一晩無断で外泊をしてしまった。
どれだけみんなが心配しているだろうと思うと矢も盾もたまらず、外出のための身支度をしているアッシュに倣って着替えを済ませたが、どうにも足腰に力が入らない。ふらふらしながらバランスを取っていると、突然二の腕を掴まれた。
「その調子で山道を下れるのか」
「ちょ、」
ルークは力なく引きずられ、汚れた埃除けカバーの外されたソファに突き飛ばされるように腰を下ろした。
「何すんだよ!」
ルークは焦り、アッシュを睨み上げて立ち上がろうとしたが、やはり身体は彼の思うように動いてくれない。今度は上手く立ち上がることさえ出来ず、よろけて肘掛けにぶつかりながら再び座り込んでしまった。その様子を見てアッシュは深い溜め息をついたが、原因が自分にあるのは明らかなので、恥知らずにもルークを責めるような真似は出来なかったらしい。
「……足手まといになられても困る。上に戻って横になってろ。食い物は地下室にある程度置いてあるから好きに食え」
「だけど」
「勝手について来るのはてめえの勝手だが、動けなくなったら置いてくぞ。まさか、俺に背負えとは言わねえよな」
「……わーったよ」
そんな無茶を言えるわけがないのを分かっているルークは、軽く首を振って俯いた。
「……悪い。皆に明日は戻るから、って伝えといてくれないか?」
「……戻る前に一度連絡を入れる。他に必要なものがあったら、その時に言え」
「わかった……」
これしきのことでへばってしまって、きっと情けない奴だと思われただろうなと、アッシュが出て行った扉をぼんやりと見つめて、ルークはとさりと横になった。眠るのならベッドに行かなくちゃ……。二階の寝室は、掃除や洗濯、修理がそれなりに行き届いた唯一の部屋だった。隠れ家として使うために、アッシュが手を入れたのだろう。
日付が変わるころまでアッシュを受け入れ続けた場所は今も熱く疼き、時折ぴくりと、小さな痙攣を起こしている。これまで──昨日まで一度も、アッシュを相手にアレをすることなど思いつきもしなかったけれど、考えてみれば、誰が相手であるよりアッシュが一番ふさわしいのではないだろうか。
身体はこれまでで一番きつかったが、アッシュの身体は吸い付くように心地よくルークに馴染み、愛撫は鋭すぎるほど的確でどこに触れられても気持ちが良く、ルークの身体の感覚がどんどん引き出され、研ぎ澄まされていくようだった。アッシュがとうとう抜け出たときには、これ以上はもう無理だとほっとする反面、ほんのちょっぴり寂しく思う気持ちがあったことも否めない。ルークはこれまで、そんな風に思ったことが一度もなかった。
とはいえ、ルークが受け入れ側になるのはこれが初めてだったため、色々と勝手が違って、うまくやれたとはとても言えない。ルークは受け入れ側になる場合のレッスンを受けていないのだが、アッシュには真面目に勉強していないように映ったかも知れないと思うと、焦燥が胸を焦がした。自分も真面目にレッスンを受けたのだと知ってもらうためには、アッシュにも受け入れ側になってもらわなくてはならないのだが……。明日にはまた別々に旅することになるのだろうし、機会は今夜しかないけれど、アッシュの身体は平気だろうか? 見た目には疲労の欠片も残していないように見えたけれども、なにしろアレは、体力を根こそぎ持って行く……。
手放しで褒めるのはちょっと悔しいが、やっぱりアッシュはすごい、とルークはぼんやり天上を見上げながら思った。そもそも、とても大切なことのはずなのに、ティアと屋敷を飛び出すという事件が起こってから、一度もルークはそのことを思い出さなかった。けれどアッシュは、ずっと自分の立場、自分の役目を忘れないでいたのだ……何故相手がナタリアでなく自分だったのかはわからないけれど……。その上、ルークなら一、二回でうんざりしていただろうに、一体何回したのだろう? でも確かに、一度や二度で終わるより確率は格段に上がるはずだ。
