい林檎の甘煮と微かに塩気のある芳醇なバターの風味が口中に広がっていく。
「……」
 驚いたように目を見開いたアッシュの表情で、ルークは感想を悟ったらしい。まるで向日葵のように笑い、自分の分に齧りついた。
「良かった。これならアニスに食わせられるな」
 その独り言にふとアッシュは顔を上げた。
「お前の仲間たちは、ダアトに向かう。お前は当分俺に同行しろ。スピノザを追う」
「えっ?」
 怪訝な顔をして、ルークは無邪気に首を傾げた。
「スピノザ? 皆とは別行動ってことか?」
「そうだ。メガネが禁書を読んで、地核の液状化の原因を突き止めた。それを改善するための音機関を父上やヴァンに悟られずに制作するつもりだったようだが、それをスピノザに聞かれたんだ」
「……ちちうえ?」
「……? 何かおかしいのか」
「う、ううん!」
 家を出ていって七年、ルーク以上に言葉の荒れたアッシュがクリムゾンを父上と呼ぶのがなんとなくおかしみを感じさせ、ルークは笑ってアッシュの問いを打ち消した。
「……ここを出るのか?」
「明日にはな。なのに、床磨きなんかで一瓶無駄にしやがって……」
 アッシュは視線を暖炉の上にやって苦々しげに言ったのだが、本当に怒っているようには聞こえなかったので、ルークも困ったように頭を掻いただけだった。
「一度やってみたかったんだよ……。ほんとにミルクなんかで床がぴかぴかになんのかって。神託の盾でもマルクト軍でも、罰掃除がミルクを使った廊下磨きだったって、アニスとジェイドが話してるの聞いてさ……」
「ああ……。なんだ、マルクトもか」
 それを聞いて、アッシュの表情がほんの少し和らいだ気がして、ルークは驚いて身を乗り出した。「アッシュもやらされたのか?」
「あれを食らわねえような気概に欠ける奴、うちにはいねえよ」
 どこか得意そうに言うアッシュに、ルークは思わず笑う。
「けど、板張りの廊下なんてダアトにあったっけ?」
「教会じゃねえ。士官学校と寮の廊下が、板張りだったんだよ」
「そうなんだ」

 どこか懐かしげに目を細めたアッシュを、ルークは不思議な感慨を持って見つめた。
 居場所をレプリカに盗られたとアッシュは言うが、一方それが理不尽な言い分であることを、アッシュは心のどこかで気付いているようにルークは思う。
 アッシュは「うちにはいない」と言った。
 この「うち」とは、むろん神託の盾のことだ。その言葉に、ルークはアッシュの、神託の盾騎士団への強い身内意識を感じ取り、安堵を感じると同時に、淋しくも思った。
「石鹸もミルクもいらなかったなあ」
「石鹸は置いて行けばいいし、ミルクは飲めばいいだろ」
「ミルク……」
「飲めねえのか」
「う、うん……」
「ちっ」

 ルークはへへへ、と笑ってごまかしながら、もう一切れパイを切り取り御機嫌取りのようにアッシュの皿の上に乗せた。アッシュが甘い物を好まない時のことを考えて、甘さをかなり控えたのだが、どうやら口に合ったようだ。アッシュは黙って二切れ目に手を伸ばしている。本来はアニスやティアに、と思って買い求めた林檎だったが、思いがけずアッシュに食べて貰えることが出来たし、これまでからは考えられないほど普通に会話も出来た──ルークの言葉が、一つも無視されなかったなんて初めてのことだ。それに、しばらくは一緒にいられることになったのが、ルークは嬉しくて仕方がなかった。
 なんだか予感がするのだ。
 今度こそ、父の望みを叶えることが出来るという……。

 その夜も、アッシュはルークを抱いた。


(2011.07.26)