アッシュは十歳でうちを出たのに、どこでどうやって勉強を続けていたのだろう。自分には家庭教師が来てくれていたけれど、アッシュは神託の盾で教わっていたのだろうか。それならばアッシュは誰よりも優秀な生徒だったに違いない。屋敷のものたちが「前のルーク様は優秀であられた」と口々に褒めたたえる理由の一端が、やっとルークにも飲み込めたような気がする。
何故なら、昨夜アッシュにしてもらったことを思い出すと、とても今まで自分が同じように出来ていたとは思えなかったからだ。アレが、何年も続けられたレッスンの行き着く先なのならば、確かにルークはまったくなっちゃいなかった。
(あの時おれは頭にきて、あの人を素っ裸で外に追い出しちまったけど……罵られても仕方なかったのかな……)
いつだってルークはアレを気乗りしないままに行って来たのだし……。もしかしたらそのせいでみんなの期待する結果にならなかったのだとしたら、確かに自分の自業自得でもあった。
でも、もしかしたら──アッシュが相手を務めてくれるのなら。今度こそうまくいくのかも……。
これは想いの違いというものなのだろうか。ルークはアレをするよう連れて来られた女たちの誰にも好意を持っていなかったが、アッシュには好意を持っている。いや、「好意」などとうの昔に超えているかもしれない。それはもう、ほとんど盲愛と呼ぶべきものだった。
アッシュはただ一度、ユリアシティで爆発するように憎しみや嫌悪をぶつけてきて以来、少なくとも表面上はまるで憑き物が落ちたようにルークに関心がないように見えた。会えばその視線は真っ直ぐにナタリアに向けられ、ルークなど初めからいないもののように素通りする。それが悔しくて、払われても払われてもしつこく寄って行けば、怒りや苛立ちといった負の感情を纏ってではあったがルークのことを見てくれる。だからルークは、泣いてシュザンヌの関心を引こうとした子どものころのように、ことあるごとにアッシュに話しかけ、突っかかり、その視線を無理にでも自分に向けてきた。だがこんなことを続けていたら、いつかアッシュは鬱陶しいとルークを忌むようになるだろう。
それはとても辛く悲しいことだが、それでもルークは構わなかった。
憎まれ、蔑まれたって、無関心でいられるよりはずっといい。アッシュの心に深く突き刺さり、抜けない小骨のように不快なものと思われたって構わない。
ルークはアッシュの声が聞きたかった。視線を向けて欲しかった。ただ……側にいたかった。
昨夜、気付かされたのだ。
二つに分たれた、元はアッシュであったもの。自分をかたち作るもの。
それが元在ったように一つになりたいと、アッシュに惹かれているのを。アッシュを狂おしいほどに、激しく恋うているのを──。
「ここにもねえか……」
昨日調べ損ねた大爆発に関わる詳しい資料を探しに、再び第一音機関研究所のヴァンの私室でひたすら書物を調べ続けていたアッシュは、すっかり固まった首を軽く回して凝りを解しながら陰鬱な表情で一人ごちた。
禁忌とされ、破棄されたはずのジェイド・バルフォアの著書が、少しでも残っている可能性があるならここかも知れないと思ったが、やはり仮にも公的施設。いくらヴァンの手が回っているとはいえ、マルクトからの回収要求では飲まざるを得なかったのだろう。
となると、残りは個人の書架の回収漏れくらいしか可能性はない。
(やっぱりディストに当たるしかねえのか)
著者本人に問いつめるのが一番手っ取り早いのだが、彼にそれを問うたが最後、おそらく体調まで悟られる。下手をすれば、己のレプリカにも知られてしまうだろう。今は誰にも弱みを知られたくなかった。
ギッと音を立てて、椅子の背もたれを倒し、天井を見上げた。ヴァンの椅子は、さすがにクッションが効いて座り心地が良い。ヴァンがここに座って仕事をすることなど、ほとんど無いのだろうに。
背もたれを軋ませながら伸びをして、疲れた目を閉じると、昨日ここで情けの入る余地のない辛辣な言葉をヴァンに投げつけられ、哀しみに顔を歪めたルークの顔が浮かんだ。とても傷ついた顔をしていた……。
どちらに対するものか分からない苛立ちが靄のように胸に立ちこめてきて、アッシュはそれを振り切るように勢い良く立ち上がった。
これ以上ここにいても仕方ない。
導師に託された禁書を、死霊使いは読み解いたのか。
知らねばならないこと、やらねばならないことはまだまだ山のようにあり、いつまでも自分のことにかまけてはいられなかった。
「スピノザ? あっ、おい!」
ジェイドたちの宿に向かっている途中、通りかかった知事の屋敷の前で、ドアに張り付いているスピノザを見つけた。あまりの不審さに声をかけたが、老人はアッシュの顔を一目見るなりらしからぬ素早さで走り去って行った。
「……なんだ?」
首を捻って再び歩き出したとき、まさにその知事の屋敷から、ガイが飛び出してきた。
「……っ、アッシュ!」
「今、」
片眉をあげて挨拶代わりにし、老人が何か立ち聞きをしていたらしいことを話しておこうと、彼が去った方角を指して口を開いた瞬間、ガイが数段ある階段を一息に飛び降りて来て、アッシュの二の腕を掴んだ。
「──ってえな! なんだよ!」
「アッシュ、ルーク、ルークを知らないか?! 昨日、買い物に出たきり戻らないんだ! 昨日ルークに会ったろ?!」
よほど切羽詰まっているのか、加減無しで握られた腕を瞬時に振り払って取り戻し、ガイを睨み上げると、必死の形相に真っ赤に充血した目がアッシュを見下ろしている。
友人、と呼べる存在のいないアッシュは、そんなガイの様子にあっけにとられ、一瞬言葉を失った。たった一晩の留守で、こんなに心配する必要がどこにある。女じゃあるまいし……。
「……レプリカなら、」
ファブレ家の狩猟小屋で体調を崩して寝込んでいる。
そう呆れ半分で告げてやろうとした瞬間、何かざわりとしたものが込み上げた。
(……ガイは、レプリカの一番近くにいたはずだ。──長い間)
セックスに慣れていたようだったレプリカ。
同じ男に抱かれるのも、まるで当たり前のことのようだった──。
レプリカの身体は、アッシュのものだ。アッシュと同じ、アッシュそのものとも言えるものだ。それをすでにガイが食い散らかしたのかも知れないと思うと、吐き気がするような強い嫌悪感と不快感が込み上げる。
「……レプリカなら、昨日街の出口の辺りで会った」
「それは知ってる、同じ顔の男二人が立ち話をしてたっていう目撃者がいたんだ、俺はそのあとのことを知りたいんだ! お前と別れたあと、どこへ行ったか見てないか?!」
「知らねえな」
──『俺と別れたあと』のことなんか。
アッシュはすっかりルークのことを話してやる気を失っていた。
頼みの綱だったアッシュにも知らないと言われ、顔を蒼白にしているガイを見つめ、アッシュは別のことを考えていた。夕べのルークの痴態の数々を……快楽に打ち震え、反り返った真っ白な背中に走る背骨のくねりを、極まる瞬間に上げる高い鳴き声と熱く乱れた息を、奥へ、もっと奥へと男を引きずり込むように蠢く粘膜の熱さを、すでにガイは知っているのかどうか。愛撫の一つ一つに素直に答えるよう、教え込んだのはお前なのかと。ガイはどういう事情か女が苦手だ。欲望のはけ口の一つとして、敵の息子を籠絡するということは、大いにあり得るような気がした。